6年前の2016年1月、ニューギニア西部マノクワリに行った。私の母方の祖父がこの地で戦死している。慰霊の旅だった。個人的な旅だと思い、このブログやウェブサイトには書かないでいた。
しかし、そうでもないかも、と最近思いはじめた。マラリアと栄養失調で死んだ祖父の最後は、わからないままだったが、日本兵らの慰霊碑があることを知り、ジャングルの中、草にかくれた碑を探して鎮魂の意を伝えて来ることはできた。かつては慰霊団がここを訪れたこともあるだろう。しかし、今どれだけの人が来るか。特に個人でてくてくと歩いてこの地に行く方法を記しておけば、これから行く人に少し役立つかも知れない。
「死んでも帰れぬニューギニア」
ニューギニアは「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と言われた所。南方の戦線で最も過酷で無謀な作戦が行われた。20万居た将兵のうち、帰還したのは2万人だった。(太平洋戦争中、米軍は不必要な所の攻略はせず日本本土に迫る作戦をとったので、食糧豊富なジャワは戦いもなく「極楽」だった。ニューギニアは食糧がなく、多くが餓死や感染症で死亡した。ビルマでもインパール作戦という「無謀」の代名詞となる攻撃作戦があった。)
マノクワリでは1万人以上の死者を出した「イドレ死の行軍」(1944年7月~10月)が有名。連合軍が迫る中、西部ニューギニア戦線担当の第2軍司令部は、マノクワリ駐屯軍約2万人のうち約12,000名を、後方(マノクワリ南方170キロ)のイドレ村に移動(転進)させることとした。温存のための後方退避のはずであったが、ジャングル行軍を甘く見、そのほとんどが飢餓、マラリア、下痢で亡くなった。トカゲ、カエルを食べ、うじ虫を食らい、最後は人肉まで手を出す地獄があったとされる。食料となる「サゴヤシ」が無尽蔵にあるといわれた目的地イドレもそのような場所ではなく、結局日本に帰還したのは全体の6%程度だった。
ニューギニア西部では、マノクワリ東方200キロのビアク島で激烈な戦闘が行われたが、米・連合軍の飛び石作戦により、マノクワリを含めた西部域の戦略的意味は徐々に薄れ、本格的戦闘は行われなくなった。その中で「イドレ死の行軍」は、自軍をわざわざ飢餓・疫病で壊滅させる作戦となった。
私の祖父(田所富一、現栃木県那珂川町出身、1900年頃?~1945年)は終戦直前の1945(昭和20)年8月11日にニューギニア島のマノクワリで「戦死」した。マラリアで高熱が出ていた。ひどい栄養失調でもあり、餓死でもあった。「さんまの缶詰でご飯が食べたい」と言って死んだ。帰還した同郷の戦友が教えてくれた。ニューギニアで散った兵のほとんどが、補給のない戦争の中、ジャングルでの餓死、マラリア死だったという。
祖父の記録はかなりがあいまいになっているが、1943年9月、おそらく40歳前後になっていたが、召集令状が来て東部44部隊(宇都宮師管区輜重兵補充隊と思われる)に配属。大工だったので工兵隊的な任務だったようだ。その後、フィリピン派遣を経て「豪北派遣2864部隊」としてニューギニアに派遣された。祖父は、「イドレ死の行軍」(1944年7月~10月)の翌年8月にマノクワリで亡くなっているので、行軍には入らなかったことになる。祖父の死は、戦友で故郷が近い大山田村出身の菊池勝衛氏から終戦直後に伝えられた。その後「マノクワリで戦病死」との政府公報が届き、遺骨(指の骨だけだったとも)も受け取った。祖父の母は、体格の大きな一人息子がこんな小さくなって帰ってきたのを受け入れられず、泣き叫んで受け取りを拒んだという。
ニューギニアにたどり着くまで
まず、マノクワリに着くまで。これが結構大変だった。いや、2016年当時も今も、LCCが発達したご時世なら、ジャカルタあたりからまっすぐマノクワリに飛ぶだけだ。難しいことはない。そうやった方がいい。
しかし貧乏旅行にこだわる私はそれでは収まらない。ジャワ島東のスラバヤまで陸路(鉄道)で行き、そこからスラウェシ島マカッサルまでLCC(船便より安かった)、それからバックパッカー界で名高いペルニ船に乗り、海路ニューギニア(インドネシア領西パプア州)を目指した。案の上、乗船3日目には根を上げ、スラウェシ島北部マナド(ビトゥン)で降りて、そこから飛行機でアンボン経由マノクワリに向かった。
