だから例えば、いやな仕事をがまんして金を稼ぎ、あるいは悪行の限りをつくして蓄財して、その先にあるのが死である。人は富を死後の世界にまでもっていくことはできない。確かに朽ちる肉体の傍らに黄金をはべらすことは可能である。古代エジプト王をはじめ、支配者の多くは現世の富を墓にまで持ち込んだ。経済学を死後の世界にまで貫ぬこうとした彼らの試みは、残念ながら成功しなかった(だろう)。不幸にも死後の世界というのは存在しないらしいことが明かになってしまった。人は、生まれるという奇跡と同じ奇跡をもって人から土に、生命から死に、存在から無に帰るのである。
したがって死は、経済学の破綻する地点として現れる。臨終の床に多大の財を残すのはミスマネジメントである。富を享受する利己的な「自己」が消失する時点での私的財貨は、その人にとって何ら富でなく単なる物体である。そこに代価として結実した労働苦や神を冒涜して行なわれた数々の悪行は完全な無駄として朽ちる果てる。
あるいは経済学は、人という死ぬ存在に対し、ある時点から、蓄財ではなくて富の放てきを、本当は命じている。周囲にある衣食住、財貨をしだいに消費し、他に与え、臨終の床には棺桶の代金以外何ものも残さぬよう生きる(死ぬ)ことが根源的な経済学(エコノミクス)である。
今日支配的な経済学を辛うじて破綻から救うのが家族制度と遺産相続である。自己の直系の子孫をつくり、それに財産を分与、相続することで、利己的な自己は世代を経て継承される。富致蓄財の経済原理は、死による破綻を免れる。破綻する運命にあった利己的個人の経済学は、相続を介して永遠の生命を得る。この意味で、家族制度と遺産相続は私有財産制のまさに根幹をなしていた。
アメリカでは、今後一〇年間に七兆−八兆ドルの資産が後の世代に相続されるという[Christian Science Monitor, December 6, 1999, p.16]。死によって引き起こされるこの巨大な財貨移動の中で、年々高だか一三〇億ドル程度しか公共の財として放擲(遺産寄贈)されていないことの方がむしろ奇跡である。人はそれほどまでも「利己」にこだわり、富のほとんどを直系の子孫だけに律儀に伝授していく。
私的な相続と公共への寄贈が競合関係にあるとするならば、相続志向が弱い社会ほど、より多くの富を公共に向かって吐き出す。つまり、家族の紐帯が比較的弱ければ、それだけ遺産は公共に流れやすい。つながりが強ければ、所得はより排他的に「身内」に投入され、遺産は几帳面に直系子孫に相続される。つまり、家族的つながりの強弱が寄付額の大小に比例する。子が別の人格として早くから独立する社会では、死の声を聞いた人びとは、より大きな共同体の中に生きようとする衝動をより純粋な形で経験し、実行しようとする。神の教えと蓄積された宗教的体験がこれを補強する。
生産のみを語り、消費された生産物の最終処理過程(回収や分解)を対象からはずす今日の経済学は、同じ誤りをもって、死を対象外におく。しかり。経済学は生きる人を対象とする。人は生きるために様々な資源が必要である。だが、より根源的には、経済学は「生きて死ぬ人」を対象とすべきである。人は、生きるために衣食住を得、明日さらに生きるために蓄財する。しかし同時に人は死ぬために財を解き放つ。財を持ったまま死ぬことは不名誉であり、資源の浪費である。
社会のものは社会に、自然のものは自然に。個人は死に向かう過程ですべてを、自分の肉体を自然に返すことを含めてすべてを、外界に返し無に帰る。
死の経済学は新しい原理を生む。与えることが合理的であり、財を墓にもちこもうとすることは非合理である。人と社会、人と自然のこの根源的な意味での経済合理性(それはエコロジー的合理性でもある)が、現在、日本においてもアメリカにおいても同様にその発露が限定され、特異な行為として珍しがられるのは、ただ、今日型の経済社会の幻想による。