社会主義とは何であったか(2)

目次

ホー・チ・ミン:青年の軌跡
「自由な市場経済」と社会主義
ソ連:「人類への罪」
中国:革命根拠地での粛清
社会主義はモンゴルの遺産か
モンゴル継承国家としてのロシア
マルクスのモンゴル、ロシア批判
西欧起源のテロル
東アジア社会主義で初の民主化
殴り合いさえなく

 

ホー・チ・ミン:青年の軌跡

中国の南隣で、同じく民族解放のたたかいを指導した共産主義者にホー・チ・ミン(1890?~1969年)がいる。個人的な話になるが、私は2010年代半ばにベトナムに滞在していた。当初、この建国の父は政府の偉い人、もしかしたら独裁者かも知れないと思うだけで遠い存在だったが、彼の伝記を読んで少し親近感をもった。

写真1 ホー・チ・ミンの生家。ベトナム中部ゲアン省ヴィン市郊外(ナムダン県キムリエン村)。ゲアン省は熱暑、台風など気候が厳しく土地も痩せ、生活が厳しい土地と言われる。そのためか革命家を多く輩出し、ホーの他、ドンズー運動(日本への留学運動)で有名なファン・ボイ・チャウなども同省出身。

ホー・チ・ミンは1890年、ベトナム中部のゲアン省で生まれ、フエの高校を退学になった後、1911年にフランスに渡る。以後、フランス、ソ連、中国などで国際共産主義運動に関わり、1941年に30年ぶりに帰国。日本、フランスに対する独立運動を指導した。1945年にベトナム民主共和国の建国を宣言し、国家主席兼首相に就任。1954年にフランスを駆逐した後、アメリカとの戦いも率いた。1975年にアメリカにも勝利し、ベトナムの南北統一が実現するが、ホー・チ・ミンはその前、1969年に心臓発作で死去している。

彼は若い頃、なぜフランスに渡ったか。ベトナム政府の公式見解は「救国のため」、つまり革命運動を行うためというものだが、実際は、広い世界を見てみたいというようなことだったらしい。1911年に仏マルセイユに着いてすぐ、植民地当局の官吏養成機関である「植民地学校」に入学願書を出している。独立運動を目指した人が植民地官吏の養成学校に入ろうとはしないだろう。入学が不許可になると、船乗りになって世界を遍歴。アルジェリアなど北アフリカ諸国からインド、サウジアラビア、スーダン、マダカスカルなどへも。さらに米国のニューヨークで月40ドルのアルバイト、ボストンのホテルでケーキ職人として働く。1913年に、本格的に英語を学ぶためイギリスに渡る。学校の用務員、ホテル料理場の皿洗いなどを経験。1917年にフランスに戻り、この頃から徐々に政治活動を始めたようだ。1919年に、第一次世界大戦の講和会議(パリ講和会議)に安南(ベトナム)愛国者協会代表として出席し、ベトナム人の権利擁護8項目からなる請願書「安南人民の要求」を提出している。

少なくとも渡仏時から最初の5~6年は、好奇心あふれる若者として「何でも見てやろう」の世界旅行だったように思われる。現代の若者、何を隠そう私とも同じではないか、と思い親近感を持ったのだ。ベトナム政治を専門とする坪井善明は、ホーが自伝の中で「外国に行って、フランスやその他の諸国がどんなものであるかを、まず見てみたいと思った。外国がどのようであるかを見た上で、国に戻って我が同胞を助けたいと私は考えた」と書いているのを、「後で自己正当化している部分を考慮に入れても、真実に近いものがあろう」とし、さらに次のように言っている。

「父親を経済的に助けるための出稼ぎの側面もフランス行きの動機の一つであったことは間違いないように思われる。しかし、より単純に、ホーも『世界を自分の眼で見てみたい』という知的好奇心に満ちたアジアの一青年だったという解釈の方が適切かと思われる。西欧と出会い、植民地では見たこともない様々な人々を知って西洋文明の認識を深めていく。そして、アジア、アフリカ、南北アメリカを見て、同じような植民地支配に苦しむ人、人種差別で苦しむ黒人の存在を知って、世界の認識が開けていくというプロセスを1911年から17年までの間に経験したのである。」[1]

筆者(岡部)は、ホー・チ・ミンに興味を持ってから、少し彼の「追っかけ」をしてみた。ホー氏がハノイで執務していた木造の簡素な住宅兼事務所はもちろん、ゲアン省の彼の生家、1941年に帰国して革命拠点にしたカオバン省のパックボー洞窟(中国国境のすぐ近く)などに行ってみた。ベトナム人もあまり来ない山中の洞窟の前で、ホー・チ・ミンは何を考えていたのだろうと想いにふけった。

写真2 カオバン省のパクボー洞窟。すぐ後ろが中国国境になっている。1941年、ホー・チ・ミンらが密かに帰国してこの洞窟内を革命拠点にした。

粛清が荒れ狂った20世紀国際共産主義運動を生き延びた彼だ。決して「無傷」ではなかったと思われるが、欧米諸国を見聞した彼は西欧的な人権、民主主義の感覚を身につけていたのではないか。最初の政治的文書、8項目の「安南人民の要求」は決して社会主義的ではなく、独立を求めたものでさえなく、政治犯釈放、報道・言論の自由、結社・集会の自由などベトナム人がフランス人と同等の市民的権利を享受できることを求める文書だった。彼が起草し1945年9月2日にバーディン広場の群衆の前で読み上げたベトナム民主共和国独立宣言も、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言が冒頭に言及されている。宣言に散りばめられた言葉は、自由、平等、独立であり、社会主義的な主張はない。「民族の資本家」も苦しんできたことを盛り込んでいる。独立宣言を可能にした「8月革命」に先立ち、ホーは1944年2月、中国・昆明の米国戦略事務局(OSS)に接触し、支援を取り付けている。同5月にはわざわざアメリカ独立宣言コピーを1部送るようOSSに要請した[2]。この時期、ホー・チ・ミンは米国を後ろ盾にした独立も考えていたのではないかと思わせる。彼はばりばりの社会主義者というより、独立を求める民族主義者であり、臨機応変の現実主義だったようだ。そのことでコミンテルンの中で批判があり、中枢から除外されていた。1935年にコミンテルンが広い党派を糾合する「統一戦線」と民族問題重視の戦略に転回してから前面に復帰できたという[3]

