定住、農耕、銃、病原菌、鉄、手型動物

― 西田正規『人類史のなかの定住革命』、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』からのインスピレーション

1.定住革命

霊長類は移動生活型

動物は群れて自らを守った。群れならば捕食者の危険を察知しやすい。だれかが気づいて一斉に逃げる。獲物も見つけやすい。狩りでも協力できる。何かと援助しあえる。繁殖の機会も増え、子育ても手伝える。

そして動物たちは部分的には定住もした。地中や洞穴や樹洞などに居れば、外敵から守りやすい。寒さや風雨を避けられる。安全な繁殖の場ともなる。

哺乳類の中で私たちもその中に含まれる霊長類は、群れはしたが、多くの場合定住しなかった。森の中を集団で移動・遊動し狩猟採集生活を送った。人類もその700万年の進化史の中で、つい最近まで、群れたが定住はしなかった。

ヒトは、多くの他の霊長類同様、熱帯出自だった。しかし、技術をもった人類は徐々に、寒い冬のある中緯度温帯地域にも進出する。そこで徐々に定住という適応戦略をとるようになった。

200万年前のホモエレクトスのユーラシア拡散時、原始的な狩猟採集生活をする彼らはさほど北上はできなかったろう。防寒具や道具の使用は限定的で、なお遊動生活が中心だったと思われる。(だからベーリング海峡、南北アメリカ大陸には到達できなかった。)

だが、1万2000年前の氷河期終了期に北(ユーラシア大陸)に向かった現生人類ホモサピエンスは、発達した技術を駆使した。防寒具をもち、高度な狩猟技術と道具を有し、何よりも冬を耐える比較的頑健で恒常的な居所をつくるようになった。

生活用具が増えれば次第に遊動生活が難しくなる。定住する期間が長くなっていく。特に漁業では、獲物が向こうからやってくる場所(サケの遡上する河岸、貝などの採れる海浜など)に居ればよく、大型定置漁具も使いはじめたから、定住が促進された。

1万年前にヒトの定住

西田正規『人類史のなかの定住革命』(原本1986年)は、30年以上を経てなおその輝きを失わない。それの影響を受け、私の勝手な解釈、妄想を交えながら紹介している。強い影響を受けるとそうなるのであしからず。西田によると、ヒトの定住がはじまった約1万年前の気候環境は下記のようだった。

「温帯森林の拡大と植物性食料定住生活が出現する背景に、氷河期から後氷期にかけて起こった気候変動と、それに伴う動植物環境の大きな変化が重要な要因となったことは、定住生活がこの時期の中緯度地域に、ほぼ時を合わせたかのように出現していることからも明らかなことである。」「氷河期における温帯環境は、大きく南下していた寒帯的な環境と、あまり動かなかった熱帯環境の間にはさまれて圧縮されていたのである。そして氷河期が去り、地球が再び温暖化して、温帯環境が拡大を始める。定住生活者が現われるのは、いずれも拡大してきた温帯の森林環境においてであった。定住生活は、中緯度地帯における温帯森林環境の拡大に対応して出現したのである。」(西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、p.44)

定住から農耕が生まれた

西田の貢献は、定住と農耕の因果関係を逆転させたことだ。これまでは農耕が始まったから富が蓄積され、定住できるようになったとされていた。農耕で十分な食料が提供されなければ、人々は厳しい狩猟採集の移動生活を余儀なくされる、と。だが、例えば日本でも、農耕の始まる1万年以上前、縄文時代の頃から人々は定住していた。三内丸山遺跡(青森県)など集落遺跡が見つかる。むしろ人々は、定住してから、周りに生える植物などから徐々に栽培の可能性を会得していった。農耕よりも定住の方がより画期的な革命だった、とする。

「従来、この時期の人類史の展開には、食料生産の始まったことが、その要因として何より重視されてきた。だが、農耕民でなくとも、北アメリカ北西海岸の諸民族のように、主に漁撈活動によって定住生活を営んだ社会では、食料が大量に貯蔵され、奴隷を伴った社会の階層化があり、建築や工芸技術の高度な発達の見られることがある。また、あとで述べるように、植物栽培の出現も、定住生活をすることから派生した生態学的な帰結の一つであるにすぎないのである。このことからすれば、食料生産よりも、定住生活の持つ意味とその出現する過程を問うことが、ここ一万年の人類史の特異な様相を理解するのにより重要なことではなかろうか。」(同上、p.16)

氷河期以降の温暖化に伴い、中緯度温帯地域には森林域が拡大していた。人々は薪や建材のため周囲の木材を利用する。森林が開削され、明るい開けた空間ができた。そこに各種草木がはえ、中には麦、稲、ひえ、粟など、豊富な食料となる植物もあった。集落脇での偶然的な採取、次いでやや計画的な栽培、さらに本格的な農耕が生まれていった。狩っていた動物の一部も近くに飼い、乳や肉として持続的に利用する方法(牧畜)も学んだ。動植物を一方的に捕食する「寄生」でなく、これとの「共生」関係をはじめた(農業・牧畜業・林業・養殖)。

排泄物の処理

定住の最大の障害は、溜まっていく排泄物だ。狩猟採集の遊動生活では、居場所が汚れれば移動すればいい。排泄物の処理に悩むことはない。その土地を適度に肥沃化してくれるし、非常に合理的、環境調和的だった。しかし、定住がはじまるとともに、集住地の衛生は悪化し、感染症に悩まされることになる。日本古代の首都は一定期間ごとに遷都されなければならず、水系容量の低い奈良盆地から、鴨川・桂川の容量の大きい水系を擁する京都盆地に移行してようやく千年の都になることができた。都に縦横にめぐらされた水系は下水としても活躍したようだ。ヨーロッパでは、ベルサイユ宮殿でも窓から汚物を捨て、ロンドンでも街路の真ん中に汚水を流し、それでも民家階上から汚物を投げ落とす輩があとを絶たなかった。後述のように14世紀にはヨーロッパ人口を半減させる黒死病が蔓延するなど、感染症が続く。日本の江戸時代には、糞尿を商品化し郊外の田園地帯に肥しとして利用するエコロジカル社会が成立したした(石川英輔『大江戸えころじー事情』講談社文庫)。しかし、こうした物資が頻繁に往来する江戸の街はどんな臭いがしていたか。(あの臭いに人は容易に慣れるともいうが)。これで感染症が防げたわけでもなく、蟻地獄と言われるように農村から人口流入する後から死亡者数も高止まりしたようだ。

西田に返る。

「たとえば、巣穴に暮らすアナグマは、巣を清潔に保つのに多くの労力をかけて清掃するし、巣の外の一定の場所で排泄する。またモグラは、巣穴からすこし離れたところに便所として使う小部屋を作っている。清掃と排泄のコントロールは、定住するすべての動物が備えなければならない行動なのであり、彼らはそれを、巣に暮らす定住生活者への進化の過程で、本能的な行動として身につけてきたのである。ネコやイヌに排泄のコントロールを教えることが簡単であるのも、巣の中で成長し、子どもを育てる彼らの生活があるからのことである。」(同上、p.29)

移動生活を送るヒト、霊長類も垂れ流しで、本能としてはこれを制御する習性をもっていない。人間の子どもも排便しつけに長い時間がかかる。人類は社会的な文化として苦労しながらこの制御を学習してきた。そして「便所」という技術革新を達成。地域によっては川などに流す下水方式も採用し、後に生まれる本格的な都市下水道システムの原型も得た。

