アフリカの旅(9)
ナイロビへの道
岡部一明、1981.4

「ディアハンター」と「アラビアのロレンス」

 アフリカの地で、いつ来るかわからないトラック便を待つ時など、浮かんでくる映画の場面があった。

 ベトナム戦争を描いたアメリカの名画「ディアハンター」。過酷な前線から帰ってきた男がサイゴンの野戦病院の中で、庭を見つめ放心している。軍医が「ど この出身かね。名前からするとロシア系(アメリカ人)らしいが。」などと話しかける。すると男は、おそらく平和な彼の(アパラチア山系の)コミュニティー の生活を思い出したのだろう、何も答えず、はらはらと涙をこぼす。それが、彼が気がふれていく最初の場面だった。彼はその後、前線の捕虜であれほど恐怖を 体験したラッシャン・ルーレットの賭け事に自ら入っていってしまう。

 あの映画はいくらでも批判できる。「アメリカがベトナムで果たした役割への批判の目がない」「ベトナムは怖いところ、平和に暮らしていた我々がそこに送 り込まれた、という視点しかない」などと。しかし、それにもかかわらず私はあの映画に深く共感する。あれは何よりも、ベトナム戦争で体験してしまった取り 返しのつかない恐怖というものを、私たちにはっきり伝えている。

 あるいは「アラビアのロレンス」。アラブを愛し、解放の旗手にまで身を賭したロレンス。しかし、映画は彼の屈折した内面を容赦なくあばく。彼はアラブを 愛しつつ、その過酷な生活に耐えられない。部族間の対立・襲撃、略奪を内部にはらみながらの解放闘争。解放したダマスカスの病院に水さえ供給できない状況 の悲惨さに、訪れた英国人から罵倒され、殴り倒され、アラブ姿をしたロレンスは笑いこける。英雄としてイギリスに帰る彼は、実はアラビアで深く挫折してい る。精神に癒すことのできない病いさえ得て。それでも、敗走していく彼をとらえるのは、なお、広大な砂漠とその民たちへの飽くことのない思いである。

タラク川で足止め

 ジュバを出発して3日目、トラックは、タラク川(ケニア・トルカナ地方、地図参照)で立ち往生した。こ の辺の半砂漠地帯には、ふだんは川はない。雨季がはじまると川があらわれる。今は雨季の初め。しかしここ数日雨が降ってないので川は「ぬかるみ」といった 程度の状態だ。橋らしい橋はなく、トラックは河床に突っ込んではエンジンを全開させてはい上がることを繰り返していた。しかし、タラク川はやや大きく、水 も若干流れている。ほんのちょろちょろ程度だが、川底を軟弱にするには充分だ。向こう側からきた大型トラックが車輪を取られ登れなくなっている。橋はない が川底を強化した「渡り筋」はあって、そこではまってしまったので、他の車が通ることができない。

 私たちも降りて行って皆で押した。私たちのトラックがロープで引いたりもした。が、どうにも動かない。かえってこちらのトラックのエンジンがおかしくなりはじめた。ということで、この川岸のタラク村で野宿することに。飢餓地帯の村。地面におちた残飯をついばむ住民の群れを目撃したのもここだ(「トルカナ:飢餓地帯を行く」参照)。

 幸いトラックは夕刻までには川を越したようだ。私たちはまだ幸運な方で、ジュバで会ったシアトルの男は、ナイロビからジュバまで15日かかったと言っていた。特にこのタラク川では5日間待たされたという。


ロドワーでも足止め

 翌4月9日早朝、タラク村発。この分ならきょう中にロドワーを越え、キタレに着く。そこから夜行のナイロビ生きバスがあるから、あすの朝にはナイロビに……などと考えなければよいのに考えてしまう。実際ナイロビに着いたのはそれから3日後だった。

 まず、ロドワーに入るところで長々と検問。武器取り締まりの他、この地方には金が出るためその密輸もチェックしているという。昼前には街に入ったが、ここではトラックの修理をする。一応小さな鉄工所(鍛冶屋)があるので、ラジエーターを徹底的に直すという。乗客はとりあえずはメシだ。さすがにここまで来れば一応食堂らしい店がある。乗務員たちのなじみの店らしく、休憩がわりに何時間も居候しながら、美食をしている。私もかたい肉の入ったシチューとイガリと生ねぎの料理にむさぼりつく。久しぶりに食事らしい食事をした。