彼がフランスに戻った1917年はロシア革命が起こった年だ。実際彼は、レーニンの民族解放闘争の呼びかけを読んで、社会主義に心酔したようだ。当時の世界情勢、そしてその中でベトナムが置かれた条件、そういう中で彼は社会主義を選ぶ他なかったのではないか。当初、ベトナムにはフエのグエン朝に依ってフランスに対抗しようとした勤王派もいれば、フランスの革新勢力に期待をよせる勢力もいた。非組織的なテロも起こった。彼の父の友人、ファン・ボイ・チャウはベトナム青年を日本に留学させて革命を準備する東遊運動(ドンズー運動)を組織した。しかし、それらはいずれも植民地主義を打ち破る力を持たなかった。結果的にはいろいろ問題を含むことになる社会主義だが、当時の情勢の中で民族独立を達成する現実の力をもつのは社会主義以外なかったのではないか。筆者に真相を究明する力はない。しかし坪井は次のように言っている。

「イデオロギー上でいえばホーはコミンテルン内部でほとんど常に、『国家主義的イデオロギーの残滓』を持った民族主義的偏向者として疑いの眼差しで見られていた。だが、ホーにとって共産党もしくはコミンテルンの重要性は、イデオロギー上の問題ではなく、何よりもフランスの植民地主義に対抗できる機関としての革命組織の強さにあった。怒りに駆られたテロルや一揆では、植民地主義を打倒できないことを熟知していて、持続的かつ構造的に抵抗しかっ対抗できる組織は共産党しかないと確信していた。組織人としてはホーチミンは、真正の共産主義者だった。」[4]

NGO組織「国境なき記者団」が毎年発表する「世界報道自由ランキング」で、現在のベトナムは毎年、北朝鮮、中国などとともに最下位近辺を漂っている(2016年は180カ国中175位[5])。同団体が2006年から行っている「インターネットの敵」調査でも、当初から連続してリストアップされている問題あり8カ国の一つだ。国内で人権活動家やブロガーの逮捕が続いている。経済成長は進んでいるものの、既得権を得た国有企業の非効率、役人の汚職などが構造的な足かせとなっている。独立は達成したが、負の遺産が国民に重くのしかかる。ホー・チ・ミンらが求めたのはこのような国だったのか。彼の歩んだ困難な足跡を思うと、複雑な気持ちになる。

「自由な市場経済」と社会主義

「自由な市場経済」が、近代の苦難に満ちた試行錯誤の中で、やはり私たち社会の調整メカニズムとして選択されてきた。むろんこれには数多くの欠点、弊害があるが、それは「自由な市場経済」の本質というより、その未発達、未成熟によるものと私は考えている。19世紀に思想として生まれ20世紀に実際に試みられた社会主義はこれを真正面から否定し、別の原理を掲げた。私的所有を否定し、国有・公有・集団所有の下で中央集権的な計画経済を目指した。これが現実の歴史で失敗したことは明らかで、ソ連、東欧、モンゴルの社会主義が崩壊し、中国、ベトナムなど残ったアジア社会主義も市場経済を積極的に導入した。

市場で人々が自由に財を用い処分し、生産者も消費者も自由に生産・消費し、需要と供給の原理でコントロールし、人々の利得に向けた行動を肯定する。こうした基本原理が結局のところ機能した。しかし、市場原理は完全には機能せず、極端な貧困や人権無視など多くの弊害も生んでしまったのも事実だ。自由主義と「自己責任」原理で放置していたところ、あたかも不良少年がやくざに走るように、共産主義革命などというとんでもない非行に走る者が出てきた。教育でも何でも主義・原理で一刀両断にするのは正しくない。適度に中庸を取り、バランス感覚で対応する必要がある。

社会主義も失敗から学んだが、資本主義も多くを学んだ。社会保障制度をつくり、児童労働禁止や8時間労働などを定めた労働基準法をつくり、労働者に自己責任の自由主義を越えた権利(団結権、ストライキ権など)を認め、独占・寡占を禁じ、公害防止、差別禁止、消費者保護など私企業活動制限の各種法制を整えた。「自由な市場経済」を廃止するためでなく、これを維持・強化するために。

そういう意味で現在の世界は、社会主義国も含めてほぼすべてが、多かれ少なかれ「自由な市場経済」になったと言えるが、問題はその上部構造だ。「自由な市場経済」に見合う自由な政治体制が実現されていない国が多い。これはいずれ「自由な市場経済」の障害になるのだが(創意ある起業家精神に富んだ経済が生まれない)、現代世界のかかえる深刻な人権侵害、抑圧として国際社会への大きな挑戦・課題となっている。

ソ連:人類への罪

ソ連の崩壊に伴い過去の資料が公開され、恐るべき体制の裏側が徐々に明らかにされている。ステファヌ・クルトワ編『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧』(The Black Book of Communism: Crimes, Terror, Repression, 1999、原仏語版は1997年)[6]などの本格的研究、現在28巻に及ぶ『共産主義の記録』(Annals of Communism)シリーズのような詳細な公開極秘資料集(解説付き。英露語版)[7]も私たちは得た。

秘密解除された強制労働収容所(グラーグ)管理局や内務人民委員部(NKVD。KGBの前身)などの文書によると、ソ連では、例えば1937~1938年だけで、157万5000人が逮捕、134万5000人(85%)が有罪、68万1692人(有罪の51%)が処刑された[8]。しかもこれには粛清された共産党幹部の数はほとんど入っておらず、当時強制移住されて死亡した者(37年に極東の朝鮮人17万2000人がカザフスタン、ウズベキスタンに移住させられている)、獄中で拷問を受けて死亡した者、強制収容所で死んだ者(37年に2万5000人、38年に9万人以上)、収容所への移送途中に死んだ者は含まれていない。アーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道』は、「1930年代の拘禁中の死亡数」を200万人と推定している[9]。ソ連極秘資料集『共産主義の記録』シリーズの創始者でディレクター、ジョナサン・ブレントは、「1928年から1953年に至る25年のスターリン治世下での犠牲者数については推計にかなりのばらつきがあるが、現在では少なくとも2000万人だったと考えられている。彼は欧州史最悪の大量虐殺者とされる」と結論付けた[10]

クルトワらの前掲『共産主義黒書』は、20世紀共産主義のバランスシート(総決算)として、ソ連で2000万人、中国で6500万人、北朝鮮200万人、カンボジア200万人など、全世界で1億人近い人が殺害されたとの数字を出した(ナチズムの犠牲者は2500万人)[11]。巨大な「人類への罪」がそこで犯されたが、ナチズムほどは否定・告発されていないのを問題視している。「本当の社会主義ではなかった」「ロシア的歪みがあった」などと弁解できるレベルだろうか。国家・民族発揚思想としてのナチズムがドイツ的歪曲を受けた、などと「真のナチズム」を弁護するような言説がなされても、誰も相手にしない。日本では社会主義が権力を取れなくてよかった。何よりも、純粋無垢だったかも知れない活動家の多くがとてつもない犯罪に手を貸すことを避けることができた。

写真3 レーニンとスターリン、1922年。Wikimedia Commons, public domain photo.