群れの拡大

単独もしくは家族単位の定住も可能だが、やはり多勢で集住した方が群れとしてのメリットが大きい。血縁者に限られない集落が生まれた。限られた地域での生活は交換の必要を生み、市場も生みだした。集住地外との交易、ときに遠隔地との交易で必要なものを調達した。棲み家、生活用具、農漁業のための道具などの製作で「工業」も芽生えた。集団の中での間のいざこざを調停し、ルールを強制する共同体権力が必要となり、ガバナンス(統治、自治)のシステムをつくった。氏族組織、後にはさらに都市、国家などにも発展していく。

動植物と人間の「共生」

農耕以後の人類史は、生物学的には「共生」の歴史だ。人類は動植物を単にあさるだけでなく、これを育てて利用する。利用される動植物の側も、栽培・家畜化されることで自らの存続可能性を高める。つまり、これまでのあらゆる社会の歴史は、自然と人間の共生の歴史だった。自由民と奴隷、領主と農奴の社会、そして奴隷制―封建制-資本主義などへの変遷、これらはすべてこの共生関係の中の人間側の事情を叙述する試みだった。人間側がこの共生にどう人々を動員したかを何やらユニークな概念枠組みで描いた。この19世紀社会科学以降に、生態学、環境学、動物社会学、その他豊富な科学知見が蓄積された。それに基づき、各地でどのような共生関係が築かれてきたのかを明らかにする課題が私たちにはあるだろう。

未完の革命

定住革命は未完の革命だ。慣れない定住生活に人類は苦闘し続けている。汚物問題は少なくとも先進諸国と言われる地域では何とか克服したようだが、その他の社会的・環境的問題が山積し、未だ不慣れな定住生活と苦闘している。西田は次のように警告する。

「高等霊長類の出現以来、数千万年も続いた遊動生活の伝統に比べ、定住生活の経験は、わずか一万年にすぎない。地球的規模の環境変動によって始まったこの一連の出来事は、人類社会における技術や社会組織、あるいは自然や時間に対する認識、観念的世界までも巻き込む大きな変化を引き起こした。まさに、人類史の流れを変える革命的な出来事であったと言わねばなるまい。だがはたして、定住革命はすでに終わった、と言えるのだろうか。」(同上、p.53)

2.『銃・病原菌・鉄』

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』も、同様の人類史的スパンを扱った労作だ。英文原作で457ページ、邦訳草思社文庫版で上下巻計800ページに及ぶ大著だ。それがカバーする広大な地域と時間軸、豊富な知識に圧倒されるだろう。

しかし実は、その基本部分に極めて単純かつ明確な論理が通っている。真実に迫る理論は、往々にして単純明快な姿をとるものだ。

まず大陸の形があった

極端に言えば、その骨格は上巻153ページ(草思社文庫版)の1枚の模式図に凝縮されている。つまりまず、大陸の形があった。地球上に住み着いた人類の文明に様々な差異が生まれた根底の要因にまず、大陸の形がある。ユーラシア大陸は東西に長い。南北アメリカ大陸もアフリカ大陸も南北に長い。南北に長いと寒帯、温帯、熱帯と気候が大きく異なっていく。人間の交流が起こりにくく、文化が伝わりにくい。栽培できる植物も、飼いならせる動物も気候の断絶を越えて移動させることが難しい。しかし、大陸が横に伸びれば、どんなに大きな大陸でも、同じ気候帯を通じて農耕、牧畜をはじめ各種文化が比較的容易に伝わる。

オーストラリア大陸はさほど南北間の距離は大きくないが、代わりに広大な砂漠地帯がある。アフリカの北部も砂漠地帯だ。文明の交流を妨げる障壁が大きい。

栽培できる植物は限られていた

植物には無数の種類があるが、栽培して人間に益があるものは限られている。顕花植物20万種のうち果実・葉・根茎が食べられるものは数千種。うち、人間が栽培しやすく経済的にも成り立つ植物は数百種。しかし、実際に栽培される植物はさらに少なく、現在、世界で消費される農作物を見ると、わずか十数種の植物が全体の8割を占めている。麦、米などの穀物、大豆などの豆類、ジャガイモなどの根菜類、そして果物などだ(上巻、pp.239-240)。特に、種さえ蒔けば数カ月で収穫でき、しかも大量にとれて貯蔵も可能な穀物類が、人類の取得するカロリーの半分を提供する。主要十数種の農作物は全て数千年前に栽培が始まっており、近世以降に新たに栽培化された主要食料農産物はないという。

農耕開始に様々な歴史要因があったにせよ、人の定住する傍らにこうした植物の野生種がある自然的条件は決定的だった。この恵まれた条件により、メソポタミアの肥沃三日月地帯、中国、先住民時代の北米東部、中米、アンデス・アマゾン地域、アフリカのサヘル・西アフリカ地域やエチオピア、ニューギニアなどで食料の生産、つまり農耕がはじまった(上巻、p.175の図参照)。

これが横長大陸の同緯度気候の中で急速に伝播したが、気候差が大きい縦方向には伝播しにくかった。その具体的歴史を第5章、6章(上巻)が詳細に叙述している。

家畜化された動物は14種類のみ

同じことは牧畜についても言える。大型哺乳類は多いが、人間が飼いならせる動物は限られている。人間に決してなつかず錯乱して逃げてしまうものが多い。危険な動物もいる。ライオンやシロクマは飼えない。シマウマもおとなしそうで、歳を取ると手のつけられないほど獰猛化する。また、餌効率のいい動物でないと困る。食物連鎖の上部に居る肉食獣はこの面から不適だ。成長が速く、ある程度大きくなる動物でないと割に合わない。繁殖も容易でなければならない。動物によっては決して人前では交尾しないものがいたり、自然状態の中の複雑な求愛行動を要する動物もいる。単独生活をする動物は扱いにくい。集団生活をする動物なら大規模に飼える。馬や羊のように序列制の集団を構成する動物なら、一旦人間を群れの頂点と認識すれば扱いやすい。

こうした難しい条件をすべてクリアし20世紀までに人類により家畜化された動物はたった14種類だった。牛、羊、ヤギ、豚、馬(以上「メジャーな5種」)、ヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ラマ/アルパカ、ロバ、トナカイ、水牛、ヤク、バリ牛、ガヤルだ(上巻、p.293)。

これらを使った牧畜も、横長の大陸では急速に伝播し、縦長の大陸では伝播が遅れるかまったく伝播しなかった。また大きな大陸であるユーラシアは、植物にしても動物にしてもそもそも種類が多く、より多くの農耕、牧畜の形を生む可能性があった。

農耕と牧畜を始めるか取り入れた社会は人口を増やした。それだけで軍事的に有利になる。専門戦闘員も養える。社会を統率する様々な仕組みが必要になり、各種の統治機構、宗教、文字もつくられる。鉄器をはじめ多様な技術も多様な地域で開発され、それらがやはり横長の大陸で比較的速やかに相互伝播した。

歴史を左右した感染症

農耕と牧畜の採用により感染症が拡大する。これが歴史を作用する次の重要な要因となった。農耕によって高まった人口密度が感染症を広がりやすくする。集落や都市ができると人の汚物で衛生状態が悪化する。備蓄食糧に巣くうネズミなどげっ歯類も増え、病原菌を運ぶ。牧畜で人間と動物の距離が縮まると、動物がかかる感染症の病原菌やウィルスが変異して人間にうつる。牛から麻疹、結核、天然痘が、豚などからインフルエンザや百日咳がもたらされた。げっ歯類が媒介した黒死病(ペスト)は14世紀にヨーロッパの人口を半減させ、北アフリカ、ユーラシア全体で推計7500万~2億人の命を奪った。

