タシケントからヌクスまでは2007年12月にも旅している。サマルカンド、ブハラ、ヒヴァと続くシルクロードを代表するルート。今回ここはかなり急いでまわることになり、写真は撮ったが、あまり旅行記を書けなかった。それを補う意味で、この18年前の旅行記をここに再録しておきたい。
建物など18年前と変わってないものも多い。今回は夏の真っ盛りだったので、前回の真冬の旅はまた違った側面を見せてくれている。観光開発が進み、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァも立派になった。かつての素朴な純情さも、よりあか抜けた対応に代わった感じもする。むろん、当時はスマホなどなかった。各地でネットカフェに寄り、PCでインターネットを駆る旅だった。
そんな表面的な差異はあるものの、数千年のシルクロードの歴史の流れは、一貫して続いていることが確認できると思う。

タシケントからサマルカンドへ
2008年12月28日早朝、タシケント発サマルカンド行きの列車に乗った。バスで行こうとしたが、ホテルの若いマネジャーに、列車のがずっと快適だし、道路は雪で危険だ、と助言された。朝7時発の列車に乗るため、15分前にタクシーで駅に着く。切符も買ってないのに、タクシードライバーが交渉してくれて、難なく乗れてしまう。乗ってから車掌に現ナマ20ドルを請求された。正規運賃なのか車掌たちの内職分が含まれているのか。
思えば中国の旅は楽だった。外国人だと気づかれない。群衆にまぎれ込んで、空気のように存在しながらその土地を体験できる。新疆ウイグル自治区まで来てもそうだった(漢民族が多いから)。が、ウズベキスタンではそれが通用しない。私は簡単に日本人と割れてしまう。客引きにすぐ声をかけられる。しかも最初から日本語で。けっこう日本人似のウズベク人も見かけるのだが。朝鮮系ウズベク人もいる。
頭の上の丸い防寒帽から革ジャン、厚いズボン、防水加工してあるような靴まで、黒系統。それがウズベクの男たちのいでたちだ。「黒づくめ男」の集団か(「名探偵コナン」参照)。私は茶色っぽいジャンパーとズボン。帽子は青い毛糸で、靴は白っぽいバスケシューズ。けっこう地味にしたつもりだが、目立つのかも知れない。小さいバックパックをかつぐとなおよくない。途中で、バッグをもたないことにした。冬旅することの利点は、ジャンパー他のポケットに小物をたくさん入れられること。カメラもガイドブックもパスポートも体のあちこちにまとえる。そうすると確かに少しは目立たなくなった気がする。
しかし・・・
情が深いウズベク人
この地を旅行していて27年前のパキスタンを思い出した。ウズベク人はパキスタン人に似ている。外国人に対して並々ならぬ関心をもっていて、プライバシーもひったくれもなく、次々話しかけてくる。タシケントで地下鉄の隣に座った学生が話しかけてきて、ホテルまで見送り、電話番号まで教えてくれたのが思えば最初だった。列車の旅など、プライバシーをぶち破られるにはうってつけの場だった(6人がけの個室型コンパートメント)。静かに孤独に風景を見ていたい私におかまいなく、人々が話しかけてくる。タシケントからサマルカンドの友人の誕生パーティに行くというカップル。「お前もいっしょに出ないか」。サマルカンドから10キロ田舎の実家に帰省するタシケント大学の学生。「うちに泊まれ。父さんが外国人好きだ」。さらに英語を少ししゃべる車掌(鉄道警官?)から呼び出され、「サマルカンドに友人が居る。今、電話をかけて迎えに来させる。どうだ」。次々とひっぱりだこで断るのに窮する。
パキスタンのように皆英語を話すわけでないので、やや救われる。パキスタンの場合は、私と話したい人が次々と列をつくった。出会い頭に「Who are you?」と聞いてくる者たちも居た。「あなたのお名前は何ですか」のつもりらしい。ウズベキスタンだと、英語を話すのはインテリに限られるから、知識層と話すことが多くなる。友人の誕生パーティに誘ってきたのは、旅行業関係のビジネスマンとタシケント大学法学部の講師をやっているという女性(ナディラさん)のカップル。実家に泊まれと言ってきた若い男は、この講師の学生。車掌も「取られるものか」と権力をかさに迫ってくる。全部断るわけに行かず、結局、最初に誘われた誕生パーティに行くことにした。

(タシケントからサマルカンドまでの列車からの風景。12月なので、雪に覆われていた。中央アジアの砂漠地帯というのは寒いのだ。)
ウズベク人のパーティに潜入
サマルカンドの駅で親戚、友人一同が迎えに来ていた。何とニューヨークで4年間、出稼ぎ労働をやっていたという親戚の男もこの日ちょうどサマルカンドに帰ってきたところ。サマルカンドにはアメリカ移住組が多いという。市内のウズベク風レストランで旅行会社社長アリジョンさんの誕生パーティ。56才。そのビジネス上の関係者なども多いらしい。料理が出て、飲めや食えやのパーティ。時々、人が立ってお祝いの言葉を述べては乾杯。やがて中央アジアの音楽が鳴り、踊りが始まる。お前も踊れと言われて引っ張り出される。こうなればもうやけくそだ。適当に見よう見まねで踊りだす。踊れば結構楽しいじゃないか。なんや知らん。わしは何をやっているのだ、こんな所で。苦笑、爆笑しながら踊った。
中央アジア風の踊りと言っても、何だ、結局ディスコと同じだ。適当に体を振っていればよい。「お前うまいぞ」とほめられた。ダンスが若者だけのものではない。おじさん、おばさんも気楽に踊る。そのうち70歳という最長老のおじいさんも踊り出した。いいじゃないか。日本の酒宴で訳のわからないドンチャン騒ぎをするより、こうして礼儀正しく?フォークダンスに興じる方が文化的だ。
しかし、まだ昼間だよ。そのうちレストラン専属のプロフェッショナル・ダンサーがベリーダンスを踊り出した。ここは敬虔なイスラム国ではなかったのか。なまめかしい女性の踊りに違和感をもたないようだ。そういえば、タシケントのホテルの朝食では、大型テレビになまめかしいDVD音楽映像が流れていた。
私を誘ったナディラさんたちカップルの振る舞いは自然だった。あんなに熱心に私を誘ったのだが、日本人の場合のように必要以上に気を使わない。パーティに来れば、勝手に楽しめといった風情で放ってくれる。日本人なら「外国人に親切にしなければならない」とは思いながら、気使いが過ぎて疲れてしまうのがオチなのだが。
ウズベク人は根っからの人好きということか。こんな身内のパーティに行きずりの外国人を連れてくるか。日本ならひんしゅくを買う。しかしここではだれも気にする様子はなく、大いに騒いでいる。飲んで食って踊る。民族が交差し、人々が交流したシルクロードの地だからこその・・・ええい、そんな紋切り型解釈はよそう。
「おまえも挨拶しろ」と私の番になった。「日本からはるばるアリジョンさんの誕生日を祝うためにやってきました。きょうはとても素晴らしい体験ができてうれしい。ラハマット(ありがとう)。」若い学生がウズベク語に訳してくれた。好評だった。そして乾杯。「飲み干せ」と言われ、小さいコップだが、強いウォッカを3口くらいに分けてやっと流し込んだ。この国で最初に覚えた言葉が「ありがとう」。世界を放浪していると、最初にどんな言葉を覚えたかでだいたいその国の特徴がわかる。だまされないよう「いくら?」とかお金の数え方まず覚える国もあるのだ。
2時間ほどでパーティが終わり、やっと私はホテルに送られた。泊まれという誘いを何とか断ってホテルにしてもらったのだが、このホテルもかのカップルの友人が経営するB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト、民宿)だった。ただで泊めてもらえるようにしたという。あとで聞いたところによると、これも、きょうの主役アリジョンさん系列のB&Bで、経営する若夫婦は息子夫婦だという。アリジョンさんにお礼の手紙を書かねばならない。