そうです、飛行機で行けばいい。飛行機ならニューギニアにも簡単に行ける。だから、余計な途中経過報告を読みたくない人は下段のマノクワリ編に即飛ぶこと。
ついにペルニ船を体験した
多くの島に分かれているインドネシアでは船便が生命線。その中で国営船舶会社ペルニは28隻の大型客船を抱え、インドネシア諸海域を航行する。その過密船室、衛生状態は、バックパッカーの間ではつとに名高く、多くの武勇伝、悲惨な体験がウェブ上に載せられている。
これを体験しなければ一人前のバックパッカーとは言えない。いや、そういう風に考えることが旅行者を危険に陥れるのであって、厳に慎まなければならないのだが、しかし、やはり、、、ペルニの片鱗でも体験したいと思う欲求おさえがたく、船上の人となってしまった。
席は早い者勝ち
2016年1月17日、スラウェシ(セレベス)島マカッサル(昔のマッカサル)でペルニ船乗船。ニューギニア島のマノクワリまで4、5日かかるはず。運賃64万ルピア(5500円)。格安航空会社LCCの1万3000円よりさらに安い。船自体は立派なドイツ製大型船のシナブン山号(1万5000トン)。始発はシンガポール沖のバタム島で、ジャカルタ、スラバヤ、マカッサルと来て、マナド(ビトゥン)、ソロン、マノクワリなどを経由してビアク島まで行く。私はそのマカッサル・マノクワリ間だけを予約したわけだ。
乗船していきなりインドネシア流船旅の洗礼。予約ベッド席にすでに人がいる。切符を見せて「俺の席だ」と一悶着するがラチがあかない。すぐ前に座って抗議を続ける。するとその男がいっしょに監督室に行こう、と。男は英語を話さないが、そんな悪い人ではなさそうだ。別の座席番号の切符を持っているが、スラバヤから乗っていたのでこの席は確保してある、と主張しているようだ。
監督室でも大声で事情を説明するが、くつがえらなかった。船員たちも英語は片言だが、どうも、このクラスの切符は座席が書いてあっても早いもの勝ちということらしい。上級船員の一人は「私は日本人の友達がいる。サトーさん・・・」などと話し、親切ではある。
「ベッドを探してやる」ということで、一等船室前の廊下にマットレスをしいてくれた。これが俺の「席」かよ。納得できないが、それが彼らの私に対する最大の親切であるようだった。やむを得ない。
一悶着で私は周囲で有名になったらしい。いろいろ声をかけてくる。外国人は私だけだ。しかし、どうにもわからない。ガイドブックには、外国人にはエコノミー(4等)クラスは無理だから3等以上の切符を買うようにと出ていた。私もそういう上の席を買ったつもりだった。しかし、席は4等のようで、しかもそれがふさがっていた。
後でわかったが、ペルニ社は2015年に3等以上の船室を廃止。すべてが4等になった。そして、2000人定員のところに3000人を乗せ、席は早い者勝ちで決まるという方式らしい。それなら、切符に席番号など記入しないで欲しいものだ。
甲板まで乗客があふれる
聞いてはいたが、確かにすさまじい船内だ。ごみ置き場に寝ているような所もある。廊下、階段、甲板まで人があふれる。救命胴衣などまったく足りない。少なくとも私の分はない。これで4、5日、いや、多くの人にとってそれ以上を耐えるということなのか。
ただし、イスラム教のお祈りの場所はある。床に水があふれていても、一応使えそうなトイレがある。飯は粗末とは言え3食付き。コンビニみたいな小店舗もいくつかあって、少し高いが、水、その他食料など物資は確保できる。船は大型船のため、まったく揺れず、廊下に寝ていると船旅であることも気づかない。
廊下に敷かれたマットレスに大の字になってとにかく寝た。周りを人が歩く。大地に寝袋を敷いて寝たアフリカの旅を思い出した。あれよりはましだ。しかし暑い。甲板に出て寝た方がずっと涼しい。この体験記草稿も甲板で書きつづった。
ほとんどが飢餓や疫病で死んだニューギニア。私の祖父もマラリア+餓死で、その地の慰霊の旅に行くのだが、それににふさわしい船旅になってきた。
