人類のアフリカ多地域進化説

現生人類はアフリカ起源で、5万年前にユーラシアに出た(アフリカ単一起源説)。世界各地で独立に進化したとする説(多地域進化説)は間違いだった。だが、そのアフリカ内で進化はどう起こったか。実はそこで「多地域進化」が起こっていた。独立した個体群による多地域での進化がなおかつ相互に影響しあう第三の人類起源論「アフリカ多地域進化説」を紹介する。

日本人もアフリカ起源

日本人はどこから来たか、「日本人の起源」という議論があまり好きではない。我々は5万年前にアフリカから来た。アフリカ原産の外来種だ。それで終わりでいいではないか。自然保護の立場から外来種は駆除し、列島の古くからの自生種ニホンザル(150万年前から居る)などに道を渡すべきだ。

ということで議論を終わらせる気は無論ない。5万年前にアフリカを出てから、特に、この列島にたどり着き混血もしていく数万年を、少し詳しく調べるのは興味ある。しかし、日本人特質論にねちねちと拘泥せず、「我々はアフリカ原産の外来種」と割り切って終わるのも時には必要と思う。

私たちの故地アフリカ

我々の故地はアフリカである。我々は、クジラでも北極熊ででもモグラでもなく、霊長類としての出自をもつ。霊長類は熱帯の暖かい環境に生育する動物で、広域が熱帯に属するアフリカは理想的な故地だった。豊富な森林が茂り、そこで、対向した指でぶら下がる樹上生活を始めたことで、それ以後の進化の道が切り開かれた(手の器用さ、直立二足歩行の可能性など)。

アフリカは十分に大きく、各地に局所的環境と固有種を生み出すに充分の生態的余裕があった。しかし、ユーラシア大陸の大山脈、砂漠、寒さなどのような移動を決定的に妨げる自然条件はなかった(サハラ砂漠も緑の大地だったことがある)。樹上生活から草原に出た人類の祖先は、広大で多様な環境があり程よく接合したこの大陸で進化した。各地で独自の生をはぐくみ、多様な種に分化し、なお全大陸的連携を行って有機的に絡み合い、それまでの動物が経験したことがなかったような段階に私たちを導いていった。故地・アフリカの大陸が私たちを育てた。

多地域進化説と単一アフリカ起源説

現生人類(ホモ・サピエンス)がどこで生まれたか、その起源をめぐっては2つの対立する仮説が常に存在してきた。まず「多地域進化説」。ヨーロッパ、アジア、オーストラリア、その他世界各地で独自の人類進化があり、現在の人種・民族につながる地域的変異のある人類が生まれてきた、とする。さすがに現代では、各地で類人猿から進化したとは言わない。猿人段階まではアフリカで進化してきたことを認めながら、約200万年前、ホモ・エレクトス段階で世界に拡散した原人が各地で独自の進化を遂げ、現代に至る人類分布を形成したとする。

これに対し、もう一つの「単一アフリカ起源説」は、ホモ・エレクトスが世界各地に展開したのは確かだが、新人ホモ・サピエンスは約30万年前か約50万年前からアフリカ内のホモ・エレクトスから進化し、約5万年前にアフリカを出て世界に広がった、他の古人類は絶滅したとする。

出土した化石、現代人及び古人類のDNA解析から、アフリカ単一起源説(出アフリカ説)がほぼ正しいことが証明されているだろう。確かにアフリカを出た現生人類はユーラシアでネアンデルタール人、デニソワ人、その他「ゴースト人類」と交雑したが、それは数%の痕跡に留まり、アフリカ起源が基本であることに変わりはない。「出アフリカ後、多地域の旧人類から一定の影響も受けながら」と多地域説に少し妥協した形のアフリカ起源論(揶揄的に「アフリカほぼ単一起源説」mostly African origin modelという)に落ち着いているだろう。

古代DNA研究からの揺さぶり

近年の古代DNA研究が、人類起源説に様々な揺さぶりをかけている。例えば古代DNA研究の旗手デービッド・ライヒは、その著書『交雑する人類』(日向やよい訳、NHK出版、2018年)で、ホモ・エレクトス(原人)段階ではユーラシアが人類進化の主舞台だったとの大胆な仮説を出した。確かに猿人段階までは人類はアフリカで進化したが、原人段階の150万年間以上は、ユーラシアにジャワ原人、北京原人、フローレンス人、ルソン人など多様な地域的変種が出現し、進化の需要な舞台となった。その多様性の中の一部がアフリカに戻り、アフリカ内でホモ・サピエンスへの系統進化を開始した、とする。(この辺の議論について、詳しくは前稿