 が、見ると食堂の外では、食えない人々がたむろし、ガラス越しにじいっとこちらを見ている。食べるのが罪悪感になる地域に、私たちはまだ居る……。

 結局ラジエーターは直らず、その日はロドアー泊まりになった。
 くやしいー! しかし、とにかくまあビールでも飲もう、と夜私たちは野外バーに出向く。気持よ く酔っていると、オランダから来たばかりだという青年に話しかけられた。農学専攻の研究生で、これからここの「リハビリテーション・センター」でボラン ティアを始めるという。そういえばきょう、街で、「ヨーロッパ共同体からトルカナ・リハビリテーション・センターへの贈り物」とペンキで書いてあるランド ロバ―(ジープ)が走りまわっていた。

 「何だね、そのリハビリテーション・センターというのは。」と彼に聞いてみる。「このトルカナ地方は、アフリカで最も飢餓の深刻な所のひとつで、それに 救援の手を差し伸べる国際的なボランティア機関だ。例えばぼくはこれからこの辺の人々に農業を教えるプロジェクトに加わる。」

 まだこのロッドワーに着いたばかりで右往左往、友だちも居ないので私たちに話しかけてきた、というところらしい。話の終わりになって、やはり同センターで活動しているというアメリカ人カップルも来た。

 「異なる風土・文化に先進国の人間が農業を教えに行ってもうまくいかない」「助けてあげるという優越意識がある」などという国際援助批判を聞いたことも あるが、私にはそんなことは言えない。飢餓で倒れそうになっている人たちを見るのを恐れ、「早く罪悪感を感じずメシの食えるところへ行きたい」とひたすら 逃げ出そうとしているのが私だ。ここに踏みとどまりとにかく何かやろうとしている人を尊敬する。

乗組員たちの苦闘

 4月10日、「いすゞ」はついに修理不能のでくのぼうになり、メルデスの引くトレーラーに載っけることになる。町外れの広い場所に移動させ、作業開始。 大仕事である。私たちは木陰で見てるだけだが、乗組員たちはきのうから汗だくの奮闘だ。太陽が高くなり出発は刻々と延びる。乗客(10人程度になってい る)は口々にぼやく。「本当は今頃はナイロビに着いている頃なのに。」

 ナイロビへの道は果てしなく続く。赤茶けた岩肌をむく丘陵地帯を行くと思えば、広大な草原地帯も。背丈より高い葦のような草原だ。かなたに名も知らぬ山々が峰を連ねる。草原がその麓まで続き、青くかすむ山々に続いている。集落はほとんど見ない。

 山の中のカプチルという小集落で、日が暮れ、そこで泊り。いつになったらナイロビに着くのだ、とむかっ腹も立てたが、乗組員たちだって早くモンバサに帰りたいのだ。何日も かかって悪路を運転しトヨタをジュバに送り届け、その帰りがこの消耗の旅なのだ。彼らのうちの一人はマラリアにかかり汗びっしょりになって荷台に寝たまま だ。親しくなったルダイングという青年もちょっとマラリア気味だという。「みんなジュバでかかったんだぜ。あんな不潔なところはこの世にねえぜ。」とこき 下ろす。

 かなり高度が上がってきたのだろう。この辺は涼しいというより、夜になると寒いくらいだ。おまけに猛烈なスコールが降ってきた。食堂の軒下に寝たが、水 しぶきがはねて寝袋がぐっしょりになる。これまでの土地とはかなり違う気候だ。「高原の避暑都市ナイロビ」が近づいているのだろう。

絶対絶命か

 4月11日、朝になるとまわりの山が霧の中から顔を出す。すがすがしい山の朝だ。湿気を帯びた日本の夏山を思わせる。「きょうこそナイロビへ」の願いを込めてカプチル発。

 昨夜の雨で道が緩んでいる。加えてかなりの山道だ。すぐに、どろんこの坂でタイヤが空回りして進まなくなる。皆でトラックを押す。 近くの河原から石を運んできたり、木の枝を折ったりして後輪の下に入れる。足場を強くするのだ。エンジンをかける。タイヤが石に切り裂かれ、煙を出して空 転する。次に、トラックをバックさせ、足場のいい所から弾みをつけてダッシュする。これを何度も繰り返して脱出。


