タイズ・センター、NPO共同事務所

  岡部一明(『サンフランシスコ発:社会変革NPO』(御茶の水書房、2000年、1章2-4)
 

二、インキュベーター:NPOを育てる「孵化器」

アイデアを試みる場

 「新しい社会運動をつくりだす人たちはモチベーションがあり、情熱に燃えていますが、マネジメントは得意ではありません。お金を稼ぎ出すことにも不慣れですし、どうやれば効果的に政治的な力をつけられるかにも必ずしも習熟していません。そして、NPOセクターにはこうした技能を身につける訓練プログラムはあまりないのです。」とパイクさんが言う。ここから、NPOのインキュベーター(孵化器)「タイズ・センター」がつくられることになった。

 「アイデアをもった人がここに来て、いきなり新しい団体を立ち上げるというのでなく、まずタイズのプロジェクトとして試してみることができるのです。財政マネジメント、人材マネジメント、求人、雇用、給与、各種保険、税金、クレジット、その他あらゆる団体運営に必要な援助をタイズ・センターが与えていきます。」

 タイズは、市民運動にカネを出すだけでなく、その活動を軌道に乗せる運営面でもNPO支援を行なっている。ビジネスでも市民団体でも立ち上げたばかりが一番苦しい。すばらしいアイデアもこの時の困難で挫折してしまうことが多い。そこで一人前になるまでの時期を支援する装置がインキュベーター(孵化装置)である。「タイズ・センターは最初はタイズ財団の中のプログラムとしてやっていましたが、一九九六年に、独立のNPO法人として分離しました。社会変革を目指す新しいイノベーティブなNPOにホームを提供します。社会起業家がNPO法人を一からつくらなくとも、アイデアをまず試せる場を提供します。」とパイクさん。

 アメリカには起業ビジネスを支援するインキュベーターが全米に五〇〇以上ある。多くは共同事務所センターの形態をとる。中に多数の小ビジネスが事務所をかまえる。個室やついたてだけの小さな空間だ。電話受け付けサービスなどもあり、個人企業でもいっぱしの事務所(のように見える)拠点がもてる。さらに、応接室、会議室、コピー機、ファックス、その他が共同で使え、会計事務、経営コンサル、弁護士その他ビジネスサービスも共同で受けられる。アメリカの活発な起業家経済の秘密として最近は日本でも活発に紹介されている。

 タイズセンターはこのビジネス・インキュベーターのNPO版だ。NPOのインキュベーターは必ずしも「共同事務所」ではない。「NPO法人格のひさしを貸す」ことが重要な機能となる。つまり、生まれたばかりの市民団体がいきなりNPO法人化、特に税控除資格をとるのは難しいから、まずはタイズ・センターという既存NPOのひさしを借りて税制優遇などNPO特典を受けられるようにする。各団体は実質的には独立した団体だが、法律的にはタイズ・センター内のひとつの「プロジェクト」になる。その上で徐々に力をつけ、軌道に乗れば、タイズ・センターから離れて独立法人になる。「卒業」だ。

 インキュベーターの中で、各団体(プロジェクト)は様々なマネジメント支援を受ける。会計、税金事務、給与手続きなど事務作業はタイズ・センターが代行する。例えばスタッフの給料はすべてタイズ財団の小切手でもらうことになる。各プロジェクトは、予算の九パーセントをマネジメント・サービス料金としてタイズ・センターに払う(予算一〇〇万ドル以上の団体の場合は六パーセント)。資金集めは各団体(プロジェクト)が自分たちで行なう。タイズ財団から自動的にお金が入ってくる訳ではない。あくまでマネジメント支援が目的であって、各団体は財政的には独立している。

 通常のNPOでも、内部に新しいプロジェクトをかかえ、やがてそれが独立法人化していくなどのことがある(財政エージャンシー制度)。コミュニティー財団が同種のインキュベーター機能をもつこともある。しかし、タイズ・センターほどこれを専門的かつ大規模に行なう例はない。各プロジェクトの予算総額は一九九〇年度に三七〇万ドルだったのが、九三年度に一六〇〇万ドル、九八年度には五〇〇〇万ドルに増加した。現在約三〇〇のプロジェクトがあり、毎月、七-八のプロジェクトが新しく入っている。一年間に二〇団体程度が独立NPOとして巣立つ。