南方帰還船か
船旅2日目。ペルニ船は「難民船」とも例えられるが、それはいささか不当だ。大型船で、沈没する心配はない。一応切符を買って乗っている。船内には店もあって何でも買える。20分並べば3食ありつける。難民船でなく、「南方帰還船」と言うべきだろう。目的地が定まっており、そこに希望もある。戦争は終わっているので魚雷をぶちこまれる心配もない。
しかし、南方帰還船なので中は暑く、蒸し風呂のようだ。あまりに込み合い、あまりにゴミにあふれている。至る所に人々がビニール、新聞紙を敷いて寝ている。よく熱中症の死者がでないものだ(出ているのかも知れない)。子ども、赤ん坊さえ寝ころんでいる。大泣きする元気さえなくなってぐったりする子も居る。
18日午前7時頃、セレベス諸島ほぼ南端、バウバウに着いた。船が停泊するごとに町を歩いてみようと思っていたが、その気力が起こらない。船上から陸の光景を写真に撮れるだけでいい。外に出ているうちに、席(寝床)が取られてしまうことも心配だ。
再び夜になった。廊下の隣に寝ている若い男は、さっきから一生懸命、赤ん坊をうちわで扇いでいる。赤ん坊は単に熟睡しているのかぐったりしてしまったのか、動かない。男の必死さ、子どもに対する愛情が伝わってくる。
その向こうのレストランでは、コンサートがはじまった。照明を輝かせてロックなのかポップなのかインドネシア音楽をやっている。熱暑の中、そんなことをやるときか。いや、こんなときだからこそ音楽でもやるほかないのかもしれない。私は、船室廊下で寝ては甲板に出て涼み、また帰ってきてはキンドル版の井上靖『天平の甍』を読んでいる。奈良時代の東シナ海の大変な航海の話がこれでもかと出てくる。まだこの船は、遭難しないだけいい。
運動不足になるので、人々が寝転ぶ廊下、階段、甲板などをゆっくり歩く。3食の支給を受けるため、とりわけ暑いキッチン周りを20分ほど並ばねばならないが、これも運動になる、と気づき、毎回きちんと並ぶ。これが毎日の行動日課となった。
やっと事情がわかった
食事支給で後に並んだ男が少し英語を話し、決定的な情報を得ることができた。この船はエコノミーだけ、2000人定員のところ3000人を乗せている、席は早い者勝ち、など。今は、正月休みが終わった所で、特に混んでいるという。マノクワリまであと5、6箇所は停泊する。
翌3日目の未明4時にセレベス島東部バンガイにとまった。同午後7時頃に北部マナド(ビトゥン港)に着く予定で、さらにテルナテ、バカンと途中の島に寄り、ニューギニアのソロン、マノクワリと行く。4日以上かかるかも知れない。
この3日目になり、私の考えが変わった。このまま行ったら病気になる。ビトゥンで下船し(以降の切符を放棄)、そこから飛行機でマノクワリに行こう。かの有名な「ペルニ船4等の旅」を体験することができただけで十分だ。
ビトゥンで下船
19日午後7時、船がビトゥン(マナド近郊)に着き、下船。マナドはヒトデのように触手を伸ばした形のセレベス島の北端の町だ。ビトゥンはその港町。太平洋戦争中は、モルッカ海から北上してくる可能性が高い連合軍を迎え撃つ日本軍の拠点となり、終戦後は、南方からの帰還船の終結場所となった。戦前に日本人が起こした東インド水産により発展したという。
この2日滞在したビトゥン、モナドの街もなかなか面白かったが、それは別の機会にゆずろう(『アジア奥の細道』参照)。写真だけ紹介する。
マナド発ニューギニアへ
マナドから飛行機でソロン(ニューギニア島西部、パプア最大の街)に行き、そこを2日間見て回りマノクワリに向かう予定だった。しかし飛行機が滑走路に出たところで、「ソロン空港が悪天候で閉鎖されたため、このフライトをキャンセルします」のアナウンス。出鼻をくじかれた。しかし、無理して飛んでもらってはもっと困る。2010年にソロン空港で悪天候のためオーバーラン事故が起こっている。翌日のアンボン経由マノクワリ行き便に切り替えた。
緑のじゅたんの原生林
