ウクライナが戦っている

今年のノーベル平和賞

今年のノーベル平和賞はゼレンスキー・ウクライナ大統領で決まりだ。それ以外ではあり得ない。あってはならない。

ただし、彼が10月まで生きているのなら、だ。

彼も、素人政治家としてこれまで不十分なところはあったかも知れない。しかし、ロシアの侵攻という事態の中で、踏みとどまり抵抗の中心になっているということだけですでに最高の栄誉に値する。明らかに自由な国際社会の先頭に立って戦っている。

そして彼の元コメディアンという資質は充分に役立っている。国内ばかりでなく、世界中の人々に訴える。各国議会でオンライン演説する。そんなことしているときではないだろうという人も居るが、何を言っているのですか、今こそ彼をあらゆる国際社会のコミュニケーション回路につないで称揚すべきだ。ロシアが彼を簡単に殺せないくらい有名人にしなければならない。それが彼らのたたかいだし、我々のたたかいだ。彼は、侵略の初期の段階で無名のまま抹殺されていたかも知れないのだ。

失うものが何かを知っている

私は、そしてあなたは、ロシアのような管理社会で、ニュース番組に乱入して反戦メッセージを掲げたりできるか。一国の首脳が、まさに侵攻されようとするキエフに入ってウクライナ・トップと会談することができるか。

キエフ入りした東欧三国首脳の一人、ポーランドのモラウィエツキ首相がツイッターにこう投稿した

「戦争で荒廃したキエフで歴史が作られ、専制政治の世界に対する自由への戦いが行われている。この地にわれわれの未来がかかっている」

「われわれのためではない。専制政治のない世界に生きる価値のあるわれわれの子どもたちの未来のためだ」

ウクライナの人々は、そして周辺諸国の人々は、ロシアの侵攻で何が失われるのか充分知っている。長い抑圧の歴史を生きてきた。やっと芽生えた希望を今ここで放棄すれば、どのような将来が待っているか、骨の髄まで知っている。だから必死で戦う。

犠牲を顧みないウクライナの人々の戦いが全世界、そしてロシア国内の人々を鼓舞し、支援と反戦の活動を生んでいる。

ウェストファリア体制の時代

2001年9月11日の同時多発テロで21世紀の戦争は根本的に変わる、と言われた。20世紀までの主権国家間の対立や冷戦構造が終わり、「見えない敵」「テロとの戦い」の時代が来た、と言われた。

そして、2022年のロシアのウクライナ侵攻だ。新しい時代どころか、私たちの世界秩序は依然として国家による他国家のあからさまな侵略、17世紀以来の「ウェストファリア体制」の延長線上にあることを否応なく示した。しかし、その軍事技術だけは20世紀後半以降の核時代レベルに達しており、人類最終戦争の恐怖を人々にもたらしている。確かに21世紀にふさわしい国際的協調の枠組みも、支援、抗議活動、経済的制裁その他で発動されているが、それが今後どれだけ優越していくかは予断を許さない。

難しいかじ取りを迫られていることは事実だ。アメリカやNATO軍が直接出ていくのは危険だ。防御的武器はともかく、戦闘機など攻撃的武器を供与していくのも慎重であるべきだ。しかし、抽象的な平和主義を念頭に置いていたかも知れない私の思考枠組みを今回の事態が揺さぶっているのも確かだ。

何よりも、一つの国が他の主権国家の国境を明確に侵犯して軍事侵攻を行なうという事態を目撃した。このようなことが実際に起こるのだ。そして起こったらどうするか、私が漠然と抱いているかも知れない平和主義はこれに対して明確な答えを持っていないように思える。

そして、ウクライナの人々はこれに明確に戦っている。犠牲をも顧みず、弱小なものではあるが、武器を持ってたたかっている。しかも屈強に戦っている。だからこそ、国外からの支援が集まり、ロシア国内にも反戦運動が起こる。

「防御的な武器」と言っても、当然、「敵」兵が死ぬこともあるだろう。「防御」と「攻撃」の区別がやがてつきにくくなる可能性もある。平和主義を基本に置くことも大切だ。だが、では私はどうせよ、と言うのか。戦闘ではすぐに降参して犠牲を避け、支配されてしまってから外交的努力や国際的支援で挽回すればいい、と言うのか。

ひとつだけ確かなことがある。ウクライナの人々は戦っている、ということだ。現代世界は、依然として野蛮な侵略が実際に起こる世界だ。その否定しようもない現実が示された。そして、それに対しウクライナの人々は戦っている、という事実だ。