一人ではじめる社会起業家

 「マイクロソフトにソフトになるな!」

 こういう元気のいいスローガンで一九九七年五月にマイクロソフトの独占問題を取り上げはじめた女性がいた(マイクロソフトはMicro$oftと書いてある)。ネットアクションのオードリ・クロースさん。米司法省などがマイクロソフトを提訴する五カ月前。ネーダーグループがこの問題で会議を提唱していた以外、まだ市民運動でもほとんど声が上がっていない状態だった。

 ネットアクションはクロースさんが一九九六年に一人で起ち上げたグループ。市民団体のインターネット利用を支援するとともに、ネット上で様々な運動を展開する。設立一年目から反マイクロソフト運動の先端におどりでた。自分のウェブサイト[ 9]を中心に様々なマイクロソフト関係の情報を出し、運動を連係した。巨大独占に立ち向かう女性一人の運動、これを可能にしたのはタイズのインキュベーターだった。ネットアクションはタイズ・センターのプロジェクトとして活動を開始した。

 「最初、私がタイズに申請書を書くわけです。これこれのプロジェクトをはじめたい、こういうことを達成したい、財政的展望はこうだ、という風に。彼らがこれを検討し、意義ある活動と評価すれば、受け入れられます。」

 クロースさんのネットアクションの事務所は自分のアパートだ。インタビューを申し込んだら、アパート近くの喫茶店を指定された。彼女は、電話産業や電力会社を監視するNPO「公益事業改革ネットワーク」(TURN、第五章四節参照)やコンピュータ技術者運動体「社会的責任コンピュータ専門家連合(CPSR)」の事務局長を永年つとめた人。弁護士や専門家を雇う大組織を切り回してきたが、一念発起し、一人で新しいプロジェクトをはじめた。まさに、大組織をスピンオフして新事業を起こす起業家(アントレプレナー)である。「インターネットがなかったらこのようなプロジェクトは起ち上げられなかったでしょう。大勢に情報を送り続けることさえ郵便では困難です。世界ネットが、家で一人ではじめる人にも有用なリソースを提供します。」

 一人で巨大企業に立ち向かう活動は、確かにインターネットによって可能になった側面もあろう。が、同時に、タイズ・センターの支援装置によっても成り立たっている。「自分で非営利法人を組織するには、たくさん書類仕事をしなければなりません。設立後も、寄付が来たらその税控除の手続きをするとか、財政上、管理上の事務仕事がたくさんあります。結局、私はそれを誰かにお金を払ってやってもらうことになります。私の場合、個人に頼む代わりにタイズにやってもらうという訳です。」とクロースさん。九パーセントですべての事務仕事をやってくれるというのは、安い料金だろう。これでとにかく、何か新しいアイデアを試してみれる。「私も、他の多くの人と同じように、最終的には自分でNPO法人をつくるつもりです。まずタイズ・センターで試してみて、お金も集められ会員基盤もできれば独立します。うまくいかなければやめます。自分ですべてをやると、解散する時もまたたくさん書類仕事をしなければなりません。」

 反マイクロソフト運動は巨大な運動になった。彼女の目的はある程度達成された。すると今度は一九九九年頃から、DSLやケーブルモデムなどブロードバンド(広帯域)インターネット接続問題でのキャンペーンをはじめた。地域電話会社の独占がブロードバンドの普及を遅らせている、との活発なキャンペーンをネット上で展開している。

多様な支援の形態

 小さく、時にはほとんど個人だけのようで、しかし時代の必要をいち早くキャッチして重要な問題を提起する。そういう粋のいい市民活動がタイズ・センターには多い。変化の激しい現代の中でも市民運動の要請にインキュベーターの仕組みがよく応えているという側面がありそうだ。

 活動が軌道に乗れば独立してタイズを「卒業」するわけだが、それだけがタイズ内成長のゴールなのではない。例えば、サンフランシスコの「民衆のアースデー」プロジェクト。大規模化、半官製化したアースデーに対してマイノリティー地域の環境問題に中心をおいた独自アースデー行事を黒人地域で行なう。年一回、それも多数のグループが集まって行なう活動を独立NPO法人に仕立てる必然性はあまりない。タイズ・センターのNPOインフラを使ってその都度活動を組めばよい。「首都での○○行進」など一回限りで行なわれる市民活動は多い。これをNPOインフラの枠内で迅速に行なうにはタイズ・センターのシステムは都合よい。

 成長して大きな団体になりながら、敢えてタイズ・センターに留まるケースもある。管理業務を肩代りしてもらえるメリットを重視する訳だ。この代表例が、エコネット、ピースネットなど市民運動の世界ネットを構築するグローバル世界通信研究所(IGC、本章四節参照)。一時期、本格的なインターネット・プロバイダー事業を行ない、最盛期には数十人以上の職員、年間予算一〇〇万ドル以上を超えながら、なおタイズ・センター内に留まり、その看板プロジェクトになってきた。