『黒書』では、アジアの共産主義の分析はやや精彩を欠くきらいがあるが、西欧人研究者には漢字史料の利用に困難が伴うこと、アジアの共産主義まだ体制が維持され、資料の公開が進んでいないことなどの要因があるだろう。殺害数についてはいろいろ議論があり、餓死者の数も入っているのではないか、との反論もある。しかし、クルトワらは、飢餓(例えば1932~1933年のウクライナでの400万人餓死)や強制労働も虐殺の一形態としてシステマチックに用いられたことも示している。政治的粛清だけでなく、1920年からのコサック解体(ラスカザーチヴァニエ)に見られるナチズム同様の民族ジェノサイド、そして1930~1932年の「クラーク(富農)撲滅」などに見られる階級ジェノサイド(出生に基づく虐殺)があったことも示す。共産主義による虐殺は歴史的にナチの虐殺に先行しており、アウシュビッツ収容所長が、強制労働による虐殺などでソ連側の資料を収集した事実なども示されている[12]

ソ連共産党第20回党大会(1956年)のフルシチョフ秘密報告によると、第17回党大会(1934年)で選出された中央委員139人のうち98人、代議員1966人のうち1108人が粛清(処刑)された[13]。幹部でも、というより幹部の方があぶなかった。当時のソ連でスターリンの粛清を批判するのはまず不可能で、ソ連内の共産主義者に虐殺の責を負わせるのは難しい面がある。しかし、秘密警察から直接狙われていたわけでもない西側の人々が「共産主義体制とその首領を讃える歌をうたい続けた」のはどうなのか、とフランス人であるクルトワは問い、西側の人々に対し次のように言う。

「『私は知らなかった』と答える者も、たくさんいるだろう。共産主義体制はその特別な防衛の仕方を秘密にしてきたから、たしかに知ることは必ずしも容易ではなかった。だが、しばしばこの無知は戦闘的な信条からくる盲目の結果にすぎなかったのだ。しかし40~50年代以降、多くの事実が知られ、疑問の余地のないものとなってきた。今では多くの追従者が昔の偶像を放棄したが、彼らはそっと目立たぬやり方で見捨てたのだった。」[14]

中国:革命根拠地での粛清

中国共産党の粛清の歴史は小林一美『中共革命根拠地ドキュメント』[15]が詳しい。若き日に中国革命に心惹かれたこともあるという小林は、現在日本で盛んな「反中国・反中共の言論」に与するものでないと一線を画しながら、この陰惨な粛正史を著した[16]。「中国共産党が大規模に情報公開すれば、私のこの研究などはすぐ価値がなくなる」としながら、統制下で公開された資料を丹念に収集した。粛清された人々の個人名まで最大限特定しようとする600ページを超す研究書となり、執念が感じられる。1930年代前半の革命根拠地の粛清だけで、計10万人近い共産党、紅軍の人々が殺害されたことを明らかにした。「結論」の章で次のように言う。

「中国共産党の『同志粛清』は、『土地革命時代』に始まって、『文化大革命』で頂点に達した。このような観点で改めて1930年代の土地革命の時代、中華ソヴィエト共和国の時代までさかのぼり、革命根拠地の歴史を『党内粛清』に焦点をあてて実証的に研究したのが、この本書の研究である。その各革命根拠地で『全くの免罪』で処刑された犠牲者の総数は約10万人余(敵より味方を殺す方が多く、また実態はこれを遥に越えていたらしいが)であるといわれているが、本書は、『粛清記録』の具体的な数字をできる限り正確に示し、かつ粛清に至る経過をできる限り実証的に明らかにしようとした。土地革命戦争の犠牲者は、国民党、地主資産家階級、地主富農階級、その他の犠牲者まで含めると数十万、数百万に上るであろうが、概算を示した研究はない。本書では中共によって『AB団・社民党・第三党・改組派・トロツキスト』等々とレッテルを張られて殺された犠牲者の範囲に限定し、各地、各事件での犠牲者をできるだけ正確に確定、明示した。」「『同志・人民』の中から無数といってよいほどの敵が摘発され、正義の名、無産階級の名、真の人民の名において公開あるいは秘密裏に処刑されたが、これほどの規模の同志粛清は、党員比率、単位面積比率から見ればロシア革命以前にも、また以後にも見ることはできないだろう。」[17]

革命根拠地での虐殺の焦点となったのは、7章でも触れたAB団粛清事件だった。国民党の反共組織AB団が党内・紅軍内に潜伏しているという根拠のない疑心暗鬼で、1930年12月の富田村(富田事変)を皮切りに、数年にわたり江西省各地の根拠地で大量粛清が行われた。これについて比較的早くから実態を解明したのは、江西省党委員会で党史研究を担当する一介の下級党員、載向青だった。毛沢東の死(1976年)、四人組の失脚(1978年)以降、粛清された人々の遺族らによる名誉回復への努力が高まる中、地道な調査を開始した。その調査報告は史学界で評価を得たし、各地の『県志』(1980年代から90年代にかけて刊行された『新編中国地方志叢書』の一部で、各県の政治、経済、歴史、地理などをまとめた百科事典的な文献)にも粛清関連記録が載るようになった。1991年の建党70周年記念の時に出された『中国共産党歴史』(上巻)、『中国共産党七十年』も、粛清を誤りとして記した。

決定的だったのは、2000年に、中国共産党中央党史研究室の権威ある月刊誌『百年潮』が景玉川の論文「富田事変が名誉回復されるまでの経緯」を載せたことだった。これで粛清が内外に広く知られるところとなった。同論文は、すでに亡くなっていた載向青の功績とその調査の経緯を紹介するとともに、粛清の実態を、憶測と拷問による自供で行われた「冤罪」「誤審」「誤り」として詳述。1931年7月に江西省零都県で紅20軍の将校・下士官約700名を殺害したのが彭徳懐と林彪の軍隊であったこと、富田事変犠牲者の名誉回復に尽力した有力者に蕭克将軍、1980年代に総書記だった胡耀邦、後に国家主席になる楊尚昆などが居たことなど新事実も明らかにした。この時期の犠牲者の全体数(約10万人)については次のように記した。(同論文の全訳が小林の前掲書に収録されている。)

「富田事変をAB団による反革命政変であると結論し、紅20軍を消滅させるという極左路線を執行した党中央指導者たちは、それによって全国各地のソヴィェト区で大規模な粛清運動の高揚をもたらした。こうして革命に忠実な数千、数万の優秀な男女が濫殺されることになったのである。数年間の短期間に、「AB団」として7万余、「改組派」として2万余、「社会民主党」として6200余の同志たちを、それぞれ殺害した。」[18]

