「那須国の都」物語⑥ 渡来人は日本人だった

沖縄、東北で高い縄文系比率

2024年4月には、理化学研究所の寺尾知可史氏らが全国7地域(北海道、東北、関東、中部、関西、九州、沖縄)の医療機関に登録された現代日本人計3256人分の全ゲノム・データを解析した論文を発表し、前述「三重構造モデル」によりその起源を解析した。日本人は3つの源流(縄文系祖先、関西系祖先、東北系祖先)があるとし、縄文祖先比率は沖縄が最も高く28.5%、次いで東北18.9%、最も低いのは関西13.4%だった。中国、韓国、日本の古代人ゲノムデータとの比較も行ったが、関西人は中・後期新石器時代の黄河域中国集団との親和性が高かった。東北の場合は複雑で、縄文人との親和性が高い一方、沖縄・宮古島の古代日本人ゲノム(縄文比率も高い)や韓国三国時代(4~5世紀)の古代韓国人とも高い遺伝的親和性を示した。

やはり二重構造か

2021年に三重構造モデルが出されたばかりだが、2024年10月になってやはり二重構造だという研究成果が発表された。東京大学の大橋順教授らは、弥生人の段階ですでに現代日本人と似たゲノム構成になっていたとの研究を発表。「東アジア系と北東アジア系のゲノム成分をあわせもつ集団が弥生時代に朝鮮半島から日本列島に渡り、縄文人と混血して誕生した集団が現代日本人の祖先となった」とした。二者混血なのでやはり二重構造というわけだ。

図:ゲノム成分の割合の比較。 東京大学大学院理学系研究科「Press Releases:弥生時代人の古代ゲノム解析から渡来人のルーツを探る」2024年10月15日より。原論文:Kim, J., Mizuno, F., Matsushita, T. et al. “Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago,” Journal of Human Genetics, 70, 47–57 (2025).

この研究では、弥生系の特色をより強くもつ2300年前の「渡来系弥生人」(山口県・土井が浜遺跡出土)のゲノムデータが使われた。前出・2021年の金沢大学などの研究では、渡来系との混血が進んでいない「在来系(縄文系)弥生人」(長崎県・下本山岩陰遺跡出土)のゲノム・サンプルを使ったため、東アジア系ゲノム成分は古墳時代になって初めて加わる形になったのだという。しかも、採取したゲノム情報量が少なく、よく調べればその弥生人にも東アジア系のゲノム成分がかなり含まれていたとする(原論文、p.55)。

研究者らは一応、三重構造から出発しているように見える。「現代日本人の核ゲノムの成分は、縄文人に由来する成分(縄文系成分)、東アジア系集団に特徴的な成分(東アジア系成分)、北東アジア系集団に特徴的な成分(北東アジア系成分)の3つに大別」できるとする。しかし、「東アジア系および北東アジア系の両方のゲノム成分を有する現代韓国人を日本列島に渡来した集団と仮定」して、その集団が縄文人と混血して土井が浜弥生人が誕生したという「単純なモデル」で検討したところ、それで「土井ヶ浜の弥生時代人、古墳時代人集団、および現代日本人集団のゲノム成分をうまく説明できる」ことがわかったとする。

つまり、現代韓国人がそうであるように弥生期の朝鮮半島の人々がすでに東アジア系と北東アジア系の混血になっており、その人たちが日本に渡来し縄文人と混血したということだ。ストレートに言えば古韓国人と縄文人が混血して日本人になった、ということだろう。

確かにその方が筋が通っている。例えば、日本人がどこかに移住して、そこで混血した場合、「そこの先住民と縄文系、北東アジア系、東アジア系が混血している」などとは言わない。そこの人と日本人の混血と言うだろう。この点を原論文の方はさらにリキを入れて次のように言っている。(原論文は英語なので訳は引用者(岡部)による。「Korean」はプレスリリースに従いすべて「韓国人」と訳す。)

「本研究で明らかになった重要知見の一つは、すべての分析において、現代諸集団の中で日本人を除く他のいかなる東アジア集団より韓国人集団が土井が浜弥生人により多くの遺伝的近似性を示したということである。これは、弥生時代の日本列島への移住者が主に朝鮮半島から来ていたことを示唆する。したがって、縄文人と渡来人の混血に関する遺伝子的研究は、韓国人が列島への主要な移住者ソースだった可能性をまずは考えるべきである。混血モデル化に、最も可能性の高い出身集団を用いなければ、結果は真実の歴史から大きくはずれる可能性がある。」(現論文、p.54)

