日本の喫煙事情

(2001年3月)


食事空間で臭いもの

 晴天の霹靂・ブッシュ政権が誕生してしまい、亡命準備のため、日本という国に来ている。森政権というすばらしい体制が待っていると友人に言われているが、本当か。

 久しぶりの日本という国の印象はどうか、と聞かれて答えは、
 「野蛮な国である」。

 密封された空間で突然、野グソをたれる輩がいる。しかも、一人や二人ではない。室内には耐え切れない悪臭が充満するが、この国の人間はまったく意にかえす様子がない。

 ただの悪臭ではない。毒性が明らかに証明されているガスだ。毎年、年間何百万、何千万という尊い生命を奪う排気ガス。臭うだけでなく、紫色の煙をただよわせ、室内に充満する。この臭いをかぎながら、この国の人々は食事さえする。許せないのは子どもの入るゲームセンターまで、この毒ガスが充満していることだ。

知の先端・図書館でも

 県立中央図書館に入り、いきなりタバコの臭いがしてきて愕然とした。天井が高い吹き流しの立派な図書館には、一階ロビーの半分が喫煙コーナーになっていて、その煙が館全体に拡散している。1階で吸えば建物構造上そうなるのは当然だ。すぐ隣には児童図書室があってお母さんや子ども出入りしている。何よりもその毒ガス発生源の大人たちが見晴らしのよいロビー内で最高の場所を与えられ、そこだけにあるソファーにゆったりと座っているのが許せない。しかもここは図書館だ。中部地方の知の先端たるところに人が々わざわざ命を縮めさせに来る。

 ついに私は堪忍袋の緒が切れた。2階の踊り場からロビー全体に向かって「喫煙は殺人だ!」「タバコを止めろ!」と大声で叫ぼうとする衝動をかろうじて押さえた。(つまり堪忍袋の緒は完全には切れなかった。)

 代わりに近くにいた一番責任ありそうな館員のところに行って抗議。確かにタバコの煙の苦情は多いという。今年中には1階端の喫茶コーナーだけに喫煙範囲を狭める予定という。「実は私もタバコを吸う方でして」とその館員は正直に白状した。

 ついでに意見箱に心を込めた投書を投函した。しかし、ワープロを使い慣れた私は筆記がうまくいかず誤字修正ばかりの文面になってしまい、信用性を低めたかも知れない。

 日本でタバコ吸引が広く容認されている風習であることはわかる。しかし、図書館はそれに迎合すべきか。駅ビルだって全館禁煙になっている。それが無理ならせめて完全密封のガス室をつくり、そこでだけの喫煙を認める。そこタバコの害を解説する展示や書籍をおき、タバコの止め方のトレーニングをする団体の紹介などをする。そこまでやって本来の図書館だ。

 野グソは野蛮ではない。栄養を大地に返し物質の循環を継続させるエコロジカルな行為だ。私の尊敬するS教授によれば、排泄欲は食欲、性欲にも増して人間の最も強い欲求であるという(なぜなら、それは待てない)。日常化しているのであまり感じないが、それは快感でさあるだろう。

タバコと麻薬

 やはりこういうことにいちいち腹を立てていると、やはり私は日本に「適応」できないのかもしれない。が、適応しなければ亡命できない。

 初めて「麻薬」というものを知ったのは、高校の世界史の教科書だった。中国のアヘン戦争(1840〜1842年)の項、イギリスが意図的に持ち込んだアヘンを吸引する陰惨な中国人たちの様子が描かれていた。麻薬は恐ろしいもの、凄惨なものというイメージが頭の中に染み付いた。

 あの絵には、薬物依存症の人々への差別的な見方が含まれていたと思う。しかし、だからと言って、薬物依存症を美化する必要はないし、これをクールでかっこいい風習だとほめたたえる必要はまったくない。

喫煙のイメージ

 日本という国でタバコ吸引の風習は、そのようにほめたたえられている。サンフランシスコで、日本から配信されてくるTVドラマを子どもたちと見ている時、いつも気になったのはドラマの中にたばこを吐く場面が非常に多いことだ。しかも、それが陰惨な風習として描かれるのではなくて、かっこいい主人公の、まさに決定的キメ場の場面で導入されるのだ。

