図書館の旅

岡部一明、1981.3)

 旅に出て図書館にばかり行っていたら意味ないじゃないか。そう言われそうである。が、図書館の旅が、観光スポットをくまなく回る旅に比して偏ったものであるとは言えない。社会は、そのあらゆる小部分、あらゆる一隅において常にその全体を映し出す。

 私は、満足な予備知識やガイドブックを持たぬかわりに、訪れる先々で街の図書館に行った。どの国のどんな図書館でも、少なくともブリタニカかアメリカーナの(英語の)百科事典をおいているものである。そして知りたいことはだいたいこの百科事典でフォローされる。


(写真:大英博物館の図書室)


  図書館にもその国の文化、社会が様々に反映していて興味が尽きない。例えばアメリカの図書館には必ずブリタニカとアメリカーナの2種類の百科事典がおいて あるが、イギリスではブリタニカしかおいてない。「アメリカなんて・・・」というイギリス的英語文化への誇りがかいま見られる。他の西ヨーロッパ諸国もだ いたいこれにならう。仏、独、北欧とブリタニカしかおいてない図書館が大部分だった。だが、イタリアあたりになってくるとアメリカーナも顔を出し始め、南 欧、中東と、ブリタニカとアメリカーナの双方(時にはアメリカーナのみ)がおかれるようになる。

 図書館の形態も様々だ。イタリアのブリ ンディジという小さな街、ローマ時代のアッピア街道の終点(港町)だが、ここの市立図書館は古びた修道院で、尼さんのような図書館員が求めた書物を引っ張 り出してきてくれた。イスタンブールでは、「ここから一番近い市立図書館」をさんざん探しあぐねて、最後にモスク建築物の一角にそれを見出した時には深く 感じ入った。

 一番手続きがうるさかったのはブルガリアのソフィア中央図書館だった。最初は、正式の入館身分証明書がないと入れない、と 言う。外国人訪問者が持っているはずがない。しかし、どこの国でも「外国から来たが、本が読みたい」と言えば、便宜をはかってすぐ入れてくれた。「社会主 義」の官僚主義はその辺の融通をきかせない。では、その身分証明書をつくってくれ。いや、旅行者にそんなものを出したことはない、という問答。が、そこは ブルガリア人の情のあったかさ。入口で右往左往するうちに助けを呼んでくれた。

 何と片言の日本語を話す図書館員(日本語勉強中とのこ と)が出てきて面倒な事務手続き乗り切りを助けてくれた。少額の料金を払い「事典・総記」室にのみ入れる入館証をつくり、奥の偉い人の所に連れていかれて 許可をもらい、入口受付でできた入館証を受け取り、クロークカウンターで荷物と上着を預け、また何かのカードをもらい、それから「総記室」に案内される。 出る時は、そのカードに総記室の係員からサインをしてもらい、荷物類を取る時に見せ、図書館を出る時に受け付けに渡すのだそうだ。

 いい かげん疲れるが、日本語を話す館員は親切で、質問に応じてトイレや食堂の場所も教えてくれた。そして一旦中に入ってしまえば、その書籍類の豊富さには驚か される。「西側」の本も随分そろっていて、アメリカの大学図書館で見かけていただけの年鑑や事典類がずらりと並んでいる。開館時間も朝8時から夜9時まで と充分だ。アテネの「国立中央図書館」のように朝9時から午後1時まで(!)などということはない。社会主義の宣伝通り、「公的施設は充分整い、勉強した ければいくらでもできます」。知性の自由さはともかく、物質的条件は整っている、ということか。

 図書館に行くことは、その土地の人々へ の信頼を取り戻すためにも良い。不衛生な街頭に気分を悪くし、口論する人々や悪どい客引きなどとばかり接して、いいかげんその国の人間がいやになっている 時、貧弱な図書館であろうが、そこで一生懸命書物に向かう若い人たちを目にすると、その国の人たちへの信頼が回復するのを感じる

  ヨルダンのアンマンまで来て、私の「図書館の旅」はまったく新しい段階を開拓してしまった。ここで、イスラエル行きの面倒な書類手続きを待つ間、私はふと 「アメリカ文化センター」なるものに立ち寄った。するとどうだ、そこに立派な英語の本の図書館があるではないか。アメリカの普通のコミュニティ図書館くら いはある。これまでの「現地の図書館」では百科事典以外、あまり英語の本は期待できなかったが、ここにはそれがゴマンとある。TimeもNewsweek も。新聞ならNewYorkTimesやHeraldTribuneも。アメリカ各都市の電話帳などもあって、サンフランシスコのを開くと私の友人たちの 名もちゃんと見つけることができ

 何よりも、じゅうたんが敷かれ、エアコンの効く清 楚な空気が私にはなつかしかった。そこはごちゃごちゃした中東の街ではなく、明らかに「アメリカの空間」だった。トイレに入ればきれいに清掃され、紙タオ ルまでおいてある。資源の無駄遣いと言えばその通りなのだが、私は訳もなくなつかしかった。

 イスタンブールに「イギリス文化センター」というのがあって重宝したが、同じようなもの、そしてそのアメリカ版がどこにでも存在することにどうして考えつかなかったのだろう。このアンマンでの「発見」が私の図書館利用法を大きく変えてしまった。以後、私は「現地の図書館」を探しもせず、着いた都市でまずアメリカ文化センターにまっすぐ足を運ぶようになってしまった。

  各地で図書館に通い、結構深く思索することもある。世界史でヨーロッパが台頭した原因、イスラムとは砂漠資本主義のイデオロギーではないか、民族移動、な ぜここの人たちがここにいるか・・・。10年前旅先で、同じような問題意識をもっても、それを読書によって深めることはできなかった。日本語の本はほとん ど手に入らなかったし、「図書館の旅」も方法として確立できていなかった。少しは英語の本が読めるようになったことも役だっているだろう。

  旅に出て湧き出る問題意識は貴重なものだ。旅が終わって退屈な日常に戻ったとたんどこかに消え去ってしまう。それは、現地に居るからこそ感じ、考えること のできる貴重な旅の体験なのだ。だから私は旅先で躊躇なく本を読み思索し文章を書き、友人たちに個人通信を送る。旅先で考えること、そこから思想を生むこ と、そ旅の一部だ。


詳しくは:

書籍「アジア奥の細道」

岡部一明『アジア奥の細道』(Amazon KDP、2017年、2060ページ、写真1380枚、398円



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