ウィーン発ミニコミ『おーJAPAN』のこと(1980年代)

ウィーン市庁舎。前庭広場は市場にもなっている。

1960年代から70年代、公害反対運動など市民活動が活発化する中、地域で市民が自主的につくる小メディア「ミニコミ」が多数出るようになった。その中で海外に出た日本人が発行するミニコミもいくつか現れた。私も70年代、サンフランシスコの日本町に居て、ミニコミの発行に携わったが、より本格的なミニコミとしてオーストリア・ウィーン発の月刊誌『おーJAPAN』をあげることができる。1978年3月に発刊され、ヨーロッパ在住の日本人をはじめ世界各国から記事を集め、国境を越えて新しい視点をもった人たちの発表の場となった。当時ヨーロッパで活発化していた反原発・反核運動とも連携し、その情報を日本に伝えた。『朝日ジャーナル』などマスメディアへの露出も多く、久野収、宇井純という著名「文化人」を顧問に得ながら、1987年1月の91号まで続いた。私も、1981年頃の世界貧乏旅行の途上、81年5月~9月の4か月間、ウィーンでその編集に携わらせて頂いた。

ウィーンの繁華街、マリアフィルファー通りのたたずまい。
『おーJAPAN』のバックナンバー(サンプル)。

ヨーロッパから反原発の動きを伝えるミニコミ

私が最初にこのミニコミを知ったのは、月刊『技術と人間』1980年4月号の「ミニコミ時評」欄(pp.104-105)だった。「オーストリアの反原発運動」という題で『おーJAPAN』を紹介していた。紹介役の「鈴木正穂・三宅広明・渡辺潤」氏は、海外旅行を気楽にできるようになった昨今、日本人が世界のいたるところに出没するようになり、そういう一人が、ウィーンからおもしろいミニコミを持ってきてくれたと次のように紹介している。

「ヨーロッパで発行されているから、フランス語かドイツ語か英語で書かれているのかというとそうではなくて、実は日本人むけなのだから、日本語で書かれている。/聞けば、ウィーンのとあるアパートで共同生活をしている日本人留学生たちが、和文タイプを自分たちで打ち、印刷をし、ヨーロッパの日本人や日本の知人たちに発送しているという。そして、そのアパートには、ウィーン在住の日本人やヒッチハイクをしている旅行者がころがりこみ、ウィーンで行なわれた国連科学技術特別総会に関連した民間団体の会議(NGO)に出席された字井純氏や里深文彦氏も立ち寄られているようだ。」

内容も具体的に紹介しているので、それを断片的に使わせていただくと、

「映画の案内を見ると、黒沢明の映画祭も行なわれているようだが、「地獄の黙示録」や……ウィーンフィルハーモニーのコンサートやオペラや、美術展の案内もあれば、日本人の卓球大会や野球大会もやっていることも……サハラ砂漠をヒッチハイクしている青年の旅行記や小説らしきものも……」などと続く。しかし、硬派の「提言」などという欄もあり、「わが、おーJAPANは、時代の要求と国民大衆の切なる願いを反映し、民主勢力の団結とその反独占、反自民の闘争に、そして、世界の民主勢力とその連帯のために、わずかなりとも寄与でさればとの願いをこめて、全ての力を尽くしていくであろう」などとも意気込んでいる。そして「ヨーロッパ・レポート」欄では、1978年11月にあったオーストリアの原発運転開始国民投票を詳細に報告し、「投票率六四・一パーセント。およそ三百万人の人が投票し、原子力発電はNEIN!反対が過半数をしめ、ウィーン近くのツヴェンテンドルフに七年の歳月と約一四〇〇億円を投じて建設された原子力発電所は稼動直前にして、運転は中止と決定された」

などと紹介している。紙面の内容は、毎号、だいたいこんな感じと思えばいいだろう。78年3月の創刊号はA4・6ページだったが、その後20ページ程度にまで増えた。

紹介氏たちは、今のところヨーロッパに行く気はないが、「「おーJAPAN」を発行している人々の一室にころがり込んで、二、三日話しをしたいとは思う。いつの日になるか、それまでは、「おーJAPAN」は、続いていてほしい」と結んでいる。

私もそう思った。幸いその後も「おーJAPAN」は存続し、1981年5月に私もそこに転がり込むことができたわけだ。

サンフランシスコの日本町からアンテナをめぐらす

当時私は米サンフランシスコの日本町で戦後移住者のためのソーシャル・サービス団体「のびる会」でボランティアをしていた。そこで日英のバイリンガルのニュースレターを出していた。こんな風に海外に出てミニコミを出している日本人グループが他にもいろいろありそうだ、と世界にレーダーを向けているうちに、この「おーJAPAN」が視界に入ってきたのだ。そうした海外での動きと連携を期待する旨を記した記事を『思想の科学』に寄稿した

世界貧乏旅行の途上で

小田実『何でも見てやろう』を真似て、私もアメリカ留学後の1980年11月~81年11月、1年間の世界貧乏旅行に出た。その途上、81年5月~9月の4か月間、ウィーンで『おーJAPAN』の実際の編集に携わらせて頂いた。

なるほど「おーJAPAN」事務局は間口の広い団体だった。私のような飛び込み組も暖かく迎え、驚くべきことにすぐミニコミ発行の編集に加えて下さった。それどころか代表(発行人)の河内喜彦さんのアパート兼事務所に寄宿させてもくれた。(前もって自己紹介の手紙は送っていただろうし、本格訪問以前の5か月のアフリカ旅行に向かう前、ご挨拶の訪問はしていた。)

何とオープンな団体なのだろうと感動したが、すぐにそこの人たちと打ち解け、それが当たり前のつもりになった。いろいろ記事を書いたり編集の仕事をし、ずけずけとミニコミ誌への文句も付けたりするようにもなった。頻繁に夜遅くまで議論した若き熱き日々がなつかしい。

日系アメリカから

私が最も力を入れて書いたのは、やはり、サンフランシスコで関わっていた日系人運動のことだった。筆名「草井岳史」で8回連載の「日系アメリカから」を書いた。長すぎるので、私の滞在中には終わらず、それ以後、ぽつりぽつりと83年3月号まで掲載して下さったようだ。そのうちの6回分をここに紹介している

海外放浪組も参加

その他にも「穴埋め」を含めていろいろ書かせて頂いた。下記は、私の海外放浪中の体験を書いたもの。「おーJAPAN」の一つの傾向として、こうした海外放浪組が旅先で出会う様々な体験を持ち寄る、という要素があり、それを意識してのことだった。(以下、自分の書いた記事が続きホラのようで申し訳ないが、著作権的にも自分の文章なら問題ないので、許して頂きたい。)

ナイロビで見た回覧ノート(1981年7月号)

ケニアのナイロビには「イクバル・ホテル」というのがあって日本人貧乏旅行者のたまり場になっている。「アフリカにもこんなに日本人が!」と驚くほど若きわが同胞たちがたむろし、ある部屋などはもはや日本人専用と化したのか、ちょっとした日本語本ライブラリーまでできてしまっている。/しかしもっと驚いたのは、近くの「日本文化センター」で手あかに汚れた旅人(たびにん)用回覧ノートを見いだしたことだ。一九七二年にこの地に来た有志四名の発案らしく、お金を出しあい丈夫なノートを買ってここにそなえつけたとしるされている。旅の情報や体験談・旅哲学(?)、その他さまざまな思いが書きこめられ、貧乏旅行者どもの交流の媒体はなってきたようだ。/ずっと前だが、クアラルンプール(マレーシアの首都)のユースホステル近くの安食堂でやはり似たような交流ノートを見たことがある。マレーシア人の店のおやじが出してきたそのすりきれた大学ノートに私はどぎもをぬかれた。/おそらく今日本人旅人は世界中のいろんな所に入りこみ、あちこちで、こんな形のささやかなコミュニケーション媒体が生みおとされているのではないだろうか(おそらく「おーJAPAN」はその「総本山」だろう、と勝手に解釈している)。だれかこの私たちの世代の生み出したひとつの「民衆文化」を世界各地でほりおこす作業をしては?

