日本語の流入・概略
方言アクセントの周圏的分布に、古代DNA研究から新しく出た日本人起源「三重構造」説を対応させれば次のようになるだろう。
縄文諸語は、東アジア沿海地域諸言語の一般的特徴として無アクセントだった。そこに紀元前8世紀頃から、韓半島からの弥生人(濊人)が稲作をともなって流入してきた。東アジア沿海出自の海民的な人々で、韓語(アルタイ系)の影響を受けた声調言語を話していた。列島で縄文系と混住・混血する中で言語がピジン化し、初歩的アクセントをもった日本語が生まれた(後の東京式アクセント)。それがリングア・フランカ(通商語)となって列島東部にも浸透した。
やがて3世紀頃からの古墳時代にさらに大規模な「渡来人」流入がはじまる。韓半島からばかりでなく、五胡十六国の混乱を逃れる大陸の漢人たちの流入も活発化した。この時代の渡来系は遺伝子的に言って日本人の25~65%を形成した。彼らは瀬戸内海を経て近畿地方でヤマトの王権を築いた。漢字がもたらされ、日本語にさらに複雑な声調アクセントが組み込まれた(後の京阪式アクセント)。
以上はあくまで作業仮設だ。今後の研究の進展をこの視点から見ていきたい。何よりも、方言アクセント周圏論に立脚している。大昔のアクセントを直接聞くことができない以上、現在の方言アクセント分布が何よりのハードデータだ。まずこれに立脚した上でそうなったは背景を探訪する、という手順をとる。
ストレートな周圏論だ。だから、最周辺の無アクセントが最も古く、次いで東京式(外輪、中輪、内輪)アクセント、一番新しいのが京阪アクセントだと認定する。無アクセントは縄文、原東京式アクセントは弥生・古墳、原京阪式アクセントは飛鳥・奈良以降に対応する。
聞いたことのない説
こんな説は確かに聞いたことがない。定説は、京阪式―>東京式―>無アクセントだ。それを批判する山口好洋でも、こんな単純な説は出さなかった。無アクセントの地に、祖型京阪式アクセントの衝撃が来たので、それに適応、習得しようと苦闘して土着の人々が不完全な各種東京式アクセントを生んだ、と説明した。つまり、順番としては、無アクセント―>京阪式―>東京式になる。私の仮説は、周圏論そのものずばりの「無―>東京式―>京阪式」だ。
この説をとる一つの理由は、「京阪式アクセントを習得しようと苦闘して…」と言い始めると、ではなぜその努力の結果、京阪式アクセント周囲の無数の地点で同じような型の東京式アクセントが生まれるのか、が説明困難になるからだ。定説「自律変遷説」が、なぜ京阪式周辺の無数の地点で同じような型の東京式アクセントが生まれたのか、説明困難になってしまうのと同じだ。あくまで素直に、ストレートに、周圏説の論理を貫く(本記事最後段で詳述)。
S・R・ラムゼイが同じ主張をしていた
しかし、こんな風に言っている人は他にだれもいないぞ、と思いながらいろいろ調べたら、日本人には居なかったが、アメリカ人の言語学者S・R・ラムゼイ(Samuel Robert Ramsey Jr、1941年~)が同じ論を展開していた。日本の言語学界が方言周圏論を否定するのはおかしい、として徹底的に周圏論に沿った議論を展開していた。
「日本の方言地図を見ると、『東京式』方言は京都式方言の両側にある。東側では愛知県・岐阜県から北の北海道まで、西側では兵庫県北部から西本州全体を貫いて九州北部の福岡県、大分県まで。東京式方言は、四国西南最端部、そして奈良県南部の京都式方言に完全に隔離された小域でも話されている。/この分布が示すのは、京の都近くで革新が起こり、それが、より古い東京式地域に拡大していった、ということだ。…奈良県南部に見いだされる東京式方言小域の場合は、京都方言が紀伊半島の交通の便のいいすべての地域へ影響を拡げ、真ん中の隔離された山村を比較的手つかずにしているように見える。この方言分布を別の形で言うと、東京式方言が日本各地に水ぼうそうのように出まくる、という形になる。」(S. R. Ramsey, “The Old Kyoto Dialect and the Historical Development of Japanese Accent”. Harvard Journal of Asiatic Studies 39, 1979, pp.171-172、岡部訳)
これは卓見だ。特に、奈良県内の辺境の村に東京式がぽつりと出現しているとの指摘は面白い。これほど、東京式の方が古いことを示す証拠はない。京阪式アクセントに囲まれて存在する東京式アクセントの小域。定説は、辺境はアクセントを単純化させるのだ、と言うかも知れないが、こんな隔離されたところで、わざわざ東京式の型を新しく正確に採用するというのは明らかに変だ。規範意識が弱くアクセントを単純化させて、何か変わった別の型、あるいは無アクセントになるというならわかるが。
日本人で同じ論を主張する人が居た
興味をもって、この奈良県南部の山村を調べたら、すばらしい論考に出会った。松本修氏の「奈良県の「秘境」の村に、東京弁を聞きに行く」(2025年7月19日)だ。この「秘境の東京弁」を実際に視察した報告で、その報告内容も衝撃的だが、氏がこれを周圏論の立場から次のように言っていることもすばらしい。
「奥吉野で東京式アクセントが栄えてきたのは、もともと近畿全体が東京式アクセントの地域であったからであると私は考えます。近畿エリア内を超えて、あるいは日本のもっと広い地域で、東京式アクセントだったかも知れません。そんな東京式アクセントの話者たちが、林業に就くべく、山深く洞川や十津川などに移り住んだものと思われるのです。/京に京阪式アクセントが生まれたのは、東京式よりも、もっとあとの時代のことだったでしょう。/平安末期、11世紀末から12世紀ころに編まれた漢和辞書『類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)』に記録されている京都語のアクセントは、現在の京阪式アクセントとほぼ同じです。アクセントは少なくともここ900年間、京ではあまり変わらなかったわけです。/このことから、東京式アクセントの成立はとてもとても古く、900年より遥かに前、場合によっては二千年も前のこととも考えられるのです。逆に京阪式アクセントはとても新しく、900年より幾ほどか前の世紀になってから、ようやく近畿で新たに広まったものと考えられるのです。」