しかし、これらの困難の中で、ユーラシアでは、人々の間に一定の免疫も高まっていたのも事実だ。

ユーラシアと先住アメリカの不幸な出会い

農耕、牧畜、進んだ社会制度、文字、そして感染症、ある程度の免疫、こうした要因が横長ユーラシア大陸の文明圏に拡大した。大陸間不均衡が生まれ、それが劇的な形で現出したのが、16世紀ヨーロッパのアメリカ大陸進出だった。特に、1532年11月16日、スペインのピサロ率いる168人の軍隊が、南米インカ帝国8万の軍勢を駆逐し皇帝アタワルパを捕虜にした歴史的瞬間を、ダイアモンドはスペイン人参戦者の証言を引きながら見事に描き出している(上巻、第3章)。インカ人の知らない馬という動物にまたがったスペイン人が、同様に見たこともない鉄器(鉄剣、銃、鉄製甲冑)を使って殺戮を究めた。インカ軍はおののいて逃げ惑い、約8000人が殺された。スペイン人168人には一人の死者もなかった。

そもそもスペイン人たちは、先住アメリカ大陸にはない外航船や航海の技術を持っていた。だからからインカがヨーロッパに侵攻したのでなく、ヨーロッパがユーラシア西端からはるばるとやってきた。銃を使うまでもなく、鉄剣で多くの人々を苦もなく殺した。スペイン人の意図や技術について何も知らないインカはあっという間に滅ばされた。文字のないインカは情報でも圧倒的に遅れ、皇帝が直接侵入者に会うなど、簡単に策略にはまった。

感染症で滅ぼされた先住アメリカ

さらに決定的だったのは感染症だ。ユーラシアからもたらされた病原菌、ウィルスに南北アメリカの人々はまったく免疫を持っていなかった。両大陸全体で2000万いた人口はヨーロッパの侵攻以降、主に感染症で95%が死滅した。インカの皇帝ワイナ・パック、その後継指名者ニナン・クヨチも天然痘で死に、それが原因でインカ帝国内に内戦が起こっていたことも、ピサロら168人の戦闘に有利に働いた。中米のアズテカ帝国もスペイン人の武力の前に簡単に崩壊していたが、そこでも戦闘での死者以上の人々が感染症で亡くなっていた。皇帝クイトラワクも天然痘で死亡している。南米インカ、中米アズテクと並んで人口密度の高かった北米ミシシッピ川流域の首長社会では、白人が実際にその地に入る前に、より早く到達していた天然痘で住民のほとんどが死に絶え、植民者は放棄された多数の集落を見ることになった。ダイアモンドは言う。

「結論をまとめると、ピサロが皇帝アタワルパを捕虜にできた要因こそ、まさにヨーロッパ人が新世界を植民地化できた直接の要因である。アメリカ先住民がヨーロッパを植民地化したのではなく、ヨーロッパ人が新世界を植民地化したことの直接の要因がまさにそこにあったのである。ピサロを成功に導いた直接の要因は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字を持っていたことである。」(上巻、p.147)

先住アメリカで牧畜が発展しなかった理由

南北アメリカ大陸は、史上、一貫して不利な立場にあったわけではない。1万年前に、人類がシベリアの寒さを越えベーリング海峡に達し、船かあるいは海面低下の際に陸続きになった海峡を歩いて渡り、さらに米大陸北部の氷河を渡って中緯度平原に達したとき、そこには無尽蔵の資源があった。大平原に大型哺乳類が群れを成し、しかも、ユーラシア大陸の動物のように人間を警戒しない。食物連鎖の上方にあったこれら動物は狩られることを知らず、近づいてくる人間をあまり恐れなかった。狩りの技術を発展させていたユーラシア大陸からの移住民(クロービス人)は簡単に獲物をとり、豊かな生活を送ることができた。無尽蔵の資源は果てしなく続き、勢いを得た移住民たちは、約1000年という人類史的には極めて短期のうちに南アメリカ大陸南端にまで到達している。

残念なことにこの結果、南北アメリカ大陸の大型哺乳類はほとんど絶滅してしまった。マンモス4種、マストドン3種、ラクダ3種、長角バイソン、ウマ、プロングホーン、ジャコウウシ、地上性オオナマケモノ(メガテリウム)、オオアルマジロ(グリプトドン)、剣歯虎など30種以上の哺乳類が絶滅した。ユーラシア大陸では人類の狩猟技術が未熟なうちから少しずつ動物を狩っていたから、動物たちも警戒することを少しずつ学び、その方向に進化してきた。だから突然絶滅することも少なかった。しかし、シベリアでは、比較的突然に入ってきた人類にマンモスやケブカサイが駆逐されたし、南北アメリカ大陸の警戒しない大型哺乳類たちも、やはり突然に入ってきた高度な狩猟技術をもった人類になすすべもなく絶滅させられた。

これにより、南北アメリカ大陸では、牧畜を発展させる可能性が奪われた。牧畜が広がらなければ感染症もそれへの免疫も広がらない。ユーラシア大陸では、多くの大型哺乳類が長らえ、新たな段階に達した人間社会に牧畜を発展させる機会を与えた。

定住革命論と矛盾はしない

西田の『人類史のなかの定住革命』とダイアモンド『銃・病原菌・鉄』を比較すると、面白いことに、前者は人間と植物界との関係に焦点を置いているのに対し、後者は牧畜の役割にも相当ページが割かれている。やはりこれは農耕文化中心の日本と牧畜も大きな役割を占める欧米的風土の違いだろう。そもそも英語のagricultureやfarmingは牧畜を含んで扱われることが多い。日本語の「農業」は純粋に植物の栽培を指しているだろう。また西田は牧畜の代わりに、漁業の果たした役割についてかなり踏み込んでいる。これも風土の違いが感じられて面白い。

ダイアモンドの論は、むろん農耕を重視しているが、さほど「定住」に重きを置いていないようにも見える。だが、これも必ずしも西田の定住革命論と対立するほどではない。西田が精力的に批判した「農耕で定住が可能になった」という論説をダイアモンドは展開していない。定住した狩猟採集民が存在していたことも正確におさえている。日本の縄文時代もフォローし「日本に居住していた狩猟採集民も、食料を生産するようになったのは定住生活をはじめてから相当の時間がたってからのことである」と指摘する(上巻、p.189)。逆に農耕を始めてからも定住せず、移動しながら農耕していた事例も多く紹介している。地域や環境によって自然界とのかかわり、人間の生活形態は様々な形をとる、という形で柔軟な視点を出している。

なぜヨーロッパだったのか

以上の通り、最も大きくかつ横長のユーラシア大陸は様々な回路を通じて文明の発展上有利な立場に立った。だが、ではなぜヨーロッパだったのか。有利なユーラシア大陸でも、なぜ他の地域が台頭しなかったのか。特に最初に農耕牧畜を始め古代文明を開化させたメソポタミア「肥沃三角地域」、同じように温帯にあって豊富な資源をもち、近代以前には技術的にも経済的にも最も発展していた中国がなぜ台頭しなかったのか。