民族アイデンティティが揺るがされる

民族集団の遺伝子レベルでの起源となると、その国民のアイデンティティにもかかわるので難しい面がある。現在ネット上で見られる多くの嫌韓の方々も、君自身が85%韓国人だと言われたらショックを受けるか激怒するか。日本批判を自らのアイデンティティにするような韓国人が居るとして、やはり彼らの気持ちも複雑なものになるだろう。韓国人の場合、黄河流域の漢族に近い「東アジア系」と遼河からバイカル湖にかけての「北東アジア系」の混血だ、と言われたらどう思うのか。

だが、〇〇人の起源などというのはそんなものだ。「黄河流域の漢族」だってさらに詳しく調べれば、ユーラシア大陸の様々な起源があぶりだされてくるだろう。縄文人とて一様でなく、様々な起源があった。日本人の起源にいったいどれくらい異なる人たちの痕跡があるのか。さかのぼれば、ネアンデルタール人が何%、デニソワ人が何%というレベルにも行く。さらに6万年前のサピエンス出アフリカ時には、その前には…と、とにかく人々に受け継がれる遺伝子は、合流と分流を繰り返す悠久の大河の流れのようで、その中で特定の時期と地域の集団を恣意的に選びモデル化し、相互関連を明らかにする、というのが古代DNA学だろう。

国際報道を追うかのごとく

国際情勢並みの古代DNA研究は現在、日進月歩の勢いだ。1~2年前の研究でも翌年にはくつがえされていることもあり得る。古代DNA研究の勉強が、まるで国際ニュースを見るようになってしまった。ウクライナ情勢を知るため数年前のニュースを見てもしょうがない。ロシアの侵攻もはじまってない。あるいは、数カ月前のトランプ政権誕生による猫の目のように変わるニュースを見ないことには現在のウクライナ情勢など語れない。古代DNA研究もそのレベルになった。

上記紹介最新研究もその次々変遷していく激流の中の一つととらえたい。一つ気になるのは、釜山近郊の約6000年前の獐項(しょうこう)遺跡人骨のゲノム解析で多くの縄文的要素が見いだされたという研究だ。解析を行った篠田謙一は「朝鮮半島でも時代をさかのぼると、日本ほどではないにせよ、縄文的な遺伝子占める割合が多くなっているよう」だと言う(篠田謙一『人類の起源』 中公新書、2022年、p.215)。韓国人が単に「北東アジア系」とは区別される面があるのもその影響ではないかとも言う。

古代人は、当然ながら現代の国境線などまったく無頓着に、生きる場を求めて必死に移動・分布していった。弥生・古墳期の半島・大陸人も近くの諸島、そのちょっと先の九州島や本州島西部、瀬戸内海沿岸などに来た。1万年以上前の縄文人も、あるいはその先祖の旧石器時時代人も、南方の当時あったスンダランドあたりから(この説が一番有力になってきたらしい)、フィリピン、琉球列島、日本列島、そして朝鮮半島沿岸と渡ってきた可能性がある。フィリピン海域から見れば半島も列島も同じような場所だ。篠田も言う。

「当時は国境があるわけではありませんし、北部九州の縄文人は朝鮮半島南部の集団と交流をもっていたことが考古遺物の研究からも明らかになっています。朝鮮半島南部の新石器時代の遺跡からは、縄文人そのものといってもよいほどの遺伝的類似性をもった人骨も発見されています。むしろ縄文時代相当期の朝鮮半島南部の集団と北部九州の縄文人集団を区別すること自体にあまり意味はないのかも知れません。」(同上書、p.215)

両隣集団の影響を受けるのは当たり前だ

一つ気になるのが、古代DNAデータの解釈には「民族主義」的な偏向が入りやすい、ということだ。私たち人類は、世界中様々なバリエーションをもって連続的な変化を示してしているはずだ。だからある特定の3集団を取り出し比較すると、真ん中の集団はほぼ必ず両隣の影響が入っている。そこで、真ん中は両隣の混血だ、と短絡してまう。例えば日本人と韓国人と中国人を比べると、韓国人は双方の影響が入っている。だから韓国人は日系と中国系の混血だ、と結論づけてしまう。しかし、その先に縄文人というカテゴリーを設けると、今度は、日本人は韓国人と縄文人の混血だ、ということになってしまう。では縄文人の先に別の集団をもってくると…。何だか非常に単純なことだが、そんなことで自分たち本位にDNA系統の結論を出しているところはないか。