日本人が初めて大量に海外に出た時代

日本人が自由に海外旅行するようになったのはそう遠い昔ではない。戦後長らく日本は、外貨準備額を維持するためにも海外旅行を制限していた。役人や政治家、輸出入関係業者、留学生など特別の職業上・仕事上の必要がある人しか外国に行けなかった。しかも、当時は1ドル=360円の固定為替相場制で、海外旅行は高値の花だった。1964年4月の段階で、ハワイ7泊9日の旅は36万4000円(全日食事付)で、これは当時の大卒新入社員の1年半分の給料額だったという。

一般国民が自由に海外観光旅行できるようになったのはその1964年4月。これを機に日本航空の「JALパック」旅行が始まる。1966年には「1人年間1回限り」の制限も取り払われ、1973年には変動為替相場制がはじまって円のレートがよくなり、ジャンボジェット導入などで航空運賃も下がり、1964年に年間13万人だった日本人海外渡航者は、70年66万、75年247万、80年391万と増えていった(2019年には2008万人)。

1970年代に、日本史上初めて一般国民が大量に海外旅行する時代が訪れた。そして、これを最大限謳歌したのが、かの活力ある(時に、ありすぎる)団塊の世代だった。「脱日本」がはやり、海外貧乏旅行する若者が増加し、国外での新しい視点に目覚める日本国民が増えていった。「おーJAPAN」はそういう新しい経験と視点の獲得を象徴する媒体の一つとして位置づけられるだろう。ヨーロッパの反原発・反核運動の報告に多くのページを割いたが、それも国外に出て新しく得た視点の一つとしての意味があったと思う。

日本を外から見る目

「おーJAPAN」のその傾向にのっとり、私も例えば下記のような小文を書いた。米国で、典型的な中産階級の街バークレー(サンフランシスコ郊外)に移ってきた時の体験を思い出している。

内からの目・外からの目(1981年7月号)

私にとってアメリカとはすごくおそろしい所であった。何よりもまずすごい人種差別をする国であり、暴力と犯罪の国であり、そして当時としてはベトナム戦争の元凶の国だった。あんまりおそろしいから、私は直接アメリカに入るのを避け最初はカナダに五ケ月ほど居て北米の文化・社会にある程度なれてからアメリカに入るという道程をわざわざふんだほどだ。

しかしアメリカに来て意外だったのは、アメリカ人というのが思いのほかあったかい人たちだったということだ。「取りつくシマもないほどドライ」「機能主義だけで動いている」というイメージだったアメリカ人たちが、意外と人情の機微を解し、やさしい微笑みをたやさず、無骨な対応には傷つきやすいほどのナイーブささえそなえていたのだ。これはとくに、私の入ってきた街が大学のある典型的な中産階級の街であったということにもよるが、しかしそれにしてもアメリカでは、こうした「健全な中産階級」が羨望したくなるほど厚い層をなして存在していたのである。

そういう中でくらしているうちに、私は今度は日本という国に対するイメージが少しずつ変わっていくのに気づいた。とくに日本の捕鯨反対のキャンペーンなどにたすきわっているうちに、日本という国は何て野蛮なとこなんだろう…と、はっきりとは思わなくとも、しだいはそんな感じが心の中は根をはっていくのか確認できた。それはおそらく私のまわりの健全なアメリカ人たちの意識でもあったのだろう。あったかい地域コミュニティーの人間関係、日曜日ごとの教会行きでふれあう好人物の友人たち。人々はそこで、飢えにあえぐ貧しい国々の子らのために寄付金集めさえやるだろう。そういう生活の実感からは決して「アメリカ帝国主義」は見えてこない。日本は愛らしいホ乳動物を殺して食ってしまってさえいる…私はそこにひそむ偏見を声をあげて指摘しつづけたのだが、しかし心の底の方はこのアメリカ社会の生活実感に浸食されつつ、(エコノミックアニマル性その他のことも含めて)「日本こそとんでもない国なんだなあ」という思いが圧倒しはじめていた。それは「悪の権化」たるアメリカで持ちはじめる意識としては予想だにしなかったも  のであった。

ひとつの社会は、それを内から見る時と外から見る時とでまったく違ってみえることがある。緑多い平和なコミュニティーでくらしているアメリカ人にとって、アメリカとはまさにそのまわりにくりひろげられるあったかい人々の交友関係であり、決してくちゃくちゃ チューインガムをかんだ米兵がバーでどんちゃん騒ぎをしたり街であばれまわるような姿なのではない。だから彼らは、なぜ国外で、とくに第三世界で反米感情が起こるのか理解できない。こんな「愛らしい私たちのアメリカ」は対して、たとえば「イランは何てことをするんだろう!」と思う。「ソ連の侵略に対抗して私たちの民主主義を守らねばならない」と思う。しかし第三世界の人々にとってアメリカとは決してこんな「あったかいコミュニティ生活」なのではなくて、スラム街をエアコン付きパスにのってつきぬける金持の集団であり、わがもの顔に街をのし歩く米兵であり、あるいは時には、空から爆弾を落としまくる怪鳥B52であったりする。

アメリカのことを語ってきたが、実は私はそれを通じて日本のことを語りたいのだ。たとえばよく雑誌などに出るが、「やっぱり日本っていいですね。私′の生まれた国ですもの」という、総理府か何かの宣伝を思い出してほしい。写真にはおばあさんや子どもや若い女の人が出ていて、背景には日本の伝統的な庶民の街の風景。実にうまくできていると思う。明らかにこれは、私たちのごく身近な愛くるしい庶民生活の実感を「日本」にまでさりげなく引っぱり込んでいる。そのホッとする情景を見なから、つい「ああ、ホントにそう、いい国ですね」と思ってしまう。しかし経済侵略で進出し、かつ買春観光で大挙しておしかける日本は、アジアの人々の目にはどういう風に映っているのだろうか。私たちがたちむかわねばならない本質的な日本とは、いったいどっちの側に映る日本なのか考えてみなければならないと思う。

バックナンバーを処分してしまった

今回、事情で「おーJAPAN」のバックナンバーを読む必要が出てきたのだが、8月に帰国して家の中を調べると、なかった。創刊号から全号を保存しておいたはずなのだが、どうやら数年前からはじめた「終活」で他の多くの古い資料ともども処分してしまったらしい。資料の取捨選択は難しい。どうでもいいガラクタが残っているのに、貴重なものがなくなってしまった。

そこで、図書館をあたったが、言われている通り、確かに「おーJAPAN」を置いている図書館はほとんどない。だが、苦労の末、下記が若干号を所蔵していることがわかった。図書館名と所蔵号番号を記す。全号をそろえているところは皆無だが、どんなミニコミだったかサンプルにあたることはできるだろう。

