カラヴァッジョに出会った

ローマで偶然カラヴァッジョの絵に出会う

ローマは至る所に遺跡がある。町全体が巨大な博物館だ。しかし、博物館にしてはあまり解説版が付いていない。かなり古そうなこの遺跡は何だ? 立派な教会だが、何だ? 分からないが、とりあえず写真を撮って…とやり過ごして行くことの連続だ。

そういう立派な教会の一つがパンテオン近くにあった。大きな教会ではないが、なんか、人が多いな、とりあえず入ってみるか。結局、後で調べるとサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会だった。内装がきらびやかで、天井絵をはじめ、壁に多くの絵画がはめ込まれ、間違いなく第1級の教会だと思われた。しかし、第1級に勝る「超1級」の遺跡・建造物が目白押しのローマでは、目立つ存在ではない。観光案内所でもらった地図にも載っていないので何だかわからずに見学。

多くの絵の中でも前方左にやや人だかりがある。何だこれは? 絵に素養のない私はそのカラヴァッジョの絵を見て何も反応しない。若者が、横たわった老人をまさに剣で刺し殺そうとしている場面。ちょっとえぐいな。

で、例のごとく「とりあえず写真を撮って…」。その後、他の超一流名所をいくつか見て、宿に帰り一日を振り返る、調べなおす。

今はネット検索で何でもわかりありがたい。「ローマ」「宗教画」でグーグル画像検索。かの絵は出て来ない。「剣」を追加して再検索。すると、ようやく下の方にそこで見た絵が出てきた。カラヴァッジョ(1571〜1610)の「聖マタイの殉教」だった。

そうか、カラヴァッジョか!と感動したわけでもない。猫に小判。カラヴァッジョを知らなかった。しかし、いろいろ解説を読むうち興味を持った。確かに劇画的アクション性がある。静的なキリスト教の中世絵画の中では異色だ。人物描写が写実的だ。絵が上手いと言ってもいい。暗い背景から重要事件が強調され浮き上がる。リアルだ。しかし、ちょっと通俗的で、一般受けしすぎる気もする。どぎつ過ぎて、絵を頼んだ人から受け取りを拒絶されることもあったらしい。写実性は評価されたが、彼の絵を指弾する人々も多かったという。現代漫画で、グロテスクな写実劇画が批判されるのと似ている。

カラヴァッジョは才能はあったかも知れないが、問題行動の人であった。酒を飲んで暴れまわり、しょっちゅうケンカをし、重傷を負ったこともあれば、刑務所暮らしをしたこともある。ケンカの末、人を殺してしまったともあり、逃亡生活を余儀なくされている。同時代に生きていたら、付き合いたくない人だろう。

大衆に訴える芸術

彼の絵について次のような評価がある。
「下品で、神を冒涜する不信心極まりない絵画で、嫌悪感に満ちている…この絵画は優れた技術を持つ画家の作品かも知れないが、その画家の心は邪悪で善行や礼拝などといった信仰心からはかけ離れているに違いない」(ローマのサン・ピエトロ大聖堂向けに描かれた『聖アンナと聖母子』について、当時の枢機卿付書記官の言。この絵は2日間掲げられただけで撤去された。Wikipedia, カラヴァッジオの項

「近年の画家の絵画は目に余る。ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョがサンタ・マリア・デッラ・スカラの依頼で制作した、娼婦をモデルにして聖母を描いた作品などが最たるものである。神に仕える依頼主が受け取りを拒否したのは当然で、このあわれな男はおそらく今までの生涯で様々な騒動を巻き起こしているに違いない」(マンチーニ Considerazioni sulla pittura: Wikipedia, カラヴァッジオの項

インパクトの強い彼の絵は大衆には分かりやすい絵だ(彼の絵を好んだ貴族たちも絵画芸術の面からは大衆だ)。だから、それゆえ通俗的過ぎ、高貴さに欠けるとも指弾された。しかし、大衆向け芸術というのは、結局、芸術として高い評価を得ていく。実際、20世紀になってカラヴァッジョは高く評価され、日本でも2016年に国立西洋美術館で展覧会が開催され、39万人を動員した。今年も再び巡回展が行われる予定だ(2019年8月から20年2月まで札幌、名古屋、大阪で)。評価の定まったものしか受け入れない日本が受け入れるのだから評価は定まったのだ。