 「組織ぶくれしないで、活動の結果を出すことに集中したいです。いつも(自団体の)理事会のことばかり気にしたり、どの健康保険を選ぶか右往左往したくなかったら、(タイズのサービスは)とても役立ちます。」
 もうひとつのタイズ内大型団体の「環境作業グループ」(EWG、本部ワシントンDC)のケネス・クック会長がこのように証言している[10]。タイズ・センターは、NPOマネジメントの「アウトソース」方式としても機能しているわけだ。NPO業界の中の新しいマネジメント遂行方式としても実験的なものになっている。

 弱小グループが大きくなることだけが成功ではない、とパイクさんが強調する。「私たちの成功の定義は、卒業して独立組織になることではありません。成功したプロジェクトとは、アイデアを試み、現実に合わなかったことを知り店じまいするプロジェクトでもあります。誰も傷つけたり負債を背負わせたりすることのなくそれを試みられれば、意義あるプロジェクトだったのです。」

 結果にかかわらず、大切なことはアイデアを自ら試みるということだ。市民活動にも、リスクを犯してどんどん新しいことを試みる起業家精神が求められている。

社会変革NPOの支援

 財団と同じく、タイズ・センターも社会変革の理念にしたがって運営している。どんなグループでも受け入れる訳ではなく、例えば、都市中心部の巨大開発のため不動産会社や市開発局のグループが申請に来ればお断りする。タイズ・センターのミッション・ステートメント(目標声明)はタイズ財団のもの(前述)と同じ。文中「タイズ財団は……」を「タイズ・センターは……」に変えただけである。タイズ・センターのスタッフは現在、約五〇名。財政や人事関係の支援をするオフィス・スタッフの他、一八人のプロジェクト・コーディネーターが居る。彼(女)らが、タイズ内の個々のグループ(プロジェクト)に付き、助言・支援を行なう。個々のグループ内でつくられる役員会のメンバーとして入る場合もある。ベンチャーキャピタリストが起ち上げ支援企業の中に役員を送るのと似ている。

 「市民活動をするには、いいアイデア、それをきちんと実現するマネジメント、そして自分のプロジェクトだと感じられる所有の感覚、プライドが大切です。」とパイクさんが言う。特に、最後の点、タイズ・センターの傘下に入りながら、なおかつ団体の自立性を保証することにいろいろと心を砕いているようだ。「タイズ財団は、タイズ・センターのプロジェクトに基本的には助成をしません。彼ら自身が他からの資金を探して来るのです。資金を頼ると依存関係ができます。資金源を自分たちでコントロールすることが自立性を保証します。また私たちは個々のプロジェクトをタイズ内に引き留めることを目的にはしません。いつでも独立していいのです。他のNPOの傘下に入ってもいい。そうした方針が個々のグループの自立性を保証します。」

 個々のグループ側からすれば、タイズからの直接助成がないのはつらい。しかし、タイズ・センターのしっかりした枠組に入ることで信用が付き、他から助成が得やすくなるという効果はある。
 

三、NPOがつくるNPOセンター

 タイズ財団、タイズ・センターらが拠点とするこのソーロー持続性センターはプレシデオ国立公園(ゴールデンゲート国立リクリエーション地域)の中にある。サンフランシスコの北端、ゴールデンゲート橋に近い陸軍基地跡だ。プレシディオは、一七七六年にスペイン人が設置した守りの要衝。一九世紀にアメリカ領になってから米陸軍基地となり、つい最近まで米第六陸軍の総司令部があった。前述の通り、第二次大戦中は太平洋戦線向け集結基地となり、一九五一年には同基地内で日米安保条約が締結されている。

 この基地が一九九四年一〇月に閉鎖され、国立公園に移行。現在、民生利用の再開発計画がはじまっている。タイズは、真っ先にその一角に長期リースを確保し、そこを一連のNPOセンターに改造した。自然を愛したアメリカの詩人ヘンリー・デービッド・ソーローの名前をとって「ソーロー持続性センター」という。元陸軍病院を中心とした一二の建物群(賃貸床面積一万四〇〇〇平米)。白壁のスペイン風建築の中に五〇以上のNPOが事務所を構える。入居するNPOの多くは環境団体。更新性エネルギーを推進する「エネルギー財団」(EF)、町に街路樹を植える「都市の森の友」(FUF)、サンフランシスコ湾の自然を守る「ベイキーパー」、土地を買い取って自然保護を行なう「保全インターナショナル」(CI)などなど。差別と取り組む人権団体、精神的な価値転換をめざすニューエイジ諸団体、さらに公益弁護士協会などプロフェッショナル団体も多い。前述の通り、世界中の平和運動を連係するコンピュータ・ネットワーク「ピースネット」(前記IGCの一部)の事務所もここにあり、基地の平和利用転換の象徴となっている。