松本氏は、サイトの自己紹介によると、1991年に朝日放送(ABCテレビ)で、周圏構造を示す「アホ・バカ分布図」探索の番組制作を手掛けた方のようだ。さすがだというか、脱帽する。
弥生・古墳期の渡来人の移動と日本語
再び、方言アクセント分布図と縄文人度合図を下記に掲げる。ここから何が見えるか。まず弥生式(後の東京式)アクセントの広大な広がりである。弥生人は北九州から日本海側にかけての海岸部から列島に入ってきた。現在京阪式アクセントになっているところも含めて列島の相当部分を弥生式(現在の東京式、特に外輪系)に変えただろう。弥生時代には政治権力の中央はなかった。移民たちは海岸部から自在に列島内に分散し、まだら模様状に原東京式アクセントを広めた。つまり、典型的な(同心円的な)周圏構造での広がりではなかったが、周辺に古層の無アクセント地域を残したという点では周圏的でもあった。東国太平洋岸、九州中南部などの無アクセント地域には何らかの(縄文からの)自律的文化圏があったことをうかがわせる。
図1 日本語方言のアクセント分布


Map made by Kwamikagami at English Wikipedia, revised by 荒巻モロゾフ at Japanese Wikipedia, CC BY-SA 3.0
図2 都府県別の縄文人度合い

次いで1000年近く後、古墳時代にさらに大規模な、中国本土からも含めての渡来人流入があった。当時の人口の25~65%を占め、日本人の根幹部分をつくった人々だ。これが後の京阪アクセントをもたらした人々と思われる。主に北九州から入ったであろう勢力は瀬戸内海を経て近畿に入った。その過程で四国にも展開した。しかし、出雲地方には弥生時代からの独自の勢力があったようで、中国地方にはあまり展開できなかった。アクセント分布から見て北陸からも流入したようにも見えるが、これは近畿に根付いた渡来系ヤマト王権勢力が日本海側に展開していったことの反映とも見られる。
「縄文人度合い」の地図を見ても、近畿には縄文系は少ない。古墳期に至る渡来系がここに集住したということだ。半島・大陸系の文化拠点がここに生まれた。そこで声調言語の勢いが増し、より複雑なアクセント体系が次々生まれ、周辺に広がっていく。外輪東京式アクセントの海に中輪系が広がり、後を追って内輪系、次いで近輪(垂井)系が広がり、時を置かずして今日の京阪系アクセントの祖となる複雑なアクセント体系が京都を中心に形成された。
出雲の独自性
古墳期の大陸・半島からの渡来人流入が、中国地方を飛ばした形で瀬戸内海ルートの終点、近畿地域に入ったように見えるのは、中国地方に出雲を中心とした独自勢力圏があったからだと思われる。出雲地域の縄文人DNA度が高いのも、古墳期のこの地への渡来人流入がかなり抑制されたからだと思われる。出雲には「国譲り神話」があり、古代からこの地にヤマトと拮抗する独自勢力があったことをうかがわせる。列島の多民族的基層を追求する岡本雅享は次のように述べている。
「日本にも多数の生き神がおり、中でも神道の二大生き神は、政治への関与を封印されながらも、大名を上回る権威を維持していた。太陽神アマテラス(天照)の祭祀王(御杖代)=天皇と、国土創造神オオナムチ(大国主)の祭祀王(御杖代)=出雲国造(国造)である。/出雲国造は、六~七世紀頃、ヤマト政権に服属し国造(くにのみやつこ)となった古代出雲王の末裔とみられている。有史(八世紀初頭)以前からの嫡子世襲の万世一系性において、天皇(家)を上回るといわれる出雲国造は、七九八年に政治的権力を奪われて以来、杵築(きずきの、現出雲)大社(おおやしろ)で「天の下造らしし大神」オオナムチの祭祀に専念するようになり、幕末に至る。」(岡本雅享『民族の創出 ―まつろわぬ人々、隠された多様性』岩波書店、2014年、p.109)
「出雲大社の起源は五世紀後半とみられる伊勢神宮の創建よりも、はるかに古いとされる。天つ神の最高神を祀る伊勢(大和)と、国つ神の最高神を祀る出雲は、明らかに性質が異なる神道信仰上の二大拠点だといわれ、それぞれ独自の神体系を持つ両者の間に上下関係などなかった。有史来初めて両者を上下関係に置こうとしたのが、維新政権である。」(同書、p.138)
「歴史学者の上田正昭は、百済から(瀬戸内海を通る)大和への文化に対して、新羅とか高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があり、新羅と結びつく出雲文化は、日本海を北上して能登半島からの国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していくという。言語学者の真田信治も、日本海文化を特徴づける海人の文化の多くが、出雲を発信基地として北へ進展しており、出雲から北陸を経て東北に至る日本海側に、連続してズーズー弁が分布しているという。それは前述したように、出雲が日本列島における海道の一つのフロンティアだったからではないかと筆者は思う。」(同書、p.213)
ズーズー弁と日本語基層
本論考では、方言アクセントの分布から日本語の基層を論じているのだが、上記引用にある「ズーズー弁」もまた日本語基層に深くかかわる言語要素だ。典型的にはiとuの発音が近くなり、例えば「寿司」、「火事」が「スス」「カズ」のように聞こえる。これと関連してeとiの発音が近くなる現象も見られ、色鉛筆が「エロインピツ」と聞こえ、これは少なくとも栃木・茨城地方でジョークとしてよく語られる。この二つが重なると例えば「意地」の発音が「エズ」などと聞こえる。ズーズー弁は、東北全域と関東東北部、出雲地方などに分布している。私の出身地、栃木県北部でも、このような言葉は特に子ども時代によく聞いた。しかし、当時でも少なくなっていたし、現在はほぼなくなってしまったかもしれない。
アクセントが最も変わりにくい、次いで音韻