しかし、そのライヒでも、ホモ・サピエンスがアフリカ起源で5万年前にユーラシアに出たという点は否定しない。前掲書の冒頭で、古代DNA研究の威力を示した最初の事例として、現代人のミトコンドリアDNA内突然変異の統計的分析で20万年前のアフリカに「ミトコンドリア・イブ」が居たことを示した研究をあげる。「多地域進化説は、(180万年~200万年前に世界に拡散した)ホモ・エレクトスの子孫がアフリカとユーラシアで並行して進化し、今日各地で見る諸集団をつくったとする。だから多地域進化説は、現代人のミトコンドリアDNAの中に約200万年前までに分化したシーケンス(塩基配列)が存在すると予測した。だが、実際には全ての現代人がその10分の1ほど最近のミトコンドリアDNAを共有しているとの結果が出て、人類がおおむね、最近アフリカを出た者たちの子孫であることが明らかになった」(David Reich, Who We Are and How We Got Here, 2018、Chapter 1、邦訳『交雑する人類』日向やよい訳、2018年、NHK出版)という。

その他、丸い頭骨などホモ・サピエンス身体形状をもった20万~30万年前の化石人骨がすべてアフリカ出土であること、約5万年前に西ユーラシアでの石器形態が劇的に変化し、その後も数千年ごとに変化が起こるようになったこと、おなじく同時期から美的・精神的意味合いをもった工芸品遺物が急に多くなること、約4万年前にヨーロッパからネアンデルタール人の痕跡が消えることなどのエビダンスを出す。そして、「これら全ての変化の自然な説明は、祖先に『ミトコンドリア・イブ』を含む洗練された新しい文化をもった現生人類がユーラシアに拡大してきたこと、そしてそれまでそこに住んでいた人々に取って代わったということだ」と結論づける。

この後ライヒは、遺伝子情報全体の20万分の1に過ぎないミトコンドリアDNAだけでなく全ゲノムを解析する意義を説明していく。自分たちの研究で、現生人類とネアンデルタール人の交雑があったことが示すデータが出てきても「出アフリカ」説に深くのめりこんでいたので、にわかには信じられなかったことなどにも触れている(Chapter 2)。同書は、そちらが中心で、アフリカ単一起源説に一部修正を迫る内容なのだが、それでも、出アフリカの大筋は間違っていなかったことを最初にきちんと抑えていることは確認しておきたい。

アフリカ多地域起源論の登場

アフリカ単一起源説の勝利には弊害もあった。人類(もしくは生物一般)は特定の一地域で生まれる、そして一方的に広がるという単純な観念を植え付けてしまった。進化が生まれる混沌とした背景を見えなくさせた。そして、一か所で生まれるなら、それがアフリカだとして、そのどこだったか、とさらなる追求が続く。南アフリカか東アフリカか、中央部大地溝地帯か、コンゴ川流域か、当時緑の平原だったサハラ砂漠地域か、と。

いや、そうではない、進化というのは多くの地域での多様な変異が互いに影響を与えあい広域的に進むものだ、と主張する一派がそこに現れた。「アフリカ多地域進化説」(African Multiregional Origins model)と言われる。人類の起源がアフリカであることは確かだが、そのアフリカ内では、多地域に多様な変異が生まれ、それが交流し時には交雑もして有機的に進化がすすんだ、と言う。「構造化されたアフリカ・メタ個体群モデル」(Structured African Metapopulation model)とも言う。説明的に「エコロジカルな変化の結果として地理的に構造化された副次集団間の動的な結合と分離の枠組み」(model of dynamic connections and disconnections between geographically structured subpopulations as a consequence of ecological changes)とも言っている。2019年9月のネイチャー・エコロジー&エボリューション誌に発表されたエレノア・セリーらの論文が次のように語る。