 難所を何度も突破して、ついに昼頃、ある登りの山道で、どうにもこうにも動かなくなった。「石運び・道直し・エンジン全開・皆で押す」を繰り返すが、車輪はゴムを焦がして空転するだけ。前方が急カーブで、対向車にロープで引っ張ってもらう作戦も難しい。疲れて腰の上らない人が増えてきた。私も朝からこの難所越え作業に真面目に協力してきたから、へとへとだ。トラックがエンジンをかけるたびに「押せ、押せ!」の怒号が聞こえ、私たちは重い腰を上げる。つらい。苦役労働に駆り出される思いだ。

 1時間半ほど作業を続けたがだめ。屈強の乗組員たちもあきらめて昼飯の支度をはじめる。他の乗客たちも道端でうなだれる。この辺は日本の山道とさほど変わらぬ風景だが、緑をよく見ると木の種類が違う。どろんこの道を射る陽光も強烈だ。木陰に座り、頭を膝の間につっこむと睡魔が襲ってきた。

ヒューマン・パワー

 30分くらいそうしていたろうか。突然下の方からランドローバーが走ってきた。これまでの車は皆、道路を降りトラックを迂回して去るだけだったが、このランドローバーの女性ドライバーは、引っ張ってやるからがんばれ、と言う。前はすぐカーブだが、小型車なら入って引っ張る余地もありそうだ。料理中の男たちもトラックに引き返す。小さなランドローバーからロープが張られ、「いすゞ」を載せたトレーラートラックを引っ張り始める。私たちも渾身の力を込めて押す。

 「そうれ、そうれ」という(?)掛け声が次第に大きくなる。車が少しずつ動いている! その時、私たちに瞬間的な力がみなぎった。掛け声が「わー」という歓声になってトラックが泥から脱出する。前途の闇を自らの手で切り開くかのように、勢いをつけたトラックをさらに数十メートル押していく。皆興奮し歓声をあげて腕を空にかざす。手を握り合う。
 現地人のおじさんが鼻息荒く私に言う。「どうだ、見たか。ヒューマンパワーだ。マシンがだめならヒューマンパワーで行くんだ。これがアフリカのやり方だ。」

 確かに、あの小さなランドローバーの馬力が決定的だったとは思えない。少し休息した人々が、ランドローバーの加勢で活力を得、呼吸のあった瞬発力で仕事を成し遂げたように思えた。

フィニッシュ

 料理を途中で止め、すぐ出発。空模様が怪しくなっていたからすぐ進んだ方がいい。雨が降ればさらにぬかるみになる。予想通り強い夕立がやってきた。あぶなかった。あの立ち往生の最中にこの雨が降って来ていたらどうなっていたろう。

 荷台の日陰カバーで雨を避けていると、急にトラックが揺れなくなり、進行がスムーズになった。
 「フィニッシュだ」と乗組員の一人が私の方を向いて言う。
 最初は何のことかわからなかったが、彼の安堵した笑顔を見て、その意味を理解した。これで悪路は終わった、ということだ。トラックは明らかに平らなアスファルトの上を走っている。あの最悪の立ち往生は、悪路が終わるほんの数キロ手前だったのだ。

 カバーの外はものすごいどしゃ降りになった。ああよかった、という思いが腹の底からこみあげる。乗務員の中には2人のマラリア患者が出て、荷台の暗い覆いの中でぐったりと横たわっている。一人は一番屈強にみえた男だった。彼らでさえマラリアになるのに、よく私がならなかったものだ。下痢さえせず、今こうして「安全圏」にたどり着くことができた。信じられない。

 主要地方都市のキタレに着き、次の街エルドレットで通常のバス便に乗り換える。トヨタ運び屋の乗組員たちも全員降り、バスでモンバサに向かう。苦しい旅を共にした者同士、別れの夕食をとる。家族の所に帰れる、と彼らもうれしそうだった。

 ナイロビ行きのバスは雨もりがして冷たい思いをしたが、これまでのトラック便とはまったく違う。一定したエンジンの音をたて暗闇を疾走する。スピードを出しても揺れない。大きな振幅に慣れきった体には不思議な感覚だ。

 4月12日午前5時、ナイロビ着。ちょうど私の誕生日だ。人生で最も劇的な誕生日だったろう。ようやく明るくなりはじめた時間帯。バスを降りると、昼間の活況を思わせる市場や屋台群が霧の中から現われる。街の方には林立する高層ビル。宿探しがはじまり、また街での暮らしが始まる。

 


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