2016年1月26日、アンボン経由便は、夕刻近く、ついにニューギニア島上空に達した。一面密林。開発の跡がまったく見られない。上から見ると一面の緑ごけじゅうたんだ。飛行機からいろんな光景を見てきたが、こんなのは初めてだ。もはやアマゾンとニューギニアでしか見られないのではないか。
ニューギニア島の西半分はインドネシア領。その西半分が西パプア州で、州都がマノクワリ(Manokwari)。日本兵の死骸が続いたイドレに至る密林ルートにはアルファック山系の高山帯が立ちはだかる。Wikimedia Commons
ニューギニアに立つ
ついにニューギニアの大地に立った。なかなか着けなかったので感動。(若い頃、1973年にアジア・オーストラリア貧乏旅行の後、ニューギニア経由の船に乗ろうとしたが金欠で失敗している。今回もペルニ船の苦難、そしてマナドからの飛行機便キャンセルなどでなかなか着けなかった。)
上記写真は到着したマノクワリ(レンダニ)空港。戦時中、日本軍が“絶対国防圏”ラインの要としてつくった飛行場だ。大工で工兵隊的な任務に就いたはずの祖父もこの空港建設に携わっていたかも知れない。背景(南方向)にはアルファック山系のメボ山(2940m)。マノクワリの街どこからでも見えるこの山を、祖父もよく見ていただろう。
戦争中、日本軍はニューギニアに多数の飛行場をつくったが、軍用機が壊滅的打撃を受けてほとんど使えず、かつ連合軍の侵攻または日本軍の「転進」で、多くの飛行場が相手方に渡り、大いに活用されることになったという。
マノクワリの街の様子
マノクワリは意外と普通のインドネシアの街だった。空港や港があり、開発が進んでいる。街中には立派なショッピングセンターもあった。後に、中川良三氏による1988年のマノクワリ訪問記「墓標なき墓場 西ニューギニアを訪ねて」を読むが、そこに記されているような厳しさはなかった。官憲とのトラブルもなかったし、たかりのようなチップ求め攻勢もなかった。(もっとも、これは、私がどうみても貧しい地元民風情にしか見えなかったからかも知れない。)
祖父の痕跡を求めて…
私の祖父はどこで亡くなったのか。手がかりもなく、フラッと来てわかるはずもない。病院に行った(UGD)。こんな病院で手厚く看護されていたことなど絶対ない。バカも休み休み言え、と言われるだろう。
ニューギニアには下記写真のような竹づくりの掘っ建て小屋がよくある。特に道路わきなどに多い。涼しそうだ。最末期の祖父もこんな所で病に臥せった可能性はある。
祖父は「イドレ死の行進」に入らず、マノクワリに留まった方だったので少しはましだったろう。戦友の人肉を食らうようなところまでは追い込まれなかったと思われる(人肉食の証言は取手市の住職・豊谷秀光氏の『懺悔録』などいろいろある。年月日号数不明『週刊読売』の北条昭「地獄のニューギニア敗走」参照)。野山に捨て置かれていたわけでもないだろう。何よりも「死んでも帰れぬニューギニア」と言われたところから、たとえ指先1本といえ、帰って来ることができた。「ジャングルに消えた日本軍」として処理されることはなかった。戦友が帰還でき、祖父の最後について証言も得ることができた。ニューギニアには行方も死に場所もまったくわからない日本兵たちが無数に居たのだ。そしてきちんと祖父の死を家まで報告しにきてくれた戦友も立派だ。多くは、自分だけが生き残ったことに耐えられず、とてもじゃないが戦友の家族に会うことはでなかったという。また、戦友が報告に来てくれたということは、状況が極限の修羅場にまではいってなかった証左かも知れない。
こんな、あてもなく歩いているだけでもしょうがない、と思い始めた頃、マノクワリ旧市街に「フジタ・ホテル」という比較的高級そうなホテル(下)があることに気づいた。日系なら何かヒントが得られるかも知れない。訪問して従業員に聞くと、日系ではなく現地のホテルだとのこと。確かに日本語とインドネシア語は音韻が似ていて、日本語のようなインドネシア語も時々見る。シンガポールに近いリアウ諸島州バタム島にはナゴヤという町(人口8万)もあった。
しかし、ホテル従業員が、港近くの丘に日本人の慰霊碑があることを教えてくれた。だいたいの位置を地図にしるしてもらい、行ってみることに。
