フィリピン旅のメモ

事情でマニラからセブを3回往復した。3回目の往路は島伝いに陸・海路で行った。2018年8月20日にマニラを発ちルソン島を南下。ビコール地方のレガスピなどに滞在し、船でサマール島に渡り、さらにレイテ島上陸(マッカーサーではないぞ)。そこからまた船に乗り9月1日にセブに着いた。以下はその時の印象記。


箱庭的なフィリピン

フィリピンは意外と広かった。マニラから同じルソン島の東部ビコール地方のナガまでバスで来たのだが、午前10時に出て着いたのは夜の8時。10時間かかった。日本よりも箱庭的な自然だ。直線距離なら300キロなのに、道がくねくねとあちこち回る。山が多く、ラオスの山岳地帯を走っている感じ。だが、雄大な風景がほとんど見えない。あった、と思ってもすぐ違う景色になるのでいい写真が撮れない。密林や高いシュロの木が景観を邪魔する。(ところが、幸か不幸か、マニラ・レガスピ間で撮った写真がすべて崩れて表示不能。原因も不明。この区間、画像がなくてさびしい。)

<後日談: 原因判明。偽物SDカードを使っていたから。マニラの屋台店で買った激安の128ギガバイトSDカードを使っていた。ウェブで調べて偽物SDカードなどというのがあるというのを初めて知った。外装は確かに大手メーカーのもので、普通にチェックしても128ギガバイトあるよう表示されるが、SD Insightというソフトで調べると、確かにメーカー名Invalid、容量67ギガバイトと表示された。PCに直接つないでフォーマットしたところ、62ギガバイト、exFAT形式でクィックフォーマットできた。それで問題なく使えるようだが、やはり止めておこう。現地でも、外部カード側だと問題があるという気がして本体カード側にセーブしていたので以後の写真は大丈夫だったらしい。>

それと道路インフラが不十分だ。決して整備されていないわけではないが、高速道路ではなく、日本のかつての国道。東北自動車道がない時代、国道4号線を大型トラックもバスも走っていたのと同じだ。マニラに近い方面では渋滞がひどくあまり進まなかった。前回2016年のフィリピン旅行で北部山岳地帯のバギオに行ったときは、フィリピンで例外的に広いパンパンガ平原を通ったのでイメージが違った。道路も立派な高速道路で、バギオまで快適に行けた。

田舎に人がいっぱい居る

国道沿いに家が続く。都市地帯が連続しているというより、田舎に人がいっぱい住んでいるという感じだ。子どもも多い。道路インフラは遅れているが、学校だけは立派で新しい。将来を担う子どもを大切にしているのはいい。

ナガでは、バスから降ろされ最初に見つけたホテルに入った。郊外の新興開発地域だった。大型ショッピングモールのすぐそば。新築なのに600ペソ(1200円)。きれいだが、頑丈なコンクリートづくりの常で、部屋までWifi電波が充分入ってこない。ロビーでしかネットがつながらず、そこに冷房がなく長居できない。

「安住の地」? レガスピ

やっと「安住の地」を見つけた、と思った。大げさだな。1週間は安住できる宿、という意味。ルソン島南部、ビコール地方の中枢都市レガスピ(人口20万)で、小ぎれいな950ペソ(約2000円)のホテル(Hotel Triatris)にありつけた。

この街でまず1500ペソのレックス・ホテルに入ったのだが、悪くないにしても高い。そしてやはりネットは実質的にロビーだけ(扇風機があるのでまあよかった)。その翌日、プロモ料金950ペソのこのHotel Triatrisを見つけたのだ。何よりも新築で真新しい。いや、まだ建設中だ。私の部屋のある2階はロビーかレストランができるはずだが、まだ何もなくガランとしている。部屋に窓はないが、清潔で、冷房・トイレ・シャワー付き。トイレは紙を使ってもちゃんと流してくれる。LG製の新型エアコンはすこぶる快調で、急速冷房もあれば、夜の静かな就寝用モードも完璧。ニューヨークの熱中症一歩手前となる熱暑アパートとは大違いだ。そしてネットのスピードが格段にいい。これはルーターの場所を探してその近くの部屋にしてもらったからだが、NY安宿ばかりか日本の自宅ネットより早い感じがする。ホテルに入るときは、WiFiルーター近くの部屋にするよう頼むのが今後の重要ノウハウだ。