(アリジョン家の誕生パーティに招かれた。ピンボケ失礼。)
チムール帝国の首都・サマルカンド
一眠りしてから、さっそく街にくりだす。夕方になっていて、酔いもあるが、いい。孤独な旅を愛する私としてはほっとしたところもある。路線タクシー(マイクロバス)を試して中心部に出、サマルカンドのシンボル「レギスタン広場」あたりを歩き回る。モスクのような建物(実は神学校)が並ぶ荘厳な広場。夜でも、別に塀はなく勝手に入れた。ガードマンらしき男に呼び止められた。4000スム(約400円)で尖塔に登れる、と言う。断るがしつこい。サマルカンドの夜景も素晴らしいという。腹を決めよう。旅に出ると、思い切り腹を決めなければならない場面が何回か出てくる。懐中電灯で足元を照らしてもらわないと先が見えない内側の階段。30メートルくらいの塔だが、登るのに体力に自信のある私でもめっぽう息切れがした。酔いが抜けていないか、標高のせいか(サマルカンドは海抜700メートル程度)。この寒さなのに汗が出てきた。尖塔のてっぺんから身を乗り出すと外気が心地よい。街の夜景も、まあ民家の明かりが見えるだけだが、それなりによかったということにしよう。降りてからガードに4000スムを渡す。正規料金なのか彼の内職だったのか。
夜がふけてきたら回る所は商店街とか、そういう人通りが多い所にすべきだ。日本から持ってきた「地球の歩き方」は心強い。ブックオフで100円で買った4年前のものだが、解せぬ言葉の国ではかなり重要な情報源だ(ウズべキスタンではロシア語と、同じくあのロシア文字のウズベク語が使われている。徐々にラテン式アルファベットも普及してきてる)。商業地区を歩くうち、ネット・カフェを見つけた。例のごとく日本語は使えなかったが、LANに自分のパソコンをつないでもいいという。やっとこういう所を見つけた。日本の家族たちにメールを送れる。たまったメールをチェックできる。
12月29日、サマルカンド観光。まず路線タクシーで中心街に出て、チムール銅像からレギスタン広場、国立文化歴史博物館、ビビハニムモスク、シャブ・バザール。さらに、モンゴルに破壊された古代ソグド人の都市跡アフラシャブの丘、歴史博物館、ウルグベク天文台(15世紀)跡。その先にあったバス発着場も見て、翌日のブハラ行きの方策を考える。計3万2000歩。
レギスタン広場は昨夜も見たが、じっくり昼間の写真を撮っていると、赤ん坊をかかえた女がやってきて、ほどこしを求める。断るがしつこく追ってくる。ええい、いいか。女性だし、乳飲み子をかかえている。200スム(20円)を渡すと簡単に引き取ってくれた。安い「迷惑回避料」? 複雑な気分だ。第三世界ではいつもこういう場面に出くわす。特に観光スポットではそうだ。悠久の歴史に思いを馳せる間もなく、生々しい世界の現実に直面させられる。簡単にカネを渡すのがいいとも思わない。
ビビハニム・モスクでは、「20ドルのところ15ドルにまけた」絵葉書集を買わせようとする男たちのしつこい追跡を受けた。断固として断りつづけた。たまには、カネをばらまかない日本人旅行者もいるというレッスンを受けてもらう必要がある。
丘の上にあったサマルカンド歴史博物館は閑散として観光客もいない。もっと国民に親しまれる博物館をつくればいいのに。「日本人なのにあんた一人か」。受け付けの女性に珍しがられた。最近は日本人ツアーもこのシルクロード「奥地」に入り込んでいるようだ。

(シルクロードの象徴、サマルカンドのレギスタン広場。サマルカンドは、紀元前10世紀頃よりイラン系のソグド人の都市国家として栄え、中央アジアの交易を支配した。1220年にモンゴルにより徹底的に破壊されたが、その後チムール帝国の首都として復興する。レギスタン広場はその復興したサマルカンドの中心的存在。三つの神学校が並ぶ広場だが、かつてバザールもおかれ各種行事の場としてにぎわった。)

(同上。)

(ビビハニム・モスク。インド遠征から帰ったチムールが建設した当時イスラム世界最大のモスク。)

(ビビハニム・モスクの中庭。)

(ビビハニム・モスクの隣のショブ・バザール。イスラム圏では、モスクに隣接して巨大な市場ができるのが通例で、人々が集まる場所となる。)

(現サマルカンドの北側に横たわるアフラシャブの丘。かつてはここにサマルカンドの街があったが、1220年にモンゴル軍に破壊された。住民の4分の3が殺されたという。以後、荒野となり、新しい街はすべて低地側につくられた。)