やや脇道にそれるが、「直し」やすいのは語彙の方言は語彙だ。「ごじゃっペ」(デタラメ)、あるいは「そうだんべえ」「やってみっぺ」など、明らかに方言とわかる語彙、活用を使わなければよい。簡単なことだ。しかし、音韻(発音)を変えるのは難しい。そしてさらに難しいのはアクセント、イントネーションだ。栃木県北部にもズーズー弁は浸透していて、前の世代ではそれを「直せ」ないようだった。だが、私たちの世代では気をつければ直せた。しかし、その次の難関、アクセント、イントネーションは高い壁だ。そもそも言葉にアクセントがあるなどということも無自覚で、自分が無アクセント言語を話しているのも気づかなかった。気づかなければ「直し」ようがない。方言語彙を使わず、ズーズー弁を出さなければ標準語をしゃべっていると思っていたが、とんでもなかった。他の地域に行けば指摘されるし、大人になり長年東京に暮らしても、標準語をしゃべっているつもりで昔のアクセントを残している人はたくさん居る。気がつかないだけで私もそうだろう。
「栃木弁をしゃべってみて」と言われて、つい「ごじゃっぺ」「そうだんべえ」などと言ってしまう。それも確かに栃木弁だが、そうした語彙が方言の本質ではない。かといって、疑似東京アクセントを身につけた後では真正な栃木弁アクセントを話そうとしてもなぜだか話せない。アクセントは一旦変えると逆方向にも簡単には「直せ」なくなるようだ。ことほどさように、アクセントというのは極めて変わりにくいということなのだ。だからこそ日本語の歴史をたどるにも、アクセントを基軸すれば最も真実に近づける。それでこのような論考を書いている。
ズーズー弁はウラル語族起源か
少しずれたが、音韻について話し始めた。ズーズー弁の分布も無アクセント地域とある程度重なる。これも弥生以前の日本語基層をある程度反映しているようだ。ズーズー弁には、ウラル語族やアルタイ諸語の影響があるとの説もあり(例えば崎谷満『DNAでたどる日本人10万年の旅』昭和堂、2008年)、ウェブ上でも、Pacificos氏が、最新の古代DNA研究を駆使して意欲的な論を展開している(「ズーズー弁の起源を解明① ウラル語族に属す基層言語の母音調和に由来」、「同② 約3000年前に沿海州のシニ・ガイ文化から山陰にウラル系民族が渡来した」)。それによると、現在シベリア西部からヨーロッパ北東部にかけて分布するウラル語族(有名どころではフィンランド語、エストニア語、サーミ語)は、それに特徴的なY染色体ハプログループNが古代遼河文明の遺骨から高濃度で発見され、ウラル語族は遼河流域(中国北東部)が故地であった可能性が高いという。約3000年前に、突帯文土器と櫛目文土器を伴ったウラル語族の一派が列島に到達し、最終的には東北、出雲などで裏日本基層語(「裏日本ウラル語」)を形成した。これが2500年前頃に半島から入ってきた日琉祖語を受け入れる際、元来の舌前後の母音調和を持つ基層語の影響で母音が変化し、「ズーズー弁」が生まれた、とする。(口をとがらせて舌を先に出すiと後ろに引っ込めるuが中間に近づく、ということらしい。)
Pacificos氏は、発音からみた日本語の基層には、この「裏日本ウラル語」と、縄文語、日琉祖語、近畿シナ系言語の4つがあったとの見解を示している。ー
ピジン・クレオール語としての日本語
弥生以降の大陸声調言語の影響は、「ピジン」の形成過程ともとらえられる。ピジンとは、近代ヨーロッパ植民地主義が世界に拡大する中で、現地人の間に生まれた簡略通商言語だ。スペイン語、ポルトガル語、フランス語、英語などのピジンがアジア・アフリカ・中南米諸国で生まれた。土着語との混淆による簡略語だが、やがてそれを母語とする世代が生まれクレオール言語となる。クレオールはもはや一時的な通商語ではなく、自立した通常の言語だ。それは、優位言語にとっては「崩れた」「訛った」スペイン語、英語などだが、現地の人々にとっては、様々に土着的要素を残した母語となっている。これを崩れた言語でなく、正統な言語として復権させようとする意識改革が、クレオール話者の間に起こっているという。この分野を研究する一之瀬敦は「かつてクレオール語はヨーロッパの言語に劣ると言われ、そうした否定的な評価を受け入れていた人がアフリカ生まれの人にもいました。しかし近年、クレオール語は「普通の」言葉であり、公用語にすべきだと主張する声がアフリカ生まれの人のなかからも出てきた。興味深い動きです。アフリカの文化や社会の今後の変化が楽しみです。」と語っている。
現在の日本でも、外国人労働者の間の日本語ピジン、軍事基地ピジン、小笠原諸島の多言語ピジン、日本語琉球語ピジンなど様々な多言語環境がある。こうした日本の多言語環境を研究するジョン・マーハは、2000年以上前に成立した弥生語自体がクレオールだったとする。これを「北九州クレオール」と名付け、この時期の列島社会のリングア・フランカとして機能していたことを次のようにまとめている。
「日本語は、アジア大陸から韓半島を経て北九州に上陸したかつての「移民」または「ボートピープル」の言葉から生まれた。現段階のエビダンスは、九州が、弥生移民とその言語の出発点だったことを示している。これらの移民たちは、北九州の沿岸域平地に何百もの大小様々な環濠村落に住んだ。農産物交易と文化的接触が増えるにつれ、言語の多様性に安定が見られるようになってきた。当時の縄文日本には、北の古シベリア語系、南のマレー・ポリネシア系、西の中国語、朝鮮語(プロトアルタイ系)の言語が話されていたが、弥生移民社会は、数的にも経済・文化的にもそうした地域に拡大していくに十分強力だった。私はこの拡大していく弥生語をクレオール(北九州クレオール)と呼ぶが、それは、多様な縄文言語間を結ぶリングア・フランカの機能を果たしながら、本州、九州各地で多くの土着言語を吸収、均質化していった。」(John Maher, ‘North Kyushu Creole: an Hypothesis concerning the multilingual origins of Japanese’. D. Denoon, D., et al. (Eds.) Multicultural Japan: Palaeolithic to Postmodern, 1996, Cambridge: Cambridge University Press, p.176.岡部訳)
無アクセント:なぜ最外縁でない?
