母看病・日誌 2019年12月―2020年2月

年末年始の休暇で、12月中旬に帰国。しかし、それと前後して、母が危篤状態になってしまった。医者から余命2~3カ月を宣告され、24時間点滴の人工栄養注入を開始。感染症などにかかればそれより早まる可能性も。意識があるのは12月いっぱいくらいだろうとのこと。盲腸付近の大腸がんと腸閉塞。大腸が破裂しないよう対策をこうじながら命を持たせている。

1月中旬の米国帰路便をキャンセルし、母の見舞い、看病、そして痴呆気味の父の介護を数カ月手伝うことになった。

93歳のお袋と、98歳の親父がまだ生きているということの方が、むしろありがたいことで、感謝しなければならない。こっちの方がそろそろお呼びがかかっていい時期だというのに。同年齢の友人たちの多くも、相当前に親の看取りを厳粛に乗り切ってきている。そんな騒ぐべきことではないとも言われそうだ。だが、私にとっては初体験で、とても真剣に対応した。以下、その日誌から。

12月15日

かみさんと長男とともに、栃木県北部の病院に初の見舞い。容体は思ったより悪い。寝たまま、ほとんど動けない。足を前後させたり手をあげたりなどだけ。ろれつがまわらず、何を言っているのか聞き取りにくい。寝ているのか起きているのか。目をあいているのか閉じているのか。ひんぱんにうなるように声を出す。

が、意識はしっかりしている。よく聞き取れば、かみあった受け応えをしている。「お茶飲め」とか「台所に行って食え」とか相変らず母としての接待の意識がある。どこも痛くはない。しかし食べたい、飲みたいということを一生懸命訴えている。しかし、むろん、飲食厳禁。

病室からは日光連山(左)と高原山系(右)がよく見えた。

12月×日

「食べたい」「食べたい」「食べたい」
「ゆでたまごが食べたい」「ゆでたまご」「お魚が食べたい」「お魚いっぱい買っておいた」「冷蔵庫にいっぱい」「いっぱいある」
「胃袋が待っている」「待ってる」
長男なら何とか食べさせてくれるのではないか、と思っているかのように、握った手を振りながら私に訴える。

「うーん」「えーん」と泣いているようにも見える。口が乾き切っているのと同じで、目から涙は出ない。単なるうなり声のようにも聞こえるが、息子にはそれが嗚咽だとわかる。

人生の最後に、食べたいという強い欲求、肉体的な飢餓感が世界のほとんどを占めるようになってしまった。「お医者さんが食べてもいいと言った」「食べていいって!」とウソまでついて必死に求める。こちらは、手をぎゅっと握るほかない。最初はごまかしていたが、きょうははっきり伝えた。「食べたら死んじゃう」「はいちゃうよ」「人工栄養が来るので食べなくてもいいだよ」

しかし、そんなことはないと否定し、必死に請い続ける。死の床から、この現世界への必死の懇願。そしてそこの「頼みの綱」にメッセージは確かに届いている。しかし、私にはどうすることもできない。

看護婦に相談するが、もちろん看護婦では何もできない。「口の中を拭いてあげるだけでも少し違うようです」「湿らせば…」「気をそらすような話をするとか…」。申し訳なさそうに、言ってはくれる。看護婦だって大変だ。これからの日本、死んでいく老人とそれを介護する若いもんしかいなくなるかも知れない。だれが食い扶持を生産してくれるのか。

12月×日

母は「つるべ落とし」だ。きのうよりきょう、きょうよりあしたが確実に悪くなっていく。ほとんど動けなくなった。腕もあまりあげず、足も交差させない。声もあまり出なくなった。出てもよく聞き取れない。午後2時ごろ行ったが、ちょうど昼寝する時間帯だったのかも知れない、ほとんど眠ったような状態だった。

痴呆気味の97歳の父をだましだまし、母のところに連れて行った。よかった。たぶんこれが夫婦で会う最後になるだろう。母はかろうじて伴侶のことがわかったようだ。明日だったらわからないかも知れない。父が、一生懸命手をさすり声をかけ、というより一方的にしゃべり続けたが、母はほとんど言葉を発しなかった。「おじいちゃんだよ、わかる?」と私が耳元でどなると、首を縦に振った。よかった、わかったようだ。ぎりぎりの最後の面会。