長江流域古代人のゲノム解析は行われていない

弥生時代は稲作流入に大きな特色があるが、篠田によると、実はまだ稲作の起源地、長江(揚子江)流域の初期稲作農耕民のゲノムが解析されていない。だから日本列島への集団移動のシナリオは完全なものでなく、「将来的には、長江流域の古人骨のゲノム解析が進めば、より複雑な日本への渡来の経路が見えてくるでしょう。」とのことだ(同上書、p.193、p.217)。

推薦図書『人類の起源』

ちなみにこの篠田謙一(国立科学博物館館長)の『人類の起源 ー古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』 (中公新書、2022年) は、日本人の起源ばかりでなく、初期猿人からネアンデルタール人、ホモサピエンス誕生と出アフリカ、ユーラシア大陸での西と東への拡大など、壮大な規模で現在の古代DNA学の成果をまとめており、お薦めだ。定説がくつがえされる話も多く、何よりも壮大なドラマ全体に詳細に踏み込み、その知識量に感服する。わかりやすく明快に書いてあるのがいい。深く理解していないと明快単純には書けないものだ。本ブログ記事が回りくどく複雑に書いているのと異なる。最新研究で人類史全体を鳥瞰するぞ、という気概を感じる。

都府県別「縄文度」の研究

上記論文を発表した東大などのグループは、2023年2月にも別の論文を発表し、地域的な「縄文人度合い」の違いを明らかにした。本土日本に居住する約1万人のゲノムデータを用いて、ゲノム中の縄文人由来変異の保有率を都府県ごとに数値化した(下記地図)。結果は、前出理化学研究所などの研究結果と近似するが、東北や関東の一部および鹿児島県や島根県などで縄文人度合いが特に高く、近畿や四国で低いことが示された。

各都府県別の縄文人度合い。出典:東京大学大学院理学系研究科「プレスリリース:縄文人と渡来人の混血史から日本列島人の地域的多様性の起源を探る」2023年2月21日

那須国の縄文度が気になる

県別だけでなく「旧那須国域」のデータも見たいが、まあそれは無理な注文だろう。将来、那須国時代の人骨がゲノム解析されれば何かわかるかも知れない。遠隔の地で誇り高き独自文化を継続させた那須国だ。おそらく蝦夷系(縄文系ということであろう)の強い結果が出るのではないかと思うが、上記地図を見る限り意外と栃木県は隣の群馬県、茨城県などより縄文度が低い。上野、常陸は多くの渡来系の痕跡を残し、早々とヤマト王権と強くつながり、強大な前方古円墳文化に移行したように見えるのだが。上野国などは、大陸渡来の馬の特産地にもなり、その主要郡が「群馬」と命名されたほどだ。

島根県など出雲地域が縄文度が強いのも意外だ。大陸・半島に近く、そこからの渡来人文化によってヤマトと拮抗する先進文化圏をつくったと思っていたが、意外と土着勢力だったのか。

那須国への渡来人、単に全体構図の一幕

那須国への渡来人の流入は確かにあったし、大きな影響を与えたのも事実だ。しかし、最新古代DNA学がもたらした知見から歴史を見直さなければならない。これまでは、ヤマト王権が外来の人をどこに配置してどううまく使って、などと語ってきたが、その渡来人は日本人の本体だった。支配層も元はと言えば当然渡来系だろう。那須国に「渡来人」は確かに来たが、それはどこへでも来た。列島中が渡来人に洗われ、変化していく。その一つの関東北部版が那須国でも進行した、だけのことだった。

東海地方からの移住者

関東における土器の様式から、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけて、東海系住民の大量移住があったことがわかっている。那須国への「外的要因」と言うからにはこれも検討しなければならないだろう。そもそも那須国に特徴的な前方後方墳は東海起源だったらしい。同じく前方後方墳が多い長野盆地の古墳を検討した『長野市誌』第2巻(2000年)は次のように述べる。

「濃尾平野を中心とする東海地方では、弥生時代後期の段階で前方後方形を呈する墳墓の祖形が認められ、前方後方墳への系列的な発展過程が確認できるとともに、分布密度がもっとも高い地域でもある。現在のところもっとも古い前方後方墳が発見されているのも東海地方である。北陸地方などにも特有のかたちのものがあることなどから一概に決めることはできないが、その形態などには東海地方のものとの共通項も多く、東日本の多くの前方後方墳は東海地方で生みだされた墳墓形態が波及したとする見方が有力である。」(pp.171-173)