現在の方言周圏構造が示す通り、弥生期に広がったと考えられる東京式アクセントのさらに外縁には縄文基層を残す無アクセント地域が存在する。基本的にはそうだ。しかし、詳細に見ると、微妙なところがある。完璧に最外縁でないところも分布している。そもそも最大の無アクセント地域である北関東から南奥羽が、都から見て相当の外縁ではあるにせよ、最外縁ではない。その北に北奥羽の東京式アクセントがある。九州の無アクセント地域も南端の南九州ではなく九州中部であり、やはり微妙だ。八丈島や、狭い範囲に点在する静岡県山間部、四国西部などの無アクセント地域は、相対的に隔離された地での基層アクセント残存という解釈で理解可能だが、福井市など福井県北稜地域は都に近く、隔離された地とも言えない。
周圏分布はあくまで大枠をとらえるものだからある程度の誤差はあって当然と突き放すことも可能かもしれない。しかし、なぜそのような誤差が出たのかを検討することで、その地域の独特の諸条件、歴史的背景に気づくことができる。すべての無アクセント地域について言及できる立場にないが、私の郷里である北関東・南奥羽にはある程度の見解を出せる。
北関東・南奥羽:やはり最外縁だった
関東の東北部、東北の南部地域は、やはり、列島の最外縁だった。まず第一に、アクセント分布地図で最北の北海道が東京式アクセントになっているのは、これは明治以降に開発された土地だからで当然のことだ。東京弁が主力となった明治以降、全国から北海道に植民してきた和人たちの言葉が大枠で東京式アクセントになるのは当然である。それ以前の住民は主にアイヌの人たちだった。この地を「北海道」でなく「アイヌモシリ」ととらえれば、そこは東京式アクセント地域でなく、無アクセント地域だ(アイヌ語は無アクセント言語)。
日本海側が列島航路の主力だった
第二に、日本が世界に開かれる前の前近代では、日本海側が「表日本」で、太平洋側は「裏日本」だった。相対的に穏やかな日本海側に活発な航路があり、都の影響は、波の荒い太平洋側より日本海側を通じて東北にもたらされた。例えば江戸期には、北前船が大阪などから瀬戸内海を西進し、出雲、能登、越など日本海沿岸を経て東北、北海道との交易を担った。太古から日本海側が交易の中心ルートで、東北太平洋側にも津軽海峡を経た交易が到達したと思われる。748年1月、越中守だった大伴家持が「あゆの風いたくふくらし那呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」と詠んだ歌が万葉集に収められている。あゆの風(アイの風)とは、日本海岸を南西に吹く風だ。交易船は、対馬海流に乗って北上した後、アイの風が吹くのを待てば南に帰れる。この「アイの風」という言葉が出雲から越にかけて広く分布しているという(岡本前掲書、pp.223-224)。実際、江戸期北前船の「西廻り航路」でも、酒田など東北日本海側から大阪にとどまらず、江戸にまで荷物が運ばれた記録もあるという。1671年に、が東北から下田などを経由して江戸に至る「東廻り航路」を開拓した後も、航路の危険性などからこちらはあまり使われなかったという。
危険な房総沖
第三に、関東平野は大河が縦横に走り、沼地・湿地帯も多く、太古において陸路でそれ以北(現栃木県・茨城県域から北)は隔絶されていた。言うまでもなく当時は東京はなく、その地は文字通り東国の果てだった。そして第四に、海路でも、房総沖が航行危険域だった。房総沖は世界最強級の黒潮と親潮がぶつかる海域で、北西の季節風と相まって海難事故が絶えなかった。「江戸時代の海難記録を調べると、房総半島東方から米国の西海岸まで太い帯のように繋っている」(p.8)という。現在でも「低気圧の墓場」「魔の海域」と呼ばれ、1969年1月には3万3,768トン貨物船「ぼりばあ丸」が沈没し30名死亡。1970年2月には3万4,002トン「かりふぉるにあ丸」が沈没して4人が死亡、などの事故が起こっている。一旦下田などに出て風待ちをする江戸期の東廻り航路が開拓されても危険なことに変わりはなく、ましてそれ以前の時代に、海路での東国北上が活発だったとは考えられない。江戸期の利根川東遷工事で、銚子から利根川、江戸川を経て江戸に入る河川交通路「内川廻り」が開拓され、ようやく北東関東以北との物流が改善された。
独自の勢力圏
こうした背景から、この地が近畿を中心としたヤマト王権から最も遠く、古来から独自文化圏、勢力圏を保ちやすかった。『日本書紀』や『常陸国風土記』にもその名が出る「日高見国」は常陸国との関連が取りざたされ、北上川の語源とも言われる。日本国家のもう一つの源泉とまで言うまでには物証に乏しいが、那珂川上中流域域には古代那須国(現栃木県那珂川町、大田原市地域)の繁栄があったことは考古学的にも確認できる。3世紀後半(卑弥呼の時代)に当時にして東国最大級の古墳(駒形大塚古墳、墳墓長64m)が造営されたりしている。、
大藩、水戸藩