父は痴呆もあるが、目があまり見えないこともあり、母が深刻な状態になっていることをよく理解していない。あまりショックを受けていない。見舞い後、私、弟と3人で回転ずしを食べに行ったが、機嫌よく昼食を楽しんでいた。過酷な人生。これくらい感覚がマヒしないとやっていけないだろう。「ぼけ」というのは、そのために神様が与えてくれた福音かも知れない。

12月×日

行くと、母は寝ていたが、浅い眠りで、人の気配を感じると起きた。看護婦さんによると、きょうは熱もなく、足で布団を蹴飛ばしたりと比較的活発だった。確かに弱ってはいるが、ここ数日安定している。点滴栄養を付けた当初は変化が大きかったが、その後、その状況に体も慣れて小康状態になったように見受けられる。

実家から病院まで20キロほどを自転車で通うようになった。帰りは道順探索などもあって夜の11時になったが、いろいろこの地の夜の状況がわかって面白かった。幹線道路を避けて山道。要するに何もない。暗い。イノシシが出るのでは、と思った。

12月×日

母は「弱った状態で安定」。寝ていることが多い。寝てるとき私は読書して、起きたときにコミュニケーション。いつも同じようなコミュニケーションだ。

「暑い」。毛布を1枚取る。「寒い」。毛布を増やす。「痛い」。きょうは耳が痛いと言っていた。なでてあげる。「食べたい」。「栄養が入っているから大丈夫。」「食べたら詰まって死んじゃうよ。」と説明。手を出してくることもあるので握ってあげる。

この繰り返し。死の床に入った人の感覚はよくわからない。母としては、とにかく現世界の近しい者とコミュニケーションをとって存在を確認したい衝動があるのか。子どものようにだだをこねている感じもある。こっちも疲れてくるが、そういうコミュニケーション儀式と考え、飽きずに繰り返す。「よー」「うー」「たー」など、言葉にならない唸り声も多い。「たー」は「食べたい」あるいは「助けて」の意か。

同室の認知症気味のおばあさんが、頻繁に「助けて」「だれか居ませんか」を繰り返す。最初はびっくりしたが、要するにベッドから出てどこかに行きたいということらしい。最初は真に受けて看護婦さんを呼んでいたが、それには及ばないようだ。

この声を聴いて、母も「たー」(助けて)と言おうとするようだ。病室に長く居るということはつらい。こっちもおかしくなってくる気がする。フラストレーションがたまるとどうしても態度に出るから、たまらない程度で切り上げるのも必要なことかも知れない。

12月×日

面会2時間の間、母はずっと嗚咽していた。涙は出ないが、明らかに泣いている。慟哭していると言った方がいい。「うー」「おおおお」「あーん」と言葉にならない。たまに、顔を合わせ、目を合わせても嗚咽する。たまに「食べたい」「食べる」「たまご」「さつまいも」「〇〇のさしみ」、そして「豆腐一口食べたい」がよく聞こえた。

何の慟哭なのか。人生の末期において、チューブにつながれ、動けない生命物体になって食べる欲求に支配される存在と化した自分への慟哭か。いや、そんな哲学的な思索までは及ばないだろう。それははたで見ている私の解釈だ。本人としてはとにかく「食べたい」。空腹感とのたたかいに全エネルギーをかけている。弟と共謀して、こっそり何か与えてみることを考えはじめた。誤嚥の危険もあるが。

12月×日

きょう、母は「食べたい」を言わなかった。代わりに、最初から「泊まっていけ」。「ここはベッドが空いてないよ」「床の上には寝たくないよ」「ばあちゃんをどかすか」などと応答。しかし、延々と「泊まれ」が続く。どうも、一つのことをいつまでも繰り返す精神回路のようだ。