950ペソ(2000円)はフィリピンでは安い。中国や東南アジアのホテルでは1000円くらいにならないと「安い」と言えないが、フィリピンはホテル代が若干高い。家族連れで皆で泊まるのを基準にしているらしい。2000円でこれだけの部屋なら、やはり「安住の地」だ。街の中心部に近く、バスターミナルにも歩いて行け、近代的なショッピングモールも、伝統的な市場も、夜市飲食屋台街も近い。その隣にバスケットコートまであるのだから完璧だ。

そしてレガスピには、フィリピンが誇る優美な成層火山・マヨン山がある(北西15キロ、標高2463メートル)。富士山よりもさらに整った円錐形だ。活火山だけあって(今年1月にも噴火)、頂上に向けたとんがりが鋭い。葛飾北斎の「赤富士」に描かれたような急峻な富士そのままの形だ。残念ながら今の季節、大気中に蒸気が多くほとんど雲に隠れている。見えても霞みのため、鮮やかには見えない。それでも毎日観察していれば、たまにはいいお姿を拝見できる。長滞在は正解だった。

レガスピ滞在最終日にかなり鮮明なマヨン山が姿を現した。しまった、これなら雲の出ない早朝、展望箇所に行って写真を撮ればよかった。前夜雨が降っていた。水蒸気が多くても空気がよどむが、たまには雨で空気中のチリが洗い落としてもらった方がよいようだ。

実は仕事していた

実はここで電子出版・自己出版の仕事をした。これまでに出した電子本を印刷本にして出す。印刷本はやはり出来上がりをこの目で確かめないとうまくない。今回ニューヨークからフィリピン往復途上で2回日本に寄るのでそのとき現物を確認していろいろ修正する。来る時の日本滞在で受け取った初バージョンをフィリピン旅行中に修正して再注文。帰路日本に寄る時それを受け取りまた修正する。

何もフィリピンに来て部屋にこもらなくていいじゃないか、と思うのだが、止むを得ない。やはり印刷本はできあがりを手に取って確認しないとうまくつくれない。

チキンの丸焼き

チキンの丸焼きが1個(一羽?)220ペソ(約500円)と安い。小分け販売してくれないので、ちょっと無理だな、と控えていたが、うまそうに焼きあがるグリルの肉塊を見るたび食欲がそそられる。最近、淡白なカップヌードルや食パンが多くなった。タンパクが不足している。抗しきれず注文した。

宿でほうばると、肉食獣になった気分。少なくともハイエナだ。分厚い肉に大口開けてかじりつき、さらに本体を裂き、骨を引き出し、残り肉をしゃぶりつくす。ハイエナたちも、こうやって解体処理しているのだろう。餓えていたので半分は処理できた。さすがに残り半分は翌日に回した。冷蔵庫はないが、一晩なら大丈夫だった。

食い終わって油ギトギトになった口まわりを、石鹸付けてよく洗う。ハイエナたちはこんな文明的行為はできないだろう。

丸焼きチキン。フィリピンの人たちはチキンが好きなようだ。その他串刺しチキンとかいろんなバリエーションを屋台で売っている。

旅とは生活

レガスピでゆっくりし、徐々にフィリピン生活に慣れる。こういう時間って、特に旅の初期には大切だ。安くて清潔なホテルをどう見つけるか、市場で入手できるものを見つくろい、スーパーを巡回して何をどれくらいの値段で売っているか確認し、腹がゆるくなるのを、あまり売っていないヨーグルトで押さえ、肉ばかりでなく野菜も確保し、夜は一杯ひっかけて、夜市の屋台でメシをほおばる。

旅とは生活だ、と思う。つまり生存すること。異なる環境で生きること。旅は、環境を変えて生存する挑戦だ。特に真新しいことではない。食って寝て出して、できるだけ健康に暮らす。物珍しいものや観光名所を楽しむ以前に、どうやって衣食住を見つけ、健康を維持し、WiFi環境の良い仕事のできる場を探す、などが人生の80%の関心事になる。しかし、そんなことばかり書いていたら、旅行記にならない。読まされる方もたまらない。それらすべてを省いて、物珍しいことだけ書けば旅行記になる。

ルソン島の最南端へ

レガスピに1週間滞在して、8月29日、バスでルソン島最南端のマットノグに向かう。天気がよく、車窓からビコール地方の農村風景が堪能できた。道路も比較的よく整備され、バスは結構飛ばした。

バスはマットノグまで行かず、20キロ手前で右折しブラン市の方に行ってしまう。そこで降りる。マットノグはルソン島からサマール島に渡るフェリーが出る所なのに、直通バスがない。