この地に強固な無アクセント方言が維持された第五の要因として、近世に大藩、水戸藩の領域になったことが挙げられる。徳川幕府は、広大な農業地域となった関東平野から強力な大名が出ることを警戒し、主に幕領や小藩を配置した。だが、東北雄藩の監視役として水戸藩を例外的な大藩とし、そこに御三家の一つ水戸徳川家を配置した。その領域は現栃木県域の那珂川沿岸にまで及び、領内の文化的独自性・一体性が保持、強化された。後述するように、江戸には三河の徳川家臣団が大挙して入り、三河弁(中輪東京式アクセント)が江戸の言葉になっていったが、水戸藩への三河藩士の流入は限定的だった。何割が三河出身だったか不明だが、新設された水戸藩の家臣団登用は慶長期(1596~1615年)に176人、初代徳川頼房が藩主に就任した元和年間(1615~24年)は187人だったとの記録がある(「三河出身の水戸藩士供養」『新いばらき新聞』1998年2月6日)。しかも水戸藩は参勤交代のない「江戸定府」藩であり、藩主以下、藩士の半数は江戸に常駐した。水戸周辺の言葉を変えるほど大きな外部からの人口流入はなかったと推測される。
福井県陵北地域の無アクセント
他の無アクセント地域について簡単に口をはさむべきではないが(と言いながらはさんでしまうが)、例えば、都に比較的近い福井県陵北地域の無アクセントについては、近隣に多様なアクセント域が集中しているので、その影響でアクセントが混乱、もしくは曖昧化しているような印象を受ける。Youtubeで福井弁を聞かせて頂いているが、我ら栃木の無アクセント原理主義者からみると、福井弁は確かに尻上がり調はあるものの、何らかにアクセントがあるように聞こえる。異なるアクセント地域が隣接する地域では、言葉に揺らぎが起こる。そうした仕組みで「曖昧アクセント」「無アクセント」が生じている地域も多いのではないか。北関東無アクセント地域でも、東京アクセントの激烈な侵攻下で曖昧アクセント化が蔓延している恐れがある。
九州中部の無アクセント
北関東・南奥羽地域に次いで広域の九州中部の無アクセント地域については、正直のところよくわからない。確かに都から「最遠」の地ではない。その先の南九州に「二型アクセント」がある(単語の長さを問わずアクセントの型が2種類のみ)。どちらも単純化したアクセントだとおおざっぱにまとめていいのかも知れないが、南九州二型アクセントは、どの語がどのアクセント型になるかの「類別語彙」で他地域有アクセントと一定の対応があり、中央語からの何らかの系統関係にあることは否定できない。
様々な深い要因があるのだろう。九州は太古において日琉祖語が日本語祖語、琉球祖語に分かれる過程で複雑な動きがあったはずだ。琉球方言を交えた構図で考えなければならない。また、これまで日琉祖語は「琉球語派」と「日本語派」からなると区分されていたが、言語革新の共有状況からみて「琉球語を排除した「日本語派」なる系統群は成立するのか」という疑問が呈され、「九州・琉球語派」と「中央日本語派」の分岐を論じる説が出されるなど、九州をめぐる日本語研究は増々複雑になっている。単純に大陸・半島からこの地に至る渡海ルートがあったのかも知れない。あるいは、まったくの推測だが、7300年前に鹿児島沖で起こった過去1万年世界最大の噴火「鬼界カルデラ噴火」の影響もないとは言えない。被害は日本全土に及んだが、とりわけ南九州は壊滅し、以後、1000年近く自然環境が回復されなかったともいう。縄文文化が十分発展せず、無アクセント基層が弱いところに弥生の人々が入ってきた可能性がある。あるいは古墳時代になってから、誇り高い熊襲・隼人の人々の抵抗に対しヤマト王権が徹底した弾圧を行なったことの影響はどうか。ヤマトは多数の兵を送るとともに、豊前国(北九州)など他地域から大量の移民を送り込んだ(岡本前掲書、p.320-331)。あるいは1185年、源頼朝がこの地に任じた島津氏がもたらした影響は、、、といろいろ検討課題はある。
東京のアクセントは三河から来た
江戸に幕府が開かれてから、列島の文化的中心は、次第に京阪から江戸に移っていった。明治維新以降、この地から強力な近代中央集権国家が築かれ、東京弁は「標準語」として日本語の中枢を占めるようになった。しかしこの標準語的東京弁は、昔からこの地にあったわけではない。東京アクセントは実は三河から来た。徳川の家臣団が大挙して三河から江戸入りし、その権威を背景に、その武士言葉を中心に(下町言葉に比較して)格式ある江戸弁が成立した。明治以降はその流れを汲む山の手言葉が標準語の地位に納まる。反骨の言語学者、山口幸洋は次のように言う。
「東京アクセント成立の場所が東京でないということは、江戸期初期において江戸地方の人口を考えれば当然であろう。江戸の成立は結局、江戸外部からの人口流入に始まっており、江戸語話し手の構成もその人達が流入した江戸初期は、三河中心(特に西三河、その後、遠江、駿河が加わる)であった。江戸は、慶長8年(1603)開闢以来全国各地の人口集中で、享保6年(1721)町人501,394人の人口になっていた。150年後の慶応3年(1869)の町人530,703人であったことを考えれば、江戸時代の人口変動がそれほど激しくなかった中、当初の100年で50万に膨張した理由は、ひとえに各地からの移入であった。その中で徳川家臣団配下一党の三河出身者が話言葉面で主導権を握ったのである。現在の三河方言と、東京弁が方言的にアクセントを除いて飛び抜けて一致するわけでないのは、その後の西三河地方における西の影響による変遷があったためで、一方、江戸のアクセントが中輪式のままであるのは、アクセントに関しては外部(上方とか、関東農村ほか)の直接影響が少なかったのだと考えられる。」(山口幸洋『日本語東京アクセントの成立』港の人、2003年、pp.42-43)
