CANEが50周年記念 サンフランシスコ日本町再開発への抗議 

去る8月19日、米サンフランシスコ日本町(Nihonmachi, Japantown)で、日本町立ち退き反対同盟(CANE, Committee Against Nihonmachi Eviction)の50周年記念行事が開かれた。約250名が参加し、それまでアメリカ社会に従順だった日系社会の流れを断ち切る歴史的コミュニティ運動を振り返った。CANEは、市による再開発で日本町の低家賃住居、小ビジネスなど地域生活が破壊されることに抗議して1973年2月に立ちあげられた住民運動組織。

米国では1950~60年代、貧しいマイノリティ地域を中心に、「スラムをなくす」という名目のもとに多くのコミュニティーで住居取り壊しが進み、住民が立ち退かされた。日系人が集住していたサンフランシスコの日本町(ジャパンタウン)地域でも数千人が立ち退かされ、再開発の遅れも手伝って、長期にわたり広大な空地ができる状態となった。1960年代の公民権運動の影響もあり、こうした地域で反対運動が起こり、「物理的に破壊して作り直す」型の再開発が見直されるようになった。

日系人の場合、第二次大戦中の強制収容で集団的に立ち退かされた経験があり、再開発でまた苦い思い出が再来する形となった。それまでの従順さの流れを断ち切り、特に黒人公民権運動の影響を受けた若い3世たちが抗議の声を上げた。大規模商業開発に一定の歯止めをかけ、コミュニティー施設や低家賃住宅の建設に流れを変えてきた。こうした運動が全般的な地域活動も活発化させ、戦時日系人強制収容に対する米政府の謝罪と賠償(1988年)も勝ち取る原動力となったとされる。

50周年記念行事の様子。
会場内に多数の展示が行なわれ、再会を祝し、話し込む人たちの輪ができる。
当時のチラシ、ニュースレターなどの展示。

「私たちは60年代公民権運動のプロダクト」

開会のあいさつに立った元CANEメンバーのミッキー・イムラ氏は「私たちは1960年代の公民権運動の産物だ」と言明。「今、スライドで、私たちのCANEの運動が紹介された。私たちのコミュニティとそうしたアクティビズムを祝福するためこの集まりをもった。私たち3世は1960年代半ばから1970年代初めにかけて、大学で「第三世界ストライキ」を闘いマイノリティ研究学科の設置を勝ち取った。私たちはベトナム反戦運動にも参加し、アジア系アメリカ人運動を担うものとしてベトナムの民族自決の戦いとも連携した。思い出す人も多いと思うが、私たちが当時叫んでいたスローガンは「一つの闘い、多くのフロント」ということだった」と述べた。

詳しくは他記事に譲るが、こうした当時のキャンパスでの「第三世界」(アジア、アフリカ、ラテンアメリカ系)学生運動で目覚めた三世たちは、民族的コミュニティに帰り、そこでの地域活動にも力を入れるようになった。日本町で(再開発反対の)CANE、(高齢者支援の)気持ち会、(青年育成活動の)JCYC、(バイリンガル保育活動)NLF、(芸術活動の)JAMなどの活動を次々組織していった。

今回集まった人々は、CANE(英語で「つえ」の意味がある)の古参メンバーの他に、こうした多様な地域団体で活動した人々も集まり、日系ベビーブーマーの再会の場となった。プランニングの中心となった一人が私に「みんな、死ぬ前にまた会いたかったのよ」と冗談を飛ばしたように、皆の意識の中では「同窓会」のイメージがあった。

正直なところかつて「三世ラジカルズ」と敬遠されもした彼らも、今ではすっかり地域社会の主力に収まり、若い世代から日系人の歴史をつくったおじいさん、おばあさんとして尊敬されているように見える。裏方で若い世代が多数動いていた。他のアジア系、黒人、白人の人たちの参加もあり、過去になかった一般マスメディアからの報道もあった