はて弱ったぞ、どうしたものか。と思う間もなく、後からジプニー2台が来て、簡単に乗り換えられた。20分ほどでマットノグ着。バス142ペソ(300円)、ジプニー20ペソ(40円)。フィリピンは交通費が安く、1日移動しても1000円行かない。

フェリーは間引き運行をしているらしく、次は5時半とのこと。3時間も空く。レガスピで仕事を始めておいてよかった。こういう時やる仕事が確実にある。マットノグは小さい村だが、素朴なネットカフェがあり、Wifiがつなげられた。2時間半やって60ペソ(120円)。

5時半発のフェリーは、間引き運行にもかかわらず、がらがら。そして2時間遅れて出発した。夜になってしまい、景色があまり見えない。フィリピンには、ジプニーという非常に便利で迅速な交通機関があるというのに、こういう独占的な大型交通機関はだめだ。

フェリー120ペソ(250円)。約2時間かけ対岸のサマール島アレンに夜着いた。

ルソン島南部、ビコール地方の農村風景。
同上。
ルソン島最南端マットノグの港でフェリー(右)に乗り、サマール島のアレンに渡る。
ルソン島とお別れ。夕闇が迫ってきた。

サマール島に上陸

「冷房付き900ペソ、冷房なし550ペソだ」
宿のおカミが言う。大都会でも片田舎でも料金だけは同じなようだ。Wifiもないという。じゃあ、だめだ。他を当たる他ない。サマール島アレンでフェリーを降りると、真ん前にホテルがあって、うれしかったのだが。

「この街じゃホテルはここだけだよ」とおカミが釘を刺した。止むを得ない。ここにする他ない。窓もなく蒸し暑そうな部屋ばかりなので冷房付き部屋にした。しかし、ほとんど涼しくならない。扇風機のように風を送っているだけのようだ。がんがんつけっぱなしでも、廊下の方が涼しい。洗面台の水道は出ない。汲み置き水用の水道は出る。床はもちろん、ベッドの上にもアリが這う。おや、微小なムカデのような虫も。昨日までの950ペソの部屋とは雲泥の差のきょうの900ペソ部屋。

夜の村をまわると、すぐ隣にネットカフェがあった。Wifiもあり、12時まで開いているという。こりゃいい。ある程度は仕事できる。メール出せる。いや、Wifiはパスワードがだめで使えなかった。店のパソコンからLANケーブルを外して自分のノートパソコンに差し込むとネットにつながった。こういうときノートパソコンはいい。スマホだとLANケーブルはつなげられない。

サマール島のアレン港に着いたのは夜になっていた。船を降りるとすぐ前にホテルがあってうれしかったのだが。(翌朝撮影)
ホテルの裏側はよどんだ水路になっていた。どうりで部屋の窓が開かなかったはずだ。開けたら蚊がたくさん入ってくるだろう。

サマール島を南下

翌日、ジプニーに乗って20キロ南のカラバヨグへ、そこからバスでサマール州都カタバロガン、さらに長大なサン・ファニーコ橋を渡ってレイテ島の州都タクロバンに着いた。全行程100キロ程度と思うが、昼に出発してタクロバンに着いたのは夜になってしまった。

さすがにジプニーで20キロはきつい。低い座席で腰が痛くなる。しかし、窓があけっぴろげで、汚れガラスにさえぎられることがないので景色はよく見える。写真も鮮明に撮れる。フィリピンは7000もの島でできた島嶼国だ。海岸沿いを走っていると必ずむこう側に別の島が見える。これがフィリピンの典型的な海の風景なのだろう。隣島に小舟で簡単に行けそうだ。ここの人々はそうやって次々に新しい島に渡っていったのだろう。

ジプニーは冷房がないので暑い、などとだれが言った? 特にこうした長距離を走るジプニーは風がどんどん入ってきて涼しい。スコールが去った後は寒いくらいで、ウィンドブレーカーを着込んだ。

ジプニーはサマール島の辺鄙な集落を次々通っていく。人が乗っては降りる。ずっと乗っているのは私くらいだ。ジプニーでは人は皆対面してすわる。あまり見たことのない珍しい外国人が乗っているので、子どもたちが不思議そうに私を見つめる。

レイテ島に入る頃は暗くなってしまった。日本の支援でつくられたフィリピン最長のサン・ファニーコ橋(2600メートル、1973年完成)を渡ったが、残念ながらよく見えなかった。州都タクロンバンはそこから30分ほどの距離。街の市場近くに降ろされた。大勢の人でにぎわう屋台食堂の一角で夕飯を食べ、街を歩いて適当な安宿に入った。