小林の著作は、こうした貴重な資料を多数収録・紹介するとともに、粛清の背景について独自の分析を加えている。まず、当時、ソ連は地主、富農に対する絶滅作戦を展開しており、その戦略がコミンテルンを通じて中国にも強制されたこと。当時の世界の共産主義者にとってコミンテルンは絶対的な権威だった。中国では、ソ連に留学していた「28人のボルシェビキ」らがこうした強硬路線を、ボルシェビキの狂信的な作風とともに持ち込んだ。それに抵抗する地元革命家を一気に粛清して主導権を握ろうとする誘惑に勝てなかった[19]

そしてこの輸入されたボルシェビズムが、中国国内にあった暴力的文化、暴力的歴史環境と結びつく。「プロレタリア独裁の理論、階級闘争の理論は、長い中華専制主義の中で構造となっていた農民戦争的暴力を解き放った」[20]とする。国民党の圧倒的軍事力の中で、革命根拠地が風前の灯火になると、陣営内から逃亡者、裏切り者が続出し、それが過剰な警戒心を生み、粛清の原動力となった。暴力的文化・社会はあらゆる拷問を正当化し、自供が証拠の最高形態とされた[21]

当然ながら小林は、本書7章で述べたような中国の革命運動と「土匪・遊侠世界」との結びつきについても詳述する。毛沢東が15カ月間とどまった井岡山根拠地で、匪賊出身の袁文才と王佐らからこうした「農民文化」「農民戦争文化」を学んだことに触れ、「毛の人民解放の哲学は、階級闘争史観・水滸伝式闘争文化・三国志的天下争奪史観の折衷であった。ロシア的な階級闘争史観を伝統的な中国遊民文化、農民ボルシェヴィキ文化で味付けした点に独自性があった。こうした近代と古代の一つの文化を核融合させた点において、毛は天才であった」と述べている[22]

湖南省出身者と江西省出身者の対立もあった。毛沢東ら江西省南部に入ってきた革命勢力は、湖南人が中心だった。1924~1927年の湖南での戦い(「第1次国内革命戦争」)に敗れて、隣接の江西省山岳部に革命根拠地を求めたのである。当初は、地元革命家と連携していたが、1930年夏頃から対立が深まる。江西人は南昌、九江、武漢など大都市に打って出る作戦を主張したが、毛沢東らは江西省山岳部に国民党軍を誘い込んで撃つ作戦を主張した。これは江西人にしてみれば自分たちの故郷を戦場にし焦土化することを意味し、到底受け入れられなかった。また、江西人は、地主はともかく富農層まで殲滅する作戦にも反対した。土着リーダーの中には富農出身者も多く、宗族共同体の地方エリートだった彼らにとって富農層殲滅作戦は身近な層を攻撃することを意味する。(富農までも「殲滅」の対象にしたのは、困難な革命根拠地の維持のために富農からの収奪も必要になったからだとされる)。1930年の「富田事変」の粛清は、湖南省出身の外来組が、こうした「融和的」政策をとる李文林ら土着幹部を「AB団分子」として排除しようとしたものだったとする[23]

出身地ではないが、疑似民族的な要因として、客家(はっか)の存在も小林は重視している[24]。客家は漢民族ではあるが、歴史的に華北・中原の地から流れてきた人々で、独自の文化、言語、共同体を維持し、各地で差別されながらも教育熱心で人材を多く輩出してきた。正確な統計はないが、中国全土で約5000万人いるとされ[25]、台湾、東南アジアの華僑の中にも多い。共産党が中国南部で転戦し、革命根拠地をつくった地域を詳細に調べると純粋客家県(住民の90%以上が客家)、準客家県(県内人口比率は問わないが客家の集住地域がある)に集中している[26]。井岡山も客家の集住地域だったし、「中華ソビエト共和国臨時政府」が置かれた瑞金県も純粋客家県だった。共産党は、土着漢族と対立関係にあった客家地域を基盤に革命根拠地をつくっていった。朱徳、葉剣英、鄧小平、郭沫若など革命期からの党幹部に客家出身者が多い。井岡山根拠地で最初に粛清された匪賊首領、袁文才と王佐も客家だった。客家と中国革命の関連を詳述した矢吹晋・藤野彰著『客家と中国革命』[27]によると、本格的な粛清「富田事変」は、客家であった袁・王殺害の報復としてはじまったという[28]。粛清が拡大する中で客家の活動家も殺害されていくので、単純な客家・非客家の対立構図ではなかったが、いずれにしてもこれ以後、革命運動の中で「客家問題」はタブー視されるようになっていく。

小林は匪賊の問題以外にも、中国共産党が過去の歴史から背負った負の遺産を様々に取り上げている。「権力財」への希求という点もユニークな視点だ[29]。家産官僚制の長い歴史をもつ中国では、官職に着くことで財を築ける。特に一党独裁の共産党では権力財こそが「唯一絶対の財産」になった。前近代においては科挙で任用される文官が圧倒的な権力財であったが、共産党ではそれに加えて「軍事権力財」も重要な位置を占める。建国後の1955年に、紅軍の長征に参加した農民の子弟から元帥10人、大将10人、上将55人、中将175人、少将800人が誕生した[30]。小林はこれを農民、特に血気はやる若者の間にあった「梁山泊的な気分」に結びつけ、次のように言う。

「農民階級という封建的な身分制度がなかった中国では、『自由』と『野心』、いやもっと現実に即していえば『放将の自由』、『逸脱の野望』への衝動は日本の江戸の百姓身分の人々よりもはるかに大きかったのである。その証拠が、絶え間なく続いた『大農民坂乱』による『覇王』へのチャンスであり、『秘密結社の世界』、『緑林の世界』=『水滸伝的世界』へ誘惑であった。実際、中華帝国の歴史を見れば、前漢の創業者の劉邦、明王朝の創立者の朱元璋の事例に明らかなように、貧民でも遊民でも土匪馬賊でも、『王・侯・貴族・将軍』になれるのである。中華帝国の家産官僚制下の農民は、日本の江戸時代300年の百姓身分とは、存在形態も意識形態も全く異なっていて、官位・官職・将軍位がとにかくほしかったのである。実際に富農の子に過ぎなかった毛沢東は、現代の皇帝になり、貧農出身の朱徳と彭徳懐は元帥になったではないか。」[31]

写真4 中国西端、新疆ウイグル自治区カシュガルの中心街に立つ巨大な毛沢東像。こうした巨大な像は中央から離れるほど多くなる感じだ。

社会主義はモンゴルの遺産か

20世紀に登場した社会主義とはいったい何だったのか。その帰結がほぼ見えてきた今、客観的に振り返り、位置づける作業が必要だろう。理論的にどこどこが間違っていた、など内部に取り込まれた議論でなく、外部から、世界史の中で見てどういう現象だったのか、見ていく必要がある。