 「僕らの関係は終わったんだ・・・」などと女性に背を向けながら、かっこいい主人公がのたまう時、彼はほぼ例外なく空に向かってタバコの煙を吐き出している。

 アメリカでは映画やTVドラマに排煙の場面が出てくることはめっきり少なくなった。出てきても、落着かない人物の状態を示すネガティブな形で描かれている。

 サンフランシスコの中心街を歩くと、よく、道の一角でかっこよさそうに排煙しているアジア系の若者に出会う。日本からの観光旅行者とすぐわかる。アメリカでタバコは隅に隠れてこそこそ吐くものに変わりつつある。日本ではそうではないのだろう。

 タバコ吸引を欲求としてもって生まれてくる人はいない。それは社会的につくられるものだ。

人類が澄んだ空気を手に入れるまで

 かつて南スーダンを旅した時のことを思い出した。乾季のサバンナ地域は水が不足しており、透明な水に出会うことがなかった。川は枯れ、村に着くと人々はドラムカンに溜めた泥水(としか思えないような水)を群がって飲んでいた。私のような異国からの旅行者たちはろ過器や飲料用消毒剤をもってきていて対応していた。何の予備知識もなくその用意がない私は、ヨーチンをたらしながら、恐る恐るその泥水を飲んでいた。

 サバンナ都市の街に来て、水道があるのを見て歓喜したが、出てきたのはやはり濁った水だった。さらに何日もして南スーダンの主要都市ジュバに着き、そこで初めて透明な水が蛇口から出て、泣けるほどうれしかった。「透明な水」に到達するまで文明にはどれほどの段階があったのか思い知らされた。

 ちなみにこのジュバには、これほどの内陸にも関わらず、満々と水をたたえたナイルが岸辺を震わせて流れていた。

 清浄な水を得るためと同様、清浄な空気を得るため、人類にはどれほどの文明の進歩が必要だったのか。煙に取り巻かれた日本の都市文明の中をさまよいながら思う。

私も吸っていた、息子の反応は

 実は私も日本の学生時代、1年くらいタバコを吸引していたことがある。吸いたかったわけではない。結局タバコがうまいと思ったことはなく、だから1年で止めた。

 なぜ、吸引したのか。20歳になって「大人」の風習をやってみたかった。そうはっきりとは思ってはいなかった。しかし、まわりもやっているし、好奇心もあるし、どんなものかやってみたかった。そんなところだったろう。吸引を容認する社会の全般的風潮にごく普通に飲まれてはじめていたのだろう。「タバコを吸いたい」という欲求をもって生まれてくる人間はいない。

 学生時代、タバコを吸っていたことがある。小学生の息子たちにそうもらした時、彼らの反応には驚くべきものがあった。「エー!」と絶句して、まるでアヘン吸引者を見るような目つきで、違法薬物常習犯を見るかのようなおびえた顔で私を見るのだ。アメリカの青少年向け嫌煙教育の成果であるが、おいおい、あのなあ、タバコっていうのはそれほどまでの悪習ではなのだよ、と言いはじめて、愕然とした。おいおい、私こそ何を言い出すのだ。そうだ、タバコこそ麻薬じゃないか。子どもたちの世代が獲得した「文明の進歩」を私は無にしようとするのか。

レストランの中も外も禁煙

 カリフォルニアでは州法により1998年から、一般の人が出入りする建物内はすべて禁煙になった(公共建築はもちろん、レストラン、バー、喫茶店も)。自治体によっては上乗せでさらに厳しい条例を導入するところもあり、例えば、シリコンバレーのパロアルト市(サンフランシスコ近郊)では1995年9月に、禁煙を建物外に広げる条例を可決した。

 レストランなど不特定多数に利用される建物の外20フィート(約6メートル)以内での喫煙を全面禁止する条例。市議会で満場一致で可決し、同年10月27日から施行された。商店、ホテル、企業ビルなど、個人の住宅以外ほとんどすべての建物が対象となり、公園の遊具やベンチ、屋外スタジアムの観客席やバックネットから6メートル以内も禁煙。違反者は初回で100ドル、2回目200ドル、3回目から500ドルの罰金が課される。

 アメリカでは、禁煙法のため、レストランなどに入ってもタバコの煙はまったくないが、食事が終わって外に出ると、ツンとくる煙が鼻につく。中で喫煙をこらえていた人たちが出口でいっせいにタバコを吹うからだ。その喫煙も禁じよう、ということでこうした条例が出てきた。ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコなど大都市を含め全米700以上の自治体が何らかの形で上乗せ禁煙条例を導入している。


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