「戦没日本人之碑」への行き方
ジャングルの中ひっそりと
あとでわかったが、左の碑は歩兵第221連隊戦友会が1990年6月に建立した「第二次世界大戦記念慰霊碑」(別名マノクワリ慰霊碑)。右は日本政府が1956年に建立した「戦没日本人之碑」で、左の慰霊碑建立の際、市内魚市場の脇あたりにあったのをここに移設したという。左の碑には2つの金属板銘文が付いていたが、なくなっている。右の碑も石でできた銘上部が後に落下してしまっている。2009年1月の地震で倒れたという。これらの経緯についてはインドネシア文化宮(GBI-Tokyo)ブログ「西部ニューギニア・マノクワリの第221連隊の慰霊碑から銘板が消えている。戦後73年」が詳しい。
実際は、英文碑文は碑の裏側で、表側には日本語で「戦没日本人之碑 昭和三十一年建立 日本政府」と書かれていることを後で知る。上座が後に倒れて後面が上になるというのは考えにくいが、ま、地震のときそう倒れたということなのだろう。打ち捨てられたような場所。ゲートに慰霊碑を示す文字はない。碑文も英語だけで後に隠れるように、など、一体どういう事情があったのか、などいろいろ詮索してしまった。
死者たちとの対話
やっとたどり着いた戦没祖父関連の地だ。ジャングルの静寂の中で声を出し、まわりに居るかも知れない死者たちと対話してきた。「来るのが遅くなってすみませんでした。私はあなたの長女カツエの長男の一明です。カツエさんはだれそれと結婚して、だれそれだれそれ3人の子どもが居て、、、あなたの次女は、、、長男は、、、」などなどと報告した。
ここまでたどりつけただけでも多としなければならない。先祖を弔いに来る今後の日本人も、他にゆかりの地が見つかるとも思えない。ここを目指してくるのがよいのではないか。
慰霊碑の復旧状況
私が訪れた2年後の2018年4月3日 に「倒れたまま8年半…戦没者慰霊碑が復旧 ニューギニア島」という朝日新聞の記事が出た。私の見た碑は倒れた状態のものだったのだ。2018年2月末に、厚労省が建設業者を派遣して碑を台座に載せ強力な接着剤で復旧させたという。
左側の歩兵第221連隊戦友会が建てた慰霊碑の方は、金属板の碑文が失われたままだ。日本に反発をもつ現地の人々によって取り外されたとの説もあるが、金属は売れる。盗賊が持って行ってしまった可能性がある。
この慰霊碑についてすべてを詳述してくれている資料は永田忠治ほか編『イリアンジャヤ(西部ニューギニア)マノクワリ慰霊碑建立誌』(第35師団歩兵第221聯隊戦友会、1990年)だ。1990年の同戦友会による慰霊碑建立と日本政府慰霊碑の移転・併設の経緯が詳しく書かれている。
すでに入手しにくい資料になっている。国会図書館オンラインの書誌データベースを調べると国会図書館と埼玉県県立久喜図書館にしかない。図書館間相互貸借を利用して近くの図書館に取り寄せた。1990年に戦後45年を経て遂にマノクワリに帰ってきた元日本兵。その新しい慰霊碑建立の喜びがつづられている。1956年建立の日本政府慰霊碑も、約35年打ち捨てられたようになっていたのを現地の人々の協力のもと、立派な眺望の地に移設することができた。
しかし、その新しい慰霊碑建立(1990年)からも30年以上がたった。2016年に私が訪れたときは、やはりジャングルの中に捨て置かれた状態になっていた。建立された方々もかなりが亡くなられ、訪れる人もいなくなったのではないか。
その後、前述通り2018年に修復された。それからさらに4年がたつ。今はどうなっただろう。そしてこれからの長い年月、どうなっていくのであろうか。やはりジャングルの中に朽ち果てる運命にあるのではないか。このブログ記事を参考に、だれかがまた再訪してくれれば、と思う。
必死の努力で伝えられる記憶
ニューギニアの地獄を辛うじて生き延びた人たちは、死にものぐるいでその体験を書き残そうとした。多くの書籍、証言集が残されている。いずれも今では入手困難になっている文献ばかりだ。例えば佐藤 一男編『地獄のニューギニア戦場 生存者が子孫に残す手記集』(上・下巻、1983年)なども印象深い。上下巻にわたる大部の書籍だが、自主出版でISBN番号もなく、中身は手書きの草稿もあれば手紙もあり、雑誌記事のコピーなどもある。ジャングルの中に消えた命に代わりその経験を何としてでも残そうという執念を感じさせる。