浜名湖西岸方言の研究からはじめた山口は三河の方言についても詳しい。徳川300年と明治以降の変遷を経て三河弁は語彙的にはかなり変わったが(東京弁も変わった)、「東京と西三河(岡崎)がアクセントにおいて、ほぼ完全に一致するものであることに注目する」(同書、p.11)と言う(共に中輪東京式アクセント)。もともと江戸の地は寒村にすぎず、新たに築かれた「西部の街」のような所だ。それが流入者の言葉によって大きく秩序立てられることは充分あり得る。一旦三河弁を基礎とする江戸語が確立されてからは、その政治経済文化的力によって東京式アクセントは周辺地域に急速に広がっていった。東京式アクセントの原型は弥生時代から列島広域に広がっていたが、江戸期以降の江戸・東京のヘゲモニーによってさらに拡大しただろう。特に北・東関東の無アクセント地域は江戸に近接している。そこへの影響は大きかった。いや、そもそも三河弁が江戸を支配する以前、その地にどのような言葉が話されていたのか、再考してみる必要がある。山口は次のようにも言っている。
「江戸時代の下町言葉に、北・東関東(栃木・茨城・千葉)の人達が入っていたとすると、そのアクセントは、三河遠江式の中・外輪アクセントでなく、一本調子の一型アクセントあるいは埼玉式と言われる特殊アクセントであったこともあり得るから、現在のような規則正しい中輪式東京アクセントにはなり得なかったと考えられる。 アクセントの変化が遅いといっても、政治、軍事、 経済、文化的に優勢な外部の刺激という条件の元では崩れる。江戸に入った「三河」は、それをすべて持っていたから江戸を制覇した。また、当時江戸周辺に存在した非江戸アクセントは条件を全部備えた新しい「江戸アクセント」によって制覇され、それ自身、周囲に広まったと考える。」(同書、pp.76-77)
「これまでの定説では栃木茨城の「一型アクセント」は「東京アクセントから変化した新しい形、埼玉などの特殊アクセントは、「東京アクセントから一型アクセントに至る途中のアクセント」のように定義されているが、筆者は否定する(拙著『日本語一型アクセントの研究』 参照)。金田 一春彦1967「東国方言の歴史を考える」(『国語学」69参照)は、一型アクセントが古代より関東一円に広まっていた可能性があると考えている。なお昭和になってからも東京都内に埼玉的なアクセントを話す地域が存在していたとする報告が、都染直也1982(日本方言研究会34回「東京東北部及びその周辺地域におけるアクセントの実態」)でなされた。又、千葉県のアクセントは平成12年の野田市、流山市、柏市の筆者の調査で、かなり無型アクセント的(いわゆる曖昧的)傾向があると考えられた。従来そのような方言を「アクセントが崩壊する、無型化」 であると言われているが、筆者は、そうではない、逆(古くは無型アクセントだった者が東京アクセント等を習得する途上のもの)だと考えている。そして、江戸時代の江戸下町にはその種の話者が相当いたと考えている。」(同書、pp.81-82)
山口幸洋『日本語方言一型アクセントの研究』
山口幸洋『日本語方言一型アクセントの研究』(ひつじ書房、1998年)は無アクセント方言に関する本格的研究書である。方言研究者は、無アクセントに出会って衝撃を受ける。山口もその驚きを隠さず、「実際、一型アクセントは「アクセントのある方言」の話者からは想像が出来ないようなことがあって、戸惑うことばかりであり」、「自ら経験するまではなかなか納得できず、「アクセントがない」ということがあるということが信じられなかった。」と述懐している(同書、pp.19-20)。これを「有するものにとっては無いことが理解できない。有しないものにとっては有ることが理解できない」問題だともいい、「RLの原則」だとする。日本人が英語のRとLの区別をできない問題に例えている。この区別のない日本語話者には区別があること自体が理解できない。逆に英語話者などにとっては、その区別が無いこと自体が理解できない。「この原則は、知識としての頭でなら理解し得ても、身を持っては、ほぼ絶対的に会得しえない特性を持つ。これまでアクセント研究について成された「アクセント(弁別)がない」という結論は、全国諸方言との比較対照上、大きな意義があるものであったが、一方に、共時論的には未だに「型」を求める調査が繰り返され」る理解の遅れがあるとする(同書、p.368)。無アクセント方言を有アクセントが崩壊した先に位置づけた定説も、有アクセントの側から理解できない異物をその文脈の末席に位置づけたようなもので、根本に「RLの原則」があったということだろう。
困難な無アクセント調査
無アクセントの調査では、通常の方法が機能しない場面にしばしば直面した。単独の言葉を発音してもらっても単調であることもあれば、何らかのアクセントがあることもあり、しかし同一人でも別の機会に発音してもらうと異なっていたり、聞き返すと別のアクセントになったり。早口の会話でわからないのでゆっくり話すように言うと、もうその時点でオリジナルな発音でなくなるところがあり、あるいは文を読ませるような調査方法ではオリジナルな発音が得られないところがある、などなど。例えば次の通り。
「一型アクセント方言は、「調査表調査」においても、有弁別アクセント方言と違う数々の特徴が現れることが知られており、第6章紹介の諸氏異口同音にいう「目を見張る」ような驚きを感じると言われる通りである。語彙リストを 平板にしろ頭高にしろ中高にしろ、「棒読みに読む(一律読み)」あるいは、一貫性がなく「まちまちに読む(多様読み)」, 捉えようがなく「高低そのものがはっきりしない」など、有弁別話者には、経験して初めて分かるようなことが色々ある。そして、その上に実際の生の会話が、どのように話されているものかは書物による知識の想像を越える。弁別性アクセントがアクセント研究のすべてだとするのは元々有弁別アクセント―「有するもの」の尺度に過ぎないと思う。」(同書、p.369)