『おーJAPAN』を所蔵する図書館

  1. 東京都立多摩図書館1,3-5,18,21-25,33,37-45,49-55,57,60,62-64(1978.3~1983.7)
  2. 法政大学大原社会問題研究所34-40,44,46-49,51/52-59,61,63/64,77-81,83-87,89-90(1981.1~1986.10)
  3. 立教大学共生社会センター1-5,7,20-72(1978.3~1984.10)
  4. 神奈川近代文学館1,3-5,18,21-25,33,37-45,49-55,57-60,62-64(1978.3~1983.7-8)
  5. 滋賀県立大学図書情報センター18-53,55(1979.9~1982.11)
  6. 大阪産業労働資料館48,51/52,54,55,59(1982.4~1983.3)
  7. 広島平和記念資料館48,53-63/64(1982.4~1983.7)

東京近辺の図書館・資料館が多く、私の住む東海地方には1館もない。図書館相互貸借ができる資料でもなく、実際にそこに行って館内閲覧しなければならない。ただ、申し込めば、コピーして郵送してくれるサービスを行う館もある。1、2、4、6はそのやり方がウェブページに書いてある(「館名 複写 郵送」でググること)。著作権上の考慮から、各号につき全体の半分のページ数以内。料金はコピー代1枚(A3で2ページ分)50円程度+郵送料実費。振替用紙が送られてきて郵便局で払う形が多い。行く手間と費用を考えると有用なサービスだ。

3はなかなかユニークで、なぜ「近代文学館」に「おーJAPAN」があるのか、と思ったが、野間宏(1915~1991年)の蔵書が寄贈されてつくられた「野間宏文庫」の中にあるようだ。このような文学者が晩年に「おーJAPAN」を収集していたというのは興味深い。

住民図書館

また、3の立教大学共生社会センターには、1970年代~90年代に全国のミニコミを収集した住民図書館の資料が入っている。住民図書館は1976年に発足。館長となった丸山尚を中心に、多くの困難を乗り越え25年にわたり貴重なミニコミ資料収集を行った。その苦節の跡はこの回顧インタビューに詳しい。何度も東京都内の場所を移動した後、2001年12月に閉館。所蔵されていたミニコミは埼玉大学経社会動態資料センターに移され、その後、2010年4月に立教大学共生社会研究センターに引き継がれた。

丸山はこうした資料をもとに、多くのミニコミ論、ミニコミ紹介を書いており、その一つ『ミニコミ戦後史』(三一書房、1985年)には『おーJAPAN』も紹介されている(pp.268-270)。私らがサンフランシスコで出していた『風車』も並んで紹介されており、レベルに見合うのかやや片腹痛い。

モントリオール大学東アジア研究所図書館

上記回顧録にもあるが、1981年には住民図書館の資料の一部がモントリオール大学東アジア研究所図書館に移されている。同図書館は、日本のミニコミの収集に意欲的で(『びぶろす』1982年1月)、「オーストリア・ウィーンで河内喜彦氏の出している「おーJAPAN」、サン・フランシスコ新渡米者の会の「歯車」などは、日本人の新しい海外経験の質を伝えるものとして、貴重な資料となるだろう」(p.11)としている。

実際、『おーJAPAN』1981年4月号には、モントリオール大学東アジア研究所図書館からの手紙が紹介されており、「海外日本人による日本語ミニコミ、及び海外邦人紙コレクションを考えています」としてバックナンバー送付が求められたようだ(p.12)。モントリオール地域にはフランス語系少数民族が集中し、北部のインディアン居留地では水俣病に似た公害が発生していたことから、日本のアイヌ民族他のマイノリティ問題に関心が強く、ミニコミから学ぶことは大きいとの解説がなされている。

したがって、ここの図書館にも「おーJAPAN」がありそうだ。もしかして、日本の図書館ではなかった全号所蔵がここで達成されているかも知れない。が、確認できなかった。大学図書館の蔵書検索(OPAC)にのっかってないか、あるいはフランス語であるため、私がうまく検索できなかったか。

河内、『朝日ジャーナル』巻頭インタビューをかざる

『おーJAPAN』の代表(発行人)は河内喜彦だ。このミニコミの成功は彼の個性に負うところが大きい。太っ腹で誰でも受け入れ、自宅アパートを事務所や仲間の寄宿所としても開放する。ずっこけまくりの愛すべきキャラで、私のような新入りでもいくらでも議論をぶつけられる。脇の甘さは否めないが、頼りがいがあり、皆を引っ張っていける。多様な人をまわりに集め『おーJAPAN』を以後見るような海外リベラル派ミニコミの雄に育てていった。

『おーJAPAN』の紹介記事。左上は『朝日ジャーナル』巻頭インタビューの河内。

『おーJAPAN』は日本のメディアにも注目され、河内は『朝日ジャーナル』1983年1月21号の巻頭インタビューを飾った(pp.3-4)。そこで河内節がさく裂している。以下に紹介する。まず、「おーJAPAN」をつくった目的を次のように語っている。

「おーJAPANは、とにかく自己主張するためにつくった。若い人のほとんどは、今の社会に満足できないのに、自分を主張する場が与えられていない。そうであれば、われわれ自身がその場所をつくっていくしかないでしょう。」

日本の既存の諸運動についてもなかなか厳しい。

「市民運動のグループにしても、その中心にいる人というのは、この一〇年の間全然変わっていない。今度日本に帰ってきて、いろんな集会にも出席して若い人に話を聞いてみると、ちっとも面白くない、というのですよ。せっかく参加しているのに、発言させてくれないからですね。なぜ発言できないか。組織が柔軟性を失っているからではないですか。」「若い人より学生運動の経験者のほうが扱いにくい。俺たちはやったんだ、お
前らがそーんなことしたって仕方がない、なんて文句ばっかりいう。妙なプライドだけはある。かつての活動は尊敬に値するけど、今の彼らを見ると、「やって何があったんや」と問い直したいぐらいですよ。どうも、われわれから見ると根が暗いという感じ。ぼくもそうだけど、今いる連中は活動家だった人間は一人もいない。だげど、経験がないからといって、別にどうということもない。」

『朝日ジャーナル』誌の河内の経歴紹介には、次のようにある。

「一九五一年和歌山県生まれ。関西学院大学に入学するが、一年で中退。ヨーロッパ旅行の後、オーストリアのウィーン大学に入り、情報経済学を学ぶ。現在も在学中。学費は無料。しかも「学生だと税金はタダ、健康保険も利用できる」。七八年三月、仲間と現地で邦字新聞『おーJAPAN』創刊。月一回の発行を続けている。」

インタビューの最後で彼はこうも言っている。

「(事務所にはだれでも立ち寄れるのか、という質問に対し)どうぞ気楽に来てください。いつだったかは、三〇人も来て、彼らのメシを作るのがしんどかったけど。二五歳以下は歓迎します。それ以上の人は金を持って来てぐださい(笑)。まあ、新聞を出し続けるのは金がかかる。今一番問題なのは、実はそのことです。」

私はこの『朝日ジャーナル』巻頭インタビューを当時見てなかった。今回改めて過去の雑誌記事を調べるうちにこれを見つけた。私が「おーJAPAN」に寄宿したときは「25歳」を超えていた。さすがに、遠慮して半月程度で自分のアパートを借りて移ったが、出る際、適切な額の宿泊費用を払ったかよく覚えていない。

どうやって昔の雑誌記事にあたるか

なお、脱線するが、『おーJAPAN』を取り上げた雑誌記事など、昔の記事を調べるには、国立国会図書館デジタルコレクションが優れている。「雑誌」分野を選んでキーワード検索すると、かなり古いものも含め記事リストが出てくる。その一部がオンラインでも読める。「おーJAPAN」でヒットする記事では、『技術と人間』1980-04、1981-12、『びぶろす:支部図書館・専門図書館連絡誌』1982-01、『広告批評』1984-03、『月刊社会党』1984-03などの記事がオンラインで無料で読め、印刷もできる(範囲指定してPDF印刷ファイルをダウンロードして印刷)。