「最近の単純な出アフリカ説は、人類が過去10万年間にアフリカの単一地域から出て、世界に広がったと提起する。このモデルを検証することで我々の最近の人類の起源について理解が深まったことは疑いないが、ますます豊かな考古学的・人類学的・遺伝学的・古生態学的データが得られる中で、なお有効なモデルと言えるだろうか。我々は、この定式化が今では人類進化研究の阻害要因となることを示し、構造化されたメタ個体群モデルへの移行を呼びかける。」「一連のエビダンスは、我々が人類の起源をより現実的枠組みで理解しようとするなら、アフリカを大陸全体として研究の焦点とすべきことが示唆される。化石データが示す通り、現生人類を特色づける身体的形状は単一地域で継起的に出現したのではない。アフリカ全域で様々な時期に多様な形質が様々に結合し、モザイク状に現れてきたものだ。現生人類に向かう個別分散的かつ大陸規模の動きであり、同様に、中石器時代-それは人間的な認知機能が生まれた時期と考えられている-も、アフリカ全域で複数の中心があった。古気候ダイナミクスが諸変動を引き起こし、棲息可能域が長期にわたり変わり、その連続性が断たれたり復活したりした。」(Eleanor M. L. Scerri, Lounès Chikhi and Mark G. Thomas, “Beyond Multiregional and Simple Out-of-Africa Models of Human Evolution,” Nature Ecology & Evolution, October 2019, pp. 1370-1372。また、この解説記事も参照。)

また、その前年7月のオープンアクセス誌Trends in Ecology & Evolutionに発表された同趣旨の論文では次のように言っている。

「初期ホモ・サピエンスの化石は、現生人類の形態に向かって一直線に進化が進むようなことは示していない。初期のホモ・サピエンスと目される化石群には、かなりの形態学的多様性と地理的分散が見られる。近年の考古学的・遺伝学的エビデンスとも考えあわせれば、我々の種が、強く分割され構造化された副次集団の中で現れ多様化したことが見て取れる。アフリカ全域に散りながら時に遺伝子交換により結びつく諸集団を形成していた。そしてこの『アフリカ多地域主義』モデルは、ホモ・サピエンスと系統的に乖離した古人類との多地域での交雑も含む。そうした分割された集団は、生態学的な境界の変化とともに形成・維持され、人類が単一の地域、棲息空間に固有の存在だという見方を崩し、アフリカ起源ということのしばしば忘れられる複雑性も語っている。」

木から網目状の進化モデルへ

やや抽象理論に走りすぎている感もあるが(ということは日本人好みかも知れない)、メタポピュレーション(メタ個体群)理論を援用したアフリカ起源論、その中での多様な相互作用を強調する考え方だ。言葉で聞くよりも、上記ネイチャー系誌記事の中にあるモデル図(Figure 2)を見る方がわかりやすいかも知れない。人類の進化について、木(系統樹)型のモデルと、メタポピュレーション型モデルを対比している。木型では幹から枝が出て細かくなり、絶滅する枝がある中で残って繁栄する枝もある、という形に描かれる。メタポピュレーション型は、分裂・絶滅する系統もあるが、互いに融合する糸もあり、全体が網の目のような形状になる。

ホモ・サピエンスの進化について最近のアフリカ各地での新発見が、こうした理論に勢いを与えているだろう。2017年に、モロッコ出土の頭骨や石器が、30万年前のホモ・サピエンスのものであることが確認された。それまでは、エチオピアで19万5000年前のホモ・サピエンス人化石が出るなど、東アフリカがサピエンス進化の主舞台と思われていた。しかし、モロッコは東アフリカから随分離れている。2018年には、イスラエル出土人骨が18万5000年前のホモ・サピエンスのものとわかった。2019年には、南アフリカ出土のやや原始的な特徴のある頭骨(フロリスバッド頭骨)が26万年前のホモ・サピエンスのものであるとする論文が出ている。これら多地域での独特なホモ・サピエンス形状が影響しあって徐々に進化が進んでいくとするような理論枠組みが必要になった。

「アフリカ単一」と「多地域起源」の折衷ではない

面白い理論が出てきたものだ。あくまでアフリカ起源論である。しかし、アフリカの中では多地域起源論だ。両者の折衷とも言えるし、アフリカ起源説の中にかつての多地域進化説を復活させたとも言える。だが、注意深く見れば、そのどれでもない。形式上は両者の中間のように見えるが、進化のとらえ方、生物世界のダイナミズムに一歩踏み込んだ深みのある理論になっている。セリーら自身も、そのことについてはきちんと念を押している。