「一般的には、アクセントは語ごとに決まった型があり、その型は他の型とは異なる関係が存在することによってアクセント体系が認められ、それが日本語アクセントの一大特色と思われている。しかし[一型・曖昧アクセント]では、個人差が激しい上、……有弁別が一貫しているわけでなく、無弁別が一貫しているわけでもない、ある部分についてそれが存在するのに、ある部分にはなく、あるのかないのか分からないような中間的なものもある。……このような個人的なアクセントの状況は、共通語等によって知られるアクセント体系からみて諸種の面でかなり異質なものである。…… 今回も26名を対象としたアクセント調査において、上にいう、有別にしろ無弁別にしろ、 「一貫性がある」 話者が一人もいない。」「このような個人個人の「アクセント」は、一型アクセント及び曖昧アクセント方言の場合、共通語など「有弁別」方言における「アクセント」とは、本質的に違うものかあるのではないかと疑う。有弁別方言における「アクセント」は、実現した「型」がすべて「弁別型」としての意味があるアクセントであるのに対し、一型・曖昧方言の場合はそれが疑わしい。 言語学はそれを「ゆれ」というけれど,それは有弁別方言(特に東京、京阪) 話者の発想なのである。アクセント弁別が始めから「無」である言語は世界的には決して少なくないのであるから、一度それをも視野に入れて、何故「ゆれ」 るのかを考える必要があるのである。」(同書、p.125)
「異言語」の亡霊
このような困難な無アクセント調査と向き合う中で、山口には徐々に見えてきたものがあった。平安時代の『類聚名義抄』にみるような京阪式アクセントを中心とした日本語の系統とは異なる別の基層日本語がそこにあるのではないか、という予感だ。次の部分にその予感が示されているが、若干の前提説明が要る。有アクセント系の方言は、異なるアクセント型でも同じ系列に属している(対応している)ことは認定されている。この語グループはこういうアクセント、この語グループはこういうアクセントと、異なるアクセント型間でもその「語群」はある程度同一である(対応している)からだ。同じ語グループがそれぞれの方言で異なったアクセントを示す。それなら京阪式、東京式といろんなアクセント型はあっても、それらが同系で変化してきたことはいは疑えない。つまり「対応している」。しかし、アクセントがまったく消えた無アクセント方言は同じ系統と断定できるのか、「対応している」と言えるのか、と山口は疑い出しているのだ。
「一型アクセントが「不対応」の方言だとすると、ことはきわめて重大で、少なくとも、類聚名義抄アクセント以後の「系譜」は問題でなくなる。 同系でない言語は「異言語」ということなのであり、日本において、それと想定される言語として、類聚名義抄以前の「原始日本語アクセント」とは別の、「もう一つの原始日本語アクセント」の想定をすることを意味する。」(同書、p.398)
つまり、山口はここで、無アクセント方言の背景に、通常言われる日本語と全く異なる別の日本語基層を感じ出している。小泉保の言う「縄文語」、あるいは山口自身が言う「前弥生語」の亡霊が垣間見えてきたのだ。
ぞくぞくする。私も無アクセント方言出身者だ。私の中にも遠い縄文以来の基層言語が脈打っているのか。それが、無アクセント言語の正体をつきとめたいというここ一連の私の論考のモチベーションだった。無アクセント言語は、私の中でも、郷里周辺でも、猛烈な共通語(東京方言)攻勢の中で消えつつある。アクセントは最も変わりにくい言語要素だが、おそらく数世代のちに無アクセント方言は完全に消えてしまうかもしれない。それを消え去るままにし、なかったことにしてしまうのはあまりにも惜しい。それは日本語が自分自身を知る上でも大きな損失となる。
無アクセント方言は最もよく過去を言葉を保存しているかも知れないが、しかし、多かれ少なかれ日本語の各方言は、この太古の基層言語の上に、外来のアクセント言語との格闘で多様な姿に形成されてきたものだ。何等かにこの無アクセント基層を基盤としてもっていることに変わりはない。ならば、無アクセント方言は私たち皆の自己追求にとっても重要な位置を占める。
国際的な視野
山口はまた、「一型アクセント……の特質は、言語類型論的に、世界諸言語の各一型アクセント(無弁別アクセント)と比較対照的位置に据えられるものである。」とも言う(同書、p.269)。日本語が「それらと伍して」比較検討される可能性を示すものであり、そうした意味からも、無アクセントは有アクセント系列の末席、「なれのなれの果て」に置かれるものでなく、独自の位置から究明されるべきと同書を通して訴えている。
各種方言アクセントはどう生み出されたか
結局、山口が理解する日本語アクセントの進化過程は次のようなものである。(各アクセント型をA~Gに略号化して記述しているが、そのままの型名で示す。[]内は引用者・岡部の注。)
