被災地に「公共交通機関で行ける所まで食料持って日帰りで」

「公共交通機関で行ける所まで食料持参で日帰りで」というボランティア方式なら被災地への負荷は最小限に抑えられる。すべてをいっしょくたに「ボランティアは迷惑、行くな、邪魔になる」の断定は間違いだ。少しでも可能な支援を追求すべき状況の中で有害でもある。

専門的ノウハウのあるボランティア、NPOはさらに奥に行く必要があるが、私のような技能のないボランティアは鉄道、バスで行けるところで留まる。徐々に復旧する周辺部をできるだけボランティアが担い、より多くのプロに激甚地にまわって頂く。後方支援、「支援の支援の支援」もボランティアの重要な役割だ。目立たない裏方の仕事だ。

22日にJR七尾線が七尾まで復旧し、中能登まで負荷を与えず入れるようになった。金沢にはネットカフェを含め安宿の空きがたくさんある。ここなどを拠点に七尾まで日帰りで行ける。七尾線は15日に羽咋まで復旧していた。16日に行ったが、そこから七尾までバスがあった。乗った客は私以外に2人だけ、途中で下校中の小学生が多数乗り降りした以外、乗客は少なかった。通しで乗ったのは私だけ。道路も混雑してなかった。一方、羽咋から志賀町まではバス便が止まっていた。直線距離7キロを歩けるかと思ったが老体には無理だった。しかしこの辺の国道249号線は混雑していなかった。妙成寺付近を通る旧道はがらがらだった。海沿いの自転車道は、志賀町境から羽咋まで歩くうち自転車は3台しか通らなかった。液状化の被害の大きかった内灘町の一角は金沢市郊外都市部にエアポケットのように存在する。アクセス的にはまったく問題ない。

5日にワゴン車で被災地に物資を届けた迷惑系ユーチューバーは確かに問題もあったろうが、深夜に行くと道路も空いていたと言っているのに注目した。深夜に行って物資を配りまた深夜に帰るという支援方法があったのかも知れない。行政や専門的支援活動の人たちはこの面も充分検討したと信じたい。ボランティアはどう動くと迷惑になるか慎重かつ厳格に考えなければならない。しかしそれは、どうやれば迷惑にならない支援ができるか、この困難な状況の中で最大限有効な方法を模索するためだ。刻々と変わる実際の状況を確実に把握し、柔軟かつ創意的に対応しなければならない。ネットに蔓延する固定観念的なボランティア迷惑論は、国民の間に起こるボランティアの志を萎縮させ、それを組織するNPOの活動も隠然と抑止する役割を果たしているように思える。


以上のような内容の文を22日、ボランティア迷惑論満載のYahoo!ニュース・コメント欄(ヤフコメ)への投稿として書いた。するとヤフコメは400字が上限らしくはね返され、大幅に縮めて投稿した。が、コメントへの反応「共感した」「なるほど」は伸びず、大海の中に泡と消えたようだ。(ヤフコメにはルールを守ったボランティアを呼びかける良心的投稿もあるが、9割以上が「行くな」論で固まっている。ボランティアへの嫌悪を感じさせる投稿も多い。良心派も大勢に流されているように見える。)

能登行き・続編

「公共交通機関で行ける範囲」に、7日、8日に続き16~20日も行った。可能な限りボランティアの可能性を追求したが、できなかったことを認めなければならない。行政や団体にやたら問い合わせするのは控えなければならない(余計な負荷になる)。ウェブ、張り紙、実際の街路での活動状況などを見て判断する。宿に泊まれるなら、そこでにわかボランティアをしてもいい(身元を登録するので不審者とは疑われることを回避)。だが、金沢で泊まった2500円ドーミトリー宿では、付近に被害の跡がなく、屋内でも「お皿が4枚割れただけ」とのことだった。

残念ながら「ぽっと出のボランティア」の出幕はなかった。このところ、NPOとの関係が薄くなっていたことの自業自得、と反省する。

羽咋に泊まれた

七尾に行った1月16日、金沢まで戻る予定だった。断水している七尾では宿も開いていない(もっとも私の泊まれそうな安宿をチェックしただけだが)。水が復旧している羽咋でもかなりの宿が休業。が、一応調べると、3800円の宿が営業しており、かつ空きがあった。泊まらない手はない。動き出した経済にきちんとカネを落とすことも重要だ。こぎれいなビジネスホテルでバス・トイレ付き。かなり勉強している宿と見た。

宿に損傷はなく(だから開いているのだ)、周囲でも復旧作業をしている様子はなかった。近くの大型スーパーは普通に開いており(混雑なし)、何でもモノが買えた。

宿に入ってすぐ(16日午後6時42分頃)、比較的大きな余震があった。この地域の人々にとってはそんな大きいとは言えないのだろうが、どきりとした。隣町の志賀町では震度5弱を記録したという。