これについても、ダイアモンドは明快な論を展開している(下巻、エピローグ)。まず、肥沃三日月地帯は、環境破壊で自滅した。この地は初期農耕には適していたが、雨量が少なく環境の容量が小さい。開墾、薪や建材取得のため森林が伐採され、山羊が草を食い荒らすと自然の回復は遅く、土壌浸食と表土塩分蓄積が進んだ。農耕が伝播していった地中海西部、ヨーロッパ北部はより降水量が多く、人的活動の活発化にも関わらず環境基盤は容易には崩れなかった。

なぜ中国ではなかったのか

では中国はどうか。中国はヨーロッパ以上に降水量が多い。広大な砂漠やヒマラヤの山塊でユーラシア西方から隔絶されているとはいえ、シルクロードなどを通じて一定の東西交流は可能だった。南北の気候差はあるにしても、中枢部に広大な平原が開け、パナマ地峡やサハラ砂漠のような障壁で分断されることもなかった。稲作は北に広がり、文字や言語、統治制度などは南に拡大した。黄河、揚子江など大河が東西諸地域を結び、大運河が南北を結んだ。

この結果、中国では早くから統一国家が生まれた。全体が単一の帝国に飲み込まれてしまった。これに対しヨーロッパは、複雑な海岸線と内海(地中海、バルト海、北海)をもち、高い山脈(アルプス、ピレネー、東欧のカルパチア、ノルウェイ国境山脈など)に区切られ、細かく分断された諸地域、諸文化、諸言語が形成された。地中海をおおう古代ローマ帝国は例外だったが、それとてゲルマンの地、北ヨーロッパには届かなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)、ナポレオン、ヒットラーなど強力な征服者でもヨーロッパの統一はできず、「十四世紀のヨーロッパには一〇〇〇の小国家がひしめいていた。西暦一五〇〇年には五〇〇となった小国家は、一九八〇年には二五に減じたが、私がこの文章を書いている時点ではまた少し増えて四〇になっている。」(下巻、p.382)

停止された鄭和の遠征

統一された専制帝国は、強権によって地域の発展を抑えることもできる。ダイアモンドは15世紀初頭の鄭和の遠征を例に出している。当時の中国は、鋳鉄、磁針、火薬、製紙、印刷他の高い技術をもち世界をリードしていた。永楽帝の命じた鄭和の遠征は、全長100メートルを超す大型船(宝船)を含む数百隻の船団で、東南アジア、インド、中東からアフリカ東岸にまで航海した。乗組員総勢も2万8000人に上る。なぜ中国の船団は喜望峰をまわりヨーロッパに到達し、そこを植民地化しなかったのか、とダイアモンドは問題を立てる。

(鄭和の船団には宝船と言われる全長140メートルに及ぶ大型船が含まれたとされが、これは大げさだった可能性がある。最近の研究では42メートル程度だったとの推定がある。しかし、それでも、その後「新大陸」に向け船出したコロンブスの船団よりは大きかった。コロンブスの旗艦サンタマリア号は全長24メートル。他の2艘とともに、乗組員総勢120人(90人とも)でスペインのパロス港を出たという。)

専制君主に命じられた遠征は、熱意のある皇帝が退くとすぐ途絶した。それどころか明朝以降の中国王朝は海禁政策を取り、民間での自由な航行や通商を抑えた。日本の江戸幕府も鎖国政策をとったが、海を基盤に新たな勢力が台頭し支配が脅かされるのを恐れたかも知れない。海外への大航海だけではない。中華帝国は水力紡績機の開発を禁じ、世界最先端を行っていた時計技術を葬り去り、もちろん造船所も消えて始まりかけた産業革命にブレーキがかけられた。

いや、いくら上から抑えようと、結局は東アジアからも発展の芽は生まれてくるだろう。いち早く鎖国を止めた近代日本、さらに第二次大戦後の東アジア諸国の発展にそれは現れている。しかし、単一的な大帝国が上から抑えにかかった「上部構造」がこの地の発展を一定程度遅らせたのは確かだ。そして、ちょっとの遅れが趨勢を決定的に変える時代に16世紀以降の世界は差し掛かっていた。英語で言うWinner-Take-Allの世界だ。わずかに先行したヨーロッパがすべてを取り、その支配の下に世界を従属させた。

複雑な海岸線

ダイアモンドがヨーロッパが複雑な海岸線と内海をもつ地形に注目しているのは興味深い。私も若い頃の論文でこれに注目し、「近代はなぜヨーロッパではじまったのか」の仮説を提示したことがある。欲を言えばダイアモンドには、単に地形条件を言うだけでなく、時代が「馬」から「船」の時代、「内陸平原」から「海」の時代に変わる歴史的趨勢も分析して欲しかった。広大な乾燥平原に馬を駆ったモンゴルが大帝国を築いた時代は終わった。海を支配するものが世界を支配する時代が始まっていた(例えば後年の大英帝国)。その時代に複雑な海岸線をもち航海術と海上通商を発達させていたヨーロッパはよく適合した。西端かなたに「新大陸」も発見してさらに適合した。ある程度複雑な海岸線をもつ東アジア(日本列島も含む)も、ある程度適合し、やや遅れて近代の発展、そして帝国支配の野望に参加していくことになる。

地理、生態系も考慮する

大陸が横長か縦長かで文明の発展が違ってくる、という見解はあまりに単純すぎるとの批判がある。しかし、真理は単純で美しくなければならない。私自身、根底に大陸の形があるという視点は、これまで考えたことがなかった。ダイアモンドさんに座布団一枚だ。

また、彼の歴史理論は、地理を決定要因にしすぎるという批判もある。しかし、これもお門違いだろう。彼の論考を読めば、地理的な違いの上にどのような社会の変遷があったかを詳細に検討している。歴史学者は地理に触れることに神経質になりすぎている。「それは地理決定論だ」と言われることを恐れている。「きちんと社会科学の用語で分析しなければ」などとも言われたものだ。「社会科学」とは要するにマルクス主義理論のことだったのだが。

人間社会の変遷を分析するには、そこの地形・地理、動物相や植物相、エコロジー的生態系の全体を問題にしなければならない。そうした自然条件との相互関係の中で人間社会がどう変遷してきたかを分析する。地理を問題にすることは、「生産力」や「下部構造」、奴隷制や封建制、共同体と「アジア的生産様式」などの抽象論理を、具体的で現実的な世界に立脚した理論に変えてくれる。

ユダヤ系知識人の徹底性

ステレオタイプだとの批判は甘受するが、私はユダヤ系知識人の強靭な精神に敬意を抱いている。徹底して論理を突き詰め、世界の真実を一元的に明らかにしようとする。執念とも言える熱情がある。単に何か部分的な真実や個別の因果関係を明らかにするのでなく、ましてや業績を増やすため論文を出すのでなく、私たちの生きるこの世界を、全一的かつ一貫した論理のもとに把握しようとする。『銃、病原菌、鉄』を読んでいて著者ジャレッド・ダイアモンドもユダヤ系ではないか、という予感がして調べてみたら、確かにユダヤ系だった。ベッサラビア(ウクライナとルーマニアにはさまれた現モルドバ共和国領)から移民してきたユダヤ系移民を両親にボストンで生まれている。