それ以外は館内閲覧になるが、国会図書館まで行かなくとも、都道府県立の中央図書館、大都市の市立中央図書館などでも読めるだろう。国会図書館からコピーしたものを郵送で送ってもらうこともできる(遠隔複写サービス)。

なお、ミニコミ誌『おーJAPAN』の本体は、国会図書館には置いてないようだ。前出リストの専門図書館に頼ることになる。

デモは阿波踊り

もう一つ、オンラインで無料で読める『広告批評』1984-03には、河内自身が書いた「普通の人たちの普通の選択 ヨーロッパの反核運動現状報告」という記事がある(pp.36-39)。ここでも河内節全開だ。雑誌の性格から、ヨーロッパの反核運動のバッジなど、創意的な宣伝芸術?を紹介するのが主題だが、ヨーロッパの自由な運動スタイルについてにも一席ぶっている。

「デモと言っても、機動隊だけに見守られたヘルメットにゲバ棒姿の「〇〇粉砕」隊列を想像しないで欲しい。むしろ阿波踊りの光景を思い浮かべる方がイマージ的に合う。「我々はヤルゾー」とか「我々だけがやっているのだゾー」といったサムライは見当たらない。逆に「勇ましくも強くもないけれど、みんなでやって行かなければ」といったアプローチの仕方だ。/デモは各自各団体の多様な自己表現の場と化している。常に歌や音楽が伴い、仮装行列か、はたまた野外ディスコかと錯覚するくらいだ。シュプレヒコールを叫び、自分が何千、何万人のデモの何分の一人なんだと自覚させてデモへの参加意識を確かめる時代ではない。あの「人間の鎖」だって、参加者がそれなりに楽しめるものだ。せっかく参加するなら、できるだけ面白く楽しまなきゃソンだし、見ている人もやらなきゃソンな気分にさせてしまう。」「同時に、このようなデモは機動隊を現代のドン・キホーテもさせた・ゲバ棒があってこそ重装備の機動隊も釣合いはとれるけれど、阿波踊り相手じゃサマにならない。おまけにでも参加女声から花のプレゼント受けたりして、「あんたも本当は核に反対なんでしょ」なんて言われる。見物人は見物人で、なんであんな奴のためにおれたちの税金が使われるんだ、文句が出る。」

文化人からの熱い支援

「おーJAPAN」は哲学者の久野収(1910~1999年。『思想の科学』やべ平連などを牽引)、公害問題研究者の宇井純(1932~2006年。水俣病の先駆的研究、東大「自主講座」活動など)が顧問についた。1979年8月下旬にウィーンで開かれた国連科学技術特別総会(UNCSTD)関連のNGOフォーラムに出席するため、宇井純、里深文彦(相模女子大教授。原発など巨大技術に変わる適正技術関連の研究)、小野周(東大名誉教授。「原発モラトリアムの会」代表)らが、ウィーンを訪れた。宇井と里深は「おーJAPAN」事務局に泊まり、スタッフたちと積極的に交流した。その様子が『おーJAPAN』79年9月号で報告されている。「おーJAPAN」がウィーン市内で組織した両氏の講演会もなかなか盛況だったようだ。里深教授は、私のウィーンの滞在中の81年9月にも、何度目かの「おーJAPAN」事務局訪問を果たし、私も街を案内するなどいろいろ交流できた。

「おーJAPAN」へのもったいなさ過ぎるくらいの熱い思いを語っていたのは久野収だ。久野夫妻は、ヨーロッパで非核反戦の運動が空前の盛り上がりを見せた1981年夏から暮れにパリに滞在した。そこで「おーJAPAN」パリ事務局の「K君」と「Hさん」、それにウィーンから駆け付けた河内らと交流し、その様子を『朝日ジャーナル』1982年12月24日・31日号に報告した(久野久「小さな国際雑誌おーJAPAN」、pp.47-51)。

『朝日』が西ベルリンの5万人デモ(81年9月)を「5000人のデモ」と誤記するなど、日本の人々が欧州での運動盛り上がりを十分にとらえられないでいる中、「おーJAPAN」は早くからこの動きを日本に報じていたと評価している。以後も何十万単位のデモが相次ぐ状況をフォローし続けたと『おーJAPAN』の紙面を紹介し、次いで、「おーJAPAN」スタッフたちとの活き活きした交流の様子を伝えている。

「私たち(久野夫妻)は、彼女(Hさん)や彼(K君)らをこれほどまでにとらえるパリの魅力について、改めて考えないわけにいかず、私たちも、もし青春の世代であれば、あるいはそうなったかもしれないと話し合ったものです。彼女や彼らは、日本の大学を出ていず、政府間や大学の給費学生や派遣研究員でないから、日本に帰って、彼らにふさわしいポストを得るみこみはまず絶望に近い。それでも大学で勉強をつづけ、彼らなりの、例えば、『おージャパン』の編集参加のような公共的活動を続けているのを見ると、私たちは、日本の若者に失望するのはまだ早すぎるという感じを抱かせられます。」

「K君、H君がウィーンの編集部に詳しい報告をしたらしく、十一月に入ると、編集長、河内喜彦君が一五時間の寝台車にゆられて、私たちをウィーンに招く意向をもって、パリに現れた。飛行機だと三時間あまりの距厳だが、お金の節約で鉄道の国際線をとったといって、彼のポロポロになったウィーン大学の学生証は、国境通過のハンコがどのぺージにもべタべタと押されていて、彼の動きと国境のせまきをいまさらながら生き生きと物語っていました。/彼はウィーン.大学九年在学のベテラン、一等通訳の資格をとって、それで生活を立てながら、勉強のかたわら、たいへんな費用とエネルギーを割き、仲間たちの中心になってもう四年以上、この雑誌の発行をつづけてきた人物です。」

「一夜、河内君とK、H両君を交えて、もう真夜中には、零度よりもはるかにさがる.パリの夜の寒さの中を私たちの下宿で、世界の状況、日本のおかれている位置、そこでの国際的日本人の活動の仕方、『おージャパン』の評価と批評について語りあった。」

「河内君の熱心な招待にもかかわらず、寒さに恐れをなした私たちは、ウィーン訪問に踏み切れず、年末帰国してしまった。『おージャパン』は本年三月、創刊四周年を迎えて、みんなウィーンに集まり、「新しい民主の波」ヨーロッパ委員会を結成し、ヨーロッパの非核運動、反戦運動を、観客、報道者、招待客として報告するのでなく、インタナショナリズムの立場から共同の主体として参加しようと決意を表明し、私も宇都宮徳馬氏とともにメッセージを送りました。」

「また今年の八月のヒロシマ・ナガサキ週間には、『二度と許すな!! Nie Wieder!! NomMore!! Plus Jamais!!』と題するパンフレットを標題のとおり、四力国語で発行した。それは、被爆の事実だけでなく、過去の日本の核をめぐる状況-投下記録、忘れられた外国人被爆者、日本の軍国主義、ビキニ、原水禁運動、不十分な被爆者援護、なぜ投下-から、現在の状況-今の広島、長崎、憲法第九条、日本版NATO、三原則、核の傘、核の「平和利用し-までを日本文の記述と精確な英独仏三国語訳をつけて一冊にしたものです。/この出版を可能にしたのは、彼らのグループのすぐれた語学力であり、日本政府でやるべき仕事を、民間のささやかな市民グループが代行している姿をみるのは、彼らの努力に熱い賛意を送りたい半面、政府の原爆記録の広報活動へのなおざりに強い腹立たしさ覚えないわけにはいかない。」

