市場と市民社会 ―エコシステムから見る

エコシステムから市場へ

自己制御機構をもつシステムの原型がエコシステム(生態系)だったとすると、市場と市民社会は、人間の社会内部に貫かれるエコシステムである。

自己制御機構をもつシステムの特徴は、第一に内部が多様であり、第二にその各単位が独立した能動性をもって動いていることだ。

まず、多様性。例えば、単一の作物をつくる農場の生態系は弱い。ある病害にその種がやられれば即全体が崩れる。単一のシステムは内部に自己調整機能をもてない。多様な種が存在すれば、ある種の草が大きな打撃を受けても、他が代わりに繁茂して草原生態系は保たれる。

しかし、多様性だけでは充分でない。例えば岩石は、いかに多様な鉱物を内部に含んでいても、単一的組成の岩石同様、日や水によって一方的に侵蝕される。多様さをもった各単位が能動的に動いていなければ自動制御系は働かない。生命生態系が復元力をもつのは、各植物が積極的に生命増殖を行ない、少しでも空いた空間ができればそこに繁茂していくからである。

各単位が主体的に動く系とは、要するに生命の系だ。単なる物理的な系は、どんなに多様であっても自己調整機能がない。自然界に自己調整機能をもたらしたのは生命である。生命を待って自然は初めて自己調整系を得た。植物が大地を被うことで地球という系はより安定した。

例えば草原に草を食べるシカがおり、そのシカを捕食するオオカミが棲息しているとする。オオカミもシカも決して、生態系を維持し美しい地球を守ろうとは思っていない。互いにそれなりの方法で食を求め、増殖し、いわば「私利」を追求している。しかし、それが全体として調整機能を果たす。何かの原因で草が大量繁茂すればシカの数も増え、草の増殖を抑える。シカが増えればオオカミも増え、シカが捕食される。生きるため、各個体が「私的」に活動するだけで「見えない手」が全体を制御する。

市場は、このエコシステムの上に形成された新しい自動制御の系だ。エコシステムが人間の経済に展開して新しい制御システムを生み出した。

エネルギーと情報

エコシステムがエネルギーによって制御されるの対して、市場は情報によって制御される。シカは草の量を認識して個体数を調整するのではない。ただひたすら食べてエネルギーを取り込み、草がなくなると食べられなって(エネルギーが取り込めなくなって)死ぬ。そういう形で個体数を調節し生態系を保つ。食とは要するにエネルギーである。生物はエネルギーのあるところに向かって繁殖し、それがなくなったところで死に、系を制御する。

それに対して市場は、生活に必要なリソースの多少を価格という情報に反映させる。供給が少なければ価格が上がる。生産者はこの情報をキャッチし、利益を得るために、高価格になったモノを生産する。供給が多くなれば価格が下がり、彼(女)は生産を止める。消費者も、例えばなるべく安いものを購入することによって、供給過剰になっているモノを消費する。価格情報の認識を通じて、リソースの適正な生産・消費が実現される。

ここでの価格情報は、問題をより直接に急速に解決する制御手段である。食べすぎて草がなくなって餓死するという形で制御されるのは「残酷」であるばかりでなく、時間がかかる。そこまでいかず、情報によって早期に系を制御する手段が市場だ。

同時に市場は、情報の体系としての知識によっても制御される。ここで現れるのは、市場の不可分の属性たる市民社会である。市民社会は、市場に対し、単に価格や利益や配当など個別パラメーターによって対応するのでなく、人間の全体性から構築された「知識」をもってこれに対処する。環境の破壊を見て、特定人種への雇用差別を見て、震災の惨状を見て、人びとは問題に直接はたらきかける。「見えざる手」の彼方に悠長な解決を期待するのでなく、問題を問題として認識し、その解決のために提言し、目的意識的に行動する。

知識とは、人間の全体性から生まれる実践的な認識である。単なる情報の寄せ集めではない。人は、あれこれの情報をただ機械的に張り合わせるのでなく、行動し生きようとする人間の感性的実践(フォイエルバッハ、初期マルクス)の中に認識を体系化する。市民社会は、生活する人間の総体性からものを見、知識を生み、社会を変革する。

市場の長期的調整

市場は失敗しない。恐慌も環境破壊も、失業も戦争も広い意味で市場の調整過程である。これを「失敗」と見るのは市民社会だ。市民社会から切り話された市場は、分野によっては調整に莫大な時間を要し、人間にとっては受忍限度を超えたコストをもたらす。環境破壊によって産業の基盤さえ失われ、数千万を殺害する世界戦争が繰り返され、その果てに市場が調整されるとしても、それは市民社会にとっては「市場の失敗」である。

市民社会から切り離された市場が「失敗」するのは、このシステムの本質に根ざしている。市場は、個々の構成員が自由にアナーキーに行動し、そのぶつかりあいの中から事後的に系を調整する。市場は「失敗」により自己調整する。そこではあらゆることが許されている。知恵と悪知恵(経済学の用語で言えば「革新」と「機会主義」)のすべてが動員されている。完成は事後的にやってきて、しかも完成の瞬間には次の調整プロセスが始まっている。

市民社会は、こうした市場に対し、長期的展望から調整を行なう手段である。いずれは、市場も長期的には自己調整する。しかしそれは人間にとっては耐え難いコストを伴ない「失敗」だから、市民社会が介入する。決定的な環境破壊が起こる前に、環境規制を加える。労働者が疲弊して死に絶える前に、労働基準法と社会福祉を導入する。あるいは環境運動や労働運動を生む。

社会に生起する市民運動は、のたうちまわる市場がその長期的調整を人間の主体的意識の中に現出させたものである。荒れる市場が多かれ少なかれ人間の本質を体現したものだとしても、それを制御しようとする市民社会・市民運動もまた人間の本質である。この双方を最大限に確保し活発に展開させるシステムが、私たちの求める市場と市民社会の自動制御機構だ。

市民社会は市場の声を聞く。もがき苦しむその先に市場がつくりだそうとしている予定調和を、市民社会は理念として認識する。現在の「失敗」を理性的に認識し、広く訴え、その解決とオルタナティブを提起し、その実現をもろもろの市場内ロール・プレーヤーにはたらきかける。

市民社会は時に市場を激しく批判する。市場の運動に、高遠な理念を掲げて介入し、これを統制しようとする。が、恐らくそれ自体が市場の意志だ。市場がのたうちまわって求める未来が、人間を通じて表出されている。運動する市場が人間を通して先見的に自らを語っている。市場は、そのあらゆる弊害の中でその解決への端緒をも示し、人びとを運動に駆り立ててもいる。市場に昂然と立ち向かう市民社会は、なおかつ市場の重要な一部であり、その新しい発展である。(以下略)


上記は、拙著『インターネット市民革命』(御茶の水書房、1996年)第6章からの抄録だ。20年以上前に書いたことになる。インターネットがアメリカの市民社会をどう変えつつあるかを取材した本の中で、大変な抽象議論を展開してしまったものだ。読者を困らせたし、お叱りも頂いた。しかし、あの頃は、一介のフリーライターが、このような大風呂敷を正面から本にするのは無理だったので、米国取材本の中にそれをこっそり紛れ込ませて頂いた、というのが真相。どうしても書き残しておきたかったという心情が上回った。ご勘弁を。