残ったものが生き延びた、増えた。そういうもんだ、進化論は。あるいは自然選択説、適者生存原理は。
身も蓋もない。死ななければ生き残っているのは当たり前だ。だからその子孫もできる。だから増え、やがて主流になる。理論というまでもない。当たり前の事実を当たり前に認識したのが進化論だ。
つまりそこに意図、目的はない。すべては結果論。とにかくいろいろあるうちのあるものが残った。それでその形質を備えた生物が生き延び、増えた。そのうちには新種になったものもあった。で、「進化」になった。とにかく残ったので進化が起こった。
1億5000万年にわたって地上に君臨した強大な生物・恐竜も、6600万年前の巨大隕石衝突による気候変動で死滅した。地中に隠れる小動物や空中に逃れる鳥類は残った。残ったもののうちまたあるものが残って系統をつないだ。少しずつ違うものが生まれ、それが残り、そのいくつかは新種になり、「進化」になった。
必ずしも優れたもの、強いものが残るわけではない。何が優れているかなどだれもわからない。ましてやその生物自身がわかるはずはない。体の大きい強いオスの魚が縄張りを確保しメスに卵を産ませる。強いオスがそこに排他的に放精するのだが、弱小あぶれオスがすきを見て忍び込みまんまと放精に成功することもある。スニーキング行動という。どのような形であれ子孫を残せば残る。残ったものが残り、さらに残っていく。それが自然のおきてだ。
こんなことでは強いオスが子孫を残せず、その種にとってマイナスではないか。いや、ただマイナスであれば、その種はやがて滅ぶだろうが、このような「スニーキング」行動とそれを行なう種が現在でも存続している。存在するということは、何らかのメリットもあったということだ。すばしこさ、狡猾さ、そうした形質も一定程度受け継がれることに種としてのメリットがあったかも知れない。だからこの行動は現存する。「ズル」が淘汰され、正しくも強大なものだけが残ると、かえって種としてマイナスで、それで集団絶滅したかも知れない。存在するものは合理的なものである(ヘーゲル?)。ズルも必要ぞ、と自然はのたもうた。だから残った。残らなかった集団はその行動形質とともに消滅した。とにかく残ればその方向に「自然選択」され、「進化」したのだ。進化万歳、結果が全て。残るものが残る。残ることに理有り。
「進化する」と自動詞で言う。しかし、その生物が自ら意図して進化したのではない。たまたま残った。残り残り続けて、いつの間にかその方向に「進化」していた。進化論は結果論。結果が結果的に積み重なってその結果が進化だ。
生物と環境が織りなす無限の相互作用。死滅と適応。その無限連関の中で、残るものは残り、残らないものは残らない。その結果をみて、なるほどそうだったのかと、自然と生命の間の妙なる原理が明らかになる。結果から後追い的に原理がわかる。そしてこの後追いは永遠に続く。その時点で「そうだったのか」とわかっても次の時代の変化で絶滅が起こり、別の「そうだったのか」に道を譲る。
人類はいずれ核戦争で死滅するだろう。放射能に覆われた地球で生き延び残り、さらに残っていくのはどこに棲むどんな生物か。昆虫かウィルスか、あるいは地下帝国に隠れていた(我々よりも大きな脳を持っていたという)ネアンデルタール人か。高度な知能をもつという形質は必ずしも進化的に優れていなかったかも知れない。あるいはその知能はまだ十全には発達していなかったのかも知れない。