 「このセンターは、新しいプレシデオの中で最初の民間開発プロジェクトです。今後のプレシディオ開発のモデルとなります。」とタイズ財団会長のドラモント・パイクさんが言う。ソーロー持続性センターの全体が完成したのは一九九八年だが、タイズ財団、タイズ・センターなどは、一足先に完成した主要棟に一九九六年春に入居した。

 日本でも自治体などがNPOセンターを活発につくりはじめている。しかし、非営利セクターの強力なアメリカでは、かなりの場合、NPO自身がNPOセンターをつくっている。一般にアメリカではNPOによる地域開発運動が活発で[11]、「市民会館」「青少年センター」「公民館」その他公共施設を、NPO自身がつくることも多い。

低コストで歴史的建造物の省エネ化

 「いいえ、残念ながら全体の電力をまかなうには全く足りないんです。」

 案内するタイズ財団のエレニ・ソトスさんが苦笑した。タイズがつくったNPOセンター「ソーロー持続性センター」の太陽光発電を見せてもらい、これでセンター全体をまかなえるのか聞いたのだが、やはり無理のようだ。「歴史的建造物として保全をしながらのグリーン・ビルディングづくりでしたから、建物を根本的に新しくすることはできなかったのです。」

 ソーロー持続性センターは環境に配慮した「グリーンビルディング」の代表でもある。一八九九年築の元陸軍病院管理棟以下、一二棟全体が歴史的建造物の指定を受けていた。改修に連邦補助がついたが、そのかわり根本的につくりかえることはできなかった。例えば屋根に大規模な太陽光パネルをつけたり、壁や窓を根本的に省エネ構造に変えることはできなかった。玄関部分の屋根(二〇平米)だけに二四個の建物統合型太陽光パネル(BIPV)が取り付けられ、標準で一・二五Kwhの電気を起こす。建物内電気系統に給電されセンター内省エネ照明五〇-六〇個の電力がまかなえるだけという。

 こうした限界はあるものの、ソーロー持続性センターは至るところに省エネ、環境保全の設計思想が貫かれている。前庭の芝生にはソラーカーを充電できる別の太陽光パネルがおかれ、室内はできるだけ自然光を取り入れる設計が工夫され、センサーで人が入った時だけ電気がつく仕組みあり、省エネの電球や蛍光灯が取り付けられ、建物全体で平方フィート当り一・〇六ワットの低い照明電力使用を達成した。熱効率のよいボイラーを設置し、壁や天井にはセルロースや綿など自然断熱材を入れ、冷房機器を使わず換気による空調構造を取り入れた。第三者機関(カリフォルニア大学ローレンス国立ラボ)の検証によれば、これら省エネ設計・機器によりセンター建物のエネルギー使用は三分の一減り、年間二万二〇〇〇ドルのエネルギー経費削減がもたらされるという。

 自転車通勤者用の駐輪場、ロッカー、シャワーも設置。床、じゅうたん、タイル、ペンキなど環境、健康上よい資材が慎重に選ばれた。改修工事の際に出る廃材も七三パーセントをリサイクルするなど、あらゆる観点からグリーン・ビルディングづくりの努力が払われている。しかも、改修にかかった資金は四一〇万ドルとこの種のプロジェクトとしては低コスト。ソーロー持続性センターは一九九八年の「グリーンビルディングの挑戦(CBG)国際会議」(カナダ・バンクーバー)で米国五つのグリーンビルディング代表事例の一つに選ばれ、次のように評価された。「ソーロー・センターは決して低エネルギー使用の記録を塗り替たわけではないが、省エネ設計による歴史的建造物の改修が低予算ででき、その後の年ごとのエネルギー使用も抑制できることを成功裏に示した。」[12]。

 現在アメリカでは、国立公園を省エネデモンストレーションの場に活用していく動きが本格化している。この都市型の国立公園(プレシディオ)にできたソーロー持続性センターはその最先端を行く形だ。一九九九年四月にエネルギー省長官、内務省副長官(国立公園担当)、環境団体代表らがプレシディオに集まり、「緑のエネルギー公園プログラム」発足の調印式を行なった。一五〇万ドルで研究機関などとも協力しながら全米二〇の国立公園で省エネ施設、交通などのプロジェクトが展開されていく[13]。