初期のCANE活動の様子がスライドショーで流され、立ち退きに反対した住民たちのインタビューが流れ、初期の活動家たちの思いが語られ、共にたたかった黒人の人たちやCANEを支えた借家人権利擁護団体の人たちからのあいさつがあり、そして、地域で活動を担った上記諸団体の人たちが次々演台に立った。新渡米者の会「のびる会」からは、創立当初からの古参メンバーの春海三吾・真理子夫妻ら4名が参加し、1970年代後半から80年代にかけて主要スタッフだった安藤幸一氏(後に大手前大学教授)が代表して、のびる会を中心に日本町コミュニティーの様々な活動、特にCANEに始まる日系アメリカ人のコミュニティに深く支えられてのびる会やJCYCなどのソーシャルサービス活動、日英バイリンガル学校の活動ができたことに感謝の言葉を述べた。

行事組織化の中心を担ったジョイス・ナカムラ氏は、「私たちは2年半も前からこのためのプランニングを行なってきた」と言い、次のようにまとめた。「CANEは草の根を組織するために立ち上がり、私たちの権利のために政府ともたたかった。広範な人々と連携し多世代の運動をつくった。こうした歴史と教訓が、日本町を守り人々のためのコミュニティをつくるため、次の世代に伝えていければと思う。」

開会のあいさつに立つミッキー・イムラ氏。
50周年記念行事プランニングの中心となった元CANEメンバーたち。

CANE活動から学んだアメリカ社会への視点

私も1976年頃からこのCANEの活動に参加していた。当時大学で都市問題を勉強していて、都市再開発問題は大いに関心があった。CANEの日系三世らも、通訳・翻訳のできる人間を求めていて、私もいくぶんなりとも彼らのお役にたてたと思う。そして私自身、非常に勉強になった。私は日本でマジョリティーの日本人だが、米国ではマイノリティになる。そういう立場の人間としてどう生きていけばいいのか、これまで考えたことがなかった視点をいろいろ学んだ。三世の「アジア系アメリカ人」としての運動、抑圧されてきた日系人の歴史。アメリカ社会を別の角度から見る観点を得ることができたと思う。

今回の「同窓会」が行われることは1年以上前から知っていた。しかし、このためだけにわざわざ日本から行くのもなあ、と思っていたが、ちょうど10カ月の東欧の旅からの帰国の時期にあたり、西回り帰国でサンフランシスコを経由すれば合理的とわかって参加することにした。

大失敗

いったいどんな顔で皆に再会するのか。感動してもうハグしあい、若き日々を語り、その後の互いの人生をシェアし…と想像しドキドキしていたが、一つ重大な失敗をした。イベントに直接行って再会するのでなくて、私は会場設営などの準備から参加してしまった。そりゃあ当然だ。私はお客さんではない。私もともに活動したメンバーだったのだ。

そうすると問題。皆、名票を付けてなかった。正式の行事が始まれば登録して名票をつける。おお、お前はAか、お前はBか、と感動の再会になる。ところが、数時間前からの会場設営では、皆胸に名票をつけてない。だれだかわからなかったのだ。

いやあ、栄光のCANEだ、コミュニティの人たちが総出で協力してくれるんだな、と思いながら、「知らない人たち」といっしょに作業をしていた。しかし、そのうち彼らの表情とか横顔とかで、あれ、これはもしかしてA君? Bちゃん? と考えはじめる。思い切って「もしかして君は〇〇さん」と聞くと、「そうよ」。「え、やはりそうだったのかあ!」と驚く私。しかし、「そういうあんたはだれ?」と聞かれる。「俺だよ俺、Aki(そう呼ばれていた)」「え、そうなのか!」

てなことで、無事再会は果たしたが、気まずい。私たちは相当の時間、互いによそよそしく作業していたのだ。まさに英語で言う「embarrassed」の心境だ。ドラマチックに再開したかったのに。かつての俊敏、かつ切れすぎるくらいの若者たちは今、みんな人の好さそうなグランパ、グランマになっていた。そしてもちろん、この私も、大きく変わり、気づいてもらえなかった、ということなのだ。悲しい。