本震で最大震度7を記録した志賀町の隣街で、こんな快適に眠れてよかったのか、と思いながら目覚めた翌17日、この時期の日本海側としては珍しく雲一つない快晴だった。海岸(千里浜)に出てみると、浜に大量のゴミが打ち上げられていた。こんなところまで津波が来たのか。

羽咋市。外見からは深刻な被害をうけたようには見えないが、特に川や海沿いの住宅街で液状化とみられる被害(割れ目や段差)が確認できた。しかし、復旧作業で混雑しているわけではなく、むしろ、この時期の能登の街がそうであるように閑散としていた。
羽咋付近の高速道路「のと里山海道」(E86、県道60号線)の状況(1月17日午前11時頃)。右側が能登方向に向かう。

浜で流木を探す老人

物体の散乱するその浜で、一人のおじいさんが何かを集めていた(いや、私もおじいさんなのだが)。津波はすごかったですねえ、と話しかけたら、これは津波ではないと言う。海流の関係でこの辺にゴミがたまり、風で乗り上げてくるのだ、と。

この浜で育ち、昔から流木を集める趣味があったという。きょうもいろいろ面白い流木を見つけた。「ほら、この流木はまるで鷹のように見えるだろ」と流木を見せる。なるほど、鋭い目の鷹の頭部そっくりだ。

老人はあの地震のときも浜で流木集めをしていたという。そろそろ切り上げて帰ろうと川べりを上り始めた時、4時10分の揺れが襲った。

津波は能登半島の東側が中心で、幸い羽咋の浜はあまり影響がなかったらしい。震源がもう少し半島西海域に寄っていたら、このおじいさんはあぶなかったかも知れない。

羽咋の海岸(千里浜)から北方向を望む。志賀町は突き出た半島の向こう側。浜には大量のゴミが打ち上げられている。この千里浜は「なぎさドライブウェイ」とも言われ、砂が締まって固く、車やバスも走行できるという。写真ではほぼ見えないが、老人が流木探しをしていた。
老人が見せてくれた鷹の頭そっくりの流木。被災地ではどうも個人や私宅を撮るのははばかれる。

釜石で話した高齢女性

東日本大震災の後、最初に三陸海岸に入ったときのこと(思えばこのときも「鉄道と歩きで行ける範囲に日帰りで」だった)を思い出した。釜石だったと思うが、徹底的に破壊された海岸の街を高台から見ていたとき、現れたおばあさんが私に話しかけてきた。内容は忘れてしまったが、津波のときの話、その後の生活の話。いろいろ話してくれた後、こんなことを言った。

「こんなこと避難所では話せないのよ。周りにはもっとひどい目にあった人や、家族が亡くなった人が居るの。外出してきてあなたに話せてよかったわ。」

ぼんやりと街を見下ろしているまだ少しは若かった私は外からの訪問者だと分かったのだろう。だからいろいろ話しかけてきた。その時私は、大学からボランティアを組織するため(格好つければ)先遣「調査」のために来ていた。しかし、こんな風におばあさんの話を聞いてしまって、少し小さなボランティアもしてしまったように思った。

志賀町境まで

専門的なノウハウをもったNPO、ボランティアは激甚地域にも行くべきだ。それが非難されるようなことがあってはならない。しかし、私のような何の技能もない者は「公共交通機関で行ける所まで」だ。そこから歩いて行ける範囲もいいだろう。最大震度7を記録した志賀町までは直線距離にして約7キロ。歩いて行けるのでは、と思って行ったが、無理だった。町境まで行って引き返してきた。老人が無理して行き倒れれば、それこそ医療・救急サービスへの余分な負荷になる。

ただし、下記の通り、アクセス路はかなり空いており、自転車でも行けるし、車でもこの付近であれば問題なさそうであることは確認できた。

国道249号線の志賀町境。羽咋市側から。志賀町の中心・高浜地区にはまだ4キロ程度ある。半島西岸部を進む249号線は、奥能登では通行に困難があるが、この辺は普通に進んでいる。
志賀町方向。高浜地区は半島の付け根(写真右端)。多数の風車が見えて、その半島の先端付近に志賀原発も見える。

羽咋市域のはずれに名刹、妙成寺がある。重要文化財で日本海側随一の五重塔もある。拝観料でまた経済にカネを落とせるぞ、と思ったが、休所していた。大きな損傷はなかったが、境内全体に目がまわらないので安全のため拝観を休止しているとのこと。