物理的法則から生命の誕生を証明しようとしたジェレミー・イングランドにもその徹底した執念を感じたが、イングランド自身、自分をオーソドクス派ユダヤ教徒と自認している。その他にも、例えばアインシュタインがそうだし、カール・マルクスもそうだ。(無視論者・唯物論者のマルクスも、両親がユダヤ教徒で、しかもラビ(聖職者)の家系に生まれている。父親は後にプロテスタントに改宗するが、母は改宗せず、マルクスら子どもたちをユダヤ教会に属させた)。その他自然科学や社会科学の根底的理論を打ち立てた人にユダヤ系の人が多い。20世紀以降も、例えばノーベル賞受賞者の20%はユダヤ系だ。(世界のユダヤ系人口は全体の0.2%以下)

ユダヤ系の人々は、人類史初の一神教、ユダヤ教をつくった。世界を一元的な原理の中で理解し、かつ2000年以上にわたり諸国で差別・迫害される中で、益々その世界観を研ぎ澄ませた。前出学者たちは必ずしも熱心なユダヤ教徒ではないが、その伝統から受け継いだ精神の徹底性は、脈々と引き継いでいるのを感じる。必ずしも「神」ではないが、世界の、宇宙の真理を全一的に把握したい。その情熱と気迫を感じる。

アインシュタインが、量子力学への批判で「神はサイコロを振らない」と言った逸話は有名だ。宇宙の根源が偶然で成り立っているような見方は放置できない。究極の真理まで突き詰めようとする。マルクスの思想にもそれがある。人間社会の根幹がどのような法則で動いているのか、それを突き詰める。そうした知的傾向に無縁な東アジアの若者などひとたまりもない。社会の上部構造と下部構造、原始共産制・奴隷制・封建制・資本制と移行するとする史的唯物論。今となっては冷静に見られるが、右も左もわからず激動の60年代に放り込まれた私は、その全人類史を照らし出したとされる理論にコロリと参った。

ユダヤ教に比して、そこから枝分かれしたキリスト教は、東アジアの儒教と同じく、世界観というより日常の生活、特に生産活動を律する倫理と精神として機能したように思われる。マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いた通りだ。そのような知的伝統の中にあった日本人の多くにとって、根底的世界観の洗礼はマルクス主義によってもたらされた面があると思う。

マルクス主義に染まった人々の多くはそれを乗り越えてきたが、徹底的世界観を希求する精神構造自体は内部に残った。もはやそれを手放せない。マルクス主義に変わる別の全一的な世界観を求める。むろん、何か別のイデオロギーに帰依するのでなく、今度は自分自身でつくるのだ。例えば『無縁・公界・楽』などで独自の歴史観を開いた日本史学者の網野善彦。1940年代末の学生時代、日本共産党の山村工作隊も指揮したという。政治活動を去ってからの彼の歴史学論考を読むと、無縁・公界・楽など日本史の中で権力に取り込まれない自由な空間(アジール)の変遷を軸に一貫した歴史理論を組み立てようとしていた姿勢を見ることができる。

根底的世界観・宇宙論に迫ろうとする徹底性は、もちろんユダヤ系知識人に限られない。他の民族・文化の中にも多くの碩学を見出すことができる。しかし、その宗教的伝統や迫害の歴史の中で、彼らの中に人一倍強くそれが現れているだろう。そして、それに敬意を感じる。神が見ている。 宇宙、そして人間の歴史に存在する根本的な真理に迫らなければならない。その強靭な意思に私も少しなりとも関与する努力をしたい。

オーストラリア大陸

上記は、ダイアモンド理論の骨格部分だ。しかし、彼は『銃・病原菌・鉄』の中で全人類史を問題にしている。人類のたどった歴史を全地球規模で一元的に理解しようとしている。ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジア以外にも、まだ他の地域がある。まずは、オセアニアと太平洋の島々。

オーストラリア大陸でも同様な人類史的過程が起こったこをダイアモンドは示している。オーストラリアには約4万年前に人類(アボリジニと呼ばれる人たち)が到達していたが、隔絶され乾燥した大陸だったため、農業が発達しなかった。栽培に適した植物は少なく、近代に入ってきたヨーロッパ人の技術でも、栽培化に成功した在来野生種はアカデミックナッツだけだった。4万年前というのは、人類が南北アメリカ大陸に到達した1万年前より昔だ。しかし、何十万年、何百万年も人類とその祖先が暮らしてきたユーラシア大陸に比べればごく最近であることには変わりない。

最終氷河期にこの地にはディプロトドン、巨大カンガルー、巨大ウォンバットなど大型有袋類が棲息していたが、進んだ狩猟技術を持った人類が入ることで、ヒトを警戒しないこれら在来大型動物はほとんど絶滅した。大型動物を家畜化していく道が閉ざされた。したがって、動物由来の感染症にもさらされず免疫がなかった。ヨーロッパ人が入ってきたとき、アボリジニたちは殺戮されると同時に、天然痘、インフルエンザ、麻疹、腸チフス、水疱瘡、百日咳、結核、梅毒などで人口を激減させられた。シドニーに最初のヨーロッパ人がやってきた翌年1788年には、感染症でなくなったアボリジニの死体が町のあちこちにころがっていたという(第15章)。

ニューギニアは農業先進地帯

しかし、すぐ北のニューギニアは事情が違っていた。ここは長らくダイアモンドが調査フィールドとしていた場所だ。未開の地と誤解されているこの地では実は少なくとも9000年前には独自に農業がはじまっていた。6000年前には広く普及した灌漑用の溝があり、ニューギニア高地は「石器時代に世界で最も人口密度が高い」地域だった。サトウキビ、葉物野菜、原産種のバナナ、タロイモ、ヤムイモなどが栽培されていた。

大型哺乳類の家畜化はなかったが、6000年前から中国南部、台湾を経て太平洋全域、東南アジア、アフリカのマダガスカルまで拡散したオーストロネシア人が、この地にも入り、豚、鶏、犬などをもたらしていた。ユーラシアの感染症も入り、一定の免疫もあった。逆にヨーロッパ人にとってはこの地は熱帯で、マラリア、赤痢、肝炎などに苦しめられることになる。彼らの持ち込んだ小麦、大麦、エンドウなどの主要作物も定着せず、牛や山羊も人間同様、熱帯の病で飼育に成功しなかった。

オーストロネシア人の拡散

ダイヤモンドは、近代におけるヨーロッパ人の拡散だけでなく、このオーストロネシア人の拡散など、他の人類史上の大規模移動にも、同様の重点を置いて考察している。オーストロネシア人は、古くから食料生産を始めていたニューギニアには深くは入れなかったが、優れた航海術、農耕、牧畜技術をもち、太平洋の島々など地球を半周するような広域に拡散することになった。

西暦1400年頃、彼らが最後の到達点、ニュージーランド沖のチャタム諸島に入植したのは、ヨーロッパ人「探検家」たちが太平洋に進出するほんの1世紀前だった。したがって特に熱帯域の太平洋諸島地域では、南北アメリカやオーストラリアほどの不幸なヨーロッパとの遭遇は起こらず、基本的には現在でも先住の人々が多数を占めている。つまり、そこには農業と牧畜の採用によりある程度の人口密度と感染症への免疫があった。逆にヨーロッパ人は熱帯地域に入っていくことに困難があり、ニュージーランド、ニューカレドニア、ハワイなど温帯気候に近いところに進出しただけだった(第17章)。

人類揺籃の地アフリカ

先史時代には、オーストロネシア人に並ぶ大規模な拡散例として、アフリカでのバンツー族の拡散があった。全世界的人類史にこだわるダイアモンドは人類の故地アフリカにも当然注意を払い(第19章)、特にこのバンツー族拡散を重視している。

