セルビアからコソボ入り

セルビア・コソボ間にバス便あり

ベオグラードからコソボのプリシュティーナまで1日数本のバス便がある。11月24日正午発のバスに乗った(プリシュティーナ着午後6時頃、15ユーロ=約2200円)。セルビアは今でもコソボの独立を認めていない。むごたらしい殺し合いがあった1980~90年代のコソボ紛争の記憶も生々しい。それでも両国の間にバスの定期便が走っている。

(グーグルマップで両都市間の交通ルートを検索すると、公共交通機関はもちろん車でも北マケドニア回りとかモンテネグロ経由のルートしか出て来ないが、直通ルートがちゃんと開いているのでご安心。ビザ的にも少なくともセルビアからコソボに入る分には何の問題もない。)

ベオグラードからプリシュティーナまでのルート。セルビアとコソボの関係はよくないが、バス便はある。
バスはベオグラードのバスターミナルから出た。日本の鉄道駅のように乗降プラットフォームには切符のある人だけしか入れない方式だ。しかも、切符以外に190ディナール(230円)の入場料が取られる。
アディオ社のバス。
それほど混んではいない。
バスは、ベオグラードを出るとすぐ片側2車線の立派な高速道路を走る。ハンガリー国境から北マケドニア国境まで国土を縦断する国道A1線。欧州自動車道路(国際E-ロードネットワーク)にも位置付けられ、ノルウェイ最北からギリシャまでを結ぶ東欧の主要高速道路、E75号線の一部となっている。

日本の風景に似ている

バスはゆるやかな丘陵地帯を縫うように走る。ベオグラードには大河ドナウが流れるが、周囲に大平原が広がっているわけではない。ある程度の丘陵、高台がある。見渡す限りの大平原というのは非日本的だが、こうしたなだらかな丘陵や小規模平野は日本的な風景を想起させる。

ルーマニアまで行くとドナウは大平原をつくるが、この辺には丘陵地帯が入り込み、だからベオグラードもドナウ河岸に立地することができたのだと思われる。巨大平原をドナウにのたうち回られたのでは河岸に都市などつくれない。ルーマニア首都ブカレストもドナウ川から60キロは離れていた。ルーマニアではドナウをあまり見られないが、ベオグラードまで来ると間近に見られるというわけだ。

北西部のセルビア第二の都市ノビサドもドナウ河岸。さらに上流、ブダペスト、ブラチスラバ、ウィーンと主要都市は皆、ドナウに接している。それはそうだ、ドナウの河川交通があったからこそ都市が発達したのだ。しかし、さらに下流に来るとそれが困難になるくらいの大河になってしまう、ということなのだろう。

などと、例のごとく想念を巡らせながら、車窓風景を眺める。家々が木造でなく、時々現れる教会建築も異色だが、遠くから見れば曇天下にくすむ日本の集落に見えなくもない。

空は相変わらず厚い雲が垂れ、時折小雨が舞う。アテネに来てからスチャバまでは晴れていたが、そこでの滞在の半ば、11月中旬頃から曇りが多くなってきた。それがブラショフ、ティミショアラ、ベオグラードと続く。

小規模平野と畑、なだらかな丘陵、山ぎわの地味な集落など、日本の風景を思わせる。大平原の農場や牧場とは明らかに異なる。
都市部の風景。
やがてバスは国道A1号線をはずれ、ラシナ川に沿ってクルシェバッツ方面に向かう。
クルシェバッツからさらに西方に向かう高速道路(A5)と思われる道路の建設が進められていた。ニーシからコソボに向かう「平和ハイウェイ」と呼ばれるR7 Roadも建設される予定
ラシナ川をせき止めてつくられたチェリエ湖。1980年建設。細長く7~8キロは続いている。
周辺は相変わらず懐かしい「日本の田園地帯」の風景だ。
だんだん日が暮れてくる。遠くにコソボ国境の山並みが見える。道路がだんだん悪くなってくる。暗くなってからは、悪路のためか工事中なのか、交互に一方通行となる細道が多くなった。

コソボ国境通過の怪

セルビアからコソボへの国境通過は、結論的に言うと非常に簡単だった。1カ所に停まってドライバーがパスポート類を集め、管理事務所に見せて来るだけ。バスが2か所に止まることはなく、外に出て並ぶ必要もない。

ただ不思議なことがあった。一度パスポート類を集め提出して返却し、またもう一度集めて提出、と同じプロセスを2回繰り返した。何かの手違いがあって集め直したのだろう、と単純に考えていたが、後で考えるとそうでもないかも知れない。現地の人々はセルビア側出国(セルビア政府にとっては単なる自国領内コソボ地域への出境)の際と、コソボ入国(入境)の際に別々の身分証明書を見せるなどのことがあるかも知れない。コソボ人のもつコソボ政府発行パスポートやIDカードはセルビア政府としては認めるわけにはいかないだろう。 あるいはコソボ内のセルビア系の人々は現在でもセルビアのパスポートやIDカードをもっているという。それはセルビア出国時に使えるとしてもコソボ側からは難癖が出ないか。いろいろ複雑で、それぞれ別の証明書を見せなければならないケースもあるのではないか。詳しくはわからないが、例えばこんな記事(コソボ内セルビア系にとってコソボ人にとって)を読むと頭が痛くなる。

また、国境での2回のパスポート提出以外に、ベオグラードでバスに乗ってからすぐにドライバーにパスポート類を提出してチェックする手続きもあった。これも何が複雑な理由があるのかも知れない。