時の権威から忌避されても、大衆向けの芸術、大衆に訴える芸術こそが真に芸術となる。漢籍が主流の平安時代に大和言葉で書かれた色恋小説「源氏物語」は、代表的日本古典になった。いかがわしい絵も多分にあった江戸期の大衆向け絵画、浮世絵は今日、日本を代表する芸術として世界的に評価されている。現代の文化でも、低俗と非難されることもある漫画など、時代を越えることで高い評価を得ていくだろう。ノーベル文学賞選考委員からは嫌われているが、圧倒的多数の大衆に読まれ続ける村上文学も、そうした芸術の王道を行く。

マルタへ逃亡

1606年に殺人を犯した後、カラヴァッジョはローマから逃亡し、ナポリを経てマルタにたどり着いている。そこで騎士として迎えられ、1607年7月から15カ月の滞在の間に、いくつかの名作を残した。ローマで偶然彼の絵に出会あった上、今滞在するマルタにも彼の足跡がある。何やら因縁があるようだ。

怪しき者、マルタに流れ着く、ということか。17世紀の画家・批評家ベッローリは、町から町、島から島へと渡り歩いたカラヴァッジョの「恐るべき」人生について、結局は「どこにも安住の地はなかった」と酷評したという(Wikipedia, カラヴァッジオの項、脚注28)

代表作「聖ヨハネの斬首」

マルタ首都バレッタの中心街レパブリック通り。その傍らに立つ聖ヨハネ大聖堂内のオラトリー(「祈祷堂」だが美術館の位置づけ)に彼の代表作「聖ヨハネの斬首」と「聖ヒエロニムス」が静かに鎮座している。「聖ヨハネの斬首」は、カラヴァッジョの描いた絵の中で最も大きく、かつ唯一署名が記された作品。首を切られた聖ヨハネが血を流して横たわる絵は、相変わらずかなりえぐい。生気を失った聖ヨハネの遺体より、処刑執行中の若者の身体に光を当て中心的に描いているところなど、彼のひねくれ(反骨心?)全開といったところだ。

マルタでの比較的落ち着いた生活は長くは続かず、1608年8月、けんかで高位騎士に重傷を負わせてしまう。聖アンジェロ砦に幽閉されるが、10月に脱獄し、シチリア島に逃げる。せっかく得たマルタ騎士の資格もはく奪され、「恥ずべき卑劣な男」の烙印を押される。シチリアからさらに逃げたナポリで、「ケンカの復讐」で襲われ重傷を負う。ナポリから船出をし、1610年7月、熱病で死亡したとされる。鉛中毒だったともいう。このかんマルタ騎士団が制裁のためカラヴァッジョを追っており、彼の死も騎士団員による暗殺だったとの説もある。

ローマ・パンテオン近くのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会。その聖壇の左側に…
教会の前方左に何やら人だかりが。何だこの絵は。(右がカラヴァッジョの「聖マタイの殉教」、左が「聖マタイと天使」。そのさらに左に「聖マタイの召命」もあった。)
マルタの首都バレッタは、16世紀に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)が築いた要塞の街。
その中心部分に築かれた騎士団の教会、聖ヨハネ大聖堂。

 

聖ヨハネ大聖堂の内部。
聖ヨハネ大聖堂内オラトリー(礼拝のための別部屋)の中に鎮座する「聖ヨハネの斬首」。この絵は門外不出で、今年の日本巡回展にも来ない。これを見るにはマルタに来る以外ないという。

 

「聖ヨハネの斬首」に対面するように後ろ側に「聖ヒエロニムス」がかかる。

ルネッサンス絵画は、(貴族を含めた)大衆のエロス画への欲望を、宗教画の体裁で隠し解放したものだと私は理解している。グロへの欲望を宗教画の体裁で解放したのがカラヴァッジョだったかも知れない。私も、彼が絵を持ってきたら受け取りを拒否しただろう。グロは嫌いだ。世間全体がエロ・グロ化した20世紀だからこそ、彼らの絵は許容されるようになった。宗教はかつての力を失ったが、「芸術だ」の虚構が彼らへの批判を封じている。だが、エロ・グロに加え何らかのプラスアルファ―がなければ彼らの作品が残らなかったのも確かだ。