少なくとも、極めて宗教的な運動だったことは言える。もちろん「神」は居ない。しかし、指導者への絶対信仰、カルト的なイデオロギー信奉などにおいて宗教に似ている。政教一致、さらには政教軍一致という側面も考えると7世紀に起こったマホメットによるイスラム世界拡張運動に相似する。イスラムも厳しい戒律、神への絶対服従の原理をもって、中東、アジア、北アフリカに急速に広がった。交易圏を拡大し、砂漠ブルジョアジー、オアシス資本主義の経済運動として機能した[32]。しかし、イスラムは同時に明らかな宗教、文化であり、人々に日々生きるかてを提供した。イスラム帝国崩壊後も、今日に至るまで長く諸民族の生活の中に生きている。残念ながら社会主義はそのような生命力をもてず、20世紀に突如出現しほぼ崩壊した宗教的・イデオロギー的現象として終わりそうだ。

少なくともアジアの社会主義は、マルクス・レーニン主義の理論的外装にもかかわらず、実際は農民反乱、秘密結社、匪賊など伝統社会のメカニズム内で機能してきた。本章で論じたそうした観点が一つには有効であろう。しかし、その他にもいろんな分析視角があってよい。ここでもう一つ挙げるなら、モンゴル帝国との関連を示唆する論点が興味深い。ソ連、中国などユーラシア大陸の社会主義諸国は、奇しくも、モンゴル帝国が支配した領域に出現した。6章でも引用したが、岡田英弘は次のように問題を立てている。

「注目すべきことは、アメリカ合衆国も、日本も、EUも、かつてのモンゴル帝国の支配圏の外側で成長してきた勢力であり、一様に資本主義経済で成功している事実である。これに反して、以前ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に属していたロシア連邦などの諸国と、中華人民共和国は、いずれもモンゴル帝国の継承国家であり、モンゴル帝国の支配圏の西半分と東半分をそれぞれ占めているが、これらはみな長年の社会主義国で、その経済は一様に失敗である。モンゴル帝国とその継承国家の社会主義との間には、何か因果関係があるのだろうか。」[33]

チンギス・ハーンが1206年に創設したモンゴル帝国は1290年代までに西は東ヨーロッパから中東の現トルコ、シリア、南のアフガニスタン、チベット、ミャンマー北部、東は中国、朝鮮半島までユーラシア大陸をおおう空前の大帝国になった。その東部では中華帝国域を支配したが、西部では、その後ロシア領となる地域を支配した(キプチャク汗国/ジュチ・ウルス)。ロシアの起源は9世紀にスカンジナビア方面から南下したノルマン人が建てた国で、彼らは「ルーシ」と呼ばれた。スラブ人と同化して建国したキエフ公国が1240年、モンゴル帝国のバトゥ軍に滅ぼされ、以後1480年までの240年間、モンゴルの支配下に置かれる(タタールの軛)。ロシア人の間には、モンゴルに影響されたことを否定する心情があるが、この間、モンゴルの圧政下でロシア社会の抑圧的性格が生まれたとの見方がある。

モンゴル継承国家としてのロシア

ロシアがモンゴル帝国の影響下でつくられたことはあまり知られていない。岡田は次のように説明する。

「モンゴルの支配下に、ルーシの文化は飛躍的に成長した。モンゴル人が人頭税の徴収のために戸籍を作り、徴税官と駐屯部隊を置いてから、ルーシの町々は初めて徴税制度と戸籍制度を知り、自分たちの行政機関を持つようになった。ルーシの貴族たちは、黄金のオルドへの参勤交代の機会に、ハーンの宮廷の高度な生活を味わい、モンゴル文化にあこがれるようになった。彼らは他のルーシとの競争に勝つために、モンゴル人と婚姻関係を結んで親戚となるのに熱心であった。またモンゴル人のほうでも、仲間との競争に敗れたモンゴル貴族には、ルーシの町に避難して、客分となって滞在する者もあった。政治だけでなく、軍事の面でも、ルーシの騎兵の編制も装備も戦術も、まったくモンゴル式になった。ただ一つ、宗教の面では、ルーシはモンゴル人のイスラム教は取り入れず、ロシア正教を守ったが、そのロシア正教でさえ、あらゆる宗教に寛容なモンゴル人が、教会や修道院を免税にして保護したおかげで、それまでになく普及したのである。そういうわけで、500年のモンゴルの支配下で、ルーシはほとんど完全にモンゴル化し、これがロシア文明の基礎になったのである。」[34]

1480年にモスクワ公国のイヴァン3世がキプチャク汗国の軍を打ち破り独立するが、モンゴルの威光はずっと彼らの観念に残る。イヴァン4世(イヴァン雷帝)は1547年に初代ツァーリとなったが、1574年に一旦退位し、チンギス・ハーンの血を引くジョチ家の皇子シメオン・ベクプラトヴィチ(モンゴル名サイン・プラト)を全ルーシのツァーリ(ハーン)とし、1576年に改めて譲位を得てツァーリとなった。岡田は「イヴァン四世がわざわざ、こんな面倒な手続きを踏んだのは、『チンギス統原理』に従えば、チンギス・ハーンの血統の男子でなければハーン(ツァーリ)にはなれないので、モンゴルの皇子から禅譲を受けるという形式をとって、モスクワのツァーリの位に正統性を付与した」[35]とし、ロシアが少なくとも形式的にはモンゴルの継承国家の一つとしての体裁をとったことを示した。

岡田は、必ずしも、モンゴルの伝統がロシア、ソ連に流れ込んで抑圧的体制をつくったとは言っていない。ただ、次のようには言っている。

「ロシア人と中国人は、いずれも中央ユーラシアの草原の道の両端に接続する地域に住んでいる。そのため両国民とも、国民形成以前から繰り返し繰り返し、草原の遊牧民の侵入と支配を受けて、その深刻な影響の結果、現在の姿を取った。長い長い間、ロシアでも中国でも、支配階級は外来者であり、ロシア人とか中国人とかいうのは、被支配階級の総称に過ぎなかった。そのためロシア人にも中国人にも、無責任・無秩序を好むアナーキックな性格が濃厚であり、強権をもって抑圧されなければ秩序を守ろうとしない。」[36]

岡田が強調するのは「外来者の支配を受けた」という点であって、これらの国が共産主義を受け入れたのも、雑多な被支配民族をまとめる皇帝という存在がなくなった後、それに代わる統合理論が必要になったからだとしている。