我々はアフリカを黒人世界として平面的に理解しがちだが、実は多様な人種が暮らしている。人類が生まれ数百万年の進化の歴史を歩いてきた地域だ。遺伝子的多様性は世界で最も高い。世界には主要な人種が6つあるが、そのうちオーストラリア先住民(アボリジニ)を除く5つがアフリカに住んでいた。北部に住む(現在では多くがアラブ系の)白人、南部の一見アジア人にも顔立ちが似ているコイサン族、中部森林地帯に局所的に取り残されたアフリカピグミー族、東方から移動してマダガスカルに入ったオーストアロネシア人(アジア系)、そして、主に西アフリカを故地とする黒人だ。

人種は言語ともある程度対応していて、白人はセム語などアフロ=アジア語(アラム語、ヘブライ語、アラビア語などを含む)を話す。特筆しておくべきことは、中東に普及し聖書やコーランの言語ともなり西欧文明の基礎をつくったセム語族言語は、アフロ=アジア語6語族の一つにすぎず、その語族の故地は広大な北アフリカにあったということだ。

黒人はニジェール=コンゴ語族、ナイル=サハラ語の2系統に分かれる。前者のうちバンツー語が、バンツー族の大規模拡散でアフリカに広く分布するようにな。ナイル=サハラ語はもともと北アフリカに広く拡散していたようだが、アフロ=アジア語やバンツー語に取り囲まれ、現在は点在した分布状況を示す。

ピグミー族も同様にバンツー族に取り囲まれてしまった。この場合には独自言語を喪失しバンツー語に取り込まれてしまっている。

大陸南部に残るコイサン族(かつては「ブッシュマン」とも)はどことなくモンゴロイドに似た顔つきだ。例えばかつて映画『ミラクル・ワールド ブッシュマン』で有名になったニカウさんはコイサン族だ。ネルソン・マンデラ元大統領も部分的にその系統を引くとされる。人類学的には「最も古い人類」とされ、かつてはアフリカ中央部から南部アフリカの広い範囲に分布していたが、バンツー族に追われ、現在は南部カラハリ砂漠周辺に住む。(彼らは、アジア系の影響を受けているのでなく、最古の人類として、アジア系の方が彼らの影響を受けている可能性がある。私の仮説)。

マダガスカルには東南アジア系と黒人系、その混血の人々が暮らしているが、言語はすべてオーストロネシア語だ。驚くべきことに、彼らのオーストラロネシア語に最も近いのは6000キロ離れたボルネオ島で話されているマーニャン語だという。

バンツー族拡散の要因

バンツー族が広く拡散した要因はヨーロッパ人が新大陸に急速に拡大したのと同じだった。農業と牧畜技術の獲得と、それに伴う免疫の発達、そして各種技術革新や政治機構の形成だった。西アフリカにはアフリカイネ、アフリカヤムイモ、アブラヤシ、コーラナッツなどの野生種があり、これの栽培が行われた。地中海式気候の北アフリカ、それにエチオピアなどにも別の農耕がはじまっていたが、これらは縦長なアフリカ大陸でサハラ砂漠や熱帯雨林に阻まれて南には伝わらなかった。ただ、紀元前1000年頃にアフリカ東部に進出したバンツー族は土着民たちからモロコシ類やヒエの栽培を学んでいる。

ピグミー族やコイサン族が暮らしていた中央・南部アフリカには、不幸にも栽培に適した植物がほとんどなかった。現在南アは豊かな農業地帯になっているが、農産物のほとんどがヨーロッパ原産など外来種であり、卓越した農耕民であるヨーロッパ人でも、現地の野生種の栽培化には成功していない。

また、バンツー族の農業も夏の湿潤気候に適したものであり、地中海式気候の南アには適さない。そのためバンツー族は喜望峰から北へ800キロのフィッシュ川以南には進出できなかった。このためコイサン族は完全には駆逐されず、その周辺に残ることができた。

アフリカはケニアの大草原に見られるように大型哺乳動物の宝庫だ。しかし、そのすべてが気性その他の要因から人間が飼いならすは困難で、アフリカの牧畜はほとんどが牛、羊、馬など外部から移入された動物に頼ることになった。

感染症について言えば、バンツー族など農耕民は一般に免疫の獲得が進んでいる。特に西アフリカ出身のバンツー族はマラリアに対し、遺伝的な抵抗力がついていた。農耕民集落のまわりにはマラリアを媒介する蚊が発生したが、温帯地域に住んでいたコイサン族はこれへの抵抗力が弱かった。

3.手型動物の進化

再び西田の定住革命論にもどろう。著書『人類史のなかの定住革命』の最後に、少し毛色の変わった2章が収められている。「第9章 手型動物の頂点に立つ人類」「第10章 家族・分配・言語の出現」だ。共に定住革命を直接扱ったものではないが、それぞれがユニークな論だ。

手形動物進化の頂点に立つ人類

第9章は「手型動物」という珍しい視点から脊椎動物の進化を跡付け、その発展線上に霊長類、さらに人類をとらえている。手型化を最も高いレベルに押し上げた動物が人類だったとする。

馬は木に登れない。あの足では当然だろう。草原を早く走れるが、木をつかんで登ったりはできない。犬もちょっと登れそうに見えるが登れない。猫は登れる。サルになるともっとよく登れる。木からぶら下がることもできる。

何が違うのかというと前足だ。馬は後足と同じで、走ることに特化している。前足が、走るだけでなくつかむこと、ひっかくことなどにも使えるようになるにつれ木に登れるようになる。つまりだんだん「手」になる。「手型動物」になる。霊長類になると木登りの達人になった。その後、人間はなぜか木から降りたが、手をさらに微細に動かすようになり、それが道具の使用や工作その他多様な文明的活動を可能にしていく。つまり、「手型動物の頂点」に立ってしまった。

手型動物の対極は口型動物だ。動物はいろいろ物をいじる動作を体から出っ張った部分でするわけだが、前足を手として使えなければ口を使う他ない。後足はやはり移動に使う他ないだろう。目が前の方に付いているので後ろ足を細かく操作するのは難しい。例えば犬は、口でものをまさぐったり、くわえて物(獲物など)を運んだりする。人間やサルなら手で行う動作だ。

最も口型が特化した脊椎動物は魚類だ。四肢もないのですべて口で外部をいじくる。ひれはあるが泳ぎに使うだけだ。魚類以外でも、クジラやイルカなど水に帰った哺乳類は、やはり徹底的に口型だ。鳥類ように前足が翼になってしまった動物も口を使う以外ない。鋭いくちばしで攻撃もする。哺乳類でも馬など普通見られる草食哺乳類では口型が主流だ。

ただ、例外もなくはなくて、両生類のカエルはある程度前足を使って顔の異物を取り払ったりする。哺乳類のゾウは、長い鼻がかなりの程度手の機能を果たす。中型哺乳類ではリスやネズミなどある程度まで「手」を発達させたものもいる。いやいや、節足動物でさえカニやカマキリなど、ある程度手のようなもの(はさみ?)を使うのもいる。

