ブダペストからキシナウ(モルドバ)へ

ドナウ川の流れるブダペストの街。

金欠病

バルカンの南から、クロアチア、ハンガリーと上ってきて、ポーランドまで行こうとしていたのだが、カネが続かない。すでにクロアチアのドゥブロブニクやスプリトで高物価にネを上げていたのだが、期待していたハンガリーのブダペストも決して安くはなく、ポーランドの宿も調べると最低でも個室1泊6000円程度はする。こりゃ限界だ。どこか例外的に安いところを探すか、さもなければ旅を止めなければならない。

ハンガリーのブダペストは素晴らしいところだ。ドナウ川が流れ、歴史的建造物が立ち、中欧の落ち着いた街のたたずまいがある。しかし、宿が、一人でも最低6000円、2人だと8000円する。通常、ヨーロッパ(たぶん西欧のことだろう)を旅した人は、このブダペストあたりまで来て物価が安い!と感動して長居するらしいが、逆から来た私は高くてネをあげる。

4年前にバルト3国からポーランドを通ってバルカンを南下しているのだが、あの時は晩秋で、宿代もさほど高いとは思わなかった。しかし今は初夏の6月。値段があがっている。

モルドバが安そうだ

必死で宿予約サイトを調べて、どうもモルドバあたりに安いのがありそうだ、ということがわかった。全般的に高いのは同じだが、中にちらほら格安宿(2000円程度)も目にとまる。本当にあるか、どんな宿か。それにモルドバは、ウクライナの隣で、東端のドニエストル川左岸(トランスニストリア地域)にはロシア軍が駐留している。ウクライナ侵略の次はモルドバだと言われていて必ずしも安全ではない。私は行くのを控えていた。しかし先立つものはナニ。背に腹は代えられなくなり、思い切って行くことにした。

日本の外務省の「危険情報」によると、モルドバは、東端トランスニストリア地域がレベル3の「渡航中止勧告」、首都キシナウを含めそれ以外がレベル1の「十分注意」だ(アジアで言うと、インド、インドネシア、フィリピン、カンボジアなどと同じ)。モルドバにはウクライナからの難民も多い。しかし、宿が混みあっているわけではなく、難民の方たちの迷惑にはならないと判断した。(宿予約サイトに多くの空きがあるのはもちろん、例えば私の入った宿を1カ月延長しようとしてわかったのは、この先1カ月に別の予約があったのは3日だけ。そのうち2日は直前にキャンセルされたので、私が別の宿に行かなければならなかったのは1日だけだった。)

途中で寄り道観光などするとそれこそカネがかかる。いっきょに行く。ルートを調べ、ブダペストからルーマニア西端ティミショアラまでは昼行鉄道、ティミショアラから首都ブカレストまで夜行寝台列車、ブカレストからモルドバのキシナウまではバス、と計画を立てた。うまくつなげば夜行列車1泊を含め2日で行ける。幸い前に通った区間にも重なるので、土地勘はある。さっそく6月12日に出発した。