「彼らの熱心なすすめをいれて、私と宇井純が顧問の位置につくことを承諾したのは、この雑誌が中井正一、能勢克男を中心として私たちまで参加して戦前、京都で発行されていた文化週刊誌『土曜日』の戦後国際版だと思ったからです。/私は余力のかなりの部分を割いて、この雑誌の内容の向上と普及につとめたいと決心し、彼らと会って話しあうため、もう一度、欧米に足を向け、今度はかなり準備したうえで、この雑誌のフランス語版とドイツ語版を出せたらと願っているのです。」

この願いはかなわず、久野は1999年に亡くなった。評論家の佐高信は、弔意を込めて、このパリの交流エピソードを紹介する一文を雑誌『世界』に寄せている(「市民・久野収の生き方」『世界』2002年9月、pp.58-63)

「おーJAPAN」は創刊4周年の1982月3月、ミニコミ発行だけでなく実際の社会運動を行う「新しい民主の波」ヨーロッパ委員会を結成した。4周年記念号(82年4月号)がそれを詳報している。メッセージを寄せた「日本の民主団体代表者、進歩的人士23名」の中に、久野の他、岩井章(元総評事務局長)、土井たか子(衆議院議員)、宇都宮徳馬(参議院議員)、小野周(群馬大学学長)、野間宏(小説家)、吉川勇一(「日本はこれでいいのか市民連合」世話人)、丸木位里・俊夫妻(「原爆の図」などを描いた画家)なども居た。

民族で議論

時期は前後するが、私がウィーンで編集に参加していた1981年当時、私たちは事務所になっている河内宅で、よく遅くまで熱い議論を交わした。河内の書くものも含め「おーJAPAN」には、意外と大時代的で硬い左翼的な記事もあり、海外に居るからか「祖国を思う」的な民族主義的傾向の文章もあった。新入りの私は忌憚なくその辺に文句を付けさせて頂いた。それを記事にもした。例えば下記の通り。

おーJAPANに一言(1981年8・9月号、p.16)

最近の「おーJAPAN」では、戦前派みたいな民族主義の調子がうすくなってきて非常によいことだと思っています。かつては、たとえば「祖国の運命と私達の運命は一体であり、祖国はかけがえのないものである」、「祖国がりっぱでもってこそ私達も誇りをもつことができ‥・」などというのがたくさんあって、私はそのたびに正直言ってゾッとさせられました。

一般に国外に出た日本人は、日本にいた時以上に情熱的な民族主義者になるようです。私はそれを一概には否定しません。はじめて日本という社会を外からなかめることができるようになり、かつ自分がどうしようもなく日本人であることに気づかされます。そこで自分の生き方を考えていく(あるいは変えていく)時、自分の「祖国」というものとの関係、かかわりが新しい意味あいをもってあらわれてくる、ということがあります。それは決して、日本からあまり出たことがなく、日本しか知らない人がおちいりがちな偏狭な愛国主義とは同じものではないでしょう。日本という足かせの中から一歩ふみでることによってもたらされたまた別の(インターナショナルな)民族主義の感覚だと思います。

「おーJAPANも、そうした新しい意識をひとつの支柱または動機として発刊されたものでしょう。ヨーロッパに生きる日本人として自己のアイデンティティーを追求した時こうした日本という「祖国」(自分のよって生まれ出た「国」)との関係-とくにそれへの批判的・変革的な関係-を軸にして進んでいという選択は、ある意味では必然的なものでありすばらしい選択であったとも思います。

しかしこのような「民族主義的」な感情を無批判にこれまでの民族主義の言葉・論理で表現していくことには充分な注意がはらわれなければなりません。とくに(第三世界諸国とはちがって)日本のように、すでに民族主義が帝国主義の拡張イデオロギーとして生成してしまい、巨大な惨禍を日本の人々(及びアジアの人々)に与えかつ今またその復活をもくろむ勢力が強固に存在している「国」では、人々の意識が民族主義的な論調に対して懐疑的になるのは当然であり、むしろそうなることが積極的に求められてさえいる、ということがあります。だから、こうした状況へ語りかけようとする「おーJAPAN」も、この方面での配慮がとくに必要だと思うのです。つまり民族主義に対する反発という形であらわれる「日本の最も良心的な部分の芽」へのこまやかな配慮です。

すでに「おーJAPAN」はひと頃のような生硬な愛国主義の論調をとらなくなってきましたが、それはこの日本の状況と(新聞を通して)真剣に交流してきた努力の結果・成果だと思います。今後もこのご努力を続ける中で皆様の底に流れる尊い感情を新しい独自な言葉と論理(つまり思想)に表現されていかれるよう、期待いたします。

一面コラム、編集後記

今回、「おーJAPAN」のバックナンバーを調べなおして、4カ月居ただけの私が結構いろいろ書いているのがわかって意外だった。穴埋め記事の他、驚いたことに、ベテラン編集員が書くべき1面コラム「ペンだこ」を、事務局に着いたばかりの1981年6月号に書かせてもらっている。下記の通りだ。

「ペンだこ」

おーJAPANでの夕食後、女のこを送っていったはずの人がすぐ戻ってきた。「送ってはいかなかったのですか」と聞いたらけげんな顔をして「玄関まで送っていったのよ」と言う。私はちょっとびっくりしてしまった。アメリカでは女性が夜一人で歩いて帰るなどということはまずない。それほど犯罪が多いからだが、このウィーンでは女性でもごく普通は外出するらしい。/そう言えばこの街では行きかう人の服装もきちんとしてどことなくおしゃれという感じがする。アメリカ人は服装なんかに無頓着な国民だと言われるが、実はそうなった理由のひとつに犯罪への無意韻なおそれがある。たとえばニューヨークの地下鉄にだれがおしゃれして乗るだろうか。ねらう気もしなくなるよう、Tシャツと古びたジーパンをはいて乗りこむことになる。/私自身このアメリカに暮し、また治安の悪い貧しい国々をめぐるうち、強盗やひったくりに次々にあい、いつしかポロ着をき、すりきれたバッグをもち、腕時計はせず・・・とできるだけみすぼらしい格好をする習性が身についてしまっていた。もともと無精な私は、私ほどおしゃれに縁遠い者はないと思っていたが、今ウィーンで「安心してこぎれいなものを着て歩ける」感覚のすばらしさに深く安堵していみのだ。」

鬼校正官

下記のような編集後記も書いている。

外国に長く住んでいる人は日本語のカが衰える。会話力が衰えるというのはあまりないが、漢字を忘れるというのはザラ。特に要注意は、スムーズな日本語が書けなくなるという文章力の衰えだ。本紙に集まる原稿にも、意味がよく通じないような文が多くある。その土地の外国語だけでなく日本語も努力して習わねばならない。「共通の不幸」からはいあがるため「外国はけ」同士、厳しい批判しあおう!(鬼校正官)

自分の文章は棚に上げて、よく言ったものだ。新入りが何ということを言うのか、皆様にお詫び申し上げる。

2世も誕生したらしい

バックナンバーを読み返してみるといろいろわかって楽しい。1982年10月号の「ペンだこ」欄には、「発行人氏宅の2世誕生、編集長の突然の結婚発表と、「おーJAPAN」ではこのところオメデタ続き。」とある。そうか、河内さん夫妻には子どもができたのだな、と消息がわかった。