いや、正確に言えば、何人かは互いにわかり、話し込んだりしていた。そうすると、「このAさんのお友達ですか」などと私に聞いてくる人も居て、それで「ほら、俺だよ、Aki」の展開になるケースもあった。

教訓:同窓会は正式ミーティングが始まってから行くべし。

 

準備作業に来るようなコアメンバーとはそれでかなり再会を果たした。しかし、行事本体にはCANEメンバー以外のコミュニティの人たちがたくさん来ている。私はそういう人たちとも広く親交があった。見落としている人がいるかも知れないと思い、交流の時間などに会場を積極的にまわり、名票をみてまわった。それで多数の人と再会したが、それでも終わってから「あの人も来ていた」などと教えられ、会わずじまいになった人が何人かいた。

日本町の位置図。黄色の楕円付近。ツインピークからの眺望。中央の高層ビル街がサンフランシスコの中心部。その向こうがサンフランシスコ湾、対岸のオークランド、バークレーなど。
日本町の中心、ウェブスター通りに地域のお店が並ぶ。
ポスト街に小ビジネスやお店が並ぶ。
五重塔をイメージした「ピースパゴダ」からショッピングモールの「日本トレードセンター」にかけて。いずれも1970年代以降の再開発でつくられ、観光の中心となっている。
コミュニティ施設の多いサター通り。写真は、CANE50周年記念行事の会場となったJCCCNC(北加日系文化コミュニティセンター)。各種文化教室、地域NPO事務所が入り、2階には講堂兼体育館の大ホールがある。

三世トラスト・ファンド

「例えば、今私たちが集まっているこのJCCCNC(北加日系文化コミュニティセンター)は二世たちが残してくれたものです。」

最後にあいさつに立った「三世遺産信託基金」(Sansei Legacy Trust Fund)プロジェクトを進めるボク・コダマ氏が話し始めた。彼の指さす壁面には「高橋二世コミュニティホール」の文字がある。現在、サンフランシスコ日系社会の核となっているこのコミュニティーセンターは、1987年、当時日系社会の主体だった二世が中心になって寄付を募り建設された。会場となったその2階ホールはフィランスロピスト、トモヨ・タカハシさんの名前をとって「タカハシ二世コミュニティーホール」と命名されている。二世たちは他にもYMCAやYWCAなどコミュニティの核となる施設をつくってきた。コダマ氏は言う。

「では、私たち3世は何を残すのか。この50周年行事をプランニングする中で、単に過去の活動を祝福し思い返すだけでなく、これからの日本町にどのような貢献をするかを話し合った。」

その結論が「三世遺産信託基金」(Sansei Legacy Trust Fund)だった。地域の特性を維持するため、住民がお金を出し合って基金(非営利法人)をつくり土地を買う。土地利用目的を限定した地域土地トラスト(Community Land Trust, CLT)の制度によって低家賃住宅など日本町が必要とする地域づくりをしていく。現在アメリカでは地域土地トラスト運動が広がり225のCLTが存在して、低額・低家賃の住宅を提供している。

「4世、5世に、日本町に戻って、と言っても、家賃が高くて住めない、と言う」とコダマ氏。「子どもたち、孫たちのため日本町の未来を確保していく必要がある。そのためにも、コミュニティが土地を確保する方策が有効だ。その歴史的遺産を守り、社会的・文化的活動を促進するため、この基金に寄付を」と呼びかけた。

日本町は、黒人の人たちも多く住むウェスタン・アディション地区にあり、ここは1950年代に、全米でも最も早く「物理的破壊」型の都市再開発がはじめられたところだった。過去の反省の上に立ち、ここで打撃を受けた住民たちに賠償をしていこうとの動きもある。再会したCANEメンバーたちは、この問題にもかかわり、日本町の発展に役立てていこうとしている。