(ウルグベク天文台跡。アフラシャブの丘に隣接している。チムールの孫にあたるウルグベクは学者肌で天文学に秀でていた。1420年代にこの天文台を建設し、イスラム世界の天文学を発展させた。死後、天文台は破壊されたが、1908年に、高さ40メートルに及ぶ大型六分儀の地下部分(写真)が発見された。ウルグベクは1年を365日6時間10分8秒と計算したが、これは現代の測定値365日6時間9分9.6秒と58秒程度の誤差しかない。)
マンズール君
早めにホテルに帰ると、きのうの誕生パーティで知り合ったマンズール君がたずねてきた。最も英語が流暢だった国立外語大学の学生。長身の細身で甘いマスクの青年だ。てっきりあのレストランでアルバイトをしていると思っていたが、実は誕生日の主役アリジョンさんの旅行会社でアルバイトをしているという。日本にすごく興味があるらしく、いろいろ日本の文化や言語についてたずねられた。日本から観光客をもっと受け入れたい、観光産業を通じて国に貢献したい、という彼の言葉に感心した。彼のお父さんは、在イラン・ウズベキスタン大使だそうで、彼も将来外交官になりたいという。現在父母だけがテヘランに住んでおり、明日里帰りするのでタシケントまで迎えに行くという。私がアメリカ国籍だと言うととても関心を示し、アメリカのパスポートをしげしげと眺めていた。やはりアメリカのパスポート(移住?)があこがれだという。
サマルカンドからブハラへ
翌12月30日、バスでサマルカンドを発ち、ブハラに向かう。昨日調べておいた市バス10番に乗ったらバス・ターミナルには行かないという。路線タクシー10番のことだったかと、これを探して乗る。でかいトランクを膝の上にかかえる。バスターミナルに着くと閑散としている。どうやら公営のバス路線は絶滅直前らしい。きのう確認しておいたのは民営の高速バス停だったらしい。そちらはバス停の建物はないが、お客や店が繁盛していた。公営バスが駄目になったらターミナルを民営バスに開放すればいいものを。結局、タクシーを使わざるを得ず、その民営バス停に向かう。タクシー代が500円かかった。市バスは20円、路線タクシーは30円なのに。
民営バス停につくと、ちょうどブハラ行きのバスが出るところで、食料、飲料を買う間もなく、トイレにも行けず、すぐ出発。混んでいて、途中でトイレ休憩もなかった。が、バスの中は暖かく乾燥しているので、膀胱に保存した水分が体に再吸収されていく。膀胱というのは体の水分充足状態により溜まった水分を血液中に戻してくれる機能もあるらしい。そんなことまで放浪の旅で学んだ。自慢じゃないが、放浪ノウハウは私にはいっぱいある。
サマルカンド周辺は濃尾平野のような平原で、その外縁に2000メートル程度の山脈が連なる。乾燥して雨が降らない地域だが、その山からの水がオアシスを形成する。農耕が行われ、人が住めるようになる。洪水がないだけ管理しやすい自然かもしれない。カリフォルニアと同じだ。あそこも乾燥した土地に北部山岳地帯からの水を運河で運んでいる。やはり人の住みやすい安楽な土地になり、あのように柔軟な文化が生まれた。
中国・新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠でも同じだった。テンシャン山脈、クンルン山脈などが6000メートルを越す峰々を連ね、そこからの水がオアシス、というより広大な農業地帯をつくる。6000メートル級山脈も広大なユーラシア大陸の上ではささいな地表のシワに過ぎないが、しかし、このシワが貴重な恩恵をもたらす。ウズベキスタン周辺の川はパミール高原の方からも流れてくるようだ。(そして海までたどり着かず、アラル海で消えてしまう)。かつての四大河文明もやはり乾燥地域を横切る河川の周辺に成立した。
やがて周囲の山々も見えなくなった。バスは広大な平原を走る。まるで田んぼのように平らな畑だ。天水耕作なら、ヨーロッパの農地のようにゆったりと曲線を描くだろうが、この辺は灌漑水を引いて成り立っている。水をまんべんなく行き渡らせるにはやはり田んぼのような平面の耕地を作る必要があるのだろう。
山から離れると雪もほとんどない。降水量が少なくなるのだろう。所々、綿花の枯れ木が残っている。空は完璧に青。雲が出る気配さえない。明るい陽光に満ち、バスの中が暖かいので、外は春の陽気かという錯覚にとらえられる。しかし、時々見る小河川が凍っているので、やはり厳寒の地であることがわかる。
バスに乗るのは貧しい「民衆」ばかりで、英語を話す人は居ない。孤独を守り通せるのはありがたい。ゴルゴ13のようにニヒルな顔をして世界各地の異郷に出没するのだ。迫力はまったくないだろうが。言葉が通じなくてもウズベク人の親切さは変わらない。荷物を持ってくれたり乗り換えを指示してくれたり、安心して目的地に向かえる。
愛くるしい中世の街
高速オンボロバスから路線タクシー、さらに通常タクシーに乗り換えてブハラ旧市街に着く。サマルカンドから計4時間程度(300キロ)。街全体が博物館のような所だ。入り組んだ細い道を歩くとモスクや神学校や尖塔のイスラム建築が次々に目に入る。街の規模も小さく、適度に観光整備されていて、愛らしい。さすが全体が世界遺産の街だ。サマルカンドよりも欧米人好みの街ではないか。日本ではサマルカンドの方が有名だが、サマルカンドは古代城壁都市の面影は失われている。
ホテルも小さいB&Bが充実している。25ドルのツイン部屋に入った。私の基準から言えば高いが、ホテルの人が感じいいので、ここにした。明らかに欧米人向けにつくられたB&Bと思われる。床も壁もベッドも掃除が行き届き清潔。品のいい陶器や絨毯などがホテルの至る所に飾られ、オーナーのセンスを感じさせる。光沢を含んだ清楚な床は、ほこり道を歩いてきた私の土足では申し訳ないくらいだ。マネジャーも英語がよくできる。ただし、客は私以外にはほとんどいないようだ。この厳寒期の中央アジアに来る物好きはあまり居ないらしい。
衛星テレビが見れた。BBCやCNN、NHKなどのニュースはない。その代わりアルジャジーラ英語版があった。珍しいのでこればかり見ていたが、かなりプロフェッショナルな映像だ。最初BBCかと思ったくらいだ。世界中からのライブ映像を流している。キャスターの後ろに映る彼らの報道スタジオもなかなか立派だ。
部屋はきれいだが、インフラの不足はどうしようもない。水道はちょぼちょぼと出るだけ。暖房もそんなに暖かくはならない。衛星テレビも2日目は映らなくなった。インターネット接続はない。部屋の中にダイアルアップ接続用の電話差込口が開いているのが気の毒だった。街のネット屋でも、インターネット接続は貧弱。まるでダイヤルアップ接続をLANで複数端末に分けているかのように遅い。
街には美しい絨毯が売られていた。深い赤、もしくは紫っぽい暖色で、複雑な文様が入っている。その中に見覚えのある絨毯があった。確かサンフランシスコに住んでいたとき、居間かどこかに敷いていた絨毯だ。色と文様に記憶がある。そうか、あれはブハラから来たものだったか。
旅はつらい。今またちょっと風邪気味になった。どれだけ体を鍛えていても気候風土がまったく違う所に行くと、一回は体調不良をくぐり抜けなければならないようだ。何のためにこんな旅をするのか。ばかだなあと思うが、まあ、お坊さんの修業のようなものだ。そして、これを定期的にやらないと普通の定住生活が送れないというのはまったく始末が悪い。この日歩数2万歩。
ブハラ2日目の12月31日、大晦日。遅くまで寝ていて起き、再び街を散策。新市街の方でやっと自分のパソコンをつなげられるネットカフェ(ネットもそこそこ速い)を見つけた。店のオーナーがIPアドレスやファイアーウォールの設定を変えてくれた。今しかない。大切な昼間の時間だが、3時間こもって必要なメールを読み返事を書き、この日誌を書き、新年の挨拶を出した。