公共・民間のパートナーシップ

 タイズ財団はこのNPOセンターづくりに関しては、「ハイウォーター」という営利の一〇〇パーセント子会社をつくって事業を進めた。不動産の開発と管理、賃貸という事業の性格、また税制上の考慮で、営利法人を選択した。ハイウォーター社がさらに民間住宅開発会社の「エクィッティー地域ビルダー」(本社サンフランシスコ)と組んで「ソーロー・センター・パートナーズ」という事業体(パートナーシップ)を形成し、これが開発及び(完成後の)管理の主体になった。スペイン風の古い建物は歴史的建造物に指定され、この改修について二三〇万ドルの税額控除(税金の直接減額)を受けることができた[14]。銀行から一三〇〇万ドルの融資を受けることも可能になった。

 「アメリカの法律では、税控除NPOはいろいろ活動制限を受けます。政治活動もそうですが、ビジネス活動も制限されます。建物をリースし改修し賃貸しするという事業は税控除になる「慈善活動」とは見なされません。たとえテナントがNPOであってもそうです。」とパイクさん。

 プレシディオは国立公園システムの一部だ(付近の他の自然地域も含めて「ゴールデンゲート国立リクリエーション地域」に編入)。日本と異なり、アメリカの国立公園はすべて国有地(国立公園局管理)にするのが基本。したがってソーロー持続性センターの建物・土地も公園局が所有する。しかし、その老朽化した建物を民間(ソーロー・センター・パートナーズ)が独自資金で開発すれば、とりあえず五五年は長期リースできるという契約が公園局との間で成立した。改修・再開発の費用は全部で一二五〇万ドルかかり、そのうち建物部分に関する一一五〇万ドルが歴史的建造物改修の税額控除の対象となり、その二〇パーセントの二三〇万ドルが返ってきた。

 国立公園局の競争入札に応じる形でタイズらがプランを出した。カリフォルニア大学などかなりの大御所、数団体が応札したが、タイズが競り勝った。環境団体などのNPOセンター、しかもグリーンビルディングというコンセプトが優れていた。国立公園プレシディオの方向性に合致していた。さらにタイズ財団はNPOといえども大きな資産をもち、この点でも信用がついた。NPOでも充分に入札に競り勝つ力をもっているのだ。
 「ソーローセンターは公共-民間の新しい形のパートナーシップ」と言われる。国立公園局としては自分では資金を出さずに公園内建物を改修・有効利用してもらえる。管理の手間からも解放される。NPO側は、風光明眉な地に素晴らしい市民運動の拠点をつくることができた。
 

四、NPOの情報ネットづくり

 タイズ・グループは、NPOの情報ネットワークもかかえている。一九八六年設立のグローバル通信研究所(IGC)のネット[15]がそれだ。平和運動のピースネット、環境運動のエコネット、女性運動のウィミンズネット、人種差別反対運動の反レイシズムネットを含み、これまでアメリカ市民運動の中枢神経の役割を果たしてきた。世界的にも各国革新的市民運動ネットと連係し「進歩的通信協会」(APC)のネットを形成している。国連諸会議への市民参加などNGO活動の世界的なネットワークの役割を果たしている。前節で触れた通り、一九八七年に設立してから、ずっとタイズセンターの内部にとどまり、マネジメントを同センターにアウトソーシングしてネットワーク活動に専念している。

ニカラグアでネットを起ち上げる

 「私たちの運動がなかったら、アメリカは簡単にニカラグアを侵略したでしょう。一九〇〇年以降、アメリカは中米に一〇〇回以上侵攻しているのです。」

 ピースネット設立者の一人、スコット・ワイカートさんが語る。年中温暖で青空が広がるシリコンバレー内の事務所。IGCの本部はタイズ財団などが入るプレシディオ内ソーロー持続性センターにあるが、ウェブサーバーを含め技術スタッフの拠点はバレー内メンロパーク市にある。ワシントンDC、アラスカその他にもスタッフがおり、IGCはある程度、バーチャル・カンパニーならぬバーチャル団体の形態をとっている。