調子はどう?と聞くと、「よくなってきた」と答えた。「うちに帰りたい」とも言った。うちに帰れるように回復するのはありえないだろう。しかし、よくなって家に帰りたいという希望を持つ病者に、口が裂けても「そんなの無理だよ」とは言えない。「よくなったら家に帰れるよ」と答える。

たわいもないおしゃべりをしてコミュニケーションをすることが大切か。「暑い」「寒い」「食べたい」その他で相手が反応し、そのやり取りで安心する、といったところがある。手も握りたいようだ。手を出してくる。そういえば母親と手を握り合うなんて子どもの頃以来だ。頭をなでてくれる、なんていうのも。別れが近づいて貴重なコミュニケーションが復活しているのかも知れない。

12月×日

私が行くと、母は何かうなっている。。「なんて言ってるの?」と聞くと「トウモロコシが食べたい」を繰り返した。そうか、よし、やったるか、と持ってきたプリン食べさせを敢行。

医師と相談して、プリンやヨーグルトなど軟らかいものを少量食べさせることに同意を得た。慎重に少しずつ口に入れると、一応飲み込んだ模様。しかし、口の中にある程度残った。完全には咀嚼できない模様。看護師さんが、食べさせ方を助言。誤嚥を防ぐため、ベッドを高く起こして与えることが大切。難しければ看護師さんに手助けしてもらってもいい、とも。見本を見せてもらったが、最初に口の中をきれいにしてそれから食べさせる。大胆に口の中に入れる。さすがうまい。計スプーン2杯分くらいで終わりにした。

たったそれだけでも約20日ぶりで食物を腹の中に入れたことは大変な重労働だったと見える。肩で息をして疲れた様子で、すぐ眠ってしまった。

医者からお墨付きが出たのは大きい。正々堂々とやれるようになった。そんなに急に食べさせては危険だと思い、控えてはいる。看護ノートに与えた量を書き込み、他の見舞いの者が適量を与えられるようにした。しかし、ものを口に入れるのはややリスクがあって、「責任のとれる」息子以外、あまりやらなかったようだ。

1月×日

母の余命はあと1~2カ月。私らの余命はあと2~30年。かなり違うが、しかし、やはり量的差であって、根本は同じだ。人はだれでも皆、例外なく、常に残された命を生きている。若いのは若いなりに、年寄は年寄なりに。それぞれ、その時代の人生がある。

最末期を迎えた母も今、その人生を生きている。空腹感はあるものの、痛みがないのは幸いだ。夢に、昔の楽しかった記憶がよみがえってくる(苦しい記憶がよみがえることもあるだろう)。床には時々家族が顔を出す。はたから見ていれば、わがままを言ったり幼児化現象を見て取れるが、たわいものない単純なやりとり、スキンシップがある。そういうそれなりの人生、あえて言えば喜び、それを体験していっていただくのが、今の彼女の人生で、それを保証するのがまわりの務めか。家族の、医療の、社会制度の。大変なことだけど。

1月×日
病棟入口に、赤く大きな字で「面会を遠慮して下さい」という告知が出ていた。院内でインフルエンザが発生したことによる予防措置。原則禁止だが、看護婦さんに断れば、短時間の面会は可能だ。

きょうの母は元気がなかった。ほとんど言葉を発しない。発しようとしても発せない感じ。発せない悲しさからか泣き顔になった。無言で手を握ってじっと見つめあう二人。お袋とこんなにじっと見つめあったのはあまり記憶にない。

かろうじて「ヨーグルト」と言ったようで(そう解釈して)、小さいスプーン1/3程度を5杯。

1月×日

きょうも母は元気なく、一言もしゃべらなかった。寝てるような起きてるような。はあはあとやっと息をして生きている感じ。声をかけても返事なし。手を握るだけ。ヨーグルト食べる?と聞くとかすかにうなずく。しかし、少量口に入れても飲み込まない。舌が動かない。

看護婦さんが来て各種検査。去ると、深い眠りについた。寝顔をじっと見つめるだけ。担当看護師さんが、今後どういう経過をたどるか説明したいと言う。家族の方がそろわれたときに、と。死に行くときにどういう体の変化をたどるのか、を説明してくれるようだ。