(ブハラは、旧市街全体が世界遺産に登録されており、モスクや僧院など街自体が博物館の趣き。サマルカンドと並び古代からソグディアナの主要都市として文化的発展を享受した。写真右(西)はブハラのシンボルとなっているカラーン・ミナレット。カラーンはタジク語で「大きい」という意味。高さ46メートルで街のどこからでも見える。1127年築。写真左(東)は神学校ミル・アラブ・メドレセ。)

(カラーン・ミナレットの東側に立つ神学校ミル・アラブ・メドレセ。1536年築。)

(ミナレットの右(西)にはカラーン・モスク。サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵する大きさ。モンゴル軍が宮殿と間違えて徹底的に破壊したという話もある。現在のものは1514年築。)

(カラーン・モスクの中。)

(同上。)

(現存する中央アジア最古の神学校、ウルグベク・メドレセ。1418年創建。天文学者としても有名なウルグベクはサマルカンドに多くの建築を残したが、ブハラ市内ではこれだけという。彼の格言「知識欲こそムスリムになくてはならなぬもの」が彫られている。)

(歴代ブハラ・ハーン(ブハラ首領)の居城「アルク城」。古くは紀元前4世紀頃からの存在が確認されているが、何度も侵略により破壊され、現在の城は18世紀のもの。かつてはこの中に王都があったが、今は荒地。)

(街の至る所で絨毯が売られていた。ブハラ絨毯と言われるが、つくられているのはトルクメニスタンでだという。交易都市ブハラで取引されていたのでブハラの名前が付いたとのこと。ペルシャ絨毯の一種と言ってもいいのだと思う。)

(同上。)
ラーメン文化圏
ウズベキスタンにもラーメンがある。ラグマンという。たぶん同じ語源だろう。中国西域の新疆ウイグル自治区(ウイグル系の人が住む東トルキスタン)でもランミョンというものがあった。ラーメン文化の広がりというものを調べてみると面白いかもしれない。
ただ、ウズベキスタンのラグマンは、スープの中に若干の麺が入っているだけでこれだけで腹一杯になるものではない。別にナンという平べったい焼きパンがついてくる。これが主食だ。新疆ウイグル自治区のランミョンは、端的に言うと焼きうどんだ。スープ型のラーメンではない。しかし、これで腹いっぱいになる十分主食の食べ物である。
日本以外の東アジア諸国では、「ラーメン」と言うと、卵入りで調理した即席ラーメンを出されることが多い。麺文化の豊富なこの地域では「ラーメン」は日本から来た特殊な麺なのか。
とにかく、そんなことを考えながら、レストランに入ると、「ラグマン」「ラグマン」を連呼して注文する。違うといっても、やはりかなり日本人の味覚に合うと思う。
元日、砂漠を走る
2008年1月1日。元日だというのに、厳しい旅の日程をこなす毎日。ブハラからバスでウルゲンチ(西へ約500キロ)を目指す。民営遠距離バス発着場まで、昨日調べておいた路線タクシーが来ない。やはり早朝は公共交通機関はだめのようだ(夜もだめ)。やむなく普通のタクシーで。長距離バス発着場でタシケント発ウルゲンチ行きのバスがつかまえられると聞いていたが、これも無理のようだ。早々に、「ウルゲンチへ行くのか」「バスは来ないぞ」と迫ってくる乗り合いタクシーの運転手に下駄を預けた。50ドル(6000円)という言い値を40000スム(4000円)にまでまけさせた。
すでに一人の乗客が居てあと一人の客を待つ。1時間くらいたった頃、日本人の2人組がつかまえられてきた。計5人乗りにするらしい。2人が入ってくる前、運転手が小走りにやってきて「彼らには50ドルで手を打った。おまえが4000スムだとうことは言わないでくれ」。そんな複雑な英語を彼が話すわけはない。2人の方を指差して50ドル、私を差して4000スム、シークレットと口を封じるしぐさ、などでピーンと理解する。こういう言語理解力というか状況判断力が、言葉を超えた異文化空間を生きていくには大切になる。
若い男性2人で、学生かと思ったが、「とんでもない30超えてますよ」。年とると20代も30代も同じに見えてしまうから困る。それぞれ一人旅で、乗合タクシーに乗る都合上合流しただけだという。日本人でも一人旅する若者に出会えてよかった。むこうも、一人でアラル海のような「奥地」に向かうというこの日本人おじさんにびっくりしたようだ。「あちこち旅してるんですか。」「若いころしてたけど、その頃入れなかった中国やソ連圏を今、歩いてるんですよ。」
さっそく「いくら取られました?僕ら50ドルでしたけど。」と聞かれた。「私も50ドルでした」と返事。ごめん。ウソついてしまった。許してくれ。
サマルカンドからブハラまではザラフシャン川に沿った農耕地帯だったが、ブハラからウルゲンチまでの道路は砂漠の中を通る。所々ブッシュが生えるだけの荒地を道路がまっすぐに続く。両わきが砂というか土で、真ん中の2車線だけが「高速道路」として機能する。ところどころ穴が開いているので運転にも注意が必要だが、買ったばかりと見える韓国車を駆る運転手の青年は常時時速120キロを維持した。幸いなことに新車なので安全ベルトがあり、それを閉めることができた。
砂漠以外何もない。人口蜜度が極端に低く、ところどころ何かの採掘施設のようなものが見えるだけだ。道路を走る車もほとんどない。なるほどこれじゃ満足にバス便もないのもうなずける。途中の食堂で1回だけ休み、やがてまた農耕地帯に出る。アムダリア川が見えてきた。
アムダリアは凍っていた
最初に遠く見えたアムダリア川はキラキラ輝く湖沼だった。中央アジアを流れる大河。この川と北部のシルダリアの両河川に挟まれた肥沃な土地が、かつてソグディアナ(ソグド人の土地)で、高度な文明を育んだ。かつてグローバルな世界が遊牧世界によって切り開かれた当時、ここは諸文明を結びつける先進交易地帯だった。シルダリアは東の天山山脈に源を発し、タシケント付近をかすめ、カザフの土地を流れアラル海に注ぐ。アムダリアははるか南東のパミール高原に発し、ウズベキスタンとトゥルクメンスタンの国境沿いを流れてやはりアラル海に注ぐ。今、入ってきたウルゲンチ(ヒヴァ)地域の平原はその下流域にあたる。かつてホレズム(太陽の国)と呼ばれていた。シルクロードはここから再びカラクム砂漠という砂漠地帯に入り、カスピ海方面に伸びる。絹の道の重要な分岐路だった。
アムダリアはこの一帯では、多くの湖沼、湿地帯、支流、さらに運河などに別れ、複雑な流れを示す。「悠々たる大河」を見ることは難しい。ましてや厳寒期だ。本流らしき広い川も氷に覆われていた。
ところどころ河川を見ながら砂漠を進む道路に時たま検問所がある。ある検問所の前でドライバーが車を止め、「トゥルクメンスタンのビザを持っているか」と聞く。持ってるわけがない。ここはウズベキスタンだろう。しかし、どうも話し振りからして、途中トゥルクメンスタン領内を通過するのでトゥルクメンスタンのビザを求められることがあるという。持ってないと50ドル取られると。そんなバカな。ガイドブックにも書いてない。他の日本人2人も「他の旅行者からも聞いていない」と否定する。検問所は形ばかりで素通りした所も多かった。ここも他と同じような検問所にしか見えない。ドライバーはゆっくりと車を徐行させる。建物ら係官らしき者が出てくると、「行け」というような合図をした。そのまま通過。再び車を飛ばすドライバーから、その後「トゥルクメンスタン」の話は出なかった。終わったということか。どういうことなのか、運転手の英語力では要領を得ない。
勝手に次のように推測した。この辺は川の流れの変化などで道路ルートがゆらぐ。ウズベク領内の移動でも、トゥルクメンスタン領に入ってしまうことがなくはない。しかしその度にいちいち国境検問を通るのは煩雑だから、普通は大目に見られる。しかし、知恵をつけた検問所のガードマンたちが、時々内職で、事情のわからない旅行者に因縁をつけてカネを巻き上げる。私たちの車はタクシーのマークもなかったし、まあ、あまり頻繁にやるのもまずいから、素通りさせた・・・ということではないか。真相はヤブの中だが、とにかく、これから検問所というところにちょっと気をつけなければならない。