「ソ連の原型となったロシア帝国も、中華人民共和国の原型となった清帝国も、土着民の国民国家ではなく、土着民から遊離した政権であった。そこでは、帝国を構成する雑多な種族の代表が、それぞれ皇帝個人に臣従の誓いを立てることによって、帝国の統合が保たれた。ロシア帝国の場合にはそれに加えて、いかなる種族の出身でも、ロシア正教に改宗すればロシア人であり、皇帝に忠誠を誓ったことになった。そういう性質のロシアと中国で、20世紀になって革命が起こって、皇帝制度が消滅すると、それまで皇帝の人格を中核として維持されていた帝国の領土・領民の統合を、新しい共和国が引き継いで維持しようとすれば、流行の民族主義を抑え込んで分裂を防ぐための、何か別の原理が必要になる。それに便利だったのが、マルクスが主張した階級闘争の理論である。民族の差異よりも階級の対立のほうが優先し、同じ階級の利害は民族を超えて一致するというマルクス主義の建て前に基づいて、1922年12月にレーニンが定めた連邦制度では、各民族がそれぞれ共和国、自治共和国、自治州、民族区を構成して、それをそれぞれの労働者・農民階級を代表する共産党が連帯して独裁統治する構造になっていた。」(同書、246~247ページ。)

これはあまり腑に落ちない。ソ連も中国もそれほど階級理論を前面に押し出したようには見えない。スターリンはピュートル大帝の礼賛者であったし、第二次大戦での独ソ戦を「大祖国戦争」と呼んだ。中国、ベトナムなどアジア社会主義はさらに民族解放理論を前面に出し、むしろ社会主義を民族解放のツールとして機能させたように見える。多様な民族を束ねたのは階級理論というより、単にむき出しの強権だったというのが真相に近いのではないか。

社会主義がモンゴル継承国家の中に生まれたという仮説は、当然のことながら「モンゴル=悪」を前提にしている。社会主義は、モンゴル帝国域に生まれたから素晴らしいものとなった、とはだれも言わない。したがってここではモンゴルに対する偏見が助長される可能性がある。そこで、モンゴルへの偏見をあらゆる面で取り除こうと努力している杉山正明の論に耳を傾けよう。氏の場合でも、モンゴルのロシアへの悪影響を次のように言っており、可能性は排除していないようだ。

「ロシア帝国は、モンゴルの覇権のなかから生まれた。ロシア帝国の拡大と巨大化は、モンゴル支配の裏返しのようにも見えなくもない。ロシア帝国は、体質としてモンゴル支配の影を長く引きずりながら、表面上、それをあからさまにいわれることをひどく嫌った。むしろ、モンゴルは、ロシアに災厄だけをもたらした悪の化だと声高に叫びつづけた。」[37]

そう述べた上で、「歴史上の事実において、ロシア帝国が、モンゴルの『鬼子』であったかどうかはなんともいえない。ただし、ロシア帝国が、モンゴルのあと成立したことはたしかである。」[38]と言い、「それ(モンゴルの遺産)が、正確にどれほどのものであり、またどれほどが「負の遺産」であるかどうか、まだ真偽いずれとも見きわめがついていない。すべては今後の解明作業にかかっているとさえいっていいだろう」と今後の課題にしている[39]

マルクスのモンゴル、ロシア批判

モンゴルの悪影響をあいまいでなく、きれいすっぱり明確な言葉であばきたてたのはカール・マルクスだ。彼の場合ももちろんソ連ではなくロシア帝国への影響になるが、次のように言っている。

「タタールの軛は、1237年から1462年まで2世紀以上つづいた。この幅はその餌食となった人民の魂そのものを、おしつぶすだけでなく、これを恥ずかしめ、枯らすものであった。モンゴルのタタール族は一貫した恐怖支配をうちたてた。荒廃と大仕掛けな虐殺がその制度となった。彼らの数は彼らの莫大な征服とは不釣合にわずかであったから、肝のつぶれるような暈をかぶせて大きく見せ、彼らの背後で反抗するかもしれない住民を大仕掛けな殺戮によってまばらにしようと欲した。彼らは荒野をつくりだしたが、そこには、スコットランドの高地とローマの平原を無人の地にしたのと同じ経済的原理 ―すなわち人間を羊に、肥決な土地とたくさんの人の住むところを牧草地にかえるという原理にしたがったところもある。」[40]

この『18世紀の秘密外交史』は、マルクスが1856年に著したロシア分析で、すべてを網羅したとされるソ連版マルクス・エンゲルス全集にこれだけは掲載されなかったといういわく付きの論文だ。ロシアがモンゴルの影響を受けていかに卑屈で抑圧的な国家になったかが口を極めて論難されている。マルクスにとって当時のロシア帝国は「ヨーロッパの反動」そのものだった。ヨーロッパ中に広がった1848~1849年の革命もロシアの国境で押しとどめられ、逆にツァーリの軍がハンガリーにやってきて革命を鎮圧した[41]

マルクスによると、15世紀に、モンゴルの支配(タタールの軛)からロシア帝国の前身であるモスクワ公国が自立していく過程についても、イヴァン1世(カリタ)、イヴァン3世らは決して正面から戦って独立を勝ち取ったのでなく、モンゴルのジョチ家に卑屈にすり寄り、ライバルのロシア諸侯をキプチャク=ハン国の力と威光で倒してもらった、奴隷の根性でライバルの告げ口を言い、モンゴルに賄賂を贈って操作し、その一方でタタールが内部対立で自壊していくのを待っていただけだ、などと論難している。そして結論は次の通り。

「要約しよう。モスクワ国がそだち、成長したのはモンゴール奴隷制の恐るべき、卑しい学校においてである。それは奴隷制の術策の達人になることによってはじめて力をつけた。モスクワ国は、それが解放されてさえ、伝統的な奴隷の役割を主人として遂行しつづけた。」[42]

西欧起源のテロル

モンゴルの遺産が、マルクスの言うように恐怖支配と奴隷根性、「大仕掛けな虐殺」だったのかはともかく、ロシア帝国に何らかの影響があり、そこで生まれた人類最初の社会主義もそれに影響され、さらにそれが世界の共産主義体制に広がった、という仮説は興味深い。しかし、やはり慎重な検討が必要で、以下留意点を2点出しておく。

まず、第1に、共産主義のテロルは、ロシア帝国をはるかに凌駕していたということである。端的な例示で、デカブリストの蜂起があった1825年から1917年までの帝政ロシアで3932人の政治囚が処刑されたが、ロシア革命が起こった1917年11月から翌年3月までの4カ月だけでそれ以上の人々が処刑されている[43]。スターリンでなく、レーニンが指導していた時代だ。1918年1月4日、ボルシェビキは、ロシア史上初めて普通選挙で選ばれた立憲議会を解散させ、抗議した議会メンバーに発砲した。それが赤色テロルの最初の局面だったとされる[44]。革命は本当に圧政を打倒し、よりよい社会をつくったのか。以後の何十万、何百万という規模の粛清、殺害を考える時、ソ連と帝政ロシアを同レベルで扱うのはむしろ失礼とも言える。帝政ロシアにモンゴルの影響があったとしても、共産主義はそれ以外の何か根本的に新しい要因が加わっていたように思われる。