「このような汎アフリカ的起源は、便利なので『アフリカの多地域進化説』と呼ぶが、古典的な多地域進化説やその修正版と混同されるべきではない。古典的多地域進化説は地理的連続性に基づいており、その修正版にしても、祖先からの原住の民がそこに常に現実に存在してきたという考え方をしている。これに対抗していた出アフリカ説モデルも、我々すべての始祖となる単一の『植民者』集団の存在を考える点で問題があった。両者とも、哺乳類の種を成功させている要因を理解していない。棲息範囲を拡大しながら、新しい環境を利用し、変化に適応し、個体群間の連携を維持する能力が重要だった。他の侵入種同様、人類もアフリカ熱帯の安楽な空間の内と外に繰り返し拡大していった。」

多地域進化説もアフリカ単一起源説も、進化の考え方が機械的だ。どこかで生まれた新種が、片方は同一地域で、他方は外部に拡大して繁栄していく。各地の独自多様性がなお相互に影響しあい接合し、多域的に発展していくという有機的な全体をとらえきれていない。それがなければ進化の複雑な実相を正しくとらえられないし、「この系統は絶滅したが、こっちは残存」などと指摘するだけで、融合する流れは見失われ、異種間交雑も文脈の中に的確に位置づけられない。統計学的なコンピュータモデルにも欠陥が紛れ込み、古代DNA分析が見当違いの計算結果を出すかも知れない。

大陸近傍に拡大するメタポピュレーション型進化

アフリカは独立した大陸だ。しかし、内部に相互につながる一定の開放性ももっており、そしてその開放性は必ずしもアフリカ内にとどまらない。アフリカはスエズ地峡でわずかにユーラシアとつながっているし、ジブラルタル海峡でヨーロッパ大陸と近接し、アラビア半島南西端もエチオピア高原方向に突き出ている。アフリカ大陸全体で作動したメタ個体群の進化過程は、大陸外にも一部はみ出ていった。多くの生物と同様に200万年前のホモ・エレクトスや5万年前のホモ・サピエンスが敢行した出アフリカもその一部だった。そして少なくとも近傍諸地域がメタ個体群進化プロセスに巻き込まれた。イベリア半島、ギリシャ、イスラエルなどではその化石証拠も出た(*下記参照)。そしてユーラシア大陸に展開したホモ・サピエンスが、その地でネアンデルタール人、デニソア人などと交雑したのも、そうした大きな枠組みの中の(周辺部での)一部だったと言えるだろう。

*2018年1月のサイエンス誌論文は、イスラエルのミスリア洞窟出土人骨が、18万5000年前の現生人類のものと発表した。2019年6月には、ギリシャのアピディマ洞窟出土の人骨が21万年前のホモ・サピエンスものとする研究が出た。アフリカ内だがヨーロッパに近いモロッコ出土の頭骨、石器が、2017年6月のネイチャー誌論文で、30万年前のホモ・サピエンスのものであるとされた。さらには、かなり離れた中国・湖南省で出土した歯が2015年10月のネイチャー誌論文で、12万~8万年前のホモ・サピエンスのものと判定されている。(詳しくは前稿

進化過程のとらえ返し

確かに、ホモ・サピエンスのユーラシア拡大は劇的な変化をもたらした。定常的な生態系の中で、内的必然の結果としてゆっくり進行した変化ではなかっただろう。そして、そのような外部からの急激な変化は、自然界でまれに起こる。天変地異、急激な気候変動、大規模な絶滅など。人間の世界史でも同じだ。恐慌、革命、戦争、植民地化、パンデミック等々で人間の社会が急速に徹底的に変革されるときがある。ホモ・サピエンスのユーラシア拡大時にも絶滅や生態系の破壊など、自然界と人類社会は大規模な変動に見舞われただろう。

しかし、それは単なるAからBへの変化ではない。Aが絶滅してBが取って代わったという単純な変化ではない。激しい変化の中に、それへの抵抗があり、揺り返しもあり、さらなる二次、三次の変化があり、折衷があり適応があり、新しい秩序に均衡していくまでその生態系(もしくはメタ個体群)の内部的調整過程が続いた。そうした複雑なプロセス全体は、やはりそのような全体としてとらえられ、分析されなければならないだろう。そういう分析枠組みの端緒を「人類のアフリカ多地域進化説」が与えてくれているように思う。