霊長類が手型化を促進

例外はあるにしても、動物は大まかには口型中心だった。その動物進化の潮流に、徹底的に手型の系統が現れる。霊長類だ。新生代(恐竜が滅びた6500万年前以降から現在までの地質時代)に、果実をつける被子植物が拡大し、それを食べるため樹上進出をする霊長類が進化した。この書では触れられていないが、同時期に被子植物の中でも広葉樹林が拡大し、枝が伸び連続した樹上空間(樹冠)が発達したことも影響している。霊長類はそこを棲み家とするうち、「前足」が次第に枝をつかめる「手」に変化した。他にも様々な体型変化が現れた。肩が大きく駆動できる。馬や犬の走るためだけの前足はぐるぐる回したりできない。目の位置も下がる。口型動物の目は口の後にある。魚でも馬でも視線の先に活発に使用する口があり、その先に獲物の姿も見える。前足は後方にあり見えない。霊長類では、口は食べる以外あまり使わないから徐々にへこんでくる。脳の発達にともなって目の位置も相対的に下がる。それで次第に手の動きがよく見えるようになる。枝の上にうまく降り立つため足までにも視線が届くようになる。もちろん目が顔の正面に移動し、距離感がつかめる立体視もできるようになるが、ここで西田は「口を見る目」から「手を見る目」への体型的変化を重視している。

さらに霊長類は、枝につかまったりするので手が伸びる。四足歩行する地上性動物では足が伸びると首も長くしないと口が地上に届かない。だからキリンほどでないにせよ、馬や牛や犬など皆首が長い。しかし樹上生活をする霊長類に長い首は必要ない。果実は手で口に運べばよい。それで手は長いが首は短い独特の体型ができた。ヒトも基本的にはこの型だ。さらに霊長類は雑食性で、果実ばかりでなく、昆虫などいろんなものをつかんで食べる。そのため柔軟に動く指も発達させた。

地上に降りると自然に直立

樹上生活をしていた霊長類の中で、ヒトの祖先はなぜ地上に居り直立二足歩行を始めたか。森林の後退など環境変化もあっただろうが、西田はここでもユニークな論を展開する。まず第1に、彼らの体型変化要因がある。前述の通り、口型動物の目は、張り出た口の後にあり、視線は地上と平行に口とその先前方に向かっている。これがそのまま直立したら視線は空の上を向いてしまう。むろん無理に首だけを傾けて前が見えるようにするのは可能だが、無理がある。しかし、木に登ったりぶら下がったりした霊長類の視線はすでにかなり「体幹に対して直角」になっていた。だからこれが地上に降りて前を見て進もうとすると自然に直立姿勢になる。四足歩行では視線が下を向き、前を見るのが難しい。実際、例えばテナガザル類やクモザル類はほぼ樹上生活ばかりなのに、たまに地上に降りると、即、二足歩行を始めるという。彼らは手型化の程度が人類の祖先に近い。人類の祖先も、地上に降りればごく自然に二足歩行を始めたと西田は推理する。手型化の程度が中途半端だったゴリラなど大型類人猿は、完全な二足歩行が難しく、指の裏を地面につける「ナックル歩行」をする。その程度に前傾させた方が視線がちょうど正面前方を向くからだという。

霊長類社会内の力関係

人類の祖先が地上に降りた第2の要因として西田が示すのは、これはさらにユニークなのだが、新生代中盤以降の霊長類社会の力関係、その歴史的な構造変化だ。具体的には類人猿とオナガザル類の関係だ。オナガザル類はニホンザルもその中に入る私たちが最も一般的にサルと考える霊長類。西田によると、類人猿もオナガザル類も斬新世(3400万~2500万年前)に出現し、次の中新世(2500万~600万年前)に、まず類人猿が適応放散して大いに繁栄した。テナガザルほどの小型からゴリラのような大型まで出そろい、化石も圧倒的に多く出る。オナガザル類はほとんど目立たなかった。ところが、その中新世の後半からオナガザル類が急速に分化し始め、現代に至る繁栄を築く。「15属、約60種が旧世界の熱帯と温帯、あるいは森林から草原、サバンナまで広く分布」し、それに対して類人猿は衰退してしまった。特に中型の類人猿は、大型になってきたオナガザル類と拮抗し、やがて競争に敗れ、滅んでしまった。現在、体重10~30キロの「哺乳類としてはごくありふれた大きさの類人猿」がまったくおらず、その部分を、ヒヒやマカク、グエノンなど大型オナガザル類が埋めている。

中型類人猿だったヒトの祖先が生き延びる方策

そして実はヒトの祖先もこの中型類人猿だった。厳しい競争の中でヒトの祖先は二足歩行を強化し、人類になって生き延びたとする。

「おそらく、中型類人猿は棒を振り回し、石を投げることが、大型化してきたオナガザルたちを追い散らすのに効果のあることをしばしば経験したにちがいない。ニホンザルは石を投げれば驚いて一目散に逃げるし、エチオピアの高原では、一人の小さな少年が、石を投げ、棒を振り回して一〇〇頭ものゲラダヒヒの群れを畑から追い散らしている。石を投げる中型類人猿をオナガザル類が避けたことは十分予想しうる。」(p.217)

チンパンジーも棒を持ち石を投げることがある。しかし、彼らは大型オナガザル類より体型が大きく、そうした行動は半ば遊びだ。これに対し、より小さかった中型のヒトの祖先にとり、それは生存を左右する必須要件となった。類人猿はたまたまそこにあった道具を手に取るだけだが、ヒトの祖先は棒や石を常時持ち歩く方向に進化した。「人類における効果的な道具使用は、二足歩行による高い運搬能力によるものである。このことからすれば、人類出現の鍵は、人類の祖先のみが、たえず道具を持ち歩かなければならなかった状況にある」(西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、p.222)とする。

ゴリラのような大型類人猿は、腕力でオナガザル類を寄せ付けない。小型類人猿は、木にぶら下がって枝から枝へ渡る「ブランキエーション」の達人で、樹上に居る限り、オナガザル類も手が出ない。腕力もブランキエーションも中途半端な中型類人猿は、オナガザル類とまともに競合し、ほとんど絶滅させられた。その中で、棒を持ち石を投げる方向に活路を見出した種だけが例外的に生き延びた、というわけだ。

地上に降りたのはヒトだけではない

西田によると、手型化の進化は樹上でこそ達成されたのだから、単に地上に降りただけでさらなる手型化が起こるとは考えにくい。樹上から地上に降りた霊長類など、ニホンザル、チンパンジー、ゴリラを含めてたくさん居る。そうした動物たちは案の上、さほど手型化を進めていない。大きくなった脳を支えるのに直立が必要だったとも言われるが、例えば、比較的長い首の先に人間の脳よりはるかに重い角をもつシカは、四足歩行している。人類の誕生には、何か別の決定的要因がなければならない。「棒と石」を常に持ち運ぶ運搬能力をもつに至る手型化の進展こそが決定的だったとする。

西田の議論をまとめると次のようになる。

「哺乳動物は、小型原始哺乳類の段階で、すでにそれまでの脊椎動物以上に手型化していた。そこから、樹上に進出していっそう手型化した動物と、地上や水中生活に適応して口型化した動物とがあった。霊長類は前者の最も有力な成功者である。手型動物発達史というべき霊長類の進化において、手は仕事を増加させ、視覚的にコントロールされ、中枢神経系は再編されて大型化する。口の機能の減少は、脳の大型化を可能にした。これら一連の変化は、樹上生活との関連において理解しうる現象であった。だが、人類は、再び地上に降りることによって手型動物の頂点に立った。」(同上、p.221)