しかし、「そのおかげで、今月号の新聞編集という大役が転がり込んできたこっちはてんやわんや」という「ペンだこ」氏のぼやきが。相変わらず、新人に重要コラムを無茶ぶりする慣習は続いていたようようで、ほほえましい。

1983年頃になると、「おーJAPAN」は一般書店にも置かれるようになったらしい。例えば83年3月号では、東京・神田の三省堂、書泉グランデをはじめ全国27店舗、プラス米国2店舗(LAとNYの紀伊國屋書店)が「取扱書店」として紹介されている(p.5)。市民団体が出すミニコミで一般書店に並ぶというのはあまりなかったのではないか。

また、私が「おーJAPAN」編集に携わっていた1981年当時、日本事務所の担当者は若き日の山中速人氏(現関西学院大学名誉教授)だったことがわかり驚いた。岩波新書『ハワイ』など多くの著書がある民族問題研究者。私もその後、アメリカの移民マイノリティの研究で親しくさせて頂き、共著まである(石朋次編『多民族社会アメリカ』明石書店、1991年)。

「おーJAPAN」恐るべし。ネットワークが広い。

海外専門学校留学ガイド

ウィーンで4か月編集を手伝った後、私は世界旅行を再開し、1981年11月に日本に帰ってきた。それ以降、「おーJAPAN」とのお付き合いは切れた。1982年3月に運動団体「新しい民主の波」ヨーロッパ委員会をつくったり、日本に主要拠点を移したということは知らなかった。いや、ミニコミ自体はとっていたので読んではいただろうが、記憶からは飛んでいた。河内さんとも以後お付き合いが途絶えた…、と書いて、いや待てよ、東京で彼と会ったことがあるぞ、と思いついた。調べてみると、1987年に、いっしょに『現地取材:海外専門学校留学ガイド』(平凡社)という本を出している。

私はその頃、在米日系企業がらみの人種問題、日米草の根交流などにかかわる市民団体、日本太平洋資料ネットワーク(JPRN、本部:カリフォルニア州バークレーの東京支部を担当させていただいていた。記憶があいまいになっているが、確かこのガイドブックづくりの仕事は、私らJPRNが取ってきた仕事だったように思う。アメリカだけでなくヨーロッパの専門学校の情報も必要だ、というので「おーJAPAN」に声をかけ、いっしょにつくることになったと思う。それで日本に帰っていた河内さんとも顔を合わせることになった。

編者名を何にするかの出版社の打ち合わせで、JPRNではわからないので、ある程度知られている「おーJAPAN」にしようということになった。軽い嫉妬を感じたのを覚えている。

相変わらず金欠病だった私も彼も、こうしていろいろアルバイトをしていた。ガイドブックはそれなりのものができたが、あまり売れなかったようで、1回(単年)だけの出版で終わってしまった。頂いた原稿料もあまり多くなかった気がする。

昔の友人たちに会いたい

河内さんとの付き合いはこの1987年で終わった。以後、私が米国に転居したこともあり、まったく会っていない。2001年に日本に帰ってきてからも会う機会はなく、連絡先もわからなくなった。

しかし、晩年になるにつれ、昔の友人たちに会いたくなるものだ。特に河内さんはいろいろ影響を受けたし、当時の交流がなつかしい。が、「おーJAPAN」をネットで検索しても何もヒットしない。あんな素晴らしいミニコミがネット上に何も出てこないのでは、今後永遠に忘れ去られるのではないか、と心配になった。それで、下記の通りこのブログで2度ほど、かつての「おーJAPAN」について書いた。それで少なくとも検索でヒットするようになるだろう、と。

よど号グループとの関連?

それでも先方から何の連絡もなかったが、ようやくこの8月、成果が出た。しかも、思いもよらぬ形で。

ネット上の誤情報を検証しているブログ氏(「電脳塵芥四方山雑記」の電脳藻屑さん)から、おーJAPANがよど号メンバーと関りがあったかどうか、活動参加者として意見を聞きたいというメールが来たのだ。1970年に日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に亡命し、以後も同国に留まり、ヨーロッパでの日本人拉致(「獲得」)疑惑もあるあの人たちだ。「おーJAPAN」は彼らが組織した工作活動の一つだったとの指摘があるという。

目の玉が飛び出るほどびっくりした。何を根拠にそんな情報が出るのか。何やら、よど号メンバーに密着取材して書かれた高沢皓司『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社、1998年)にそのような指摘があるという。信じられなかった。まともな本なのか。

なるほど、「おーJAPAN ウィーン」「おーJAPAN ミニコミ」でネットを検索しても(少なくとも上位には)何も出てこないが、これに「よど号」などのキーワードを加えるとある程度情報が出る。新聞記事などでは「よど号グループが関与していたとされる」「隠れ蓑にしていた」などとあるが、一般ブログなどでは「北朝鮮のプロパガンダ誌」「よど号グループの機関紙」などと断定しているものもあった。

極端に言えば、昨日まで友人としてつきあってきた人が「実は火星人だった」と言われたようなものだ。緑の党などヨーロッパの政治組織と何らかの関係があった、ならわからないではないが、よど号グループというのは考えもしない。突拍子もなくヒョウタンからコマ、晴天の霹靂。衝撃でしばらく人が信じられなくなり、精神的に不安定になった。

その時(今年8月)私は国外(モルドバ)に居て、高沢氏の著書などは読むことができなかった。いずれ帰国する予定だったので、本格的調査は先伸ばしにした。とりあえず思ったのは、外国で活動する小さいグループのあやうさだ。自民党が統一教会といかに不適切な関係をもっても、同党が統一教会の隠れ蓑団体だったとまではだれも言わないだろう。国内の、しかも大組織であればそうだ。しかし、国外で何かやっている小団体だと、よくわからない。一度「〇〇と関係がある」と言われればそれで終わりだ。以後ずっとその色眼鏡で見られる。私なども海外(アメリカ)で、日系人、環境関係などいろいろな市民活動をしてきた。気をつけなければ、と思った。

できればこんなこと知らないまま冥土に行きたかった、とも思った。もともと人を信じる楽天的な性格だ。そのまま美しい思い出だけで冥土に行けた方がよかったのに…。しかし、世を去る前に知れてよかったのかも知れない、とも考えなおす。とにかくこんな情報に触れた以上、徹底的に調べ、真相を知りたい。

高沢皓司『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』によると

8月末に帰国し、調べ始めた。高沢皓司『宿命―「よど号」亡命者たちの秘密工作』(新潮社、1998年)はいいかげんな本ではなかった。それどころか、重厚なルポルタージュで、北朝鮮という難しい国がかかわる問題に、多方面から徹底して迫る得難い本だった。北朝鮮に何度も飛び、かつて活動を共にし友人でもあった田宮高麿(よど号グループのリーダー、1943~1995年)から直接話も聞いている。文才もあり、読ませる。「おーJAPAN」のことが書いてある「20 ウィーン工作」の項(pp.314-327)には次のような叙述があった。

「ずいぶんと後年になって、田宮高麿はこの「反核」宣伝扇動工作を「よど号」グループが担ったいくつかの工作活動の中で、もっとも成果を上げ成功した活動だったと自賛していた。/「あれだけは誰にも手が出せんだろ。日本の権力も知っているのとちゃうか。でも、われわれが工作していたことに気付いていても、権力も手が出せん。文化人や文学者や有名人もようけ巻き込んだ。あれに手を出したらエライことになる」/そして彼はわたしにこう言ったのである。/「いつか歴史を書くことがあるかも知れんけど、そのときには『よど号』の歴史のなかであれだけは忘れんと書いてくれや」(高沢皓司『宿命』、pp.314-315)

