マルタ語の未来

滅びゆくマルタ語の現状に警鐘を鳴らした論文を読んで考え込んでしまった(Ignasi Badia i Capdevila, “A view of the linguistic situation in Malta“)。外から来る人間は、マルタは英語が通じるからいい、という軽いノリで来るが、土着のマルタ語を話す人たちは、その言語の現状をどうとらえているのか。マルタ語は、語彙などでイタリア語の影響を強く受けているものの、基本的には北アフリカ系アラビア語の一種でセム語族系に属する。EU認定公用語の中で、唯一のセム系言語だ。マルタのほとんどの人(98.6%)がマルタ語を母語とする。しかし、76%の人が英語も話し、マルタ共和国の公用語はマルタ語と英語だ。

小さな島に残った言語だ。これが今後とも存続していけるか。競合するのは、世界最強言語の英語だ。中初等教育ではマルタ語も必須科目にされているが、高等教育に行くに従って英語が中心になる。大学ではほとんど英語で授業が行われているようだ。広い分野で最新の専門用語が猛烈な勢いで出てくる英語に、マルタ語は追い付いていけない。専門的・職業的・文化的度合いが高まる世界で益々英語が中心となる。観光開発でマルタにたくさんの外国人が押し寄せるようになったことも英語の必要性が高めている。英語学校を開いて英語教育で売り出すビジネスも多い。高所得者や専門業界で働く人とその家庭ほど英語の比重が大きくなる。マルタ語より英語の方が位が高いと感じる人々の感性もこの論文は問題にしているが、少数民族言語にはよくあることで、無理はない。

重い論文を読んでしまった。寝るっきゃない、そう思って寝てしまった。解決不能な問題に感じる。「できるだけ少数言語を使うべき」ときれい事を言うだけではすまされない。実際に生活上不便だ。猛烈な英語の力の前に、どんどん包囲を狭められる。

朝起きた。やはり問題は重くのしかかる。マルタの朝日で金色に輝く雲を見ながら、重い思考をはたらかせる。

英語が話せない苦労

世界中で、英語が話せないため不利を被っている人はどれだけ居るのか。日本人が学校で10年以上も英語を勉強してきても話せない恨みつらみはどれだけ蓄積しているのか。英語を母語として獲得できる人はずるい。他の言語をまったく話せなくても、それだけで世界中を歩き回れ、深い知識を得、自分の考えをとうとうとあらゆる人々に向けて語っていける。日本語はまだ、英仏露中スペイン諸語など共に多数言語に属する方だろう。マルタ語、あるいはそれ以上の少数語を話す人たちの苦労はいかばかりか。

少数言語を大切にしなければならない。それを存続させ、その話者の権利を守らなければならない、とは言うものの、実際問題として多数派言語を獲得することのメリットは非常に大きい。私自身、苦労して英語を勉強し、ある程度話し読み書きできるようになって大きな益を得ていることを認めなければならない。特に英語が苦手な日本社会では、私のようなへぼい話者でもある程度の希少価値は享受できる。能力がなくてもある程度英語関係の仕事を得ることができた。世界中どこにでも比較的楽に旅行できるのもその恩恵の一つだろう。アメリカ事情を取材して書いて日本に知らせる、そんな仕事を中心にやってきたが、へぼい知力でもある程度続けられたのは、「英語」「アメリカ」という「パワーアイテム」のおかげだったのだろう。

しかし、どんなに英語ができる人でも、言語に苦しんでいる。「英語を話す」と言われる層にも無限の段階がある。私のような低層段階だと、ある程度の読み書き、会話はできても、さらに会議で相手の主張に対抗して自分の考えを流ちょうに展開するといったようなことはできず、常に「上のレベル」への枯渇感が消えない。英語を母語とする人の間でもそうだ。わかりにくいリバプール方言を話すビートルズが歌ではアメリカ英語で歌う。昔、アメリカに居た時、友人のオーストラリア人が、よくオーストラリアなまりをおちょくられていたのを覚えている。おちょくるのは意外とアジア系などマイノリティの人だったりする。自分の発言する言葉が変だと言って笑わられることのプレッシャーは微妙にその人の発言行動や性格に影響していく。日本語と言う多数言語を母語とする人の間でも、「標準語も話せないのか」などと言われることが続いたら、黙ることが多くなるだろう。「寡黙で忍耐強い東北人」などはこうした言語環境の中でつくられたステレオタイプだ。本当は東北人は明るくて朗らかで多弁な人たちだ。

いや、生粋の米国人でも同じだ。サンフランシスコに居た頃、また別の友人でニューヨーク育ちの人が、よくニューヨークなまりをからかわれていた。「え?この言葉、〇✖△てな風に発音するのかい?」てな感じで。米国内では中西部・西部の言葉が標準的とされ、南部はもとより、ニューヨークやボストンの言葉も方言的に扱われてしまう。まあ、ニューヨーク、あるいはオーストラリアなども、そんな「辺境」ではなく、おちょくってもあまり害がないと思うからおちょくるのだと思うが、やはり、その場での発言行動に微妙な影響を与えると思う。

マルティリンガリズム

マルタがEUに加盟(2004年)したことに伴い、マルタ語はEUの公用語の一つの地位を得た。これの意味するところは、EUのあらゆる法律、文書がマルタ語でも提供されねばならず、マルタ国民はマルタ語でEUに発言する権利を有し、それへのEUからの回答・対応もマルタ語でなされねばならず、もちろんEU各種機関へのマルタ代表はマルタ語を公式の場で使用できる、ということだ(前掲Ignasi Badia i Capdevila論文)。少数の話者しかいないマルタ語にとってこれは大きな便益だと思われる。翻訳・通訳に莫大なコストがかかると想像できるが、このような言語民主主義の原則を貫くEUに敬意を表したい。強国が支配する統合でなく、あらゆる加盟国が平等の権利をもって連合する新しい統合の原理を体現しているだろう。国内で圧倒的な英語の力に押されているマルタ語だが、この外部からもたらされるEU原則により、国内でのマルタ語の地位もある程度力を与えられると思われる。

バイリンガルのもたらす便益は何であろうか。いや、「バイリンガル」には程遠く、私のように不慣れな英語を苦労して使いながら2言語環境に暮らす人を含めて、そういう人たちの益は何であろうか。無駄な苦労だろうか。世界が皆英語になってしまえば、皆楽になるのか。

2言語環境で苦労することにより言語的少数者の苦しみがよく理解できるようになった、というのが益だろうか。英語を母語とする人々も含めて圧倒的多数の人が言葉の苦しみを抱えている。そういう現代世界の本質的構造から無縁でいられる人が逆に不幸なのかも知れない。標準的な英語を流ちょうに話し、他の言語が話せなくてもまったく困らないという人の層がたとえあったとしても、その人たちは幸福か。この世界で有効な政策提言、倫理秩序を提起・構築していく力を得ることができているか。グローバリゼーションの中で強力な言語が益々力を得ていく傾向は、残念ながら抑え切れない。しかし、その過程を生きる人々が、豊穣な文化を行使・体現するバイリンガル・マルチリンガル的秩序を構築する課題に、私たちは幸運にも向き合うことができている。その課題を十分にやり遂げているか、そっちの不備の方こそ問われなければならないのだろう。