死にいく人も、まわりで話していることは聴けている、と聞いたことがある(どうやって確認したんだ?)。だから、一方的ながら、いろいろいろいろ話しかけている。家族の様子など。雨の多い冬、新型肺炎、その他もろもろのこと。

2月3日

一時的に名古屋に帰り、今度は2月4日に大宮までの夜行バスと、そこからの自転車で栃木に向かおうとしていた。その矢先、3日朝に、母の血圧が測れない状態になったとの連絡。午前7時前に個人病室に移されたとのこと。いよいよ「危篤」という状態だと認識して、予定を早め、新幹線(今回初めて)で栃木県さくら市の病院に向かった。午後2時半頃、病院着。

母は、眠っている状態。息が苦しそうで、話しかけても反応がない。目も開かない。弟や叔母(母の妹)たちと医者の話を聞く。血圧が下がったので脳に十分な血液が行かず、反応もなくなった。「危篤」と言っていい状態だと言う。がんばった方だ、とも。「ずばり、あと何日ですか」との質問には、個人差があるので何とも言えない、ということだが、強く聞いたら「経験から言うとあと1-2日か」という言葉が出た。会わせておくべき人が居れば連絡した方がいい、とも。心電図などはナース・センターからモニターしているので、何か異常があればすぐわかるとのこと。夜間でも医師は常駐している。家族が付き添いで泊まってもいい、ということなので、私が泊まることにした。

世界中貧乏旅行してどこにでも寝られるようになった技能が、こんなところで役立つとは思わなかった。病室は暖房が効き、折り畳み式の簡易ベッドもあるので、空港などで寝るよりずっとよい。室内にトイレとバスも付いている。ネットカフェよりも良い。が、むろん母の状態に注意していなければならないし、頻繁に看護師さんの訪問があるので、「安眠」というわけにはいかない。

母はずっと寝たままで、かろうじて息をしている。心拍などはナース・センターでモニターされており、そこから異常は察知できるが、呼吸が困難になったり苦しみだしたら連絡して下さい、と言われた。

夜9時ごろから酸素マスクをつけた。蒸気を付加する容器からぽちゃぽちゃと水の音がしている。これで少し息が楽になったのだろう、容体が安定したように見える。透明プラスチックのマスク内が息をするごとにかすかに白む。看護婦さんが見せてくれたが、足先、指の関節などに内出血の赤みが出始めている。これまで便が出ていなかったが、不思議なことに少しずつ血便が出始めた。肛門がきちんと閉じられなくなったせいだという。

夜通し起きて、各種検査はもちろん、オムツ取り換え、タン取り、寝相の向き変更など難しい仕事をこなす看護婦さんには頭が下がる。家族にはとてもできない膨大な仕事をやってもらっていると思う。

口を開けて死んだように寝ているお袋。不思議だ。俺はあんたの体の中から出現したのかね、と思ってみるが、実感がない。私は冷静になりすぎているのか。

2月×日

天気のいい日だ。今度は南向きの部屋なので、窓から広大な関東平野が見える。そのかなたに筑波山。廊下西端の窓からは男体山など日光連山の雄姿、東端のロビー側の窓から八溝山。

午前11時頃、医者が見回り。血圧が回復してきているので、思ったよりはいいでしょう、と。泊まり込んだ私の他、弟、孫たち、叔母(母の妹)らが頻繁に来る。午後、代わってもらって私は気晴らしに外に出た。近くの図書館に無料Wifiが飛んでいるので、そこから母の様子をメールで家族・親戚に逐次伝える。

2月×日

昨夜から病室にかみさんが来ていて、平常の夫婦の会話をかわしている。母がもしそれを聞けていたとするなら、安心できる環境を提供できているのではないか。予測より快調なのはそのせいか、と欲目で思う。

母は、酸素マスクの下ではあはあ息をしている。それが今の彼女のたたかいのすべて。命を続けることのたたかい。人は人生のあらゆる時期に、その時期特有のたたかいをしている。彼女にとって最末期のたたかいがそれだ。そしてたたかう人は常に周囲に何らかの影響を与えずにはおかない。私の今の時期の人生のたたかいとは何か。十分たたかっているか。