サマール島の西岸を南下。海には常に別の島が見える。フィリピン全体が瀬戸内海のような内海に拡がる島国なのだろう。
カルバヨグは雨だった。カルバヨグ(人口18万)はサマール島で最も大きい街(サマール州都は少し南に行ったカトバロガン)。周囲に滝、鍾乳洞、ビーチなどの観光スポットがある。ここからレイテ州タクロンバンまではバス便があった。
サマール島とレイテ島を結ぶフィリピン最長のサン・ファニーコ橋(全長2600メートル)。マルコス政権下の1969年から日本の援助(戦時補償)で建設が始まり、1973年に完成。緩やかな曲線を描くS字型形状に特徴がある。Photo:Charlie David Martinez, English Wikipedia, CC BY-SA 4.0

フィリピンの大動脈

サマール島の旅路は、辺鄙なところという印象を受けたが、ここも含めて私の通ってきたルートは、実はフィリピンの大動脈地域だった。ルソン島北端からミンダナオ島南端までを貫くパン・フィリピン・ハイウェイ(国道1号線)が走っている。これはアジアハイウェイの26号線にも位置づけられている。ルソン島北部のラオアグから同島縦断してマニラに入り、南部ビコール地方を経て、サマール島に渡り、上記サン・ファニーコ橋を越えてレイテ島タクロバン、さらにスリガオ海峡を渡ってミンダナオ島入りし、ダバオを経由してサンボアンガなどに到達する。ミンダナオで分離独立運動が存在するなど国民統合上の課題からも、政府はこの大動脈の強化に努めているようだ。道路を整備し、RO-RO船(トラック、バスなどがそのまま入れる車両甲板型の貨物船)を導入して島嶼間輸送を簡便化している。サマール島西部もこの大動脈のど真ん中に位置するわけで、決してへき地ではなく、道路も他よりは整備されているということだろう。

1986年には、政府の肝いりでマニラとダバオを結ぶ直通旅客バスの運行が始まった。1500キロを40時間以上かけて走る壮絶な路線だ。現在、大手バス会社のPhiltrancoが1日3便を運行料金はエアコン付きで2400ペソ程度、エアコンなしで2000ペソ程度だ(フェリー料金を除く)。格安航空会社(LCC)の出現で、同レベルの料金で空路を使えるようになったが、それでもこの長大バス路線は健在。サマール島アラン港で、タクロバン行きのジプニーを探しているとき、港スタッフから、ダバオ行きのバスが来て席が空いていれば乗れるぞ、というアドバイスももらった。結局使わずじまいだったが、今回、マニラからタクロンバンまでこの大動脈ルートを通ってきたことになる。

タクロバン

港湾都市タクロバン(人口25万)はレイテ州の州都。東ビサヤ地方最大の街でもある。第二次大戦中は、周辺でレイテ沖海戦など激しい戦いがあり、マッカサー率いる米軍・連合軍はタクロバン南部近郊に上陸した。

粛々と街を見て歩き、特に戦争関連の史跡に詣でた。

海(サン・ファニーコ海峡)に面したタクロバン市街。近代的な埠頭の西側に、伝統的な市場、波止場地域が広がる。
レイテ州庁。海に突き出た半島突端付近にある。
タクロバンは2013年11月に台風30号(英語・ハイエン、比語・ヨランダ)の直撃を受け、「津波に近い高潮」などで死亡者7000人を出した。州庁近くの一帯はまだその影響が残るように感じられる。この建物自体は単なる建て替え工事かも知れないが、一帯がまだ活気を取り戻していない。
レイテに再上陸するマッカーサーらの銅像。タクロンバン郊外(南方約5キロ)にあるマッカーサー上陸記念公園にある。マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで比軍元帥を長らく務め、第二次大戦開戦当時は同地で米軍極東陸軍司令官をつとめていた。日本軍の侵攻(1941年12月)に対し、バターン半島・コレヒドール島で困難な陣地戦を指揮していたが、指導部は先に脱出した(米比軍はその後降伏して「バターン死の行進」発生)。「私は帰ってくる」(I shall return)と言明し、1944年11月にそれを実行した。連合軍は、マッカサーの進言などでフィリピン奪取に狙いを定め、レイテ島上陸を敢行した。
マッカーサー上陸記念像の背後に広がるレイテ湾。世界史上最大の海戦と言われるレイテ沖海戦(1944年10月23~25日)で、多くの命が海に沈んだ。日本側の大敗に終わり、これで日本海軍は事実上壊滅した。神風特攻もこのときから始まっている。(レイテ沖海戦は、連合軍のレイテ上陸が焦点だったことから米国では「レイテ湾海戦」(Battle of Leyte Gulf)と言われるが、実はレイテ湾やレイテ沖では大きな海戦は起こっていない。フィリピン全域の海が戦場となり、むしろシブヤン海、スリガオ海峡、エンガノ岬沖、サマール沖などで主要海戦が行われた。日本側の当初呼称も「フィリピン沖海戦」だった。日本軍は米軍のレイテ湾上陸作戦を察知できず簡単に上陸され、その後も、レイテ湾に突入するはずだった栗田艦隊の「謎の反転」などもあり、レイテ沖は主要海戦域にはならなかった。)
タクロバン市庁舎のわきに日本が建立した平和記念碑があった。
その後ろ側に「マリア観音像」。碑文にはMonument of the Madonna Maria Kannonとあり、一般には「日本のマドンナ」(Maddona of Japan)と言われているようだ。この愛称からすると破壊されるようなことはないと思われる。

