南スーダン:奴隷船の記憶

岡部一明、1981.4

人生で最も苦しかった旅

 カルツームからの4日4晩の「殺人的」な汽車の旅を ワウで終えたところだったが、その後の旅に比べればそれは「殺人的」でも何でもなかった。とにかく鉄道が通っているというのは、アフリカでは例外的な先進 地なのだ。週1回便でも、どんなに遅くても、屋根まで人の載る満載列車でも。南スーダンのワウ以降、ナイロビまでは、すべて荒野を貨物トラックに乗って進 む旅だった。
 

 ワウでのトラック待ちの初日、実は2台来たのだが、1台目はなぜか素通りし、2台目は、一旦乗ったものの一度全員を下ろし、突然遠くに走り去って、追いかけて来れる者だけを 乗せる、という荒っぽい乗客選別をやった。乗る乗客が多すぎたらしい。だから2日目にありつけたトラックに皆、必死で食い下がった。橋のたもとで数日間待っていた乗客も乗り、たちまちトラックは黒山の人だかりになった。腰を下ろす隙間もない。現地の人たちが持ち込んだ荷物、というより貨物が所狭しと詰め込まれる。


 「ああ、やっと出発だ」といううれしさに浸る・・・・ところではなかった。この恐ろしい混み具合。後で数えてみたら約80人乗っている。中型のトラックで、荷台に70人超。トラックの後にぶら下がる数人、運転席に入り込んだ5,6人を含めて80人を越す。 荷物のように詰め込まれ、身動きが取れない。それでなくとも暑いのに人いきれで汗だくになる。露天の荷台なのに風が入って来ない。風呂に入っていない現地 の人たちの体臭にもろにさらされる。最もつらいのが、車が揺れるたびに体が激しく揺り動かされ、トラック外枠の鉄格子などに押しつけられることだ。痛い。 無理な体位を強いられることによる筋肉の痛みも加わる。

 「快適な旅ではない」というレベルではない。常時痛くて苦しく、拷問を受けているようだ。「もういい、早く止まってくれ、止まってくれ」と乞い続ける。思えばあれが人生で最も苦しい旅であった。あの旅を考えればどんな旅も耐えられる。

 「奴隷船」のことが頭をかすめた。アフリカから北米に黒人を運んだ17、8世紀の船を奴隷船という。狭い船室に詰め込まれ、大西洋を渡り切るうちに2割が死んだという。奴隷船がアフリカには今もあるのか、と思う。
 そしてリンチで肉体的な責苦を受けた人たちのこと。最近もテロリストに誘拐され、リンチで殺されたイタリア政府役人がいた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカでは3000人にのぼる黒人がリンチを受け殺された。

  アフリカの人たちは、この殺人的な混雑の中に何たる「荷物」を持ち込んで来るのか。先のとがった投げ槍とか、青龍刀のような巨大な刀などを抱えている。私 の押し込まれた空間の近くには、ドラム缶を半分に切断したものが置いてあり、切れ目をむいている。空き缶もこの辺では重要な資産なのだ。揺れでだれかの荷 物の上に寄りかかりそうになると怒られる。中をのぞくと空き缶が入っているだけだ。空き缶をつぶされては困るのだろう。

 「押すな」「寄 りかかるな」というケンカがあちこちで起こる。しょうがないだろうに。険悪な空気の中で私はひたすら耐える。揺れやまわりの人の姿勢の変化などで、少しず つ私の体位(「姿勢」でなくて「体位」だ)も変わってくる。そのわずかな体位変化が救いであり、苦痛を和らげてくれる。

 次第に私は、足 をかがめ、頭を手で抱えて皆の足下に潜り込むのが一番楽だということに気づいていった。アフリカ人たちの長い足ではこんな胎児の姿勢をとるのは難しいだろ うが、短足(くそ!)の私にはそれも悪くない。人間の体は上体より下半身の方がかさばらないから空間が若干広い。

 時々、黒い足の隙間や鉄格子の間から、外の緑深いサバンナの光景が望めた。外はあんなに美しいのか。トラックの通ったすぐ後をサルの親子が慌てて駆け抜ける姿も目に入った。

大地の

大地の上に寝る

 日暮れにトンジの村に着く。オースチンのぼろトラックはライトがつかず、夜は進めないという。熱帯の夕日はすぐ落ちる。電気のないこの村ではもう寝るしかない。空には満天の星。大切にしてきた200ドルのダウン寝袋も地面にじかにしいている。バスや汽車の中で寝るのさえ苦手だった私が、自然の用意してくれた大地 の上で寝る。贅沢は言えない。とにかく寝れる時に寝る、という状況だし、微動だにしない大地はあの激しく揺れるトラックに比べてなんと安楽な場所か。足を 思い切り伸ばせる。

 大地の上で用便も足せるようになったし、こうして少しずつ「文明」で身につけられたひ弱さを脱していくのはうれしい。こういう成長がアフリカの旅での喜びだ、と誰かの旅行記に書かれていた。

水をめぐるたたかい

 アフリカの旅では、言うまでもなく水が生命線だ。私はカルツームで使い古し の灯油ポリタン(4リットル入り)を買い、洗って飲料水入れにしていた。石油の臭いが残るが、旅途上できたない水を拾い飲みするよりはましだ。ワウの濁っ た水道水に、もらった浄水剤を入れてもってきた。節約して飲んでいけばジュバまで持つだろう、と思われた。

 ところが、この大切な水をト ラックに乗り込んだ現地住民たちが次々に飲んでしまう。

 いろんな荷物を山ほど持ってくるというのに、水を持って来ない、というのが信じられない。 脱水症的になる人もおり、俺の水を飲むなとも言えない。特に私のような北の国から来た人間は、その辺の濁った水を飲むと病気になるので、このポリタンの水 は特別な水なのだ。それを説明しても通じない。あきらめる他ない。出発して1日もたたないうちにポリタンの飲み干されてしまった。


 トラックが村に着くと、私は水探しだ。私のポリタンの水がなくなったのにいち早く現地人が気がついて、「おい、水を入れてきたらどうだ」とそのポリタンを差し出す。くそっ、水を飲む時は共同のポリタンで、水を汲んでくる時は俺のポリタンか!

 もう自分のための水ではないと思いつつ、これも現地人へのサービスか、と思い直して水を探す。

ヨーチンをたらして飲む

 浄水剤はないが、ふと、カルツームまでいっしょだったアメリカ人が浄水剤はヨードチンキでもいいんだ、と言っていたのを思い出した。そうだ、ヨーチンなら私も持っている!

  新しく汲んだ水にヨーチンをたらす。いったいどんな味がするのだろう、と恐る恐る飲むと、ツーンと消毒液の臭い。そう、これは昔、歯医者で口をすすぐ時に 出された水の味だ。アフリカの辺境で突如あらわれた「文明の味」。文明の害毒に染まりきっている私は、この異様な消毒臭があらゆる汚物を浄化する万能の力 をもっているように感じた。躊躇があっという間に消え、私はそのポリタンの水をがぶ飲みする。

 トラックでは、現地人がふとどきにも私が水を持ってくるのを待って、じっと休んでいる。トラックでは、現地人がふとどきにも私が水を持ってくるのを待って、じっと休んでいる。
「ほれ、飲め。」
ぐぐーと飲みはじめると、とたんにゲーと吐き出してしまった。消毒液の異臭にびっくりしたらしい。


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