2月×日

私の泊まり込みが長引いている。最初の3泊で心身ともに疲れ、1泊だけ実家に帰って休んだ。その後、病室に戻り、泊まり込みを継続。だんだん、慣れてきたように思う。

深夜にも、看護婦さんの病室訪問が何度もある。当初は、ノックをして入ってきていたが、最近は寝ている付き添い者への配慮だろう、静かに入ってきて各種検査その他をしてそっと出ていくようになった。

心拍はナースステーションでモニターされているが、心臓が停止する前に呼吸が停止または異常をきたすことがあるらしい。そういうのをチェックするのが付添者の役割だ。母はずっと意識のない状態だが、午後1時と1時半ごろに「ああ、うう」と声を出しのでびっくりした。呼吸が一時止まったように見えた。しかし、すぐ再開した。何かの夢を見たらしい。

夢?もうすぐ停止しようとする脳がどのような夢をみるのか。この病室の一点にありながら、広大な宇宙をかけめぐっているのかも知れない。

その「とき」のために、準備の勉強をしておかねばならない。死期が近づいて起こる体の変化には次のようなものがあるという。
1.尿の量が少なくなり、色が濃くなる。
2.手や足に染みができ、冷たくなり、蒼白になる。
3.心拍数が増減したり、不規則になったりする。
4.血圧は通常低下する。
5.呼吸が不規則になり、非常に浅い呼吸、短時間の呼吸停止、深く速い呼吸が混在してみられる。
母の場合、3以外はすべて出ていると思われる。

体温36.9度、血圧124-60、血中酸素98%。え、これって健康人の数値じゃないの。ばあちゃん、がんばってる。呼吸もそんなに荒いわけではないし…と看護婦さんも言っていた。こうなりゃ、母に負けるわけにはいかない。私もがんばらねば。

2月×日

ばあちゃん、これは、早くに家を飛び出し帰って来なかった私を、最後に長く引きとどめる策なのか。酸素マスクをして知らんぷりして眠り続けるお袋の顔を見て呼びかける。血圧が測りにくい状態になり、個室に移され、医者から「あと1、2日」「危篤」という言葉が出た。だから泊まり込んだ。しかしそれからもう10日近い。

今、付き添いで泊まりこめるような体力のある家族は私だけだ。世界放浪常習者として、粗食に耐え、どこでも寝ることは得意とするところでもある。そして、結果的にすでに10日近くになったと言え、毎晩、いよいよきょうこそ危ないのではと、日を追うごとに帰宅するのが難しくなった。

叔母から、人工栄養点滴をして意識のないまま2年間生き延びたという友人の家族の話を聞いた。当初は見舞いに来る人も居たが、そのうちだれも居なくなり、入院代を払いに来る息子しか来なくなった。最後はミイラのような姿になって息を引き取ったという。看護助士の経験があるおいからも、人工栄養や人工呼吸器をつけた患者が多い50人ほどの病棟で、年間に亡くなるのは4-5人だけだったという話も聞いた。北欧などでは、人工栄養などはいっさい行わないという。ということは、北欧だったら母はもう死んでいる、ということだ。

ひとつ言えることは、こんな状態でも永らえてくれることで、まわりの家族は、死への覚悟、心の準備というものができてくるように思う。少しずつ母の状態が死に向かっていることに納得する。元気な状態から突然意識不明になったり死なれたりしたら衝撃と悲嘆が大きいだろう。

チューブをずぶずぶ突っ込んでとにかく生命を維持するという延命措置は患者を無意味な苦痛にさらすだけだからやらない、という現行の考え方は正当だろう。しかし、どんな状態になろうが、とにかく命を持たせる、というそれまで私たちがもっていた医療倫理、一般倫理から、わずかに逸脱する面があることも事実だ。例えば将来、生命維持装置・溶液の中で脳だけ生かすようなことが医学的に可能になったとして、私たちはそれを実行すべきか。その後のさらなる医学の発展で、この脳をサイボーグ、精巧な人体ロボットに移植して人間のようにふるまわせるということが可能になったらどうするか。そんないささかSFめいたことも考えた。