レイテ島横断

タクロバンに2泊して、マイクロバスで西岸のオルモックに向かった。オルモックも第二次大戦の激戦地で、日本軍戦死者数は、米軍が上陸したタクロバン地域より多かった。当時は小集落にすぎなかったが、現在は活発な経済都市。セブ都市圏の影響下という感じで、セブ行きのフェリーは高速双胴船だった。

レイテ島内陸部の朝の風景。マイクロバスで島を横断し、西岸のオルモックに行った。レイテ島は全域が地上戦の戦場になった。兵士以外に現地住民の被害も大きかったという。
オルモック港を出るセブ行きの高速双胴船。

3度目のセブ

セブの港が見えてきた。

2週間ぶりにセブに帰ってくると、なつかしい感じがした。マクタン島での豪勢な1週間が思いだされる。レイテ島のタクロバンは、昨日雨が降っていたが、セブは明るく晴れている。この辺は気候がよいのか。だからスペイン人はこの辺をまず植民したのか。(と思う間もなく、猛烈な夕立が来て、港近くの食堂に足止めされた。)

こよみを1週間勘違いしていた。これからセブで1週間以上滞在できると思っていたのに、来週水曜日にはもうフィリピンを出なければならない。今回の旅の主要目的はセブでの老後長期滞在の可能性を探ることだった。その大事な仕事が実質3日しかできなくなってしまった。別の陸・海路でマニラへの帰還ルートを、など思うべくもない。ちょっと遊び過ぎた。この3日間で密度濃いセブ調査をしなければならない。

青春を生きよう

ベトナムからアジア、南米をまわってニューヨーク、そしてフィリピンと、世界中をノマドして私は何をやっているのか。どこに行こうとしているのか。自分でもよくわからなくない。しかし、気持ちのおもむくまま、精神が命じる通りに進むしかない。そういう先が見えない、到達点が見えない生き方というのもいい。それが青春の生き方というものだ。

フィリピンをまわっているうち、私は落ち着き場所を探しているのも知れない、と思えてきた。あちこち世界中を物色して長期滞在にいい場所を探す。フィリピンのセブにもそれで来た。この後にはヨーロッパにも行ってみようという気もある。

死に場所を探しているか。悪友にはそう言われそうだ。だが、そうではない。60歳代末期、次の栄光の70歳代をどこで生きるか、着々と準備しているのだ。

セブ長期滞在可能性の調査

セブの日本人街(マンダウエ市のFortuna Street)近くに宿を取り、ここで暮らし始めたらどうなるのか、あちこち歩いて様子を探った。しかし、やはり3日間では表面を見るだけに終わっただろう。

Jセンター・モールというしゃれたショッピングモールがあり、そこに東横インの高層ホテルが立っていた。道に沿って日本レストラン、日本的飲み屋、日本食品店、カラオケなどがあった。セブは韓国人が多いので韓国系のお店の方が多かったかも知れない。Sakuraという日本語フリーペーパーがあった。マニラから出ている「日刊まにら新聞」という新聞も置いてあった。日本人会もあるようだし、Jセンターに移民局事務所がある関係で、長期滞在ビザ取得をお手伝いする代理店もあった。もちろんセブ中に日本人向けの英語学校やダイビングスクールなど様々な機関がある。近くにIT企業が事務所をかまえるITパークがあった。

