リスボン(人口51万、都市圏280万)は米サンフランシスコ(87万、都市圏780万)とよく似ている。共に大陸の西端にあり、気候は温暖で、抜けるような青い空がある。霧も多い。(リスボンは大西洋の影響は受けるが、内湾側にあるのでサンフランシスコほど霧は多くなさそう。シリコンバレーに霧が少ないのと同じか。)
ゴールデンゲート橋
そしてまず、「ゴールデンゲート橋」がある。リスボンの赤い吊り橋は「4月25日橋」(長さ2,277 m、1966年完成)。建設したのも、サンフランシスコ湾にかかるベイブリッジを建造した米建設会社アメリカン・ブリッジだ(注1)。当初は独裁者の名前をとってサラザール橋と命名されたが、1974年4月25日の民主革命により、その日付の名前に変わった。
(注1) このアメリカン・ブリッジ(1900年設立)は恐るべき建設会社で、4月25日橋やベイブリッジの他、当時の世界一となるニューヨークのベラザノ橋(1960年)など多くの長大橋をつくり、さらにクライスラービル(高さ241m、1913年)、エンパイア・ステート・ビル(319m、1932年)、シアーズ・タワー(433m、1974年)など有名超高層ビルも建設している。
「サンフランシスコ湾」と「イーストベイ」の風景
サンフランシスコ湾と同じくらいの「湾」がある。正確には川だが、湾くらいに広がり、潟湖となっている。その「湾」の狭い出口に上記4月25日橋がかかる。サンフランシスコのゴールデンゲート橋も湾の入り口にかかる。湾主要部の対岸の風景も、サンフランシスコ地域の「イーストベイ」の街と山の眺めに似ている。
ベイブリッジも
「湾」入口の「ゴールデンゲート橋」だけでなく、「湾」中央部の幅広部分に、サンフランシスコの「ベイブリッジ」に相当する「ヴァスコ・ダ・ガマ橋」がかかる。1998年5月に開通した全長17.2キロの橋で、ヨーロッパ最長だ。サンフランシスコのベイブリッジは二つに分かれ、全体で7.2キロ。リスボンの橋の方が2倍以上長いことになる。面白いことに、ヴァスコ・ダ・ガマ橋を渡った先にサンフランシスコ(São Francisco)という小さな町がある。
坂の街
リスボンにも至る所に坂がある。サンフランシスコよりさらに複雑なデコボコで、マルタに近いかも知れない。
白壁と赤いかわらの街
白壁と赤い瓦の街。南欧的住宅の特徴だが、サンフランシスコなど米カリフォルニアの特徴でもある。
ケーブルカーが走っている
これにも驚かされたが、リスボンにも「ケーブルカー」が走っている。19世紀後半に馬車のトラムとして始まり、20世紀初頭に電気式のトラム(市電)に転換された。1959年段階で24路線あったのが、現在では6路線。しかし、観光目的もあり現在、再評価されている。
サンフランシスコのケーブルカーに似ているので日本では「リスボンのケーブルカー」と言われているが、正確には市電だ。サンフランシスコの場合、路面下を走るケーブルをつかんで動く方式なのでまさにケーブルカーだが、リスボンのはあくまで電車。架線からの電気で電動機を動かす。
人種的な多様性
リスボンは、サンフランシスコ同様、人種・民族的に多様だ。公式の統計はないが、ポルトガルには30万~50万人、あるいはそれ以上の黒人が住む。特にリスボンには多いようで、最初に乗った電車でほとんどが黒人だったのが印象的だった。入った宿のある団地にも黒人が多かった。中国系のお店も何軒かある。必ずしも黒人が集住しているわけではなく、郊外に行っても多い。ポルトガルでは〇〇系ポルトガル人という言い方はせず、人種という言葉もほとんど使われないという。人種を意識するのはよくないという感覚があるという。だから人種統計も取られない。
若者文化の街
1974年に独裁政権を倒した「カーネーション革命」の若者文化がある。ヒッピーと対抗文化の街サンフランシスコと似ている。
リスボンがサンフランシスコと違う点
リスボンとサンフランシスコは似ているが、やはり違う点もある。
歴史が長い
何よりもまず歴史が違う。サンフランシスコはせいぜい200年なのに、リスボンは紀元前1200年頃のフェニキア人と交易する集落、港にまで歴史をたどれる。かの古代ギリシャ諸都市、ローマよりも古く、ヨーロッパで最も古い街と言われる。
その後、ローマ帝国の属州、北方からのバンダル族、西ゴート族の支配、711年からのムーア人(北西アフリカからのイスラム教徒)による支配、そして、1147年のキリスト教徒による再征服、その後のポルトガル王国、そしてかの大航海時代が訪れ、リスボンはヨーロッパ有数の都市に成長、1910年には君主制が倒れて共和国に、と長い歴史を歩んできた。
高層ビル街がない、郊外に中層団地住宅
サンフランシスコは「マンハッタニゼーション」が進み、中心部に高層ビルが林立しているが、リスボンはそうなっていない。歴史的な街並みとして低層に維持されている。しかし、郊外に行くと中層の団地が多くなる。サンフランシスコ都市圏は他のアメリカ都市同様、郊外に行けば低層もしくは平屋の庭付き一軒家が支配的になる。
地上を走る近郊鉄道が多い
サンフランシスコはバス、ケーブルカー、トラムカー、地下鉄など公共交通機関が充実しているが、日本の大都市にあるような地上を走る都市鉄道はない。それがリスボンにはあって、日本から来ると親しみを感じる。
アフリカとの関係が深かった
旧大陸西端で「ポルトガル海上帝国」の拠点となったリスボン。新大陸西端で多様な移民受け入れの拠点となったサンフランシスコ。共に民族的に多様だが、その内容・成立事情は異なる。サンフランシスコの場合は環太平洋地域に開けていることもあり、アジア系移民が多い(人口の3割)。リスボンでは歴史的背景から黒人が多い。
(スペインとの比較: スペインは新大陸、ポルトガルはアフリカとその先)
スペイン王をスポンサーにしてイタリア人のコロンブスがアメリカ大陸を「発見」した(1492年)。以後、スペインは南北アメリカ植民活動に傾倒した。
それに対してポルトガルは、1415年のエンリケ航海王子によるセウタ攻略に始まり、アフリカに向かう傾向があった。1497年には、ポルトガル人のバスコ・ダ・ガマが喜望峰回りのインド航路を「発見」。ブラジル地域などアメリカ大陸にも進出するが、アンゴラ、モザンビークなど南部アフリカへの植民活動、さらに、喜望峰回りのインド、アジアへの植民活動を活発化させた。インドのゴア、マレー半島のマラッカ、中国のマカオ、モルッカ諸島に近いチモール島などを植民地化し、戦国時代の日本にも鉄砲伝来、キリスト教布教などで影響を与えた。
こうしたスペインとポルトガルの版図分割は、ローマ教皇承認のトルデシリャス条約(1494年)、サラゴサ条約(1529年)によっても公認された。ポルトガルに黒人が多いのも、アフリカとの関連が深かった歴史的背景が関係している。