宗教とカルトを区別するもの

相手を自由にするため自由なシステムを構築。自己のみ最大限自由を行使するのは王のみ。

サリンをまいたり詐欺商法をしたり、要するに行動で法律上の一線を越えるとその宗教団体はカルトになるのか。そうではないだろう。その内面にカルトの原理が存在しているはずだ。何千万円の寄付から不適切となり、強制と自発のどの段階の組み合わせから悪徳宗教になるのか。そんな基準ではカルトを明確に区別できないだろう。

私は何の宗教も奉じていないが、宗教者から教えられるところが大きかった。森孝一「『原理主義』について考える」(2009年)は、信仰についてのみならず、宗教を越えた社会の仕組みについてまで深い洞察を与える。森は原理主義(ファンダメンタリズム)について考察しているのだが、これはカルトと言い換えてもよいと思われる。

冷戦崩壊以降、簡単に依拠できる価値観・世界観が失われ、各地で、諸文化・宗教で、宗教復興、特に原理主義的宗教が台頭してきた。原理主義の特徴の一つに単純な思考をしてしまうことがある。「私は真理を得ている、この真理を他の人に伝える、もしその人がこの真理を受け入れないなら、この人を排除して構わないという結論に至る。これが原理主義に共通する一つの特徴ではないかと思います」と森は言う。

これはごく一般的な認識だ。しかし、それをキリスト者としてどう克服していくかの課題を語り出す時、彼の思考は深みを増す。単に外部を批判するのでなく、自分の内部にも同じような思考回路はないか、自省的に迫ることを求める。つまり、「原理主義的宗教が自分の宗教以外のどこかにあるということではありません。それにどう対応したらよいのかという話をしているのではないのです。自らのなかにある、自らの宗教のなかにある原理主義というものを、どのように克服していったらよいのかということを考えなければいけないということについてお話ししているのです」と言う。

「私たちは神を知りたいと思う、真理を知りたいと思う、そのために一生懸命努力をする。そしてある時、「得た」と思うことがあるかもしれない。しかし私たちが得た確信というものは、永遠なる神からすれば、ひょっとすると、それは間違っているのかもわからない。こういうある種の謙虚さ、これがリベラリズムの特徴なのではないだろうか。本当の宗教的リベラリズムというのは、今申しあげたような、私たちが確信したと思っている真理も、永遠なる神から見るならば、それは過ちがあるかもしれない、というふうに自らを批判していく態度ではないかと思います。」

永遠の神というものを信じる。それは私たちの世界を成り立たせている広大無辺な真理だ。しかし、それを明らかにしたとする宗教は人間がつくったものであり、完全でないかも知れない。その謙虚さをもつ。そして、違う考えや解釈もあるかも知れないとする寛容性を保持する。それが宗教的実践には重要だと森は強調している。そしてそれこそカルトから区別される宗教の在り方だとする。

イスラム教のモスクには偶像がない。仏像も十字架のキリストもマリア像もなく、何もない祈りの空間に明るい陽光に満ちるだけだ。偶像まみれのキリスト教会、仏教寺院、ヒンズー寺院などに比べるとイスラム教は徹底した合理性・近代性を備える。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとってともに重要経典の一部である「出エジプト記」20章に、「刻んだ像を造ってはならない」とあり、偶像禁止はこれら一神教共通の基底概念だ。森はこの「偶像」を広い立場から受け止める。「我々は偶像礼拝というと、像とか絵画とかモノが偶像と考えてしまいますけれど、こういうふうに考えたらどうでしょうか。人間がつくったものを絶対としてはいけない、と。宗教は人間がつくったものです。ですから、宗教を絶対としてはいけない。絶対なるものは神しかない。だから、宗教は絶対ではない。組織としての宗教、教えとしての宗教、テキストとしての宗教、それは絶対ではないのだ。絶対なるものは神以外にはないのだ。これが一神教の基本なのです」。森は、偶像禁止のこの神学的理解から、カルト的独善を阻止する論理を紡ぎ出した。

キリスト者の立場から、彼は「宣教」ということについても考察している。「自分たちは真理を知っている。この真理を相手に伝える。伝えるということは、相手を自分たちと同じ型に入れるということ」になる原理主義の思考パターンを確認し、「これは同化という言葉になります」と言う。そしてその考察を自分の側にも向ける。

「キリスト教における伝道についても同じことがいえるのではないでしょうか。今までのキリスト教における伝道というのは同化ではなかったか。相手を自分たちと同じ形に変えていく。これを克服していく一つの重要なポイントは宣教概念、伝道概念を我々が新しくとらえ直していくことです。同化ではない宣教論とはどういうものなのか。これについて考えていくことが非常に重要な課題ではないかと思います。」

カルトとは何か変わった考えをもつ集団のことをいうのでなく、自らの正しさを疑わずそれを相手に強制する傲慢さをもつ集団を指す。そう原理的にとらえかえすことで、森はキリスト教内部にも課題があることを示す。そしてその姿勢から、実はキリスト教以外の思潮、イデオロギー、考え方にも同じような欠陥とその克服への課題があることを示唆する、と私は受け取める。深くは進まないが、民族主義からファシズム、共産主義に至るまで、少なくとも20世紀はそうしたカルトが跋扈した世紀であったことをここでは想起したい。

相手を同化するのではなく、異なることと多様性を認め、互いの自由が最大限尊重されることを求める。そうした人と人との関係、そしてそれが保証される社会構造を求める。カルトの克服は、実は、私たちが求める社会像の根幹に重要な原理を提供している。

自分が、自分だけが思い切り自由になる社会ではなく、相手が異なるものとして尊重され自由になる。そのためにこそ自由な社会システムを求め、結局そこで自分も自由になる。リベラリズムの原点はそこにあった。カルト世界と対極にある社会原理を構築していく課題がそこから生まれる。