スターリンの強い猜疑心という個人的要因はすでに十分出されている。しかし、それを言うなら、マルクスの論敵を徹底して切るあの激しさはどうか。敵に対する切れすぎる論難は結局内部にも向かうという事例を、各国の共産主義運動は十分に経験してきた。また、ロシア革命の過程を見ると、民衆の暴力が統制を失い無限に拡大する恐ろしい事態が見いだされる。ボルシェビキはそれを積極的に煽り利用した形跡がある。当時、第一次大戦というかつてなかった総力戦の暴力が大々的に行われていた。こうした20世紀型事象が生んだ暴力の連鎖からも革命期の残虐性を把握することが可能だろう。

あるいは遠くフランス革命(1789年)からの遺産という見方もできる。「自由、平等、博愛」の近代をつくったフランス革命は近代史の中で輝かしい位置を与えられているが、そこでも残忍な暴力が行われた。パリで1000人が暗殺された「9月の殺戮」(1792年)、革命裁判所と監視(密告)委員会がギロチンを使用して行ったフランス全土1万6600人の処刑、フランス西部ヴァンデ地方の反乱で数万に及ぶ武装解除農民が虐殺された「地獄の縦隊」テロルなど。ジャコパン派のロベスピエールがフランス革命の暗部を代表する恐怖政治家だった。クルトワは前掲『黒書』最終章「なぜだったのか?」で、これらフランス革命の暴力がボリシェヴィキの虐殺を先取りしていたとし、「ロベスピエールは、のちにレーニンをテロルへと導いた路線に最初の礎石を置いた」と述べている[45]。マルクスも、フランス革命以後の19世紀、フランス2月革命(1948年)、パリ・コミューン(1871年)などの革命情勢を呼吸し、理論構築を行った。ロシア革命の残虐さは、モンゴルの遺産どころか、こうした西欧起源の革命的暴力の遺産かも知れない。

東アジア社会主義で初の民主化

「モンゴルの遺産」論で第2に留意しなければならないのは、他ならぬモンゴルが1990年、東アジア社会主義の先陣を切って民主化を達成したことである。ソ連、東欧の社会主義が崩壊した後も、中国、ベトナム、北朝鮮などの東アジア社会主義は堅固に存在し続けている。しかし、その中でモンゴルが例外的に民主化を達成した事実はもっと注目されてよい。

モンゴル・ウランバートルの民族歴史博物館は、小さいながら見ごたえのある博物館だ。派手な展示はないが、強烈なパワーが伝わってくる。展示されている内容、つまりモンゴルの歴史が並大抵のものではない。ユーラシア大陸をおおった巨大帝国の歴史。世界各地で博物館を訪れたが、かの中華帝国のものを含め、これほどのパワーをもつ博物館はない。が、さらに教えられる展示が2階の片隅にあった。民主化の歩みを展示するコーナーに、「自由を勝ち取ったモンゴルを尊敬する」というブッシュ(子)米国大統領のメッセージが飾られていた。ブッシュさんではちょっと苦笑する他ないが、意外なところで意外なものを見て驚いた。モンゴルは1990年に無血革命を行い、一党独裁を廃し、普通選挙による議会を選出した。東アジアが依然、社会主義の負の遺産に閉ざされる中、この貴重な例外は大きな意味を持つ。力士をたくさん日本に送り出しているモンゴルだが、この国をもっと真剣に支援していく大義が私たちにはあるのではないか。そして、20世紀社会主義の負の原点をモンゴルに求める仮説に対して、これほどの痛烈な反証、と言わないまでも、「逆説」はないのではないか。

国際情勢の後押しがあったことは確かだ。ソ連のゴルバチョフ共産党書記長がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進していた。1989年11月10日にベルリンの壁が崩壊したばかりだった。しかし、同年6月4日には、モンゴル国境からあまり離れていない北京の天安門広場で、民主化に立ち上がった若者たちが戦車に踏みにじられている。

モンゴルの民主化は、同年12月10日、ウランバートルで開かれた約300人の民主化要求集会からはじまる[46]。ここで民主化組織「モンゴル民主同盟」が結成。以後ほぼ毎日曜に開かれた民主化集会は3カ月後には数万規模となり、地方にも飛び火した。複数政党制、普通選挙、常設国会を求め、侵略者として否定されていたチンギス・ハーンを民族的シンボルとして復権し、ロシア文字(キリル文字)に代わるモンゴル文字の使用を唱導し、共産主義を示す星を削除した国旗を掲げた。1990年2月18日には初の野党「民主党」を結成。1990年3月4日には、政権党・人民革命党(共産党)との話し合いを求める大規模集会を組織した。「勝利」映画館前広場から党・政府機関本部のあるスフバートル広場(2013年にチンギス・ハーン広場に改称)にデモ行進し、党・政府指導部の解任を求める請願を提出。同3月7日には同広場で33名が、党中央委員政治局員全員の解任を求めてハンガーストライキを開始。広場に支援者が増えていった。真冬には零下30度に達する極寒の季節、モンゴルの民主化運動は世界からあまり注目されることもなく、最高潮に達していた。

写真5 モンゴル・ウランバートル市のスフバートル広場(現チンギス・ハーン広場)。後方はモンゴル政府宮殿。1990年冬、ハンストや集会が行われ、モンゴル民主化の主舞台となった。

政府部内では民主化運動を弾圧する動きも出ていた。しかし、ジャムビィン・バトムンフ党中央委員会書記長・人民大会議幹部会議長が、その命令書に署名するのを拒んだとされる[47]。3月9日午後7時から、ハンスト代表と政府代表との交渉が成立。党中央委員会政治局は同局員解任の方向をすでに決定していた。バトムンフ党中央委書記長がテレビ演説し、次の党中央委総会で解任を提起することを約束した。午後10時に民主化運動指導者ツァヒアギーン・エルベグドルジ(後に首相)が広場に集まった群衆を前に勝利宣言し、ハンストが中止された。

以後、3月12日に第8回党中央委総会が開かれ、政治局総辞職、憲法改正、複数政党制導入などを決定。4月10日の特別党大会でそれらを正式決定。5月にオルチバト新書記長が訪ソして、ソ連軍のモンゴルからの全面撤退合意を取り付ける。5月10日の国家大会議(国会)で政党結成合法化の法律をつくり、憲法を改正して大統領制と国家小会議(定員50名の常設国会)を導入。7月22~29日に初の自由選挙による国政選挙。そして1992年2月に社会主義体制を放棄した新憲法発布。国名も「モンゴル人民共和国」から「モンゴル国」に変え、新国家を誕生させた。