フィリピン人は音楽が好きなようで、カラオケがたくさんあった。中国などアジアで普及している「KTV」(カラオケTV)という呼称が多い。「ビデオケ」などというクリエーティブな名前を付けたところもあった。東南アジアではカラオケが怪しげな店になっていることが多いが、フィリピンでは純粋に歌を楽しむのが主流のようだ。(ステージのような所で歌うのでなく)日本的なボックス型のカラオケも多い。Jセンター内のSong Hits! Family KTVは正午オープンで日~木1時間99ペソ(日本語の歌も少しある)、Cabahug通りRidgresビル2階のWat Ever Family KTVは午前10時オープン日~木1時間50ペソだった。少なくともカラオケはやれるので生きていけるだろう。

結論は?

結論的に言うと、フィリピンは物価が安く、セブは安く安楽なリゾート暮らしができる可能性が高く、英語を「第2言語」どころか知的・政府的活動その他公的な生活の場では第1言語的にも使われているので、私にとっては中に食い込んだ調査研究ができそうで、これはグローバリゼーションで世界が英語化する未来の先取りかもしれないという意味で、それがフィリピン社会を調べることの意義かも知れない、などの感触を得たが、もう一歩「絶対ここに住みたい」という決め手が出て来ず、これならまだニューヨークのスパルタンな生活の方が、挑戦のしがいがあるかも、というあたりか。いずれにしても「いざという時」の選択肢のひとつに入れられることは確認した。

日本人街、フォーチュナ通りにあるJセンターモール。高層の東横インが立っていた。
フォーチュン通り。日本人街といってもそれほど日本のお店が林立しているわけではない。韓国系のお店も多い。
小道に入ると伝統的なフィリピンの住宅街。

 

子どもたちの遊び場も。フィリピンではバスケットボールが非常に盛んだ。運動場には必ずコートがある。
自然への愛着が強いのだろうか、都市部でもまわりに花や植物を飾っている家が多い。そこでこんな花屋さんも。
日本人街近くにITパークがある。日本、米国などの企業が入る経済特区。
セブ州庁。ここから南に走るオスメニャ通りがセブ市のメインストリートになる。
オスメニャ通りが2キロ南に延びて海にぶつかるところに重要史跡、サンペドロ要塞がある。一帯が独立記念公園になっている。1521年のマゼランのセブ上陸が、フィリピンのスペイン植民地史の序章となったたs。1565年にサンペドロ要塞建設がはじまったとの記録がある。
セブのシンボル、サント・ニーニョ教会。1665年設立のフィリピンで最も古い教会の一つ。フィリピンの教会はどこでもそうだが、信仰心の厚い人々が多数訪れ、祈りをささげている。   

さらばセブよ、また来るぞ。飛行機から見るセブ中心街。手前は空港のあるマクタン島。

蒲田もいい

9月5日、羽田に着いて近傍の蒲田に行き、一泊(12時間)2000円のネットカフェに入った。フィリピン並みの料金だ。出入り自由なので、ジョッギングもして来れた。まじかよ、シャワー浴びようとしたら、タオル、スポンジ、ソープなども貸し出してくれて無料。シャワー室は清潔でちゃんとお湯が出る。フィリピンの安宿との格差。もともとネットカフェというのはパソコンもあるしWifiもあるし、ドリンク飲み放題だし、新聞、雑誌、マンガも読み放題。これで2000円だ。

いや、それだけじゃない。街をジョッギングする間に見つけたのだが、夜10時間で1600円のネットカフェも、7時間960円のネットカフェもあった。72時間5400円、1週間1万500円というのは、明らかに長期滞在向けということだろう。カラオケも全般に安い。全品280円のレストラン看板も見た。もちろん100円ショップは複数ある。興味深いのはファミリーマートに付設して同店経営のカラオケがあったこと。新しいトレンドか。シニアは昼5時間で650円だという。明日やってみよう。

この蒲田という街はおもしろい。これまであまり来ていなかったが、羽田空港に近い下町的な街。中国語の話し声をよく聞くし、中東系の顔立ちの人々も多い。やはり東京は活力がある。名古屋は落ち着いたところが魅力だが、東京の活気もいい。日本が失いつつあるものを東京だけが保ち続けているのか。

空気はきれいで、走りながら思い切り肺に吸い込めるし、小さいが走れる公園があり、街がきれいで、おそらく安全だし。フィリピンより蒲田に移住したい。これが今回の調査の結論か。