都市とは(2) 「群れて定住する」戦略

群れ+定住

2億4000万年前(恐竜が居た時代)の大型草食爬虫類ディキノドンの共同便所が発見された。アルゼンチン北西部の遺跡から大量の糞石化石が出たという。一部の草食動物は、寄生虫などの再取り込みをしないために、一定の場所で排泄を行なう習性がある。これが、哺乳類だけでなく、太古の爬虫類にもあったことが明らかになった。巣など一カ所に定住傾向のある動物は、居住環境を維持するため、巣外の一か所で排泄を行なう習性がある。便所は、人間にとってと同様、動物の定住のためにも重要な技術革新だった。動物の定住、少なくとも一定地域での集住は2億4000万年前から存在していたかも知れない。

動物は群れもつくるし定住もする。サルなど霊長類の多くは群れをつくるが定住しない。山野を遊動して暮らす。巣穴をもちそこで繁殖するキツネ、タヌキ、プレーリードッグ、オオカミなどは定住する例だ。クマでさえ冬眠時は巣に入るし、巣で子どもを生む。

家族で定住するより、大きな集団で定住した方がより安全だ。コウモリは大集団で洞窟などに定住する。哺乳類ではないが、ハチ、アリなど昆虫が集団で大規模な巣をつくるのはよく知られる(前稿など参照)。「群れて定住する」戦略は動物界において強力な適応戦略だった。

ヒトも、霊長類としては珍しく、この戦略に従った。原人時代から400万年間、他の多くの霊長類同様、遊動生活を送っていたが、1万年前あたりから定住をはじめた。日本では、1万年前の縄文時代から。メソポタミアでも1万年前ほどから初期的な農耕の痕跡が見られ、それに近いアナトリア南部のギョベクリ・テペでは約1万年前の神殿のような大規模遺構が発見されている。

中緯度温帯地域への適応

この、定住こそが人類史の画期だったと喝破したのが西田正規『人類史のなかの定住革命』(講談社学術文庫、2007年。原本1986年)だ。定住は農耕の開始にも増して人類にとって大きな革命だったとする。数百万年の長い遊動期を生きた人類の歴史からみて、1万年の定住生活はあまりに短い。現代に至るまで、人類は慣れないこの定住生活に苦闘している。

西田に従うと、冬のある中緯度地域に進出した動物がとる適応戦略には三つあることになる(pp.78-82)。一つはクマ、リス、ネズミ、ヤマネなどに見られる「冬眠」だ。エサのなくなる冬季に代謝を抑え生き延びる。冬眠しない場合は、多くの動物が、秋に実る果実や木の実を大量に食べエネルギーを蓄える。さらに、トラ、オオカミ、イタチ、キツネなどの捕食者たちは、また別の戦略をとる。彼らは冬の間も(冬眠しない肥えた)小動物を狩り続けて生き延びる。狩りをするためには敏捷でなければならず、秋に大量に脂肪を蓄えたりしはしないという。

中緯度に進出した人類はどうだったか。人類は180万年前に出現したホモ・エレクトス(北京原人、ジャワ原人を含む)の時代にも出アフリカ(ユーラシア大陸進出)をしているが、主に熱帯地域が中心だったようで、北京原人も、当時の海岸線近くに居たようだ。ベーリング海峡を渡ること(南北アメリカ大陸進出)はなかった。ある程度の寒冷気候に対した場合でも、やはり狩りの能力を強化することで対応したのだろう。

ホモ・サピエンスの時代になり、彼らもユーラシアに出た。より寒冷な地域にも進出していく。1万2000年前に最終氷河期が終わると、氷河が溶け中緯度森林地帯が発達しはじめた。サピエンスたちは当然、発達した狩り技術も用いたろうが、徐々にもう一つの戦略も取るようになる。「蓄える」戦略だ。冬に備えて秋の実りを採集し蓄える。蓄えるには遊動生活は不向きになる。また、寒さに備えるためにはある程度堅固な住居所もつくらねばならない。狩りの道具も増え、土器など日用品も増え、益々、遊動生活は難しくなる。

海浜、湖沼、河川などでの漁獲の技術も発達させていくが、この場合は必ずしも移動する必要はなく、一か所にとどまっていても獲れる。獲物がむこうからやってくる(例えばサケの遡上)。イケス、ヤナなどの大型定置漁具も増え、益々遊動生活は難しくなる。

西田の論点は、農耕が始まる以前から、こうして定住を必要とする諸条件が生まれてきていた、ということだ。一般に言われるように農耕がはじまったから定住がはじまったのではない。中緯度温帯地帯への適応戦略として定住がはじまったとする。そして農耕はその後にはじまった。西田の次のような論点が基軸になるだろう。