ブダペスト東駅。ブダペスト最大の鉄道駅で、国際線のほとんどはここから出発する。ティミショアラ行きもここから。ホームは、左手ずっと先に行ったところにある2番線だった。
ティミショアラ行きの列車はかなり空いていた。前の方だけが分離されて国境を越えるようで、後ろの方は国内線。
ハンガリー平原を進む。ブダペストの数日は天気が悪くどんよりしていたが、きょうは快晴。(ただし、夕方になると曇ってきた。この辺はそういうパターンらしい)。 窓に汚れがあり、風景写真に模様が入る。
対抗車線の列車とすれ違う。
途中の駅には速そうな列車も止まっていた。
あくまで広いハンガリー平原(カルパチア盆地、パンノニア平原)。ルーマニアとの国境も平原が続くだけで自然の障壁はない。入国審査官が入ってきてパスポートを見せるだけ。
ティミショアラの駅に着いた。ここから午後9時台のブカレスト行きの寝台列車に乗り継ぐ。6台ベッドの車室で運賃158.20レウ(約5000円)。電光掲示板の出発便を見ると、なぜか約1時間後にルーマニア東部ヤシまで近道で行く列車がある。ネットには出ていなかったが、これなら時間も料金も節約できる。英語のわかる駅員に聞くと、結局ブカレストで乗り換えになるとの返事。しかし、この夜乗った寝台車の同乗客は、いや確かに直行でヤシまで行く便だ、前に乗ったことがある、駅員が知らないだけだと言う。真相はわからずじまい。まあ、とにかく時間がかかってもモルドバまで着ければいい。
ティミショアラから夜行寝台でブカレストに着く。夜の写真はなしで、朝のブカレスト駅だ。
ブカレストからモルドバ・キシナウには1日1本の鉄道もあるが、軌間が異なるので国境で車両を替えたり時間がかかる。しかも両方向とも夜行だ。鉄道の旅は車窓を楽しむものだと思うのだが、宿泊代が節約できる夜行が好まれるのだろうか。バスは昼間含め2時間おき程度に出ており、所要時間約9時間、料金600MDL(約4800円)だ。バスの出るターミナルはこれまで使ったことのないFilaret。地下鉄駅から離れた不便なところにある。行ってみると、写真のように寂しいターミナル。キシナウ行きのバスはマイクロバス(1番手前)だった。
驚いたことにウクライナのキーフ(キエフ)行きのバスも停まっていた。日3便、40ユーロ(約6000円)、約20時間かけて行くという。戦争の中で定期便があるのか。トルコ南岸のアンタルヤ発とある。そういえばイスタンブールの宿近くのバスターミナル(YenikapiのEmniyet Otogar)にもこのバスが停まっていた気がする。
キシナウ行きのマイクロバスはほぼ満席だった。予約を入れてなかったので危いところ。ブカレストの街を縦断し北に向かう。写真は繁華街バルチェスク通りの大学広場。ルーマニア革命の舞台となったところだ。
広大なルーマニア平原。ハンガリー平原と同じで、ドナウ川につくられた沖積平野だ。以前、鉄道で縦断したが、今度は国道に沿ってバスで行く。
ドナウの支流シレット川を渡る。この川の上流に行けば、前長期逗留したスチャバや、ウクライナとの国境の街シレットがある。川は国境を越えてウクライナ西部に。
だんだん地方道になってくる。
モルドバとの国境に着く。ルーマニア側の出国検問。
プルート川が国境線だ。この川も前出シレット川と同じく上流でウクライナ領に入る。ドニエストル川にも近づく。
モルドバの入国検問。出入国検問ともに、パスポートを集めてスタンプを押して返却という方式だった。待つ間、外には出られる。モルドバ側にはトイレもあった。
モルドバに入ってからの景観。なだらかな丘陵地帯が増えたように思う。こういう景観は、前に居たスチャバ近辺に似ている。ともにモルダビア地方であり、ルーマニア語が話され、中世には両方ともモルダビア公国だった。近代になる過程でそれぞれ別の道を歩み、特に1944年のソ連占領後、東半分はソ連領となった(モルダビア・ソビエト社会主義共和国)。西半分はモルダビア公国・モルダビア王国を引き継ぎ、一応独立したルーマニア人民共和国(1965年からルーマニア社会主義共和国)の一部になった。1989年にルーマニア側は革命で社会主義を破棄(国名「ルーマニア」に)、1991年に東のソ連内モルダビア・ソビエト社会主義共和国も「モルドバ」として独立した。
1793年から1812年時点のモルダビア公国(とワラキア公国、トランスシルバニア公国)。モルダビア公国の真ん中をプルート川が縦断しており、その西側が現在のルーマニア、東側がモルドバ。Map: Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0
モルドバの首都キシナウに着いた(人口70万)。
街のメインストリート、シュテファン・チェル・マレ(シュテファン大公)通り。
郊外に行くと、車道も歩道も緑地帯も非常に広い。歩くと何か違和感があって落ち着かない。腰が浮く感じ。アメリカの街より広いだろう。さすがにソ連の都市開発だ。東欧圏だがソ連領ではなかったルーマニアともかなり違う。写真の街路付近、団地群の中にある安宿(アパート)に入ることになった。

なんと、1泊1300円になった

入ったアパートは、ブダペストの宿代の4分の1、1泊2200円だった。はるばるここまで来たかいがあったというものだ。設備もきちんとしている。冷蔵庫、湯沸かしポットの他、洗濯機まである。電子レンジはないが、代わりに電熱料理器がある。久しぶりに料理した。肉を入れたインスタントラーメン煮込み。旅の疲れがとれた。

気に入ったので大家と交渉して、1カ月以上居るからディスカウントしないかともちかけたら1カ月290ドルにすると言ってきた。てことは4万円。1泊1300円だ。助かるう、なんてものじゃない。他の物価も安いし、これなら旅というより、日本で暮らしているのと変わりない。シェアハウス1室1カ月1000ドルでも安いと思うサンフランシスコなどとは雲泥の差。安心して長居ができる。2カ月滞在して、たまった書き物を仕上げ、ウクライナ問題や社会主義論について深めることにした。