この古墳状況を見ると、この時期の東日本地域を主導していたのは、のちにヤマト政権の中枢部となる近畿ではなく東海地方であったようで、魏志倭人伝に登場する邪馬台国と対立関係にあった狗奴(くな)国は東海地方だったのではないか、とも言っている。「東海地方に主導された東日本地域では、近畿以西の西日本とは異なった世界を志向していたことは事実のようである」とも。

関東への東海住民の流入

関東ではまず、弥生時代後期に相模湾・東京湾西岸に東海東部系土器の大規模な流入があった。相模川西岸に東遠江系・駿河系、同東岸には東三河系・西遠江系の土器が濃厚に見られる。次いで弥生終末期から古墳時代初頭にはこれらの土器群が霞が浦周辺の上総、常陸、下野地域にも広がり、上野西部・武蔵北部には東海の西部系の土器が出現する。特に上野の利根川沿岸低地部や武蔵北部の利根川・荒川流域に顕著で、濃尾平野で進んだ低湿地帯の稲作技術がここにもたらされたと見られている(若狭徹『古墳時代 東国の地域経営』吉川弘文館、2021年、pp.2-55)。

ただ、こうした列島内の移動に関しても、歴史的に渡来系が大規模に入ってくる大枠の中で新たにとらえ返さなければならなくなっているだろう。東海系もつまりは渡来系であるかもしれず、その移動はまた次なる渡来系の人口プレッシャーから生じたものかも知れず、その移動先にはまた前代に縄文系を圧倒していった渡来系の人々が居る、という全体的な構図の中でのとらえ返しだ。

出雲系も来ていたか

あるいはもう一つ、出雲系の移住の可能性も気になる。那須国南部、旧烏山町大桶に、出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓「亀の子塚」があったという(前沢輝政「栃木県那須にもあった四隅突出型墳丘墓」『古代学研究 』131号、1995年9月、pp.12-23)。四隅突出型墳丘墓とは、古墳時代よりも古い弥生時代中期後葉から中国地方山間部に始まり、出雲など山陰、さらに北陸地方などに広がったお墓の形だ。方墳に似ているが、厳密には弥生時代からのものなので古墳でなくて「墳丘墓」とされる。方形墳丘の四隅がヒトデのように飛び出した形をしている。ヤマトに匹敵する出雲神話をもち、独自の文化を日本海側から東北に伝播させていた出雲の墳丘墓が那須国にもあったとすると、これは面白いことになる。

那須国古墳の集中場所から4キロほど南に行った那珂川右岸の段丘上に、その不思議な形をした墳丘墓はあった。長径10~12m、短径8~10m、高さ3m程度。住民の証言と細かい観察、図示はあるが、残念ながら太平洋戦争中に崩され、畑にされたようだ。現在は建設会社の敷地になっている。

四隅突出型墳丘墓は、類似の墳丘墓が会津に1基ある(喜多方市の舘ノ内遺跡)。もし、那須国に四隅突出型墳丘墓があったとすれば、会津から北回りで入ってきたか。あるいは、群馬県には四隅突出型墳丘墓はないものの北陸系の土器などが出土しているので、信濃・上野まわりの可能性か。弥生時代末期に方墳系の四隅突出型墳丘墓が那須国に到達し、その影響でこの地に前方後方墳文化が起こった、と考えればつじつまは合う。

四隅突出型墳丘墓の西谷墳墓群2号墓(島根県出雲市)。四隅がヒトデのように突出している。

現代本土日本人:渡来系が9割

古DNA学に戻る。上記諸研究で明らかなように、どの段階で縄文系と渡来系の混血があったかの解釈に違いはあっても、現代日本人の85%程度が渡来系起源で、縄文系は15%程度だということは共通認識となっている。別データだが、全ゲノムがを現代人と同じ精度で解析できた船泊遺跡(北海道礼文島)の縄文人データを使った計算では、縄文人由来遺伝子成分は本土日本人約10%、琉球列島現代人約30%、北海道のアイヌ集団約70%という結果になった(篠田謙一、前掲『人類の起源』 、p.212)。つまり、「少なくとも本土の現代日本人に関しては、渡来した人びとの影響が非常に大きく、ルーツを考えるのであれば、主に朝鮮半島に起源をもつ集団が渡来することによって、日本列島の在地の集団を飲み込んで成立した、と考えるほうが事実を正確に表していることになります」ということだ。