(砂漠の中を一路ウルゲンチへ。)

(アムダリアの鉄橋を渡った。)
ウルゲンチはソ連型都市
11時頃にブハラを出て、3時頃ウルゲンチに着いた。他の日本人2人は急ぎ旅のようで、このまま近くの古都ヒヴァ(南へバス1時間)に向かうという。私もヒヴァは見るつもりだが、これからさらに西のカラクルバクスタン共和国(ウズベキスタン内の自治共和国)の首都ヌクス、さらにはアラル海方面に向かいたいので、このウルゲンチにとりあえず泊まる。日本人の一人が1月3日のウルゲンチ発タシケント行き航空券を押さえておきたいというので、ヌクスからタシケント行きの航空券を買うつもりの私も彼に付いてウズベキスタン航空オフィスに出向いた。元日で閉まっているのを心配したが開いていた。彼の航空券も買えたようでほっとしていた。私の方は、ヌクスからのタシケント便は月火水しかなく、私の必要な4日の便はないので、ヌクス発はあきらめねばならなかった。4日のウルゲンチ発を買おうとしたが、今度は日本円ではだめだということで買えなかった。銀行が開くのは明日なので、明日買うほかない。
ヒヴァに行く日本人若者と別れ、ホテル探し。安いと聞いていたウルゲンチホテルが50ドルと高い。ホレズム・パレス・ホテルがもっと安いと言われて、そこに向かう。35ドルだったのでそこに決めた。ウルゲンチホテルよりずっと高級に見える。4年前の「地球の歩き方」にもシングル90ドルから、と出ている。シーズン・オフだからなのか、とにかく安くして客を集めようという営業努力は評価できる。(ややオンボロのウルゲンチホテルが高いままではいただけない。しかも従業員が平気でライバル・ホテルを薦めるようではおしまいだろう。)
古都ヒヴァとは異なり、ウルゲンチはソ連時代につくられた近代都市だ。つまりのっぺりとだだっ広い街。まったく、どうしてソ連はこんな街をつくったのだろう。人口十数万の地方都市なのに中心部の公園・官庁街はまるで米首都ワシントンの中枢部のような壮大なつくりだ。道路も広い。こんな威風ある街づくりで満足するのは支配者だけではないのか。暮らす庶民には不便なだけではないか。
ちょっと郊外に出ると、高速道路(と思わしき)片側3車線の道を車が逆走してくるのを見た。そんなに混んでもいないので、出口への近道のためには多少の走向違反はかわない、ということか。赤信号でも交差点を突っ切る車があることもわかった。歩行者側信号が青でも安心してはいけない。青で渡るより赤になって渡った方がよい。つまり、車が全部交差点を渡っていなくなってから(歩行者信号が赤のときに)わたった方が返って安全か。