「氷河期の中緯度地域には、亜寒帯的な草原や疎林に棲むトナカイ、ウマ、バイソン、マンモス、オオツノジカ、ウシなどが広く分布し、後期旧石器時代の狩猟民は、これら大型有蹄類の狩猟に重点を置いた生計戦略を持っていたと予想されている。しかし氷河が後退し、草原や疎林に代わって温帯性の森林が拡大してくれば、これらの有蹄類は減少するし、またそれまでの、視界のきく開けた場所で発達してきた狩猟技術は効果を発揮しなくなるだろう。草原であれば、数キロメートルもはなれた獣を発見することもできるが、森の中では一〇〇メートル先の獣を見ることさえできない。しかもこの森に棲む獣は、アカシカやイノシシなど、氷河期の大型獣からすればいずれも小さな獣である。」(西田正規『人類史のなかの定住革命』p.45)

「森林の拡大によって狩猟が不調になれば、ここでは、植物性食料か魚類への依存を深める以外に生きる道はない。だが、温帯森林環境には、熱帯森林と違って植物性食料の季節的分布に大きな変動がある。ナッツや果実の実る秋の森は豊かであるが、他の季節に、十分な栄養源となる食料を得るのは困難である。春には、新芽が豊富であるが、必要な熱量を供給しうる食料ではない。温帯森林で、植物性食料に依存するとすれば、実りの豊かな秋に、それを大量保存するほかはないのである。また、魚類資源についても、冬の間は水域での活動が困難であるという状況がある。このような中緯度的環境特性のなかで、植物性食料や魚類に依るなら、それらの大量貯蔵は不可欠である。また、同時に、貯蔵食料を蓄えるにはどうしても必要な「多忙な季節」を克服する手段として、自動装置として働く定置漁具などの発達が促されるであろう。」(同上、p.46)

定住「革命」とは言うが、おそらくいろいろな場面で少しずつ出てきた新しい生活様式であったろう。人類は、中緯度温帯地域で、場所に応じ、時に応じ、遊動生活をしながらも少しずつ定住の期間を延ばしていったに違いない。徐々に定住の必要を感じ、かつそのメリットが大きくなっていった。

農耕の起源

定住すると、薪や建材などのため、周囲の森林を伐採する。定住地の周囲にオープンスペースが増えていく。森林のなくなった更地に草木がはえ、その中には麦、稲、ひえ、あわなど雑穀類もはえるようになった。これを最初は偶然、やがて目的意識的に採取していくようになっただろう。最初は、その辺に放っておいた種子から芽がはえてくるのを見る。そのうち、それを利用する。なかなかよい。少し種をばらまいておこう。いつのまにかそれを「栽培」している。知らず知らず農耕に近づいていく過程が想像できる。西田は次のように言う。

「人間が定住すれば、村の周囲の環境は、人間の影響を長期にわたって受け続けることになる。村の近くの森は、薪や建築材のための伐採によって破壊され続 け、そこには、開けた明るい場所を好む陽生植物が繁茂して、もとの森とは異なる植生へと変化する。定住者は、自然としての環境ではなく、人間の影響によって改変された環境にとり囲まれることになるのである。/日本の縄文時代の村には、こうして生じた二次植生中に、彼らの主要な食料であったクリやクルミがはえていたし、ヨーロッパの中石器時代にはハシバミが増加し、西アジアの森林植生中には、コムギやオオムギ、ハシバミ、アーモンドが増加する。これらの植物は、いずれも、伐採後の明るい場所に好んではえる陽生植物であり、しかも、食料として高い価値を持っている。人間の影響下に生長してきた植物を、人間が利用するのである。生態学的な表現をすれば、これは明らかに共生関係であり、人文学的にいえば、栽培や農耕にほかならない。食料生産の出現は、火を使う人間が、定住したことによって、ほぼ自動的に派生した、意外で、しかも人類史上、きわめて重要な現象であった。」(同上、p.51)

水産資源の役割、ナッツ類の栽培化

西田は、定住から農耕が生まれる過程を叙述する際にも、決して麦、稲など主要穀物のみに注目することはない。上記にもあるように、豊かな動物たんぱく源を提供した水産資源が重要な役割を果たしたことを繰り返し強調する。また、植物の栽培にしても例えばカシ、クリなど「ナッツ類」が重要な役割たしたことも強調する。

「今日では、ナッツ類の重要性は、穀物栽培の陰に隠れて目立たないが、西アジアの農耕出現の地として、カシ・ピスタチオ地帯が重視されており、マグレモーゼ期のヨーロッパでは、水産資源が利用されるとともに、ハシバミが多くの遺跡から出土し、それが人間によって運ばれた可能性が指摘されている。おそらくこのハシバミは、縄文時代のクリと同じく、人里植物として存在していたのであろう。また、中国浙江省河姆渡遺跡においても、イネやヒョウタンとともにヒシの実やドングリ類が出土するのである。/ユーラシアの中緯度地帯の全域において、かつてナッツ類が重要な役割をはたした時代があったことは確かであり、その東西の両端に位置するヨーロッパと日本においては、穀物栽培がおこなわれるよりも早く、ナッツ類が「栽培化」あるいは「農耕化」の状態にあったのである。」(同上書、p.185)