 「六〇年代-七〇年代前半はベトナム反戦の時代でしたが、八〇年代は中米への軍事介入阻止が中心でした。」とワイカートさん。一九七九年に成立したニカラグア左派政権に対し、米国は国内反政府グループを支援するなど介入を強めていた。それへの反対運動の中でピースネットがつくられたとワイカートさんは言う。「当時私たちは、地域で介入反対の草の根キャンペーンを組織していました。八〇年代前半には、ちょうどこの地域選出の連邦議員二名が下院外交問題委員会のメンバーでした(一一区トム・ラントス、一二区エド・ショー)。中米政策に直接関係する議会委員会です。影響力のある彼らにはたらきかけ、レーガン政権の中米独裁政権支援を止めさせる方向にもっていきました。」

 シリコンバレーは、スタンフォード大学のあるパロアルト周辺を中心にリベラルな市民運動も活発だ。八〇年代にはニカラグア軍事介入反対運動が盛んで、軍需産業を平和経済に変えることを目指す「半島中部経済転換プロジェクト」(MPECP)などが活発に活動していた。八四年にこのMPECP内に、市民団体向けコンピュータ技術支援団体「地域データ処理」(CDP)が設立された。それが他の二平和団体と組んでピースネット(八五年)、さらにエコネットと合併してIGCネット(八七年)を設立する。休む間もなく国際的なネットづくりにも向かう。「私が各種機材、ソフトをもってイギリスに飛び、一週間半でグリーンネットを起ち上げてきました。さらに同僚のスティーブ・フラムがブラジルに行って『アルタネット』を、ブライアン・コーエンがニカラグアに行って『ニカラオ』を起ち上げました。グリーンネットのミトラさんはカナダに行って『ウェブ』のネットを起ち上げました。」

 まだ世界的なインターネットのインフラは整っていなかった。彼らの独自開発したシステムを各国に移植し、自動的に情報をやり取りして一体的なネットに機能させる仕組みをつくった。インターネット以前の草の根グローバル・ネットづくり。米英加、ブラジル、ニカラグアの前出五ネットで一九八九年に進歩的通信協会(APC)を発足させる。「アメリカがニカラグアに戦争を仕掛けている最中、私たちは、世界と交信できるコンピュータ・ネットをニカラグアに起ち上げたのです。インターネットを通じて世界に電子メールを出せるようにしました。」

 グローバル・ネットがなければ自分たちでつくればいいのだ。それが彼ら「シリンコンバレー型市民運動」からのメッセージ。APCネットはインターネット普及以前の草の根世界ネットとして以後、大きな足跡を残すことになる。現在、全世界で二一ネットが加盟し、日本でもJCA-NETが一九九八年末に正式加盟した[16]。

NPOがインターネットをリードする

 アメリカのNPOセクターの中ではスタッフが活発に移動する。IGCも同じで、ワイカートさんはIGC内の最古参メンバーの一人になってしまった。筆者は、IGCができる前のピースネット単独時代、一九八五年に彼をインタビューしたことがある[17]]。筆者も八四年からエコネットに加入しているからやはり古参の一人ということで、今となっては何か同士的連帯を感じる。

 それ以後彼らはIGCに組織変えし、パソコン通信からインターネットプロバイダーになり、さらにコンテンツを中心としたウェブ・ポータルに、と時代の変転にともない目まぐるしく自己革新してきた。特に記録しておきたいのは、IGCネットは八七年夏からインターネットへのメール接続を提供しはじめた、という事実だ。日本やアメリカで商業ネットがインターネット接続を提供するのは九〇年代中ごろになってから。このNPOのネットがこのような「昔」にインターネット接続を提供しはじめたのは驚異だ。ほとんどの人がインターネットなど知らなかった。私も何のことかさっぱり分らず、確かに他のネットにも電子メールを送れるようになったから便利になった、と思った程度だった。以後、彼らはインターネットの寵児に踊り出、数少ない初期のインターネット・プロバイダーとして九〇年代初め各方面から注目を浴びた。アメリカではNPOのネットがむしろインターネット時代を先導していた。

市民ネットの可能性を極める

 一三年に及ぶIGC/APC市民運動ネットの経験は、コンピュータ・メディアが市民活動にどんな可能性をもたらすか、を探る歴史だった。
 アムネスティ・インターナショナルは一九八七年以来このネット上で「緊急行動アピール」を流し、不当逮捕や囚人への人権抑圧に対して時期を逸せずキャンペーン活動を展開した。この活動により対象事件の少なくとも三五パーセントを何等かに好転させたと言われ、この場合ネットは文字どおり人の命を救った。