(ウルゲンチはソ連風のだだっ広い街だった。長居は無用のようだ。)
空港下見
バザール(市場)に、空港行きと書いてある路線タクシーが停まっていたの乗る。通常通り30円。空港までの安い交通手段を見つけることができた。人のあまり居ないさびしい空港を見学して、帰ろうとすると帰りの路線タクシーがなかなか来ない。やむなく歩き出し、途中で拾おうとするがやっぱり来ない。結局街中心部まで約5キロを歩くことになった。暗くなると市バスや路線タクシーは極端に少なくなるらしい。空港から中央駅まで5キロの大通りがまっすぐ続くという威勢のいい都市計画。単調な道なので歩いていて面白くないが、しかし、広く車も少なく、歩行エクササイズにはいいルートだった。1日歩数2万6000歩。単調な元日が終わった。
市バスが20円、路線タクシー(小型民営バス)が30円なのに、レストランの食事は最低200円、ちょっと豪勢に食えば1000円くらいする。ホテルもバス・トイレ共同で2000円、同付きで3000-4000円くらいだ。日本に比べれば安いが、途上国で体験する物価としては高い。
―と思っていたが、どうもこれはバス代の方が割安なのだ、ということがわかってきた。他はそれなりの物価だが、交通料金だけはかなり安い。広いソ連型の街で庶民が生きるにはバスは必需品だ。公共交通機関は否が応でも安くしないと(ならないと)市民生活が成立しない。広大な国土空間を克服するためのバス料金だ。
ウルゲンチは観光地でないので、日本人をあまり知らないようだ。私をすぐ日本人と判別する人は少ない。雑貨屋で「マレーシア人か?」と聞かれた。なぜマレーシアなのか、と考えてみたが心当たりはない。食堂では韓国人か、と聞かれた。この時の会話で韓国人が「キタイ」と呼ばれていることがわかった。キタイ。スキタイとかカラキタイとか契丹とか、遊牧民に関係のある名前なのではないか。
韓国は、かなり中央アジア経済に食い込んでいるようだ。サハリンなどから強制移住させられた朝鮮系の人々が多いということも関係しているだろう。車のほとんどがDAEWOOと書いてある。大宇のことであろう。日本車は見かけない。旧式のいかにも鉄板でできているという感じの車もある。あれはロシア製か。テレビを回していると「あ、日本のドラマをやってる」と思われるチャネルがあった。しかし、よく見てると韓国ドラマ。2人がブランコに座り、などというラブシーンは日韓共通らしい。ウズベキスタンも韓流ブームか。
航空券を買う「偉業」
1月2日、きょうはできる限りアラル海に接近する日だ。冒険の旅になる。もしかしたら途上で宿泊が必要になるかも知れない。だから最後の日(1月3日)でなく、きょう行く必要がある。
しかし、その意図は簡単に崩れ去った。タシケントに帰る航空券を買うのに丸半日を費やし、行けなくなった。まず、両替。スムでなければ航空券を買えないというので、円をスムに換えるべくホテルの両替所が開くのを待つ。何でも、朝、銀行からスムの現金が大量に配達されてくるという。個人が使う分にもかさばるくらいのスム現金だ。両替所が扱う量となるとどれくらいになるか想像もつかない。9時には届くと言われたが、11時になっても届かない。銀行に行くことにする。「近く」に国立銀行があると言われたが、「近く」という感覚がくせものだ。確かに「そこの角を曲がってちょっと行った所」には違いないのだが、街の規模が大きい。思いの他遠い。迷う。国立銀行のドアは開いていたが、ガードが「閉まっている」と言って入れてくれない。そんなバカな。やむなく昨日のウズベキスタン航空に行って、円で買えないかどうか再度交渉する。
「スムでなければだめだ。銀行で換えて来い。」
「国立銀行が閉まっている。換えられない。」
「そんなことはない。開いているはずだ。」
「いや、今行ってきたばかりだ。閉まっている。」
「いや、開いている。」
「だったら電話をかけてみろ。」
そんな不毛なやり取りをしているうちに、どういう事情なのか、「ちょっと待ってくれ」と言って1万円を両替してくれた。ちょうどスムの現金が入ってきたらしい。ここまででもう2時間半。
次いで、航空券購入。昨日は元日で事務所はがらがらあいていたらしい。きょうは打って変わって人でごったがえし。5つある窓口に長い列ができている。いや長くはない。せいぜい7、8人ずつだろう。列というより窓口の周りを丸く取り巻いている。順番の進むのが遅い。見てると一人につき20分くらいかけている。
ほとんどが現地の人で国内線だが、まずパスポートと身分証明書のようなものを見せる。航空会社の窓口の人間はこれをじっくりとチェック。問題を見つけると突き返したりしている。そこで口論。発券することになっても、まず便や予約状況を確認するコンピュータが遅い。社員の入力も片手入力でポツリポツリという感じ。その上、ネットがフリーズして何度もやり直し。情報が確定してからまっさらな航空券に、手書きで書き込んでいく。名前や便名や・・・。パスポートやスクリーンを参照しながらトロトロと書いていくその手先の動きは、列を待つ人間でなければそれなりの味があると感じるかも知れない。書き終わると、一枚一枚にスタンプ。合計7枚。それをいっぺんに書き込んでしまえるカーボン・コピーはここでの高度な合理化技術なのだ。次いで代金支払い用の書類に同じことを書き込む。それを持って購入者に会計に行かせ、払わせ、領収書をもって来させ、それでやっと航空券を渡す。
先進国でも、航空券というのは時代がかった煩雑な書類となっているが、ここではそれがコンピュータ化されていないため、とてつもない大仕事になっている。航空券を手書きで書く時代は、日本で何十年前に終わったろう。
待つ方もいらついてきて、列に割り込む者も出てくる。そこで口論。私の前にも一人割り込んできた。混乱しているので、前もって順番を取っていた人が戻ってきたようにも見えた。しかし、うしろのおばさんが激しく抗議しはじめたので、やはり割り込みだったようだ。「おい、おまえもしっかり主張しろ」。おばさんは私にそのように言っているようで、私の出しているパスポートをカウンターの前の方にグイッと進めた。うーむ、ここでは日本的謙譲の精神は通用しないらしい。私も叫びだす。「もう1時間も待っている。日本から来ているんだ」。日本という言葉をちらつかせる。英語だが、Japanという言葉は通じるらしい。「ヤポンだヤポンだ」というささやきが周りに広がる。それ以後、私はちょっとは優遇されるようになった。客からも発券側の社員からも。
計2時間かかってやっと航空券が買えた。1時間半の飛行時間のために、2時間かけて切符を買うのだ。この間7、8人しか券を買えていない。こんなことでいいのか。かの中国やベトナムさえもなつかしくなってきた。旧共産主義のああいう国でも東アジアでは合理化が進んでいるぞ。毎日毎日この業務をこなし、客とケンカし、また客のケンカを仲裁するこの航空会社のおじさんは、これが生きがいなのかも知れない。ズバッと合理化してはかわいそうか。
ようやく航空券が手渡されたとき、大きい声で「ラハマット!」(ありがとう!)と言った。周囲が笑い、雰囲気がなごんだ。いい言葉を覚えた、と思って外に出た。
すでに午後2時近い。アラル海を目指すには遅すぎる。きょうは近場のヒヴァに観光に行って、明日、最後の日になるが、ヌクス方面(アラル海への途中の街)を目指そう。
ホレズム帝国の首都ヒヴァ
ヒヴァまで約40キロ。バザーを歩いているとヒヴァ行きと書いたオンボロバスがあった。こんなバスでヒヴァまで行くのか、と思ったが、乗ってみるとその心配はなかった。あたりには農耕地帯が広がるだけで、まっすぐヒヴァまで行く以外ないようなルートだ。1時間後、ヒヴァに着く。たった20円。タクシーなどを使ったら少なくても1000円は取られたろう。すごく得をした気分になった。
ヒヴァに着いてすぐ、昨日の日本人若者2人組に会った。なかなかご縁がある。2人とも昨日中にヒヴァに着き、旧市内(イチョン・カラ)にあるホテルに泊まったという。宮殿のようないいホテルだが15ドルだという。私もウルゲンチで安宿を探して喜んでいたが、こちらにはもっと安い所があったようで、ちょっと悔しい。朝からずっとヒヴァを歩いて楽しんでいるようだ。
「じゃあ、私も回ってみます」と言って私もがんばって歩く。例のごとく町全体をまわり、さらに城壁の所に上れる高台を見つけて、見晴らしのいい景観も楽しんだ。狭い城壁都市なので彼らとまた会えると思ったが、残念ながらもう会えなかった。暗くなってきたので帰途に着く。名前も聞いてなかったが、日本で偶然再会したりすればおもしろい。静岡の人と、おそらく言葉から大阪の人だと思われた。