2月×日

心拍数がこのところ1分間50前後に落ちているとのこと。心拍はナースステーションで常時モニターされているが、これまでは50台から60台だった。昨夜は48なども出るようになった。40台が出てくると、一挙に低下、停止に行く可能性もあるという。一段と要注意レベルが上がったということだろう。

ロビーで解凍食品の夕食を食べ、部屋に戻ろうとすると、前を看護師が足早に母の病室に向かっていた。「モニターで心拍40台が出て、アラームがなっているんです。血圧を測ります」と。

血圧は133-71だった。なんじゃこりゃ。かえってよくなっている。心拍数の減少を血圧でカバーしているのか。「一時的なものかも知れません。また測りに来ます」と言って出て行った。

今夜は寝られないかも知れない。しかし、寝ないと私も体がまいる。

2月×日

午後2時半頃、母が「ああー」と声をあげた。というよりうなった。めったにないことだ。「どうしたい、ばあちゃん」と近寄ると、片目をかすかに開けている。いや、実はきょうはずうっと左目をかすかに開けたまま昏睡していたのだが。

それでも、目線の方に顔を出すと、視線が合うように感じていろいろ話しかけてしまう。「お世話になったね」とか「産んでくれてありがとうございました」とか。それに合わせてまぶたをぴくぴく動かしたりもする。反応してコミュニケーションができているように錯覚。それでずっと話しかけたわけだが、やはり、それ以上の反応はなく、疲れてやめてしまう。その後も左目はずっと少し開けたままだ。

2月×日

夜間、満月に近い月が、男体山の上にかかっている。雲の合間から光を放つ。病院の西窓に幻想的な光景が広がっている。

日光連山。左端が男体山(2486m)

病院の朝は4時半ごろから始まる。まずはオムツ代えで、私は外に待機する。この患者はあくまでレディーなのだ。昨夜は心拍50/分台で、時々40台でアラームがなったという。しかし、血圧測定では100以上あって、きのうとほぼ同じ状態が続いている。「危なくなった」「今度こそ危ない」と言われながら母はそれなりに持ってきた。これからもそうだろう。

図書館で「惨事ストレス対応マニュアル」というのを読んだ。救助者がつぶれないためには「ちょっといい加減にやる」ことが大切だ、とあった。完全にいい加減にやるともちろんだめだが、「ちょっと」いい加減にやるという意識で気持ちを楽にし、倒れないよう自己防衛する、ということのようだ。言葉を変えると「適度にテキトーにやる」ということ。自分や人の生死を左右するような場面では120%の力を出さねばならないが、そうでなければ適度にテキトーに。

「親をきちんと看取る」というのはこっちのエゴなんではないか、ともだんだん思えてきた。私が居ても本人にとって、ほとんど生死にかかわりない。必要な検査、心肺モニター、栄養点滴から下の世話、寝相変えからタンの吸引まですべて看護師さんがやってくれ、こっちは見ているだけだ。じっと待ち、そしてその場に居合わせよう、というだけなのか、と。

「看取る」という美しい言葉があることで救われている。ずるい。

今、大きく騒がれているコロナウイルスで、ついにきょう日本国内でも最初の死者が出たようだ。しかし、それよりずっと前に、武漢からの帰国者を世話していた政府担当者が過労で自殺している。彼が新型コロナウイルス犠牲国内第一号だろう。何年か前、タイの洞窟にとじこめられた少年たちは全員救助されたが、救助に当たった潜水夫の一人が亡くなっている。STAP細胞事件のときは、管理責任を問われた研究者が自殺。論文疑惑はけしからんが、死刑には値しなかったろうに。その他おぼれた子どもを助けるので、かえって父の方が水死とか、いろいろ。

そんなことを書いているまさに最中に、主任看護婦のような人が病室に来て「付き添いの方も無理をしないでください」との助言を受けた。患者本人も大変だが、付き添い者の方が倒れてしまうことも多いという。