「想像されるストーリーは、一型(無弁別)「前弥生(縄文?)」アクセント[つまり無アクセント]言語圏に、五型類聚名義抄アクセント言語[後の四型近畿アクセント、または京阪アクセント]が外部から飛び込んできて、一型アクセントが、その強力な中央弥生文化を象徴する中央弥生語(原始日本語=大和言葉)を受け入れるに当たり, 初歩的な型の弁別習慣を獲得し確保したのが二型アクセントであり、その二型アクセントが一段と中央語を受け入れて東京式外輪アクセントが出来る。…[その後、「補忘記」型にまで進化した中央語、つまり四型近畿アクセントが]東京式外輪アクセントの二拍名詞類別体系に影響し東京式中輪アクセント化し, それが一拍名詞類別体系にまで及んだのが東京式内輪アクセントである。四型近畿アクセントは,さらに東京式内輪アクセントに影響して垂井式アクセントが出来る。)(同書、p.400)
つまり、「一型アクセント[無アクセント]が最古層」であり、そこに弥生語から現京阪アクセントに至る中央語からの「絶えざる波状的浸透を受けた」というのが「日本方言アクセント分裂の歴史」だとする。山口も、無アクセントから有アクセントが「自律的獲得・生産」されることははあり得ないとし、したがって無アクセントから二型アクセント、あるいは垂井式アクセントから京阪アクセントなどと単純なものから複雑なものが自律的に生まれることもないとする。しかし、「他律的獲得(外部からの受動)ならそれがありえる」と釘を刺している(同書、p.401)。つまり、外部から声調言語が来てそれとの接触、衝突があれば(そして一方の明確な優位があれば)、単純な無アクセントから有アクセント、有アクセント、その中でのさらなる複雑化などの変化は起こりえるということだ。
周圏論と整合しない面
単純化して言えば、無アクセント地域に後の京阪式となる複雑なアクセント言語が入ってきて、その影響で、単純な二型アクセントが生まれ、さらに中央からの影響が強まって外・中・内輪東京式と、より複雑なアクセントが順次できていく、ということだ。しかし、山口はそうした変化がどこで生まれたのか地理的ダイナミズムを捨象して語っているので、あたかも現アクセント分布上でそうした変異・変遷があったとするかのような印象を与える。無アクセント地域に京阪式のアクセントが現れ、その周辺に東京式アクセントなど相対的に単純なアクセントが現れる、そしてその内側でさらに複雑な……と言ってしまっては周圏論に反する。確かに最外縁は一番古いが、中央が2番目、その中間が最新ということになってしまう。さらに、最外縁の無アクセント地域が中央の影響で順次有アクセントをつくっていくとすると、無アクセント地域内縁のあらゆる場所で同じ変化が起こり、(より複雑な)まったく同じ型のアクセントが生まれることになってしまう。これはあり得ない。定説の自律変化説と同じ袋小路だ。自律変化説でも中央の複雑アクセントからあらゆる方向、箇所で同じ変化が生じ、より単純なアクセントが生まれていったとする他なかった。言語には「変わりやすい普遍的な変化の方向」があるからそうなる、という苦しい理屈を持ち出さざるを得なかった。
方言周圏論に厳格に依拠する立場から、方言アクセント形成の過程を下記に見直す。その中で山口の言語接触による無アクセントから有アクセント形成理論を生かしてみる。
上陸地から、次いで中央から広がる
まず、東京式アクセントは、全国かなり広く「基層的」とも言えるほどの広がりを見せている。その外側に無アクセント地域があるが、東京式もかなり広い。弥生期に拡がったと思われる東京式アクセントの原型は、むろん京都・奈良から拡散したのではない(「東京式アクセント」という言葉は適切でないのだが、むろんこれは歴史的に東京から拡散したのでもない)。大陸・半島から声調言語をともなって渡来した人々は、上陸地の北九州か出雲などで、そこの縄文人の無アクセントと接触し、相対的に単純な東京式、特に外輪型東京式の原型となるようなアクセント言語(初期の弥生語)を生み出した。その「ピジン」が全国に拡大した。今日であればメディア、教育、緊密な交通などで言語は「文化的」に普及していくが、古い時代になればなるほど、実際に人が移住してその言語が拡大しただろう。弥生人の全国拡散に伴い、弥生語(後の東京式アクセント)が全国広範囲に拡散した。やがて奈良盆地、近畿に政治経済文化的中心が生まれる。そこに集積した渡来人と声調言語の影響はさらに拡大し、より中輪・内輪・近輪東京式アクセントが順次生まれた。そしてこれは近畿から同心円的・周圏的に拡大していく。古墳期末から奈良時代にかけてさらに圧倒的な渡来人流入があり、最終的には現在の京阪式となるアクセントが成立し、これが東京式アクセントの海を切り刻き拡がっていく。近畿を中心に今日見るような京阪アクセント地域が形成された後、江戸・東京に中央が移る。今度は、東京式アクセント(中輪東京式)が東京を起点に全国に拡大していく。
重要なことは最初の比較的単純なアクセント言語(東京式)は、渡来系上陸地周辺で生まれたことだ。現在の地理的な周圏分布の外縁から、そのあらゆる地点で同時多発発生したわけではなく、特定の一地点で生まれた。それが、波状的に全国に伝播していった。近畿に中心ができた後は、そこでより複雑なアクセントが順次生まれ、今度は同心円的に典型的な周圏構造を伴って周辺に伝播していった。
この中で作動するのが、山口の追い求める接触言語学の力学だ。その地点で言語がなぜ、どのように変わり、何が残るか。外国語を習う際、様々に母語、特にそのアクセントの影響が出ることでもわかるように、言語の接触・衝突の中で、受容した言語にも母語(基層語)の痕跡が様々に残る。比較言語学は、言語が内的法則により自律的に変わると見てその系統を追うが、その過程を外から巨視的にみれば複数言語間の「言語接触」ダイナミズムがはたらいている。