 一九八九年の中国・天安門事件の時には、ファックスとともにAPCなどコンピュータ・ネットを通じて状況が海外に報告された。一九九〇-九一年の湾岸危機・湾岸戦争の時にはIGCネットの回線がパンクするほど活発な議論と反戦活動連係が行なわれた。一九九一年のソ連八月クーデターの時にも、国際電話回線がつながらなくなる中で、ソ連内部からの数少ない情報発信源としてそのAPCノード(グラスネット)が活躍した。さらに、全世界に拡散した先住民族の運動を結び付け、忘れられた東チモールやチベットの独立運動の情報を流し、バルカン半島の戦火の中から生々しい情報を送り続けた。

 一九九二年のリオデジャネイロ国連環境会議の時には多数の端末を現地に設置して情報を発信し、日本から参加したNGO活動家にも大きな衝撃を与えた。以後、日本でのAPC拠点づくりを目指した日本コンピュータコミュニケーション研究会(JCA)の活動がはじまる。APCはさらに国連人権会議(九三年、ウィーン)、国際人口開発会議(九四年、カイロ)、社会開発世界サミット(九五年、コペンハーゲン)、気候条約締結国気候会議(九五年、ベルリン)、第四回世界女性会議(九五年、北京)などで公式メディアに指定され、ネットワークを組んだ。第三回気候条約締約国会議(九七年、京都)の時には、JCAネットがNGOからの情報を流した[18]。APCは一九九五年に国連経済社会理事会のNGO資格(カテゴリーI)の資格も得ている。ワールドカップやオリンピックでは大手コンピュータ企業が大規模なコンピュータ・ネットを組むが、国連会議ではNGOであるAPCがネットを組んでいる点がおもしろい。「国連機関のネットワーク活動は遅れている。北京女性会議の時には、政府代表スタッフやプレスの人たちも私たちのネットを使いに来た」とAPC事務局のイーディー・ファーウェルさんが証言していた[19]。

 最近の例では、たとえば「トランスナショナル資料行動センター」(TRAC、本部サンフランシスコ)が、IGCネット上のウェブページ(「コーオポレイト・ウォッチ」[20])で、ナイキ社の内部文書を暴露した。べトナム製靴工場での劣悪な労働条件を示す内部調査報告書。同社が第三世界の低賃金労働力を酷使していることの決定的証拠となり、ナイキ社批判キャンペーンに火を付けた。結局同社は九八年五月、児童労働停止(年齢下限の一八才への引き上げ)、NGOによる工場内査察受け入れなど抜本的譲歩を行なっている(第二章第三節参照)。

 熱帯雨林行動ネットワーク(RAN、本部サンフランシスコ)も、子どもが自作俳句送信で簡単に「ミツビシ」への熱帯雨林破壊反対を訴えられるなどユニークなウェブ・サイトづくりを行ない、三菱製品ボイコット運動を盛り立てた。九八年二月、三菱自動車販売アメリカと三菱電気アメリカは、社内環境監査制度と二〇〇二年までの紙製品使用停止などを約し、キャンペーンは劇的勝利を得た。

 一九九七年ノーベル平和賞を受けたICBLとジョディー・ウィリアムさんたちは、IGC/APCネットを通じて国際連係を可能にした。「世界中に散った地雷反対運動の人たちに手紙で連絡するなど不可能です。コストも膨大になります。私たちは、彼女たちと緊密に連係し、電子メールサービス、電子会議、ウェブ・ページなどでの情報提供を可能にしました。」と、最近までIGC事務局長をつとめたマーシ・ロックウッドさんが言う。九七年末のNASA土星探索船カッシーニ・ロケット打ち上げの時もインターネットを利用した活発な組織化が行なわれた。カッシーニはプルトニウム原子力発電機を積み、失敗すれ大気圏内に危険なプルトニウムを撒き散らす可能性があった。「NASAはこの種のロケットは長年打ち上げており安全だと主張しました。それまではよく知られず問題が表面化しなかったのです。しかしこの時は地元フロリダの市民団体がインターネットで情報を広め、全米での活発なデモや抗議活動を促しました。」とロックウッドさん。運動の高まりの中で、本部事務所に居た彼女は、全米からのマスメディア電話取材の対応にてんてこ舞いしたという。

 確かに、インターネットをいろいろ取材して感じることは、市民運動でこそコンピュータ・ネットの効果が劇的に現れる、ということだ。多国籍企業もコンピュータ・ネットを使うが、巨大企業はもともと遠隔通信に不自由していなかった。通信費はふんだんに使え、広告その他でマスコミも大規模動員できる。しかし、それができなかった市民、社会的弱者、市民運動団体は大きな変化を手にする。郵便、電話、ファックスではできなかった安価なグローバル通信活動が可能になる。