さて、どうするか。私たち(本土日本人)は9割方渡来人だという。1万年以上もこの列島に暮らしてきた真の日本人、つまり縄文系、は1割に過ぎない。私たちはほぼ渡来人で、真の日本人たちを吸収してしまった。別の形で言うと、そもそも日本人というのは外国の人間で、その日本人が渡来してここの列島人を吸収した。で、この列島を勝手に日本と名付けた。混乱。わからなくなってきた。アイデンティティの危機。

数で圧倒した

私たち渡来人は戦争と虐殺で縄文人を絶滅近くに追い込んだのだろうか。必ずしもそうではない。遺跡を見ても、渡来人(弥生人)の間の戦いの痕跡は若干見られるが、縄文人が戦いで傷ついたような跡は出土していないらしい(今のところは)。逆に、男性から男性に受け継がれるY染色体ハプログループを見ると、縄文系のハプログループD系統が現代日本人の3割にも受け継がれているという。少なくとも、縄文系の男性を根絶やしにし、その女性を渡来人に嫁がせるという構図ではなかったようだ。何よりも、私たちの中に縄文人の遺伝子が残されている。融合した。平和的に共存し婚姻などで融合したのか。

それにしても新参者が85%もの圧倒的存在になるものだろうか。なりえる、ということを以下に示す。半島・大陸からの新参者は稲作という効率の高い食糧生産技術をもって渡来した。より多く子孫を残せただろう。ヨーロッパ人の北米移住でもそうであったように、新しい感染症に抵抗力のない先住民が病いで倒れることも多かっただろう。

単純な計算をしてみる。渡来人(つまり私たちの主要祖先だ)は食糧生産その他の技術・生活能力で、夫婦当たり平均4人の子どもを残せたとする。それに対して縄文人のカップルは平均3人の子どもだったとする。実際には通婚があり、渡来人は次々入ってきたし、複雑な計算をしなければならないが、単純化する。最初に1000人の縄文人に対し10人の渡来人(私たち)が居たとすると、1世代後(30年としよう)には縄文人1500人、渡来人は20人になる。2世代後でも2,250人対40人で差は大きい。しかし、10世代後(300年後)には縄文人57,665人に対して渡来人10,240人に迫る。

こうした変化は簡単な方程式で叙述されるだろうが、文章中に数式を入れるのは美学に反する(?)ので避ける。一世代ごとの増加を電卓で根気よく計算していったとしよう(実際はエクセルで自動計算)。

すると16世代後(480年後)には、縄文人も渡来人も66万人程度でほぼ拮抗する。後は渡来人が圧倒していく一方。23世代後(690年後)には約1100万人対8400万人で、縄文人は渡来人の14%以下となり、現代日本人の中の縄文人遺伝子割合程度になる。

計算を簡単にするためだったが、子どもが3人、4人残るというのはいかにも多く、すぐ人口爆発になってしまう。より現実に近づけて、縄文人人口がほぼ一定、渡来人が夫婦当たり2.1人の子どもを残すとしよう。最初の人数も縄文人10万人、渡来人1万人とする。(縄文人は一時期7万人くらいに減少したというくらいだから10万人は妥当だろう。渡来人は以後陸続と入ってくるし、弥生後期から古墳時代には100万人以上入ってきたとの推定<『科学朝日』1988年2月、埴原和郎論文>もあるくらいだから初期人口1万人でも少ない方だろう。)

すると、時間はかかるが、結果は同じだ。50世代(1500年)たつと、渡来人11万人以上となり縄文人を上回る。弥生時代と古墳時代で計1500年だ。最初は少数でも、そして侵略や虐殺がなくとも、子どもの数がちょっとだけ多ければ、長い間には人口の逆転が起こることが、正確ではないにせよイメージ的に理解できる。

産んで繁栄

ちなみにヒト属が地上に繁栄したのは、知能や技術の進歩はあるものの、繁殖能力が高かったからだという説がある。一般の動物は発情期があり、授乳期間は発情しないなど繁殖能力に限定があるが、ヒトはその制限がなく、より多くの子どもを産めた。弱くて猛獣に常にやられてしまうヒト属だったが、子どもの数を多くして存続・繁栄していった。「食べられても産めばいい」ということだ(更科功『絶滅の人類史』NHK出版新書、2018年、第6章)。

また、我々現生人類の中にネアンデルタール人の遺伝子は2%程度残っている。上記の計算で言えば、80世代(2400年)たてば、ネアンデルタール人の人口が我々の2%になる。あり得ない「子ども3人対4人」の計算で行くとそれまでにネアンデルタール人は0.000001%だ。虐殺せずに混血によって融合し、しかし外から見れば実質的に滅亡させるような形になる。