アフリカの旅(3)
ナイルに沿って:カイロからカルツームへ
岡部一明、1981.3

 1981年3月14日、夜8時半、2等夜行アスワン行き列車はカイロ中央駅を出発した。ナイル川に沿って800キロを南進する(地図参照)。

 窓がしまらない。走りだすと夜風が冷たい。ジャンパーを着込み、寝袋にくるまる。暑いはずのエジプトで寝袋のお世話になる。この旅で私を最も助け暖かい支援を惜しまなかった寝袋さん。アメリカで200ドル出して買ったダウンの寝袋だが、その価値は充分にあった。

 時々、馬に乗っているように、ぱからぱからと列車が大きく弾む。私たちは座席の上でバンプダンスを踊らされる。

  翌日午後3時頃、アスワン着。アスワン・ハイダムのある街だ。私はここで船に乗り、ダム湖(ナセル湖)を溯上する。アスワンはカイロと違ってまさに酷暑 だ。水、さとうきびジュース、ミルクをがぶ飲みして体力消耗。夜少し下痢。気をつけねばならない。これからこの暑さに慣れていかねばならない。

ナセル湖を南下

 翌16日、ハイダムに行き、ナセル湖を溯上する船に乗る。2日かけてスーダンのワディファルファまで行く。エジプトの 出国検査は思いの他簡単にパスした。ポンポン蒸気船のような船が午後4時出発。3等客室は船底だ。ほこりと砂利の床に紙とビニールを敷いて寝る。これから は汚いとか臭いとかはいっさい関係ない。休める時に休んでおく。死なずにナイロビまで着ければよいのだ。

 朝起きると寝袋の上に一面の虫の死骸。ゆうべ船倉の電灯に群がっていたやつらが全部落ちてきたらしい。

 隣のおじさんは朝早くからメッカの方に向かってお祈り。むこうではまったく逆の方向を向いてお祈りしているから、どちらかが方向感をくるわせているのだろう。
  向かいの父親は子どもを抱きしめたりキスしたりめちゃめちゃ可愛がったと思うと、ある時はビシッビシッとひどく打つ。彼らの教育法なのだろう。その隣では 上から落ちてきた「水」に怒り、上の甲板をバンバン叩いて怒鳴っている。どうやら上でだれかが湖めがけて用を足し、それが風に流れて我らが船底に吹き込ん で来たらしい。

 昼、湖を眺めていてムハムード君と知り合う。一人旅を好む私は、人との交わりを避けるところがあるが、なぜか彼には心が 開けた。まじめで率直そうな彼の雰囲気に引かれたのだろう。今、エジプトからかばん類を輸入するビジネスをしているが、学校に戻って勉強したいというスー ダン青年だ。日本の生活、アメリカの生活と話に花が咲き、彼の友だちといっしょに昼食をご馳走になる。

 夕方。何という美しい夕焼け。空も湖水も黄金色に染まり暮れていく。水平線近くに細くうねうねと陸地のシルエットが走る。美しい景色などこれっぽっちも期待していない旅なのに、こうして現れる自然美はすばらしく新鮮だ。

  夜。船の屋根に上る。おー、すると何という幻覚的空間が広がっているのか。半月が中空に輝き、広いナセル湖の全面を浮き立たせる。強い月光にもかかわら ず、何と多くの星々が姿を現しているのか。オリオン座が南天に輝き、船はそれに向かってゆっくり進む。大地のかすかな回転を感じる。シリウスのさらに南に あるカノパスや南十字星も見えてきた。地球に最も近い恒星、アルファケンタウリももうすぐ見えてくるだろう。
 心地よい夜風が全身をなでる。ああ、私は今アフリカ大陸の旅をはじめたのだ・・・という実感がわいてきた。

南スーダン問題

 3月18日、朝食後、ムハムード君や新しく知り合ったオリバー君らと話し込む。
 オリバー君はスーダン南部のジュバから来たそうで、いっそう黒人らしい顔つきをしている。エジプトに大学を探しに行った帰り、ということだ。スーダンには大学が少なく、エジプトに留学する青年がたくさん居るという。
  彼は、スーダンの北部と南部の対立のことを話してくれた。アラブ系イスラムの北部と黒人系キリスト教徒の南部。砂漠の北部とサバンナや湿地帯の南部と、風 土まで違っている。北部人は南部人を差別し、60年代には深刻な内戦(ゲリラ戦)が起こったという。[後注:この頃、内戦は収まっていたが、私の旅の後、 1980年代中ごろには再び南部で内戦が始まり、多くの混乱の後、2011年に「南スーダン共和国」としてスーダンから分離独立した。]
 私はこういうことに無知であったので、少しびっくりした。オリバー君は南部の人間、ムハムード君は北部の人間である。

 午前10時頃、ナセル湖のスーダン側、ワディファルファに着く。湖水に接して砂漠が始まるだけの何もない「港」だ。数時間かかってゆっくり入国手続き、下船。約30分歩いて鉄道の駅に。も のすごい暑さだ。持ってきた水が切れたが、このワディファルファの村の飲料水は、どんより濁った溜め水ばかり。これから先の水分補給が心配だ。


砂漠の汽車の旅

 夕方6時頃、カルツーム行きの列車が発車。砂漠の鉄道ではほこりがすごい。列車が周囲の砂を巻き上げ窓ガラスのない3等車にもろに吹き込んでくる。「ほこりっぽい」などというレベルではない。「け むくて」むせびこむほどの砂塵なのだ。車内も黄色くけむり、最初、列車火災でも起こったかと思った。衣服も髪の毛も鼻も耳も砂だらけになる。翌朝、列車の座席で起きると口の中に砂がつまっていた。口を開けて寝てたらしい。うがいしようにも水がない。

 昼になると暑さがすごい。大量に砂を含んでも外からの風がないと耐えられない。不思議だ。こんなむせび込む砂ぼこりの中で、平気で息をして座っていられるようになった。まさか息を止めるわけにはいかないので、そうする以外ないのだが。

 砂と熱さに耐えながら皆でトランプをやり続ける。ブリッジだったか、おなじのを何度も何度も続ける。それくらいしかやることがないし、まあ、トランプでもやっていればそれだけ長く耐えられるような気がしている。

 白人旅行者たちはいずれもアスワンで合流した人たちらしく、オランダ人2人、オーストラリア人、フランス人、アメリカ人、イギリス人それぞれ1人と多彩だ。それに「コリアン」(私のこと)を加えて「国連の会議みたいだ」と、輪に加わったスーダン人がはしゃいでいた。

首都カルツーム

 ワディファルファを出て1日半、3月20日の朝、スーダンの首都カルツームに着いた。他の「外人組」について行って「ロイヤルホテル」という安宿に泊まる。ベッドが大部屋にたくさんおいてあるだけ。満員で庭にもベッドがおいてある。少しは 涼しそうな屋内のベッドを選び(実はこの方が暑かった)、暑苦しいマットレスを剥ぎ、スプリングの上に直に寝る。そのままぐっすり寝てしまった。

 翌日から再び朝のジョッギング。ワディファルファからの汽車の旅で、身体が熱帯の旅に全然慣れていないことがわかった。ここで少し体を慣らさなければならない。気温が40度を超える午後の数時間は、宿の旅行者たちも皆ぐったりとベッドに横たわる以 外ない。夕立も来ず、街路はからからに乾いている。水道水も熱湯のようだ。洗濯をすればだいたいのものが1時間でかわく。私はこの灼熱の中で敢えてジョッ ギングして体を鍛える訓練をした。

 
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