はじめに

(『市民団体としての自治体』)


 自治体と市民。そう問題を立て人は考えがちである。自治体、それは行政であり、それに対する市民の団体としてNPO(非営利団体)などがあった。
 そう思っていた。しかし、アメリカの自治体を見るうち、その境界があいまいになった。自治体はもともと市民団体ではないか。市民が自治を行うのがそもそも民主主義であった。

 アメリカの自治体は、市民が設立する。その地域の住民が住民投票で「つくろう」と決議して初めて自治体ができる。逆に言うと、住民がつくると決めなければ自治体はない、ということだ。実際、アメリカには自治体のない地域(非法人地域、Unincorporated Area)が面積の大半を占め、約一億人(総人口の三八パーセント)が自治体なしの生活をしている[U. S. Census Bureau, *1997 Census of Government*, Volume I Government Organization, 1997, p.IV.]。無自治体地域では、行政サービスは通常、州の下部機関である郡によって提供される。それでも最低のサービスは保証されるが、警察や消防が遠くの街(郡庁所在都市など)から提供されるのは不安だし、地域の発展を直接自分たちでコントロールしたいということで「自治体をつくる住民運動」が生まれ、住民投票を経て自治体が設立される(第一章参照)。

 情報公開、住民投票、陪審制、NPOなどいろいろなアメリカの市民参加制度が日本に紹介されてきたが、長くアメリカに暮らし調査をしてきた私としては、その自治体制度に最も大きな衝撃を受けた。アメリカの自治体はその存立の基本からして市民団体に近い。すでに「ある」のでなくて、市民が自由意志で結成するものなのだ。

 結成した後も、自治体は極めて市民団体的である。例えば市長や市議は通常、ボランティアだ。カリフォルニア州の場合は州法で五万人以下の市なら月給四〇〇ドル以下、三万五〇〇〇人以下なら月給三〇〇ドルなどの報酬額が定められている[*California Government Code*, Section 36516.]。このような名目的な給料では生活できないから、市長や市議は通常、他の仕事をもっている。市議会など彼らの重要職務は夜遂行される。昼の間、彼らの命の下に市事務局(市行政)を取り仕切る役人のトップがシティーマネジャー(助役と訳されている)だ。ボランティアと言えば、福祉やごみ拾いなどNPO活動をイメージすると思うが、アメリカでは市長や市議からしてまずボランティアなのだ。

 市議の数も通常五人、多くても一〇人程度で少ない。夜開かれる市議会は住民集会のようなもので、市民が自由に参加できるのはもちろん、発言さえできる。アメリカの市議会を見ていると、ほとんどの時間、市民が次々に発言している。その後で市議の間で若干協議して採決をとる。発言する人は、希望を出して順番を待つ。一議題につき一人一回まで発言できる。その街の住民か、アメリカ国籍かどうかさえ問われない。聞いてはいけないと法律に書いてある。日本の市町村議会で発言したことがない人でも、アメリカに行けば市議会で発言できる。連邦、州、自治体の各レベルで制定されている公開会議法(Open Meeting Laws)がこうした市民参加を体系的に保証している[こうした自治体の市民参加制度について、その概要を岡部一明『サンフランシスコ発:社会変革NPO』御茶の水書房、二〇〇〇年、第七章に記した。]。

 自治体は市民がつくるものなので、中にはかなり小さい自治体もある。アメリカの自治体約三万六〇〇〇の半分が人口一〇〇〇人以下だ。一〇〇人以下の自治体も三〇〇〇以上ある。何と人口一〇人以下の自治体も一〇〇程度ある(第一章3)。小さくたって、市長、市議はボランティアだし、有給職員もほとんどゼロだから費用もかからない。街への愛着は深まって公園づくりから緑化まで、ボランティアが活発に活動する。

 また、アメリカの自治体(Local Government)には通常の市や町以外に特別区(Special District)がある。これは日本の特別区とは違って、単一サービス型の自治体だ。有名なのは日本の教育委員会にあたる学校区だが、その他水道区、下水道区、大気汚染監視区、潅漑区、高速地下鉄区、蚊駆除区、商店街街灯管理区、電力区、その他いろいろある。必ずしも市や町の下部組織ではない。複数の市町村で運営する一部事務組合でもない。トップが独自に公選され、領域も独自に持つ独立した自治体だ。領域が市町村とほぼ同じ場合もあるが、それとはおよそ異なって線引きされている場合もある。協同組合を考えるとわかりやすい。例えばある地域で安価な生活物資を調達するため消費生協を設立する。同じように、例えば一定地域で水道サービスを提供するために、住民が水道区自治体を設立する。協同組合と違うのは、領域をもつことと全員加盟制になること、会費を税金として払うことだ。理事などの役員を住民(加盟員)選べるし、その会議は住民参加で行なわれる(第二章1)。

 「自治体は領域をもった全員加盟制のNPOである」という認識を、アメリカで調査するうち私はもつようになった。そこで見聞する自治体は、それまで「行政」としかとらえていなかった日本の自治体と大きく異なるものだった。私たちは本当に「自治体」を知っていたか。「地方自治は民主主義の学校」と言われるが、なるほど自治体は、このようなものであってこそ初めて学校になるのか、と目から鱗の体験だった。そして、自治体がこういうものであるなら、その先にある「国」だって本当はどうなのか。

 その後、ヨーロッパなどアメリカ以外の諸国の自治体制度を調べる機会があった。当初、アメリカの自治体は特別と思っていたが、他の国にも多かれ少なかれ、似たような市民的自治体制度が存在していた。例えばドイツには一万六〇〇〇の自治体があり自治体当たり平均人口は五〇〇〇人(日本は一八〇〇自治体、平均人口六万七〇〇〇人)。フランスには二〇〇年以上前のフランス革命以来あまり変らぬコミューンが三万六〇〇〇も残り、イタリアにも八〇〇〇のコミューニがある。市町村合併を活発に進めた英国でも、基層にあるパリッシュと呼ばれる草の根自治体はむしろ強化される傾向にある。アメリカと同様、無給で働くドイツの市議会議員が、市議をボランティアにする理由を聞かれて「政治のプロではなく、普通の仕事をしている市民がその考えを議会にもってくることが大切だ。」と言っていたのが印象に残る(第五章2)。

 確かに東アジアには、何千年にも及ぶ専制国家の歴史があって、自治制度は弱かったかも知れない。しかし、そういう東アジア諸国でも歴史をさかのぼると、専制支配は村の表層までで、その下には豊かな村人たちの自治の営みが続いていたことを最近の諸研究は明らかにしつつある(第七章)。欧米の事例を研究して、その後で自分の持ち場である「日本」を振り返る、というのが普通のやり方かも知れない。しかし、ここで私は敢えて「東アジアに返る」という手法を選んだ。私たちの文化的基礎に返る場合、国境に縛られた国内にこだわる必要はない。自治を東アジア的な伝統の中でとらえ返し、そこから日本を含めたこの地域の自治の可能性を考えるという手法にこだわった。

 本書はこうした世界のあちこちで築かれ機能してきた自治の姿をたどり、「市民団体としての自治体」の可能性を検証した試みである。私たちが通常考える「自治体」とはまったく別の自治体がありえるのではないか。そもそも自治体とは何であったのか。政府とは何か。それを考える中で今後の市民社会ガバンナンスを模索する。進行する市町村合併など日本の現状に直接には触れていないが、もちろん問題意識の原点はそこにある。世界各地で試みられる住民自治の可能性を探り、私たちの伝統の中にも埋もれる自治を振り返りながら、今日の私たちの課題を考える。



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