「しかし、ヨーロッパは早くから西アジア穀物農耕の影響を受けたのに対し、日本では、弥生時代に移る頃までの約八〇〇〇年間の長期にわたって、ナッツに依存する特異な新石器文化が続いたのである。ここで始まったナッツ栽培は、一部の地域では農耕の段階にいたり、ついには古代を思わせる祭祀遺跡の出現するところにまで迫ったが、結局、古代文明にまでいたることなく、弥生時代の穀物栽培農耕にとって代わられたのである。」(同上書、p.186)

稲は約1万年前の揚子江中流域が起源で、稲作は弥生時代に大陸から日本列島に渡ってきた文化だ。それ以前に、日本にはナッツを中心とした独自の農耕文明が発展する可能性がはらまれていた、とする。やはり稲の食料資源としての優位性にかなわなかったのだろうが、文明あるいは農耕文化には多様な発展の可能性があったことが示されている。

多様な「人間-植物関係」

稲作を中心とした今日の農業社会についても、農村の実態を広く「人間-植物関係」の観点から多角的・複合的にとらえている。例えば、福井県三方郡三方町(現若狭町)の農村、向笠(戸数約一〇〇戸)を調査するにあたっても、中心となる水田だけでなく、それに付随する様々な植生、村周辺の二次林や山菜資源などとの関係を、多角的にとらえている。

「村の背後の山すそに、一部の家族が経営するウメ、クリの果樹園が見られる。果樹園の管理は家族単位でおこなわれ、家族をこえた協同労働の習慣はない。果樹園の大部分は、かつて水田であった場所にあるため、平坦な地形となっているが、本来そのような必要のないことは、果樹園が傾斜地にも広がっていることから明らかであり、人工的な水の供給もおこなわれない。ウメやクリの木は、ここでは整然と植えられているが、林床には多種類の草本植物が見られ、除草の程度は、水田ほど集約的でない。/ここでの生産物も商品として出荷される。水田と果樹園とを比べると、管理の程度や技術に相当大きなちがいが見られるが、しかし、そのちがいの大部分は、一方は一年生草本であるのに対し、他方は多年生樹木であることにも起因するのであろう。/家屋の集まっている”ムラウチ”で、各家族は建物の間の空間に、一〇〇~二〇〇平方メートル程度の小規模な”はたけ” を作っている。ここでの生産物は、もっぱら自家消費にあてられ、播種、除草、施肥、収穫などの作業は、主婦がおこなっている。栽培される植物は、ネギ、ハクサイ、ニンジン、ダイコン、サトイモ、ゴボウ、トウガラシ、スイカ、カボチャ、など多種類であるが、それぞれの品種は一、二種類に限られる。ここで栽培されるフキは”ツクリブキ”と呼ばれ、野生しているノラブキッと区別されているが、両者の生理的、形態的なちがいが、それほど大きいとは思われない。/次に、”はたけ”や人家の周辺には、クリ、カキ、サンショウ、イチジク、スモモなどが、一~三本程度、雑然とはえており、ミッバ、シソ、ミョウガ、”ノラブキ” などの小さな群落が見られる。”はたけ”の作物については「植えた」と答えた村人が、この”ノラブキ”については「はえてきた」と答え、「引かないで、おいておいた」ということであった。ノラブキ”は、味が良いということで食用にされている。このような場所は、家や”はたけ”のまわりを清掃するという意味で除草されるが、これらの植物の生長を促進する目的での除草はおこなわれず、カキやクリの木の根もとに塵芥を集めておくという意味での施肥がおこなわれる。さらに、このような場所は、「裏庭」、「”はたけ”のへり」などと表現されるだけで、固有の呼称を持っていない。」(同上書、pp.151-153)

長くなるので引用はこの辺までにするが、人家の周辺にはその他「バラン、シュロ、キクなど、食用以外の用途を持った植物」もあり、「伐採跡地、道路ぎわ、果樹園の周囲などの明るい林や草地」にはえるワラビ、ゼンマイ、ヤマイモなど山菜の利用もある。神社の境内には、よく保存されたケヤキ、シイ、タブノキ、スギ、イチョウなどの巨木があり、その裏山にはある程度人の手が入ったシイ、サカキ、ツバキなどの常緑広葉樹林がある。かつてシイの実が採集されていたところという。また近隣の湖沼に浮かぶ水草ヒシの実もかつて採集され、商品として出荷されていた。

こうして「稲作農業」と一括される中にも、人間と自然との間にさらに広く多様な関係があり、その全体を見ることが必要だということであろう。そしてその中に農間稼ぎ的に自然物を利用した各種工作、工芸、工業的要素も生まれてくるはずだ。「稲作文化」「麦作文化」「牧畜文化」、あるいは「封建制」「農奴制」など括りで考えるだけでなく、世界各地で多様に展開されてきた人々の自然との関係をその通りに多様に具体的にとらえ返す必要を感じさせる。そうした手法から西田の「定住」「農耕」に関する独自のとらえ方も生まれてきたと思われる。