七尾入り 能登中部の地震被災地

1月16日、七尾に入った。1月1日の地震で被害を受けた能登半島中央東部の街だ。前日にJR七尾線が羽咋(はくい)まで復旧し、能登中部に一般人でもたどり着けるようになった。七尾までの復旧はまだだが(22日になる予定)、来てみると何と七尾までバスがあった。14日に再開されたという。駅に降りてすぐバスが来たので乗った。七尾駅まで約1時間。羽咋から七尾まで歩いて行こうかとも考えていたが、大変な距離だった。

羽咋から七尾まで、細長い邑知潟(おうちがた)平野が続く。農村と言っても結構集落が多い。私の栃木の田舎より人口密度は高いだろう。大陸に面した日本海側はかつて先進地帯で、加賀藩は江戸幕府に次ぐ石高(102万5000石)をもち、明治13年の府県別人口は石川県が全国1位、新潟県が2位だった(東京17位、大阪34位)。今でこそ「僻地を襲った大地震」にされているが、北前船航路で繁栄した能登は決して僻地ではなかった。

現地の交通機関はすいてる

バスはがらがらだった。羽咋駅で乗ったのは私を含め2人だけ。途中、鹿島小学校で下校児童が多数乗ってすぐ降りた以外は、あまり乗客なし。終点(七尾駅)まで通しで乗った客は私一人だった。

羽咋から七尾へのバス(16日午後)は、かなり空いていた。

これが「現地の混雑」「交通渋滞」の実態だ。1月7日、8日にも北陸に来ているが、名古屋から金沢までの高速バス乗客が4人だけで愕然とした。3連休の真ん中の日曜朝なのに。高速も空いていて、金沢に10分早く着いた。今回16日(火)は8人乗っていた。うち2人は小松空港下車。敦賀付近の積雪で20分遅れたが、高速が混雑していたわけではない。

東日本大震災のとき、発災2か月後でもネット上には「行くな」の合唱があった。迷った末行ったのだが、花巻からだったか、三陸海岸に向かう列車がガラガラで、三陸はもう忘れ去られていくのか心配になったのを思い出す。

1月7日段階でJR七尾線(金沢から能登半島部に延びる)は高松までしか復旧していなかった。富山県高岡市から同県西部に向かうJR氷見線は終点まで復旧しており、こちらの方がより北に行けた(富山側もかなり被害は大きい)。この時も行けるところまで行った。今回、15日に七尾線復旧がさらに羽咋まで延びたのでこの地に再訪したわけだ。被害の最も大きかった奥能登までは無理だが、能登中部までは行ける。

「公共交通機関で行ける所まで食料持参で日帰りで」方式

ボランティアや調査に行くにも、「邪魔」にならない配慮、ルール順守は絶対に必要だ。しかし、「公共交通機関の動いているところまで、食料持参で日帰りで行く」方式ならば決して「邪魔」にならない。いずれにしても走る鉄道やバスに乗ることは交通渋滞を加速させない。人が乗れないような混雑があれば別だが、今のところ電車、バスはすいている。食料についてはすでに現地でもかなり自由に手に入るようになった。スーパーやコンビニは時短だが開いている。決して、「カレーを食ったらたたかれる」(山本太郎議員のケース)状況ではない。

金沢、富山など後方拠点都市にはネットカフェ含め安宿の空きが相当あった。むしろ両県の宿泊施設はキャンセルの激増で悲鳴を上げている。私が金沢で入った2500円ドーミトリーも半分以上空いていた。(ただし今後は支援関連での予約が増えることも考えられ、変化する状況には常に配慮していかなければならない。)

海沿い、川沿いで大きい被害

死者7名、建物被害6775棟、避難者1718名(15日現在)の七尾市。駅から港の方に歩きだして、前にここに来ていることに気づいた。何年か前、1回分残った青春18切符を消化するため(ケチだなあ)、北陸方面行けるところまで行き、たどりついたのが七尾だった。川に沿って海に続く道に見覚えがある。その両側の街並みにところどころ崩れた家が。海岸部につくられたショッピングモール「能登食祭市場」(別名:七尾フィッシャーマンズワーフ)」も損傷していて、周りは明らかに液状化現象が見られた。閉店してだれも居ない。周りにも人が居ない。

閑散として閉まっている七尾駅。写真ではわかりにくいが、道路との間に段差ができ、被害を受けていた。
七尾駅前。ホテルなどは開いていない。水が出ない状態では当然だろう。
しかし、コンビニ、スーパー、量販店などは開いている。(写真は郊外)
駅周辺にもこうした道路の段差、割れ目ができていた。
駅から港に至る通りに沿う御祓(みそぎ)川。この川沿いの道は以前は華やかな通りだったが、周辺がかなり崩れていた。全壊家屋をいくつか見たが写真を掲載するのははばかれる。
港に面したお土産ショッピングモール「能登食祭市場」(別名:七尾フィッシャーマンズワーフ)」も被害を受けて休業。入口には「負けないぞ、七尾! 皆んなで支えよう能登半島」の垂れ幕が。
海岸部は液状化の被害が大きい。
七尾港に停泊する高速フェリー「ナッチャンWorld」。防衛省が、大型フェリー「はくおう」とともにチャーターして七尾港に入港させた民間フェリー。「はくおう」は被災者の宿泊、食事、入浴に、「ナッチャンWorld」は国と自治体職員が情報収集・共有する災害対策拠点として使われるという。