(ヒヴァの旧市街は内城(イチャン・カラ)と呼ばれる。時間が止まったようなシルクロードの街がそこにあった。)

(城壁の上から見たヒヴァの街並み。)

(ヒヴァ旧市街のメイン通り。西門と東門をつないでいる300メートルほどの道。西門方向を見ている。)

(西門の近くにあるのは未完成のミナレット、カルタ・ミナル。ムハンマド・アミン・ハンが1852年に着工したが、その死(1855年)により中断。)

(その隣、西門入ってすぐ右手、中央アジア最大規模とされる神学校、ムハマンド・アミン・ハン・メドレセ。1852年築。最盛期に99人の寄宿学生が居たという。)

(西門入って左手のキョフナ・アルク(「古い宮殿」の意)。17世紀に建てられた。城壁に囲まれ、中には公邸、モスク、ハーレム、武器庫、造幣所などがあった。)

(東門に近い神学校アラクリ・ハン・メドレセ。)

(城壁から、「古い宮殿」の向こうに未完成ミナレットのカルタ・ミナル(右)、イスラーム・ホジャ・メドレセのミナレット(左手中央、45メートル)、ジュマ・モスクのミナレット(左端、42メートル)が見える。)
ラクダに同情
中東や新疆ウイグル自治区で多く見たが、ここでもラクダを身近に見る機会が多かった。ラクダは遠目には、目の輪郭「逆ニコニコ目」のため、何か気楽に楽しく生きている動物のように見える。らくだらくだと言いながら砂漠を歩いているイメージ。しかし、実際に近くで彼らを見ると、その目は何かに怯えたように血走り、荒廃している。あれは虐待を受けている者の目だ。実際彼らは鼻輪につながれ、鞭打たれ、過重な量の荷物を担わされ、日々虐待を受けている。食糧がなくなればいつでも殺される運命にある。美しいシルクロードの悠久のロマンを支えてきたのは彼らの奴隷生活ではなかったか。
夕方、ウルゲンチに戻ってきてネットカフェ探し。幸いかなり高速で日本語表示のできる端末がある所を見つけた。が、すぐに停電になり使えなくなった。明日の夜、また来てみよう。ホテルまで帰るのに少し迷った。このバカでかく単調なつくりの街で迷うとは情けないが、明かりが少なく暗いので、いったん方向感覚を狂わせると迷う。磁石を取り出して辛うじて南へ。方向さえあえば、かの広大な中央広場に出るので、元に戻れる。この日の歩数2万9000歩。
あー、ヒヴァの感想がまるでないな。旅もある程度進むとBeen there, done that症候群になってくる。とにかく有名観光スポットに行って見てきてノルマをこなす。ヒヴァもブハラ同様、城壁都市がよく保存されていていい街だが、やや汚い。もう少し整備すれば観光地としても愛らしい場所になるのではないか。
アラル海方面に向かう
1月3日。ヌクス方面への日帰りの旅。朝早く出るが、珍しくきょうは雲が出ている。かすかな不安。途中で雪でも降ってヌクスから帰れなくなったら事だ。明日はタシケント、さらに日本に向けて旅立つ日だ。幸いこの不安は当たらず、夕方まで天気はもった。夜になってから雪が降った。
まずバスが発着するバザールに行く。まだ薄暗い7時半。暗いと市場の活動はほとんどなく、バスの類もない。30分ほどまわりを散歩して明るくなった8時を過ぎて戻ると、とたんに人間の活動が盛んになっていた。バス、車の類もいっきょに増えた。やはり日の光とともにここの人々は活動しているのだ。
「8:30 ヌクス」と書いてあるバス停で待つ。その通り8時半にバスが来るとは思わなかったが、何人か大きな荷物をもって待つ人が皆ヌクスに行くというので、かなり安心して待つ。しかし、9時を過ぎてもバスは来ない。「いったい何時に来るのだ?」しびれを切らしてまわりの人間に聞く。外国人だと知ってあわてたようだが「11時半(Half past eleven)」とちゃんとした英語で答える者がいた。大したもんだ、聞いてみるものだ。
しかしそれにしても11時半とは。君らは何で4時間も前から待っているのだ?答はどうも要領を得ないが、「だってバスがここに来るんだから」。待つのも旅のうちなのか。たまに早く来ることもあるからなのか。不明。
とにかく私は作戦変更。ヌクスに行ってからやろうと思っていた日本円両替を近くの銀行で行う。実は昨夜、ホテルで1万円だけはスムに換えてくれたのだが、ホテル代やきょうのヌクス行きの経費を含めるとまだ足りない。あと1万円両替する必要があった。
「国立銀行」なのに、全然効率的でない。私を銀行の中に入れたはいいが、あちこちたらい回しされて、ほうっておかれる。従業員らしい女性たちが熱心にお化粧ばかりしている。9時は過ぎて仕事ははじまったんだよ。10分くらいでとうとう忍耐の限界が来て、「いったい、どうしてくれるんだ!」と大声を張り上げ始めたその時、ちょうど青年行員が1万円分のスム札を持って現れた。一応彼が任務を帯びて私の両替の仕事を進めておいてくれたようだ。怒ってごめん、「ラハマット」。ここは素直に収め、感謝の笑顔をつくる。
11時半までのバスは待てない。乗合タクシーがヌクスまで1万スム(1000円)だという情報を得たので、タクシーを探す。乗り場を探すにまたてこずるが、とにかく探し、すぐ乗客5人がそろって出発だ。
疲れてしばらく寝込んでいたが、目が覚めると、周囲は前と同じような砂漠地帯だ。空気のせいか、地平線までくっきり見える。枯れたブッシュがなければ火星か月の表面を探査するような光景。そこをタクシーが猛スピードで走る。メーターをのぞくと、針が壊れて200キロの先に外れていた。となりの若者2人が大声で談笑している。
私が地図を取り出すと、初めて回りの人間が、私がよそ者だと気づいたようだ。観光客向けの英語の地図は彼らにとっては異様なものなのだ。英語をほとんど理解しないが、いろいろ質問してくる。ヤポン、ヤポンという言葉が飛び交う。やはり日本人は珍しいようだ。ロシア系だという隣の若者が、車の中の者たちを紹介してくれた。彼の友人のもう一人の若者はウズベク人、前に座ったおじさんはカザフ人で、運転手はカラカルパク人。なかなか多様な民族模様だ。
凍ったアムダリア川を渡り、さらに走ると遠くにヌクスの街が見えてきた。11時45分にウルゲンチを出て約2時間で着いた。ヌクスの街も何の変哲もないソ連型ののっぺりした地方都市。しかし、街の人間が新鮮だった。東アジア系(モンゴロイド)の特徴が一段とはっきりしている。