「漸新世以後に適応放散し大型化してきたオナガザル類の出現は、すでに大小さまざまな種に分化していた類人猿の社会に大きな混乱を生じさせ、類人猿のグループはしだいに衰退し、中型類人猿は姿を消した。人類は霊長類社会のこのような変動のなかで誕生した。人類の祖先が、中型類人猿とすべき大きさの動物であったことを考えれば、人類誕生の背景として、大型化してきたオナガザル類との社会的関係はなによりも重視されるべきである。人類は、たえず棒や石を持ち歩くことによって、大型化してきたオナガザル類との共存に成功し、生き残ることのできた中型類人猿の子孫である。」(同上、p.222)

家族・分配・言語の起源

「第10章 家族・分配・言語の出現」は、見た通り、より人間社会に近い文化的諸制度の起源を考察した章だ。おそらくこれには批判や反感をもつ人も多いのではないかと思われるが、西田はやはり独自の一貫した論理を展開している。人類は「棒と石」で外敵に優位に立ったが、それが種内部への暴力も生む危険をもたらし、それを抑制する制度が様々に必要となったという視点から、家族・分配・言語の起源を論じている。

霊長類はもともと暴力性をはらむ動物たちだったようだ。ヒト以外の霊長類は大きな牙をもち、それが危険な武器になる。外部に対してだけでなく内部でも、雌をめぐって雄が激しく戦うし、劣位の雄は、優位の雄に従うそぶりを見せながら虎視眈々とかすめとりの機会を狙う。新しくボスになった雄は、集団内の雌の子を殺すこともあり、それによって雌を発情可能にさせる。チンパンジーの場合は他の雄、雌も子殺しに加わり、殺された子どもは食べられてしまう。雌間の対立もあり、若い新入りの雌は攻撃を恐れ、集団に入ってすぐ有力な雄の庇護に入ろうとする。チンパンジーの集団間争いでは、優位な集団が数年に渡り劣位集団の領域内に侵入し殺戮を行ない、ついには根絶させてしまう事例も報告されている(タンガニーカ湖東岸のチンパンジー保護区)。たまたま遭遇した隣接集団と闘うというのでなく、明確に殺しの意図をもって出陣しているという。

種内の暴力はどの種にもあるが、多くの場合、それを抑制する装置が働く。馬やウサギのように鋭利な武器をもたない動物は殺し合いまで行く危険はまずない。クマやヒョウなど武器を有する動物の多くは単独生活をして、種内抗争を回避している。牛や鹿など角をもつ動物も、いきなり相手の腹を突けば殺すことはできるだろうが、そうはせず形式的な戦いに収める習性がある。ハイエナのように、明確なメンバーとテリトリーをもち、異なる群れ間では殺されたり食べられたりする動物でも、グループ内では攻撃行動が強く抑制され、獲物をあさる際にも争いは驚くほど少ないことが報告されている。

多くの動物社会でこうした「殺せない」抑制装置が様々に働いているのだが、霊長類社会の安全装置は緊張をはらみ、「状況によっては『殺せる』可能性を残していることに特徴がある」と西田は指摘する(同上、p.231)。

この暴力的な霊長類世界の一角に、棒と石を振り回す輩が現れた。何が起こるか想像できよう。「棒や石を持つことが、霊長類社会のなかに生きる人類の生存を保障したのであるが、しかし、この棒や石は、オナガザルや狩の獲物に対してだけ有効に働くというものではなく、人類社会の他の成員との争いにおいてもただちに強力な武器となるものである。」(同上、p.229)

直立二足歩行と道具の使用が人類の外部に対する環境適応を高めた。しかし、それを確認するだけで終わってはならないことを西田は強調する。外界への優位をもたらした「棒と石」は内部に対しても暴力性をもち、これを抑制するためにこそ、様々な文化・制度が生まれてきたとする。

分配して緊張を緩和する

チンパンジーの社会には順位があるが、しとめられた獲物を優位の個体が独占しようとするとそこに緊張が生まれる。多くの個体がにじり寄ってくる。「分配」がなされないと大変なことになる。優位な雄による雌の独占でも同様な緊張がある。ここから生まれる家族は、緊張緩和のため雌を各雄個体に「分配」する制度だとする。ヒトの場合は、女性が妊娠・授乳期間でも男性を受け入れられるようにする生物的進化もあった。これが性対象比率を変化させ雄間緊張を緩和してもいるという。

「家族を形成することは、道具を持ち歩く人類が安全を保障するために支払った代償である。特定の異性を分配することは、同時に、それ以外の多くの異性との性関係が禁止されることにほかならない。この代償が、人類にとってはたしてどれほどのコストであるのか、興味深い問題ではあるが、答えるのは困難である。ただ、いつの世にも、この安全保障のルールに対し、危険を知りつつ挑戦する人びとがいるようであるし、ときに失敗して社会的な信用や命まで落とす人びとがいたということは、たぶん間違いないことである。」(同上、pp.243-244)

人間社会に対するなかなか鋭い分析に感服する。

西田は関西出身のようだ。言語の起源について、人と人が会ったとき、「おう、ひさしぶり、ええてんきやないか」「ほんまや、きのう、ようふったけどな」などと言葉を交わす状況を例にあげている。言語が必ずしも意味内容を伝えるものでなく、声を交わして親密さを醸成する手段としての起源もあることを示す。「『ええてんきやな』に対して、『いえ、きょうは風力が三ですから、いい天気とは言えないと思います』などと答えれば、後はどうなることか。会話の内容の正確さを問い質すことなどは、緊張を強くすることはあっても、それをとっさに解消させることはないのである」と言う。(このKYな人の発言を標準語(東京弁?)にするのもなかなかのもの。)

知能や言語能力はどこで使われているか

後には例えば狩りなどの協働のため「仕事をする言語」が必要となってくるが、特に言語の発生局面では、種社会内部の緊張を緩和し暴力を抑制する意図が大きかったとする。言語なら、身体的に近寄らずとも見知らぬ者同士のコミュニケーションを始められる。怒っても、言葉での罵り合いという「ジャブ」で治められる可能性もでてくる。

より知能の高い類人猿(ゴリラやチンパンジーなど)とオナガザル科のサル(ヒヒやニホンザルなど)を比較しても考察している。広く多様な環境に拡散したのは知能で劣るサルたちだった。知能は環境対応を有利にするとされるが、果実、昆虫、小動物を採取する戦略は類人猿もサルもほとんど変わらない。「協同して敵を攻撃するチンパンジーのチームワークが、ニホンザルよりも高度であるとはとても思えない」(p.255)。チンパンジーは道具を使うが、「幸島のニホンザルでも、砂浜にまかれた小麦を砂ごと手にすくって水に入れ、砂が洗われて浮いた小麦を食べるといった高等技術をものにしている」。類人猿のより高い知的能力や複雑な表現能力は外の環境への働きかけにほとんど使われておらず、そうであれば、それはどこで使われ消費されているのか、と問うている。

ここでは触れられていないが、国家の成立などもこの文脈で理解できるだろう。「万人の万人に対する闘争」状態を、国家に暴力を独占させることで解消する。警察権と法の支配を一元化し、私人間で勝手な殺し合いが起こるのを抑制する。その他種内緊張を緩和するため様々な機構、文化を発達させてきたはずの人類だが、未だに残虐な力の暴走が克服されていない。むしろ「棒と石」以上の危険な道具をもつことで悪化しているかも知れない。人類史を大きな枠組みで振り返ることで、その現在置かれている立場を考えさせられる。