夢を追える社会

 「私は非営利のスタートアップ(起業家)でした。」とワイカートさんが笑う。彼はイリノイ大学の博士課程を卒業し、ヒューレット・パッカード研究所に入った技術のエリート。最初は、会社の協力を得て大型コンピュータ端末を夜の間、地域団体に貸すという貢献活動を行なった。やがて研究所を退社。稼ぎを注ぎ込んで自分で中型コンピュータを買い、ガレージでNPO向けコンピュータ支援活動をはじめた(これが前記CDP)。「貯金がなくなる一カ月前に」非営利団体IGCが何とか立ち上がり、そこから彼の給料が出るようになったと言う。

 イリノイ大学からシリコンバレーにやってきた似たような経歴の人にマーク・アンドリーセンがいる。ネットスケープ社の共同創設者として時代の寵児に踊り出た人だ。ワイカートさんもそういう人生があったかも知れない。優れたコンピュータ技術をもつ彼には、ずっと有力コンピュータ企業からの誘いが絶えなかった。「数倍の給料」をとることも可能だ。歴代IGC事務局長がこの引き抜きを心配していたのを私は何度か聞いている。が、ワイカートさんは、ずっとIGC/APCネットにとどまり、彼の夢を追い続けた。

 「私は幸運でした」と非営利起業家のワイカートさんが語る。「適切な時期に適切な場所に居ることができました。シリコンバレーには技術、機器の豊富なリソースが存在し、時期的にもちょうど市民団体がコンピュータで何ができるか模索しはじめた時でした。マネジメント、資金集めなど様々なスキルをもった人と協力しながら、私も技術を提供する役割を果たせました。一人ではできなかった事業を皆で成し遂げることができました。」

 シリコンバレーには今も昔も夢を求める多くの若者が全世界から集まってくる。営利のベンチャーであろうが、非営利起業家であろうが、夢を追う者をこの地は懐深く受け入れる。自分の人生を生き、夢を追える社会から新しい時代は生まれる。
 

出典:
 1 - Foundation Center, *Foundation Growth and Giving Estimates: 1999 Preview*, http://fdncenter.org/about/news/pr_0003b.html
 2 - 助成財団センター『助成財団要覧』一九九九版、http://www.jfc.or.jp/bunseki/genjo.html
 3 - Jack Shafer, "The 1999 Slate 60", http://slate.msn.com/Slate60/00-02-28/Slate60.asp?iEntry=2
 4 - National Venture Capital Association, "Venture Capital Investments for 1999 Reach Record $48.3 Billion, an Incerase of 150% over Prvious Year, According to NVCA and VE," (News Release, February 8, 2000), http://www.nvca.org/newsrelease1700.html
 5 - Tides Foundation, *1994-95 Annual Report*, p.13.
 6 - *Ibid.*, p.14.
 7 - Stephen G. Greene, "The Rise of the Tides Foundation," *The Chronicle of Philanthropy*, July 27, 1995, p.11.
 8 - National Network of Grantmakers, Social Change Grantmaking in the U. S.: The Mid 1990s.
 9 - http://www.netaction.org/
10 - Stephen G. Greene, *op. cit.*, p.11.
11 - 岡部一明「市場社会に生まれたNPO型開発運動 -全米二〇〇〇のCDC(地域開発組合)」『社会運動』一九九五年四月、参照。
12 - http://www.eren.doe.gov/buildings/gbc98/thoreau_center.htm
13 - Department of Energy, "Departments of Energy and Interior Launch Green Energy Parks Program," (Press Release, April 27, 1999), http://home.doe.gov/news/releases99/aprpr/pr99096.htm
14 - 歴史的建造物改修の税制優遇は一九八六年税制改革法で導入。国家史跡録(NRHP)などに登録されている資産価値五〇〇〇ドル以上の建物を改修した場合投資額の二〇パーセントの税額控除がある。PL99-514, *U. S. Code: Title 26 Internal Revenue Code", Section 47.
15 - http://www.igc.apc.org/
16 - http://www.jca.apc.org/
17 - 岡部一明『パソコン市民ネットワーク』技術と人間、第二章
18 - http://www.jca.apc.org/jca-net/news/cop3/index-j.html
19 - 岡部一明『インターネット市民革命』御茶の水書房、一九九六年、終章参照。
20 - http://www.corpwatch.org/。日本語のサイトもある。http://www.corpwatch-jp.org/


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