(車から見るアムダリアは凍っていた。)
カラカルパクスタン共和国のヌクス
ウズベキスタン西部に、カラカルパクスタンといウズベク領内自治共和国(人口120万人)がある。ヌクスはその首都だ。カラカルパクスタンの多数派を閉めるカラカルパク人は、ウズベク人とは言語が異なり、カザフ語に近い言葉を話すという(同自治共和国の民族構成はウズベク人33%、カラカルパク人33%、カザフ人25%)。英語のWikipediaで調べると、「同じカザフ人なのにカザフスタンと国をわけてしまった」「ソ連による民族分断政策だ」との批判も出た地域という。
つまり、カザフ人というのは、かなりモンゴル系の特徴を強くもっているということだろう。私の(日本の)田舎で見かけるおばちゃんのような風貌の人が居る。かみさんの友人のよくしゃべる○○子さんそっくりの女性を見かける。貧しい生活のせいだろう、表情がちょっと違うが、品のよい人だと名古屋の街を歩いている日本人に見間違う。身長もウズベク人より小さい。
ヌクスに来てよかった。これは大きな発見だ。今回はウズベキスタンだけにしか来なかったが、カザフスタンも少し垣間見ることができた。バザーの人ごみを歩き、街の中心街を歩き、私はずうっと人の顔ばかり見て歩いた。非常に面白い。

(ヌクスに着いた。とても寒い。なぜ南の国に来ても寒いのか、といぶかしがったがが勘違いだった。実際はブハラ、ヌクスと北上していた。サマルカンドに行くのが「南下」だったためそれ以降すべて南下と勘違いしていた。ホレズム=太陽の国なので、当然あったかくなるものという思い込みもあった。ヌクスは実際は北海道の室蘭か登別の緯度。)

(ヌクス・バスターミナル付近のにぎわい。)

(街自体はソ連型都市計画でさほぼ魅力はない。)

(同上。)

(ヌクスの市場。皆さんたくさん買い物をしてきたようだ。)
民族が交じり合う中央アジア
ウズベク人もカザフ人も混血には違いない。いや、そもそも混血という言い方は、「純粋な」モンゴロイドや「純粋な」コーカソイドを想定した上での言い方だから不正確かも知れない。彼らにしてみれば、彼らこそ普通の人間であって、何か特徴の一部を極端化した変な人種がいるな、という風に我々やヨーロッパ人は思われてしまうだろう。その不正確さを承知の上で使わせてもらえば、ウズベク人もカザフ人も混血には違いないが、その混血の度合いが違っていて、前者によりコーカソイドが、後者によりモンゴロイドの特徴が強く残る、ということだ。
そうか、これが中央アジアか、とある種の感動を感じた。民族が私たちの想定を超えて何か巨大に混交しているようなダイナミズムだ。ウズベキスタンに来てから、中央アジアの人間というのはこういう人か、とウズベク人を見て思っていた。しかしそうではなく、いろんな民族が居て、それが長い歴史の中で交じり合って多様なパターンが存在し、今でもダイナミックに混じりつつある。何てすばらしいことだ。こういう世界では人種や民族の意識はどんな風になっているのか。ここに黒人が居ればもっと完璧だったのだが、などいろいろ想像力が高まった。
民族や人種について何がしか固定的な観念をもちがちな私たちは、ぜひこの中央アジアに来てしばらく住んだ方がいい。人種、民族というちっちゃなものを超えた何か大きなものが見えてくるかも知れない。
ウズベキスタンの国全体ではウズベク人中心で、西の辺境、ここカラカルパクスタン自治共和国の中にカラカルパク人などカザフ系の人が多く住んでいる。西部はアラル海の後退という環境激変に見舞われ、石油採掘なども進められていると聞く。彼らの生活は中央から収奪され民族的に差別されているのではないか。一方で、隣国カザフスタンは中央アジアの中でも最もヨーロッパ化された国だとも聞く。中央アジアの民族事情、民族心情は複雑で簡単にはわからない。
アラル海は断念
アラル海を目指す気持ちは吹き飛んだ。どこまでも続く砂漠の光景がこれからも続く。さらに何時間も車に揺られ、その先の船の墓場を見てもどうしようもないではないか(アラル海はかつての5分の1にまで縮小し、水面まで行くのは困難)。それよりも、このヌクスで新しい人々に会い、カザフの世界の一端に触れられたことの方がはるかに大切だった。
バザーで渋く赤っぽいスカーフを買った。650円。いいお土産が買えた。そこの店の母娘が素直に喜んでくれたのもいい。
ネットカフェがあった。旅の最西端からのメールを皆に送ろうとしたが、残念ながら満員だった。少年たちがぎっしり押しかけ、ゲームに盛り上がっていた。こういう所でゲームに興じるのも東アジア系の顔立ちが多いと感じるのは気のせいか。
帰りは運転手含めて4人乗りのタクシー。私以外にはまさにアジア系の顔立ちをしたカザフ系の母娘が乗っていた。この2人が現れるまで乗合タクシーはバザールで1時間も待ったが、人の顔を見るためにここに来たような私には全然無駄ではなかった。車内からたっぷりとカザフ人の多様な顔々を観察させていただいた。
無事、明るい内にウルゲンチ帰着。両替で得た十分なスムをもって、ホテルの支払いを済ます。結構残った。まだ8000円分くらいのスムがある。明日タシケント空港でウォンにでも換えるか。(結局換えられなかった。空港でいろいろ買ってスムを商品に換えるが、結局5000円分くらい残った。タシケントの空港でもソウルの空港でも換えてくれない。分厚いスム札束がお土産になった。)

(また、乗り合いタクシーでウルゲンチに帰る。鉄道が並走していた。)

(凍ったアムダリア川も並行。)

(同上。アムダリアはこの辺が下流にあたり、アラル海にそそいでいた(そこが終点)。今はアラル海自体が干上がってきており、アムダリアもそこにたどり着く前に消滅している。)

(雪かきをして離陸可能になったウルゲンチ空港。)
