アメリカで長江文明を考える

ブルックリンのチャイナタウン。
ブルックリンのチャイナタウン。

私がよく行く中国系の食堂では、いつもビデオで抗日戦ものドラマをやっている。中国でもよく見た。極悪残忍狭量な日本人兵隊が出て来て悪さをして、しかし最後はばたばたと全員倒される。日本のチャンバラものと同じ位置づけなのだろう。

しかし、アメリカの中華街のこの食堂でやっている抗日ものは若干上品なようだ。極悪日本人の中にも善人派が一人くらい居たりする。きょう見たビデオでは、最後まで勇敢に抵抗した人民解放軍将校がついに力尽きる時、日本軍の隊長は、部下がとどめを刺すのを静止し、皆に尊敬のおじぎ(ここは敬礼だろうが…)をさせる。相手の武士道にも出幕をつくるのだ。

ニューヨークで生活の基盤をつくるため厳しい生活を続けていると、時々日本の生活がなつかしくなる時がある。昔、アメリカに住み始めた頃もそうだった。が、今、日本の光景とともに、なつかしいアジアの情景がよみがえってくることがある。雲南や四川の雪をかぶった高山、ベトナム北部山岳地帯に住む少数民族、そしてモンゴル・アルタイ地方の荒涼たる高原。

モンゴル・アルタイ地方の高原と雪山。
モンゴル・アルタイ地方の荒涼とした高原。
ベトナム北部バクハーの少数民族の人たち。自分たちの編んだ衣類を売っている。
ベトナム北部バクハーの少数民族の人たち。

作戦通りだ。アメリカに来て、思い出すなつかしい「故地」を日本だけでなくアジアになるようにしたいとアジアを旅した。アメリカでアジア系アメリカ人と言われていた。しかし、「アジア」の実感は自分にはなかった。それを得たいと思って、アジアに暮らし、雑踏を歩きまわった。

ブルックリンの中華街を歩いて、ここの人々は同じ長江文明出身の人々なのだと思う。中国南部(や東南アジア北部)から渡ってきた人々。彼ら自身は日本を別の国とし日本人を嫌っているかも知れないが、私は、同族だと思っている。揚子江流域を中心に稲作とともに発展・拡散した長江文明の人々。日本や朝鮮半島南部にはそこから流れ着いた人々が多く住んだと思う。日本列島には、南海諸島からも、北の狩猟・遊牧系の地域からも多様な民が流れ着いたが、やはり稲作を伴って入ってきたこの長江文明の人たちが最も多かったに違いない。稲、コメだ。この栄養価が高く豊かに実る食物を人類が獲得し、それを栽培した民族は急速に繁栄した。中国では北方の民族が国家・帝国をつくるが、その文化的・人種的内実はかなりの程度、この稲作民族によって形成されたと思われる。日本列島などでも、数的にはこの長江文明の人々が他を上回っていただろう。

中国の歴史では、侵略してくる北方民族の支配を受け入れながら、常にそれを同化し結局は中華文明の体内に取り込んできた。そのメカニズムの中心にあるのが「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」と言われた稲作文明の豊饒な経済力だったと思う。「米を食う民族は支配しない」。しかし、支配されながら結局は他を圧倒する。

ブルックリン中華街の魚屋さん。
中華街の魚屋さん。
ブルックリン・中華街の八百屋さん。
中華街の八百屋さん。

そう思って、毎日、この中華街を散策している。最近、中古の電気炊飯器が手に入った(粗大ごみで道路に出ていた)。ありがたい。これでコメが食える。米国のコメ(ほとんどがカリフォルニア米)はパンなどより安く(1キロ1ドル数十セント)、腹にたまるしお金の節約になる。長年親しんで私の身体にもなじむ。

カリフォルニア米はだいたい日本のコメと同じ短粒米でブランドも日本名だ。それを中華街で売っている。その米をおいしく炊く電気釜も日本で発達したものだが、アジア各地、そしてこのアメリカの中華街でも大いに利用されている。日本列島に来た民も稲作文明の発展にかなりの貢献をしたといえる。

中国系食料品店で、漬物のような「おかず」商品をいろいろ物色している。さすが長江文明の民。程よい塩味の効いたシナチクのようなもの、たくあんのようなもの、ナメコのようなもの、豆でつくった肉の食感もの、その他極めて多様な「おかず」用の伝統食品がある。日本の食文化と似たところもある。納豆、豆腐もこの長江文明起源だ。近代国家でつくられた分断を越え、長い文明の流れに寄り添いながら、ありがたく日々を生かさせて頂いている。