サンフランシスコ地震(1989年) ボランティア市民の教訓

遅れて来た警官はまず市民の排除を行なおうとした

サンフランシスコ・マリーナ地区の被害状況。Photo: J.K. Nakata, United States Geological Survey (public domain)

地震が起こったのは夕方の五時ちょっと過ぎ。瓦礫と黒煙に包まれたマリーナ地区の各所で、居合わせた市民たちが必死のボランティア救助作業を続けた(以下、Whole Earth Review, Fall 1990参照)。約一時間してやっと制服警官が現場に現れた。街路に展開した警官にブラントはいきなり、こう言われる。
「さあ、ここをどいて。」

阪神大震災で行政の対応は圧倒的に遅れたが、アメリカの行政は素早い対応をした-というのは幻想である。ここでも事態は似たようなもので、直後の緊急時に行政の能力は完全に事態に圧倒された。いたる所で無数のボランティア救助活動が行なわれ、マリーナ地区では「最初の最も重要な数時間、三対一の割合でボランティアの数がプロの救助隊を圧倒した」。そして、遅れてやってきた警官はマニュアル通り、まず市民の排除を行なおうとした。むろんブラントは引き下がらない。

「私の方が、ここでもう一時間も救援作業をしてきたのだ」と言い返す。

けんまくに圧倒され、警官は引き下がる。

「このような権威の逆転は、マグニチュード七・一の地震に襲われた北カルフォルニアのあらゆる所で、様々な形をとって展開された。居あわせたボランティアがその場で学び救助活動を行なった。救助のプロたちはこの災害の規模に充分準備されていなかった。だれもがにわか仕立てで行動していく以外なかった。」

消火栓、水道、電気、ガス、電話、すべてが停止した。乾き切ったカリフォルニアの夏が木造建築を燃え易くし、倒壊して壁のなくなった木造建物は漏洩ガスの爆発も伴って驚くべきスピードで燃え広がった。近くの池の水で消火活動をするが、とても間に合わない。六時過ぎ、消防隊長は海上消火艇の出動を要請する。

マリーナ地区はサンフランシスコ湾に面し、火災箇所はヨットハーバーの近くにある。消火艇フェニックス号が波止場への困難な接岸を果たすと、待ちかまえたボランティア数十人がホースをもってディビザデロ通りを火災現場にかけ上る。これはTVカメラに収録され、地震で最も感動的な場面の一つとなった。毎分三六トンの強力な海水ポンプが作動し、さしもの大火事も下火になる。

「マリーナ地区は救われた。」

翌日の新聞は、消防署、市当局、ボランティアの勇敢な消火、救助活動を賞賛した。消防隊員が肩をたたきあう姿。確かに彼らも死力をつくした。が、そんな手放し賞賛の報道は、あの場で妻を失ったビル・レイを怒らせた。「私の個人的な悲劇をシェアしてくれとは言わない。……しかし、私の立場から見ると、救助活動は極めて不充分なものだった。状況が異なれば事態はさらに悲惨なものになったはずだ。」

地震が夜だったら倒壊家屋に何百という人が居たはずだ。日暮れまで数時間あり、救助活動がやりやすかった。何とか消火艇が使えるだけ海の近くだった。被害は(地盤の弱い)マリーナ地区に集中し、外部から多くのボランティアがやって来れた。そして何よりこの日、風がなかった。この地域は普段なら、ゴールデンゲイト橋の方向から強い西風が吹く。それがあれば火は一時間で全マリーナ地区をなめつくしたただろう…。

続きは下記:

サンフランシスコ地震:ボランティア市民の教訓

これは『ホールアース・レビュー』誌(Whole Earth Review、旧CoEvolution Quarterly)創設者のステュワート・ブラント(Stewart Brand)への取材と、その地震特集号(1990年秋号)を元に構成した記事である。

サンフランシスコ地震(ロマ・プリエた地震)を伝えるドキュメンタリー映像

地震(M6.9、死者63人)は、1989年10月17日17時4分、ちょうどこの地で大リーグ・ワールドシリーズ第3戦が始まろうとするときに起きた。映像には上記記事に出てくるビル・レイのインタビューも出てくる。

カウンターカルチャー(対抗文化)の思想家、ステュワート・ブラント

カウンターカルチャー(対抗文化)の代表的思想家、ステュワート・ブラントさん。1995年当時、自身の事務所で。対抗文化世代の雑誌『全地球カタログ』(Whole Earth Catalog)や『コエボリューション』を創刊。89年の地震の際、たままたサンフランシスコのマリーナ地区に居合わせ、ボランティア活動を行った。ホールアース・レビュー誌の地震ボランティア特集に精力を注いだ。
ブラントの「事務所」は陸に引き上げた廃船だった。サンフランシスコの金門橋の北、風光明媚なサウサリートの海岸近くにあった。サウサリートのあるマリン郡はかつてヒッピーコミューンがたくさんあった。