何気ない雑談の中の話だったらしい。高沢が「しかし、資料も何もないからね」と返すと、田宮はこう続けた。

「機関誌もようけ出ている。K君に聞いたらいいんや。彼なら機関誌のバックナンバーも持っていると思うよ。見ればわかる。われわれが当時、何を考えていたんか、そっちにならわかるやろ」(p.315)

その後、高沢はこう続けている。

「わたしは、そのころはまだ「よど号」についてこんなふうにながい文章を書こうとは思ってもいなかったから、それ以上、掘り下げて聞くということをしなかった。ここに登場するK君というのは当時「反核」運動の盛り上がる直前、ウィーンの大学に留学し、「反核」ウィーン事務局を担っていたメンバーのひとりである。田宮にしてみれば、なにかにつけてもっとも信頼していた人間のひとりだった。生真面目で誠実な人柄の男だった。」(p.315)

あらかじめ断っておくが、ここに出てくる「K君」というのは、当然にも「おーJAPAN」代表(発行人)でメディア露出も多い河内喜彦と思って読んでいたが、そうではないかも知れない。後述するように、別のよど号メンバーの妻、有本恵の証言、手記では、まったく経歴の違う「N氏」が出てくる。そもそも、Kというイニシャルは多すぎる。別のよど号メンバー、魚本公博の証言では「K・Yさん」、その他の諸記事にも「K・H」「K・Nさん」「K・Zさん」などが出てくる。私がよく使っていたペンネーム「草井岳史」もKだ。冗談ではない。

当初、田宮は国際的な活動についてまったく話さなかったが、1990年代になって少しずつ話すようになった。高沢は続ける。

「1992年に金日成が「よど号メンバー」に妻子がいることを明らかにしてしまった以降は、北朝鮮国外での彼らの活動も明らかにしなければならない事情が生じていた。海外での活動を否定していては、そもそもヨーロッパでの「運命的」な出会いという彼らのウェディングストーリーが成り立たなかったからである。

「書いてもいいのか?」と、わたしは一度、尋ねたことがある。そのときの田宮の答は意外だった。「自分で調べて書くんなら誰も文句は言わんだろ。調べて明らかになることはいずれ放っといても明らかになることや。……」

この文章を書きはじめてからも、わたしはたびたびそのときの田宮との会話を思いだした。しかし、その田宮の言葉がなんとも気持ちのうえで重い《桝〉になって、わたしはとうとう真冬のウィーンやザグレブ、国連軍の行きかうサラエボや雪のベオグラードにまで《旅》をするはめになってしまったのである。」(pp.315-316)

その後で、どのような証言、情報源が元となったのかはわからないが、高沢は、次のように断定的に言っている。

「「反核」運動工作は宣伝扇動戦の名前にふさわしくまず雑誌を発行する計画からはじめられた。事務局の準備委員会が組織され討論がつづけられた。最初は簡単な新聞形式のミニコミだった。紙名は『おーJAPAN』と名づけられた。一九七八年のことである。号を追うごとに内容も広がりをもち充実した。/ウィーンから最初に創刊されたこの『おーJAPAN』はのちに久野収、宇井純を顧問に迎え、ヨーロッパだけでなく日本国内でも反核運動の中心的な情報誌となっていく。発行体制ものちには東京に移った。この準備段階で活躍していたのが先のK君であり、運動家として指導していたのが田宮だった。そして事務局と連絡をとりつつこうした運動を実際に組織していったのは、じつは岡本武だったのである。」(p.320)

日本国内でも「反核運動の中心的な情報誌」になったというのはほめすぎで、「おーJAPAN」主要メンバーでも苦笑するのではないか。ヨーロッパの運動を伝えるには重要な役割を果たしたが、日本には、反核・反原発運動を担った重要なグループが多数あったはずである。

緊張関係の中で書いている

それはともかく、高沢は一連の流れの中ですらすら続けているように見えるが、仔細に見ていくとかなり慎重に書いている。「田宮がこう言った」とはっきりは書かない。むしろ、思わせぶりに匂わせただけで、「自分で調べて書くならだれも文句は言わんだろ」と言ったとしている。しかし、その流れの後の方で、「田宮が指導し岡本が組織した」と断定している。

北朝鮮で恵まれた生活をしているとはいえ、北朝鮮当局の監視下に置かれているよど号メンバーたちだ。田宮が(あるいは他のだれであっても)ぺらぺらとしゃべってくれたと書いてしまってはまずい。そういう緊張の中で高沢はこの重厚な分析の書を書いているのだ。

こんな会話があった後、1995年11月30日、田宮は、家人の居ない自宅で心臓まひで亡くなった(享年52歳)。高沢はこの田宮の死に疑問をもっている。はっきりとは書いてないが、敢えてこちらからそれを言葉にしてしまえば、当局によって消された可能性がある。本当に心臓まひだったのか。信頼できる検死など行われていないだろう。グループリーダーの田宮はあまりに多くのことを知りすぎた。そこに親友で気安く話せる敏鋭ジャーナリストが頻繁に訪れる。田宮はあやうい存在になっていった。北朝鮮では常に裏の裏を考えないと真実に迫れない。北朝鮮の真実がすべて明らかになるのは、スターリン体制のすべてがわかったのと同様、その体制が倒れた後だろう。だから高沢の筆致は常に裏の裏を思考する推理小説のような緊張をはらんでいく。事実だけを並べるジャーナリズムではなく、分散した事実の断片や何気ない発言をつなぎ合わせ、時代的背景や実際の場所も検証した上で、裏の裏に迫ろうとする。そうした方法論にならざるを得ない(後段で出てくるよど号グループの著書『拉致疑惑と帰国』で「検証」を担当した鳥越俊太郎が「皮膚感覚」をことのほか重視してピョンヤン取材に臨んでいるのも同じ理由からだろう)。高沢はこの推論作業を重厚に推し進め、それがある程度成功を収めているように思われる。(その他、例えばよど号メンバーの中では岡本武、吉田金太郎も不審な死を遂げており、これにも高沢は鋭く迫っている。)

高沢は言う。

「《旅》[引用者注:検証のためのヨーロッパの旅]の途上で、何度か彼の言葉の真意について考えることがあった。調べても分かりっこないよ、という意味を込めて彼はあんなふうに語ったのだろうか。まさか本当にヨーロッパから東欧にまで足をのばすとは思いもよらなかったのだろうか。それとも彼の口からは直接言葉で語ることができない何かを伝えようとしてのことだったのだろうか。その真意については、彼が突然のように死んでしまったいまとなっては誰にも分かるすべがない。ただ確かなことはひとつだけ、田宮高麿があんなふうな死に方をしたのでなければ、わたしの「よど号」をめぐる《旅》も始まりはしなかっただろう、ということである。」(p.316)

ここでも、こちらからはっきりした言葉にしてしまえば、高沢は、言いたいことの全部を言えずに死んで(消されて?)しまった友の言葉を絞り出すためあの分厚い本を書いたのではないか。田宮の人生の無念をはらすための大著に取り掛からざるを得なかった。『宿命』の文庫版刊行に際して新潮社編集班が記したあとがきが優れている。やや別の観点からだが、次のように書いている。