正直なところ、七尾までの被災地では、完全に崩れ去った建物は意外なほど見なかった。全体の0.1%にも満たないのではないか。そういう場所の報道だけ見ていると固定観念が生まれる。実は7日に「被災地・金沢」に着いたとき、普段と変わらない駅の近代的都市空間で老若男女が楽しそうに歩いているのを見て衝撃を受けたくらいだ。

特に内陸部や高台では、少なくとも外見上は損傷をほとんど見ない。だが、(内灘町が典型だが)川・海・干潟などの近くでは被害が大きく、全壊はもちろん、たとえ崩れていなくても、部分的な損傷、道路との段差や亀裂が目立つ。

ボランティアは難しい

何かボランティアができるのではないか、という漠然とした期待があった。東日本大震災のとき、盛岡駅などで降りると、後方支援ボランティアの募集が貼ってあったのを思い出す。が、何もない。それどころか、七尾でも羽咋でも、街でボランティア作業をしている光景にまるで出会わなかった。いや、そもそも街に人が居なかった。これが能登の一般的な風景なのかも知れないが、七尾の場合、断水が続いている。家で中にも人が居るようには感じられないところが多かった。

「何か手伝えることはありますか」と会う人ごとに聞くか。それこそ「怪しい人」と思われるだけだ。避難所などをまわり、仁義を切った上でボランティアさせてくださいと願い出るか。しかし、今の私に長期のボランティアをする根性はない。そこまで進めない。

東日本大震災のときには津波被害が広範に及び、気の遠くなるような泥とガレキかき出しのボランティアがあった。家の中から、道路から、田んぼから、それが終わったら広大な浜辺や葦原から、かき出す。しかし、今は何ができるか。全壊の家は重機を使う以外ない。波打った道路、段差のできた家周りにボランティアは何ができるか。電気・上水道・通信などのインフラ復旧はもちろん、家の修理さえ、ある程度の技能がないとできない。

被災者にとっても、とりあえず家の片づけをやった、その後どうするか。ここに住み続けるか。何をどう直すか。余震も続く。もっと壊されるかもしれない。被災者たちが今後を図りかねている時に、助っ人の大量動員はかからないだろう。

周辺部分ではボランティア募集が限定的に始まっている。富山県氷見市や高岡市で県内者を対象に一時ボランティア募集があった。だがすぐ止まった。ボランティアを求める要望60件に対し、ボランティア応募が1000件を超えたという。金沢市でも13日の50人の募集があってすぐ終わった。

「行くな、邪魔になる」の誤り

朝日新聞デジタル(2024年1月14日)に、初動の遅れを反省する室崎益輝さんのインタビュー記事が載った(「初動に人災」「阪神の教訓ゼロ」能登入りした防災学者の告白)。自身、阪神淡路大地震の被災者であり、「防災研究の第一人者で、石川県の災害危機管理アドバイザーも務めてきた神戸大名誉教授」と紹介されている。自身の反省も含めて初動の遅れを悔い、ボランティアについても、大量に出回る「行くな、邪魔になる」論を批判している。行くか、行くべきでないか迷っていたときにこれを読み、背中を突かれた。大切な論点と思うので、以下引用させて頂く。

「自衛隊、警察、消防の邪魔になるからと、民間の支援者やボランティアが駆けつけることを制限しました。でも、初動から公の活動だけではダメで、民の活動も必要でした。医療看護や保健衛生だけでなく、避難所のサポートや住宅再建の相談などに専門のボランティアの力が必要でした。/苦しんでいる被災者を目の前にして、「道路が渋滞するから控えて」ではなく、「公の活動を補完するために万難を排して来て下さい」と言うべきでした。」

「地理的な要因や交通渋滞があるので、「ボランティアはまだ行かないで」と最初から強く国も県も自治体も伝えました。一部の専門性の高いボランティアも同じことをSNSなどで伝え、拡散した。/この影響で、私のような研究者や多くのボランティアでさえ、被災地に入ることをためらった。/初動が円滑で、大量に自衛隊と警察、消防を入れてぬかりなく進められていたら、百歩譲ってボランティアの規制も問題なかったのかもしれない。/でも初動で、一部のボランティアしか入らなかったために、水や食事が手に入らず、暖もとれず、命のぎりぎりのところに被災者が直面した。それなのに、ボランティアは炊き出しにも行けなかった。」

「行くのをためらった状態を作ったことは大きな間違いだったと思います。そして、先に入った一部のボランティアまでが、行政と同じように「来ないで」と伝えたのにも、大きなショックを受けました。/「ボランティア元年」と言われた阪神・淡路大震災を考えると、今回の発災では、ボランティア自身の線引きや権威主義化に違和感を覚えました。/どんな被災地にも、スタンドプレーのように目立とうとする迷惑なボランティアはいます。そういう人たちに向けて、ブレーキとしてのメッセージが必要なのは分かります。/しかし、今回は「控える」の一色になったことで、被災者にとても厳しい結果を招いたと思います。交通渋滞の問題ならば、例えば緊急援助の迷惑にならない道をボランティアラインとして示す方法もあったのではないか、と思います。」