さらにもう一つ不思議なこと。国境1カ所2回のパスポート提出チェックを経ても、パスポートに何のスタンプも押されなかった。セルビアにとってはあくまで国内旅行の位置づけだから出国スタンプを押さないのはわかる。しかも、同国は他の近隣諸国への出国でもスタンプを押さないことにしているらしい(入国の時だけ押す)。出るときは出国先のスタンプが押されるのだからわかるだろう、ということか。(アメリカなども以前から出国スタンプを押さなかったし(そもそも出国審査がない)、最近は入国スタンプも押さない方向で動いているようだ。)

しかしコソボ側では明らかに「入国」の位置づけなのだから入国スタンプを押してもよさそうなものだ。実際、普通は押されているようだ。間違って押されなかったのか(だとすると出国の際、密入国したと疑われる)。しかし、コソボの場合、入国スタンプを押さない場合もあるとの情報もあり、願い出て押してもらえたり、敢えて押さないようにもしてもらえることもできるとの情報もある。

セルビア・コソボ国境で最も主要となるメルダー(Meldar)の国境検問を通ったはずだ。しかし、立派な国境検問所のどこを見てもそれらの表示がない。単に夜で暗いから見えなかったのではないかも知れない。KosovoとかImmigrationとか書いて国境検問にしてしまったらセルビア側から文句が出るし、あいまいな表記をすればコソボ側から文句が出るだろう。それで何も書いてないのか。目に入るのは、大きく書かれた「Financed by EU」というサインだけだ。セルビアもコソボもEUに加盟していない。なのにその国境(出入境)管理をEUが担っているのか。あるいはその一部、例えば電子的審査システムの導入などにだけ資金援助したのか。わからない。疑問符ばかりが立つ国境通過だった。

コソボは都会だった

国境通過後、もう一つ驚いたことがあった。コソボが意外に都会的だったことだ。国境を通過するまでは道も悪いし、寒村であまり人家もなかった。それが検問を通過したとたん、照明が明るくなりいろんなお店やホテルも目に飛び込んできた。家々が多いし、個々の住宅もセルビア側に比べて真新しい。道路さえもこれまでの悪路とは違って片側二車線の高速道路になった。あまりに違うのでここは本当にコソボか、まだ国境地帯に居るのかドライバーに聞いたほどだ。確かにコソボだ、国境検問は1カ所で終わりだとドライバーは言う。

後で調べてみたが、人口密度も、両国の国境沿い諸郡を比較すると、セルビア側が40.6~90.1人/平方キロなのに対し、コソボ側は113.3~249.6人/平方キロ(2011年)。コソボ側に来て急に民家が増えたと思ったのはデータ的にも裏付けられるということだ。

不思議だ。コソボというのはバルカンの山の中で、東南アジアで言えばラオスのように、遅れてはいるがなつかしい風景のある魅力的な土地だと思っていた。ところが都会だ。標高はセルビア側平野の200メートル程度に対し、コソボ側は600メートル程度になった。山の上、高台にあがってきたらそこに都会があったというイメージだ。

やがてバスは1時間もしない内に首都プリシュティーナの街に入り、本当の「都会」になった。バス・ターミナルから予約した宿まで3キロくらい歩くのだが、人通りのないさみしい道ではないのか、野犬がいっぱい居るのではないか、と心配していた。ところがとんでもない都会だ。中層ビルが林立し、ネオンや照明が明るく、高速道路に近い道路が縦横に走り、夜でも人がたくさん繰り出している。おまけにビル・クリントンの大きな写真が目に入ってきた。何やらコソボの人は彼に感謝しているようで、その通りはビル・クリントン通りというのだった。野犬もまったく目に入らなかった(後で昼間、見ることにはなるが、不思議とコソボの犬は静かで、吠えかかってきたりしない)。その代わり車に気を付ける必要があった。若者が多かったが、心なしか、人々の表情も柔和に感じた。(実はセルビアでは、ちょっと人の表情が荒々しいな、と感じていた。)

表面的な印象だけですべてを語ってはいけない。しかし、実際にその土地に来て感じる印象というのは重要だ。それがその後の理論的認識に微妙な影響を与える。(気遣いと礼儀を重んじる日本人の性格、行動も、だから重要だよ。長い目では大きな影響を与える。)

コソボの首都プリシュティーナの中心となるマザー・テレサ通り。歩行者専用道路になっており、沿道にカフェやレストランが軒を連ねる。
マザー・テレサ通りの先にあるマザー・テレサ大聖堂(2017年築)。大多数がイスラム教徒の国なのに、その首都中心部にこの巨大なローマン・カトリックの大聖堂が建てられた。塔の高さは70メートルで、市内に多いモスクより高い。

(マザー・テレサについて)

マザー・テレサはインドで活動したが、コソボ出身のアルバニア人だ。これだけでもコソボやアルバニア人のイメージはかなり良いものになろう。コソボ政府は、マザー・テレサ通りの先に「マザー・テレサ大聖堂」も建てている。

なお、コソボの人口の92%がアルバニア人で、5%がセルビア人、その他3%となっている。セルビア人の支配にアルバニア系が抵抗、独立に進み、セルビアがそれを抑えようとしたというところから「コソボ紛争」が始まっている。

マザー・テレサはコソボ系アルバニア人家族に生まれたとされるが、厳密に言うと、テレサの母がアルバニア人で、父はルーマニア系のアルーマニア人だった。しかし、父も現コソボのプレズリン出身であり、アルバニア独立に尽力した活動家として知られる。テレサが生まれたのはオスマン帝国時代(1455年 – 1912年)のコソボ州ユスキュプだが、これは現在の北マケドニア首都スコピエ。人々のアイデンティティも、帝国の版図や民族の混交といった複雑なこの地の事情を知らないと正確には理解できない。また、アルバニア人の多くはイスラム教徒だが、彼女も両親もカトリックで、珍しかった。そういう人がヒンズーの地での奉仕活動に人生を捧げたということだ。