適度にテキトーに、だ。と言いながら、今朝呼吸困難の症状も出たし、今夜も泊まらなければいけないだろう。

昼の外出から帰ると、午後2時頃、心電図が乱れ、約10秒間心停止したとの報告を受けた。看護婦が駆け付けたところ、呼吸も停止していた。呼びかけると深い息で回復した。

ちょっと楽観的なことを書いて油断して、午前中から周囲のサイクリングに出ていた。午後2時半に帰ってきて担当の看護婦さんから聞いた。やはり気を抜けない。一段と、警戒度を高めねば。

2月13日

きのうに続き叔母が来て、どっか散歩に行ってこいと外に出してくれた。3時間後に帰ってきたら、何と、後玄関ドア前に黒い霊柩車が泊まっているではないか。しまった、私の留守中に…。心臓が止まる思いをして、エレベーターに向かったら、ドアが開き、遺体搬送手押し車が現れた。遺体は白い布で覆われ、看護婦さんと家族が3人付いている。がーん。おお、家族、、、、、に目を走らせると、うちの家族ではなかった。一人は茶髪で若者3人。

もう覚悟はできている、心の動揺はない、と思っていた。しかし、相当心臓が動いた。やはり、その時になったら大変なことだ、ということがわかった。

あのご遺体搬出、だれが亡くなったのかわからない。重病患者が入る6階病棟でカラになった部屋はないように思う。よく聞こえる患者の叫び声が夜も聞こえる。看護婦さんに聞いてみると、彼女もわからない。少なくとも6階病棟ではない、緊急外来など他のセクションの方だろう、とのこと。

あの遺体は顔も含めて全身を白いシーツにくるまれていた。付き添っていたのは若者3人だった。交通事故などによる死亡だったか。そういえば、昨日午後、消防士(救急隊員?)が6階にも何人か来て、ものものしい時間帯があった。

2月14日

夜、寝苦しくなり、起きて病室内トイレに行った。トイレのドアは閉めなければならない。まれに看護婦さんが偶然入ってきて、立ちションしているのを後から見られる可能性がある(一度そういう時があったが、幸い男の看護師だった)。きちんと閉じで所用を足していると、まさにその時、看護婦さんが入ってきた。

よかった、あぶなかった、と思ったのもつかの間、出てみると、2人来て居て、心臓の波形が乱れたので来ました、と言う。時計を見ると午前0時30分。

不整脈がよく出るようになったが、長く続いたので来たのだという。体をさすったり、呼びかけたり、血圧を測ったり。一応落ち着いたので出て行った。夜、モニターで異常を察知して看護婦が来たというのは初めてだ。

私が寝苦しくて起きたとき、お袋も異常に。どこかリンクしているのだろうか。

夜が明けた2月14日の午後3時30分、それまで100以上あった血圧が95-79に下がった。午後4時40分には血圧が測れなかった。ということは60以下。約1時間、不整脈が続いているとの報告も。オムツ代えなど体を動かした際、一時的に不整脈が出ていたが、今回は続いている。「もしかしたらこのまま」という言葉が看護婦さんから出た。

呼吸も少し苦しそうで、肩や顎を少し動かしながらしている。顔色も心なしか白っぽくなったように感じる。何度も「いよいよ」と言われながら続いてきた不死身の母だから、とも思うが。一応緊急メールを出しに行く。いちいちWifiのある図書館まで行かねばならないのがまどろっこしい。

午後5時10分頃、メールを出して駆け足で病院に戻る。幸い、それまでと同じように息をしている。一見変わりなし。しかし、それからが急転直下。わずか1時間ほどで亡くなるとは思っていなかった。ベッドのそばでコロナウイルスのニュース記事などを見ていた。しかし、だんだん母の息が荒くなり、表情も険しくなる。

以下、ブログ記事「バレンタインの日に」。

2月×日

母は2月14日に死去し、21日に葬儀をして名古屋に帰ってきた。着替えなど荷物をたくさんかかえてバスや電車に乗ると、被災地から「撤収してきた」という感じがした。母も大変だったけど、私もやり切ったと感じる。死に目にちゃんと会えたのが何よりの母からの最後のプレゼントだった(上記ブログ記事参照)。