国道249号と並行する旧道はほとんど交通がなかった。前方に妙成寺の五重塔が見える。
妙成寺周囲の滝谷町には古い街並みが残る。しかし、地震による損傷は、少なくとも外見上は見られなかった。どこでも高台は地震の被害が少ない。海沿い・川沿いなど低地での被害が目立つ。
妙成寺の入り口。残念ながら拝観を休止していた。
能登には、小松空港を起点に金沢を経て半島を一周する海沿い自転車道「いしかわ里海めぐりルート」(全長373キロ)が整備されている。写真は志賀町方向。奥能登では損傷が大きいだろうが、少なくともこの辺は走れる。自転車野郎たちの出番ではないか。リヤカーでも付けて物資も運べるだろうし、被災地ボランティアの往復に使ってもいい。
同じ自転車道。羽咋市方向を望む。遠く白山(2,702m)が見渡せる。志賀町境から羽咋市内まで約6キロを歩いたが、自転車は3台しか通らなかった。有効活用されているように思えない。災害時の自転車活用が今後の課題。すでに阪神大震災の際は大活躍している。田中康夫の『神戸震災日記』(新潮文庫)は、大阪の宿を拠点に原付バイクで神戸に物資を配りまわった活動記録だ。

液状化被害の内灘町

翌18~20日は金沢市内の2500円ドーミトリーに宿をとり、金沢周辺を歩いた。輪島、珠洲と同じくらいの激しい被害を受けた内灘町は、金沢に近く、その都市圏郊外部にある。アクセスにはまったく問題なく、これを同等に「行くな、迷惑になる」と論じるのは無理だ。

金沢駅東口の巨大ドームの地下空間一角に北陸鉄道(北鉄)の駅があり、内灘行きの電車が出ている。終点で降りると、白帆台行きのバスが待っていた。被災地の正確な位置はわからなかったが、そのバスに乗る。白帆台はニュータウンで、真新しい一戸建て住宅が並び、高台にあるためか地震の影響はほとんど感じられなかった。液状化の被害が甚大だったのは、その東側、崖を下りた低地帯だった。

内灘駅からの北鉄バスの終点「白帆台」。高台にあるニュータウンは新築の家が立ち並び、地震の被害はほとんど感じられなかった。
その高台東の崖下低地に液状化の被害が集中していた。霞んでよく見えないが、田畑の彼方に、埋め立てられて狭くなった河北潟がある。
内灘町西荒屋地区の液状化被害。
テレビで映像が何度も流れた被害が大きかった場所。何とか車が通れるまで復旧されていた。

ネット上議論の方向を憂慮

確かに、輪島市や珠洲市の甚大被害地の映像を見て、また七尾以北の交通の困難を見て「ボランティアは無理」「迷惑」となるのはわかる。しかし、それはテレビを見ての印象的な判断であり、一面的だ。周辺部も含めて実際の状況を詳細・具体的に調べ、可能な支援の方法を考える。ベンチャービスネス的な革新性・創意性が求められる(そもそもNPOとは起業ベンチャー型公共だ)。「やがて時期が来たら」ではない。今まだ時期でない所となっている所がある。「将来的には観光で地元経済にカネを落とす支援も」なのではない。今すでに金沢以南、富山県などはその時期に来ている。金沢から七尾にかけてはその中間地域か。

客が激減した金沢市内の料理店主人が、「どんどん来て」と言えなくて、「まだ被害が大きい地域があるのに、こんなことは言いにくいですが…」と口ごもっているのを、TVのインタビューで見た。周辺地域の人たちには、複雑な気持ちがあるだろう。

ネット上に蔓延するボランティア迷惑論は、もちろんボランティアのルールを厳しく確認してもらう上で意味なしとも言えないが、あらゆる手立てを追求すべきこの困難な時期にあって懸命に方途を探る努力を萎えさせ、国民の間に高まる何かしたいという気持ちを抑制する役割を果たしているように思われてならない。甚大な災害が次々に起こる日本だ。そのたびに起こるこのようなネット上議論の役割を憂慮する。

ヤフコメなどみてるからそう思うだけだ、という指摘も頂いた。しかし、ヤフコメは、まじめなニュースと連動しており、そのネット民世界(「ヤフコメ民」という言葉がある)は、一般の人々の目に入ることが多い(ヤフーニュースは日本で最もアクセスの多いニュースポータル・サイトで、そのページビューの1~2割はコメント欄で稼いでいると言われる)。現地で懸命に活動している人々はヤフコメを書いている暇もない。何かできないか考え始めた人々がネット上の情報に向かい、これが世の中大勢の世論なのかと誤解してしまう。それが隠然たる影響を持つ。それで少しは反論も書いてみたのだが…。