「人新世」の危機

岩波『世界』が「人新世」(Anthropocene)を特集し、いよいよ日本の思想界もこの概念を基軸にした地球環境問題検討を本格化するようだ(『世界』2021年5月号、特集1「人新世とグローバル・コモンズ」)。

地球の歴史は、大きく「代」、そして「紀」、その次に「世」のレベルで分けられる。現在は新生代第四紀完新世(昔は「沖積世」といった *1)、恐竜の居た時代は中生代のジュラ紀とか白亜紀とかだ。現在は氷河期が終わる約1万2000年前からの完新世(Holocene)だが、いや、ここで人類がとてつもない活動を初めてまったく新しい時代「人新世」(Anthropocene)が始まったのだ、という主張がここ十数年活発に出されるようになった。

*1 新生代第四紀は、更新世(Pleistocene、約258万年前~約1万2000年前)と完新世(Holocene、約1万2000年前~現在)に分けられる。かつて高校地学を学んだ面々には、洪積世(Diluvium)や沖積世(Alluvium)の方がしっくりくるが、現在の知見からは更新世、完新世とすべきとのこと。「洪積台地」「沖積平野」などの言い方は文学的にもニュアンスがあるので残念だ。

確かに、昨今の人類の活動で、(核実験などによる)放射能物質は堆積するわ、プラスチックその他の人工物は増えるわ、動植物も大量絶滅するわ、大変な事態が進行していて、未来の地質学者の視点から見てもまったく別の地質時代が始まったことは歴然とするようだ。その人新世開始時期については、人類が農耕を始めた時、産業革命の時期、核実験がはじまった1940年代以降など、いろいろ意見が出ている。

人類が招いたこの未曽有の危機に、新しい地質学的時代区分を与えることで、我々の人類史を広大なスケールからとらえ直せる可能性があり、刺激的な問題意識であることに異論はない。

新生代の終わりの始まり

だが、素人目にもいくつか疑問がある。第一に、皮肉的な見方だが、人類社会はあと1万年どころか1000年もてばいいところではないか。こんな(地質時代的に見て)短い時期を一つの「世」にするのは無理がある。人類を含めた多くの脊椎動物が死滅し、次の時代、例えば「人無世」(英名は知らない)が始まる直前の断末魔地層と見た方がいい。中生代末期(約6600万年前)に隕石が衝突して恐竜他の大量絶滅があった「瞬間」と同じだ(この非連続境界に、隕石起源の高濃度イリジウムを含む粘土地層が世界的に認められる)。完新世の最末期、いや新生代そのものが終る画期的境界と見る。

中生代末のときも、巨大隕石の衝撃、熱放射、大地震、熱波、爆風、大津波、硫酸雨、海洋酸性化、太陽光遮断による寒冷化などで瞬時から数年のうちに大量の生物が死滅したが、さらにその後数十万年をかけて、二酸化炭素増大による温暖化で残存生物の多くが絶滅した。当時の絶滅の「瞬間」は、現在で言えば完新世より長い時間だ。我々が「人新世」と意識し始めた激烈な環境変化の時代も、地質学的時間レベルでは、この瞬間的インパクトを刻印する地層帯として残る。

大気中に猛毒・酸素があらわれた

第二点。生物による地球生態系の大規模な改変はこれが初めてではない。例えば、約32億年前の先カンブリア時代に現れたシアノバクテリア(藍藻)。地球史上初めて光合成を開始し、最初海中にやがて大気中に酸素を吐き出すようになった(以下、Wikipedia「地球史年表」他関連項目、大瀧雅寛「環境問題の歴史」など参照)。それまで地球上には(大気中にも海中にも)酸素は存在しなかった。酸素発生は、その後これに適応して効率的呼吸を行う高等生物を進化させていくが、それまでに居た生物にはとってはとんでもない猛毒だ。恐ろしい規模の絶滅が起こった。

二酸化炭素濃度が0.04%から0.06%に増えるどころではない。猛毒の青酸が地球に充満していくような話だ。

二十数億年前には酸素は大気中にも多く供給されるようになり、紫外線と反応してオゾン層をつくった。これにより太陽からの有害な紫外線が減少し、生物の陸上進出が可能になるが、逆に見れば、その後地球環境を破壊する危険な陸上動物の出現を許してしまった。それまで平穏な生態系を維持していた水深10メートル以下の海中世界も安泰ではなくなった。

エディアカラ生物群の大量虐殺

あるいは、古生代初期、5億4000万年前前後の「カンブリア爆発」期。全球凍結を生き延びた生物たちの中から、目を備え泳ぎ回る能力と固い外皮を得た生物群が登場した(アンドリュー・パーカー『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』)。ふわふわ漂うような既存の大型軟体生物「エディアカラ生物群」をことごとく食い尽くし大量絶滅を招いた。

また、光合成生物はその後も、幾度となく地球大気の組成を大きく変え、熱暑期や氷河期をもたらした。例えば3億6000万年前から3億年前の温暖な中生代石炭紀には大規模森林が繁茂し、今日の埋蔵石炭の多くを形成した。活発な光合成により大気中の酸素濃度が増え、二酸化炭素が減少。3億年前には酸素濃度が地球史上最高の35%となり(現在は21%)、二酸化炭素減少は1億年にわたる大規模な氷河時代を招来させている(カルー氷期)。

人類が地球環境を破壊する、と考える人間のおごり

つまり、生物は、地球環境に適応して生き延びるだけでなく、時にこれを劇的に改変もした。そのたびに大規模な絶滅が発生したが、それは当の生物たちにとってはともかく、地球にとっては自然的プロセスの一部であり、その先に別の時代の発展を生み出す契機でもあった。

現在の「人新世」でも、たとえ人類が核戦争で自身を何百回分も絶滅させ、他の多くの動植物を道連れにしたとしても、数百万年もたたずに地球環境は復活し、数億年後には昆虫から進化した新たな知的生命が地上に繁栄しているだろう。地球にとって人類の影響は植物やシアノバクテリアほどではなかった。人類が自分で自分の首を絞め仲間の生物と共に勝手に滅ぶのであって、地球環境は永続的な営みを謳歌しつづける。