殴り合いさえなく

重要なことは、このモンゴルの民主革命がまったく非暴力で行われたことだ。民主化運動指導者の一人、オユンゲレル国会議員は「この極寒の中で行われた民主主義のための日曜街頭行動の間、流血はなく、窓も割られず、殴り合いさえなかった」と書いている[48]。鉄壁の抑圧体制と見えた社会主義国が暴力を伴わず民主化されたのは奇跡的で、多くの識者がこの革命の非暴力性を指摘・強調している。しかし、私はオユンゲレル議員が「殴り合い(fist fight)さえなかった」との一言を付け加えているのにいたく反応した。実は、モンゴル滞在中、長距離バスの中で、朝青龍のような(例に出してゴメン)大男2人が取っ組み合い、殴り合いを始めるのに度肝を抜かれ、遊牧文化を背景にしたモンゴルの人々に「肉食系のモンゴロイド」というイメージをもってしまった。そのモンゴル人たちが殴り合いさえなく民主化の大事業を達成してしまったというのだ。私の偏見を恥じなければならない。

そして、多くの理論家にとっても、この点において「残虐なモンゴルの負の遺産」という見方に留保を付ける必要が出たことを確認しておこう。いや、これだけでかつてのモンゴル帝国の評価が左右されるわけではないかも知れない。しかし、たとえ20世紀社会主義に何らかのモンゴル帝国の遠い影響があったにしても、それを変革する新しい民主化のモデルは、少なくとも東アジアではモンゴルから始まったという点は確認しておきたい。

出典・注


[1] 坪井善明『ヴェトナム現代政治』東京大学出版会、2002年、90~91ページ。
[2] 岩井淳「ヴェトナム独立宣言の世界史:ヴェトナムとアメリカの独立宣言を結ぶ」『アジア研究』8巻、2013年3月、28ページ。
[3] 坪井善明、前掲書、100ページ。
[4] 同書、99~100ページ。
[5] https://rsf.org/en/ranking_table
[6] The Black Book of Communism: Crimes, Terror, Repression, 1999. 英語版が912ページなどと大部の書で、日本語翻訳はソ連とコミンテルン・アジアのセクションのみが翻訳されている。ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧(ソ連編)』恵雅堂出版、2001年。クルトワ・ステファヌ、マルゴラン・ジャン=ルイ、パネ・ジャン=ルイ『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧(コミンテルン・アジア編)』恵雅堂出版、2006年。
[7] Annals of Communism series, Yale University Press. 日本語ではそのうちJ. Arch Getty and Oleg V. Naumov (Translations by Benjamin Sher), The Road to Terror:  Stalin and the Self-Destruction of the Bolsheviks, 1932-1939, Yale University Press, 1999がアーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道 ―スターリンとボリシェヴィキの自壊1932~1939年』(川上洸、萩原直訳)大月書店、2001年として翻訳。Lars T. Lih, Oleg V. Naumov, and Oleg V. Khlevniuk, ed. Stalin’s Letters to Molotov: 1925-1936, Yale University Press, 1995がラーズ・リー、オレグ・ナウモフ、オレグ・フレヴニュク編『スターリン極秘書簡 ―モロトフあて・1925~1936年』(岡田良之助、萩原直訳)大月書店、1996年として出版されている。
[8] ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト、前掲書(ソ連編)、202~203ページ。
[9] アーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編、前掲書(コミンテルン・アジア編)、624ページ。
[10] Jonathan Brent, Inside the Stalin Archives: Discovering the New Russia. Atlas & Co., 2008, p.3.
[11] ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト、前掲書(ソ連編)、12ページ。
[12] 同書、23ページ。
[13] 同書、204ページ。
[14] 同書、19ページ。
[15] 小林一美『中共革命根拠地ドキュメント 一九三〇年代、コミンテルン、毛沢東、赤色テロリズム、党内大粛清』御茶の水書房、2013年。
[16] 同書、iiiページ。
[17] 同書、458ページ。
[18] 景玉川「富田事変が名誉回復されるまでの経緯(富田事変平反的前前後後)」『百年潮』、小林一美、前掲書、494ページ。
[19] 小林一美、前掲書、70~79ページ、457~458ページ、462~463ページ。
[20] 同書、122ページ。
[21] 同書、121~122ページ。
[22] 同書、460~461ページ。471~474ページも参照。
[23] 同書、432~435ページ。
[24] 以下、同書、399~446ページ参照。
[25] 同書、405ページ。
[26] 同書、403ページ。
[27] 矢吹晋・藤野彰著『客家と中国革命―「多元的国家」への視座』東方書店、2010年。
[28] 同書、18ページ、336ページ
[29]小林一美、前掲書、476~477ページ。
[30] 同書、470ページ。
[31] 同書、470ページ。
[32] 岡部一明「イスラムが世界史において果たした役割」『カイロ通信』1981年3月
[33] 岡田英弘『世界史の誕生』(ちくま文庫)筑摩書房、1999年、246ページ。
[34] 同書、232ページ。
[35] 同書、235ページ。
[36] 同書、248ページ。
[37] 杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日経ビジネス人文庫)日本経済新聞社、2003年、418ページ。
[38] 同書、419ページ。
[39] 同書、420ページ。
[40] カール・マルクス『18世紀の秘密外交史』(石堂清倫訳)三一書房、1979年、112ページ。
[41] 石堂清倫「訳者序」、カール・マルクス、前掲書、8ページ。
[42] カール・マルクス、同書、125ページ。
[43] クルトワ、ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト編、前掲書(ソ連編)、202~203ページ。
[44] アーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編、前掲書(コミンテルン・アジア編)、343ページ。
[45] 同書、334ページ。
[46] 以下、Alan J.K. Sanders, Historical Dictionary of Mongolia, Third Edition (Historical Dictionaries of Asia, Oceania, and the Middle East, No. 74), The Scarecrow Press, Inc., 2010, especially “Chronology” section, pp.xxix-lxxviii; 鯉渕信一「新国家建設の苦悩:モンゴル」、大蔵省財政金融研究所編『アジア周縁諸国経済の現状と今後の課題-アジア外縁諸国の経済情勢研究会・報告書-』第8節; 村井宗行「民主化運動はいつから始まりいつ終わったか」を参照。
[47] B. and R., Enkhtuul and Oyun. “Batmönkh’s widow A. Daariimaa: If my husband was working as a professor, he would have been alive today”. Zuunii Medee (Century News), cited at “Jambyn Batmonkh”, Wikipedia, retrieved on September 25, 2016.
[48] Oyungerel Tsedevdamba “The Secret Driving Force Behind Mongolia’s Successful Democracy,” PRISM, Vol.6, No.1, March 2016, p.141.

(以上、『東アジア帝国システムを探る -中華、征服王朝、周辺民族』KDP電子版、2016年、第8章)