この南海の島々に消えた人々に対し、私たちはどんな言葉をかけられるのか。何か大義のため命を捧げたと言えるか。まったくの無駄死にだったのか。初期の戦勝に調子に乗った軍指導部が、次々に補給線の彼方に戦線を広げた。多くの兵が戦いの中でさえなく、無謀な作戦、無知や状況判断の誤りにより飢餓とマラリアでジャングルの中に消えていった。将棋の駒のように駆られ死んだ。大義なく、戦いでさえなく、ただ飢えと疫病で消えた。彼らにどんな言葉をかけられるか。その人生と苦しみは何だったのか。そんな死がまたロシアのウクライナ侵攻で繰り返されているのだが。
栗崎ゆたか『地獄のニューギニア戦線 : 見捨てられた軍団』(フットワーク出版、1993年)は次のように記す。
「日本軍がいかに非人間的な組織であったか。兵士はそこでどう扱われたかは、これまで無数の人々が指摘してきた通りである。自らを人間として扱われない者は他者をも人間として扱う術を知らない。ニューギニア戦線で起こった人肉食や、中国、マレー、フィリピンなどいたるところに見られた非戦闘員の殺戮などは、それゆえに引き起こされた同じ根を持つ悲劇ではなかったか。さらに言えば、自らの命すら鴻毛の軽きにおけと教え込まれた者には、他者の命をいとおしむことなどできないことの証ではなかったか。」(p.251)
ニューギニアで朽ちた日本兵たちには、まだまだ記録されない多くの苦しみ、地獄があっただろう。しかし、その当時、地元の人々にはどのような地獄が襲い掛かっていたのか。そちらはいまだに記録の企図さえ行われていなかったと思われる。
私がこのブログ記事を書いたのはない
私はしばしば、人は生きる時代によってどれほど幸・不幸の差があったのだろう、と思う。天下泰平の世に生まれた人と戦国の世に生まれた人、飽食の時代と飢餓の時代に生まれた人…。決して現代の我々の生活が楽だとか幸福だとか言うつもりはない。現代にも不幸はあるし苦しむ人々が多く居る…しかし、戦争で家族を殺された人々、そして熱帯のジャングルで飢えと疫病で死に、人肉食の極限状態にまで追い詰められる人々の体験を知るとき、私たちは黙らざるを得ない。私たちは食いたいものは(ほぼ)何でも食え、少なくとも腹いっぱいに食い、冷蔵庫の冷えたビールさえ飲んでいるのだ。
お前らはなんちゅう時代に生きているのか、と祖父の声が聞こえてきた。そんなにだらけた生活してるなら俺のことを書け、とどやしつけられた。
この記事は私が書いたものではない。私の祖父が書かせたものだ。私の体内DNAの四分の一が怠惰な私の身体を駆って書かせた。もしかしたら、のんきな海外放浪の旅で私をマノクワリに向かわせたのも祖父のDNAだったろう。未だに成仏しない祖父の亡霊に駆られて旅し、モノを書いた。
最後の審判は?
人々がニューギニアの地獄に追い込まれる前に、何らかの前史、前哨戦があったはずだ。あの状態に追い込まれたら人々の取れる対応は限られている。あんな状態に行く前に、やるべき、行動すべき社会的課題があったはずだ。それを人々は充分に遂行したか。
のらりくらりと怠惰な、そして相対的に恵まれた生活を送る私たち。そこでの怠惰が将来の地獄に責任を負うことになることはないか。ニューギニアの地獄どころか、数十万年続いた人類が滅亡する最後の時代を私たちがのらりくらりと暮らしていた、と最後の審判が下る、その恥辱にまみれることはないのか。
さらばマノクワリ
2016年1月26日から2月1日の7日間、マノクワリに滞在した。慰霊碑訪問は1月30日だった。2月1日にシュリービジャヤ航空機でマッカサル経由ジャカルタへ。思いのほかインドネシア滞在が、ビザ期限1カ月をオーバーしてしまっていた。出国係官にとがめられ、「ニューギニアに行って予定通り帰れなくなって…」と弁解すると「そうか、パプアに行ったか」と納得したように、超過1日に付き罰金30万ルピア(2500円)の支払いで勘弁してくれた。