「『宿命』を上梓した高沢氏は、北朝鮮に残るメンバーとその妻、あるいは国内の「よど号」の支援者たちから「裏切り者」のレッテルを貼られ、手ひどい攻撃を受けることになった。だが、裏切り者はどちらなのだろう?蛮勇を奮って玄界灘を渡ったものの、理想も志も捨てて朝鮮労働党の手先になり下がり、ヨーロッパやアジア、さらには密入国した日本で工作活動を続けていたことこそが最大の裏切り行為ではないのか。/「田宮が死ぬことがなければ、僕はこの本を書き出すことはしなかった」/高沢司氏は、いま、そう言う。『宿命』はかつての同志と袂を分かった一ジャーナリストの、血のにじむような内部告発の書であり、盟友田宮高麿への悲痛な鎮魂歌なのである。」(文庫版、p.680)

高沢の『宿命』は各紙誌で絶賛され、1999年の講談社ノンフィクション賞を満場一致で受賞した。しかし、それよりも誇るべきエピソードとして、上記新潮社文庫版担当氏は次の事実を記す。

「『宿命』の内容に衝撃を受けたある新聞社の社会部長、そして高名な週刊誌の編集長が、「これがジャーナリズムの仕事だ」と前置きして、編集部の全ての記者編集者にこの作品を読むようにと奨励したのである。取材者として、また書き手として、恐らくこれ以上に名誉なこともないだろう。もっとも、企業ジャーナリズムがいかに金と人員を割いたところで、これほどの達成を得ることは容易なことではない。なぜならば、この作品は胸が掻きむしられるような内部告発の書でもあるからだ。」(文庫版、p.676)

この高沢もまた2022年7月に亡くなってしまった。かつての「真実」を知る者、それを追った者は次々に鬼籍に入り、「歴史」の中にうずもれていく。

「おーJAPAN」に裏どり取材をしてほしかった

高沢は、日本国内で『おーJAPAN』の調査も行っている。次のように書いている。

「わたしは『おーJAPAN』のバックナンバーを探しはじめた。K君にも連絡をとり、ミニコミや運動関係の資料の保存されていそうな図書館も調べてみたが、なかなかすべてのバックナンバーは揃わなかった。そんなとき、わずか数部だけだったがK君がコピーを送ってくれたのである。」(p.322)

私の高沢に対する不満の一つは、「おーJAPAN」への裏どりの不十分性だ。「おーJAPAN」がよど号グループの隠れ蓑だった、本当はよど号グループが指導していたというのは相当強い断定である。これを「おーJAPAN」への取材なしに言明するのはどうなのか。今私は「おーJAPAN」主要メンバーにコンタクトする手段がないが、この時高沢は「K君」にコンタクトできた。ぜひ聞いてほしかった。田宮はこう言ったが本当にそうなのか、と。本当は、どれほどの関係だったのか、事実関係をフェアな形で明らかにして欲しかった。

たった4カ月しか活動をともにしてない私に多くを語ることはできないが、端的に言って(つまりあくまで「実感」として)私は納得できない。事務所に行ってすぐ編集まで任され、「代表」にずけずけ文句まで言って、自由な物書きができた。外部から来て「指導」していくような年長者は居なかった。入れ替わり立ち代わりだが、常に数人が寄宿する河内のアパート兼事務所で、仲間たちとのこれまた気の置けない腹を割っての議論をした。河内の奥さんは、芸術家(ピアニストだったか)らしかずあけっぴろげな庶民派で、彼女の手料理にもずいぶんお世話になった。河内は、外のだれかに「指導」されるどころか、締め切り前数日間は自室にこもってしまい、仲間の居る居間には食事のときだけしか現れなくなる。そんなに根詰めてやらなくてもいいじゃないか、と思うくらい、自分を追い詰めて反原発、反核、第三世界支援などメインとなる記事を書いていた。

「おーJAPAN」は1982年に、ミニコミ発行だけでなく、実際に反核などの運動を進める組織「新しい民主の波」も設立するが、高沢は、この確かに少し気負ったところのある設立宣言を長文引用し「そして、じつはこの「宣言」の草稿を書いたのはどうやら田宮高麿らしいのである。そう思って読み直してみると随所に彼らしい表現とチュチェ思想的発想が見てとれる。」と書いている。

田宮が、自分が書いたと言ったのか。これも真相はわからないが、私はやはりそう断定するのは留保したい。私の知っている代表の河内は、意外とここにあるようなやや時代がかった、時に民族主義的な文章も書く人だった。彼の文章である可能性も捨てきれない。

さらに高沢は続ける。

「「反核」というヨーロッパ中を揺るがせた波に乗っていたのだとはいえ、この工作は彼らにとって確かにうまくいったと言えるものだったろう。田宮は成果を上げた彼らの活動の例としてこの「反核」運動への関与を挙げだが、「よど号」二十数年の歴史の中でも彼らが秘密の任務ではなく運動家らしい取り組みができたのは、この「反核」がほとんど唯一のものではなかっただろうか。」(p.322)

彼らに大衆運動はできたのか

妥当な結論なのかも知れないが、ひっかかるところもある。よど号グループにこのような大衆的な社会運動を組織する力があったのか。確かに、こうした「秘密の任務ではなく運動家らしい取り組み」はよど号グループの活動の中でほとんど唯一のものだ。だから違和感がある。顔が知れている田宮、岡本が、人が多く集まる「大衆団体」にのこのこと出て行くものだろうか(田宮は高沢との雑談で「アムステルダムのレストランで食事をしていたら隣の席に日本人がきて見つかってしまったことがあった」というエピソードを話したこともある<高沢『宿命』、p.315>)。彼らはヨーロッパには1977年頃から入ったらしいが、朝鮮語はともかく、ドイツ語、英語などはできたのか。ヨーロッパの生活にどれだけ慣れて、そこでどれほど自在に行動できるようになっていたのか。そういう人が、10歳程度若いと言っても、ヨーロッパ滞在の長い海千山千の(失礼!)長期居住者、留学生たちを動かすことなど難しかったと思う。後述するように、「おーJAPAN」への関わりを証言した別のよど号メンバー、魚本公博は「『おーJAPAN』の活動や行事に出席しても何か意見を言うということはまったくありませんでしたし、『おーJAPAN』は、私たちが「隠れ蓑」とできるような余地のまったくない、徹頭徹尾、K・Nさんをはじめとする日本人留学生たちによって作られ、担われた運動でした」と述べているが、少なくともここだけは妙に腑におちるところがあった。

高沢にならって、常に裏の裏を推理しなければならない。田宮との何気ないやりとりを読んで私が感じるのは、俺たちはこれくらいはやったんだと田宮が無理にでも思いたがっている気持ちだ。玄界灘を越えてきて、我々の人生、いったい何をやってきたのか。「日本人獲得」や怪しげな「経済活動」ばかりではあまりに悲しい。せめて大衆向けミニコミを出してはなばなしく運動らしい運動もやった、そう思いたい、という気持ちが見える。わずかな人脈上のつながりや記事投稿があったかも知れないが、それを針小棒大に言い、我々がやった、指導した、と言いたい。いやそうはっきりと言うのは気が引けるが、せめてそんなもんだと想像してもらえれば……と。

ネット上に存在しないものは存在しない

電脳藻屑さんに教えられるまで、私は「おーJAPAN」とよど号グループの関係についての疑惑を何も知らなかった。怠慢と言われてもしかたない。活動参加からすでに40年以上がたち、高沢『宿命』出版からも25年がたっている。だが、よど号グループについて関心があり、それをずっと追っていない限り気づかない情報であったのも事実だ。前述の通り、「おーJAPAN」をネット検索しただけでは何も出てこなかった。「河内喜彦」でも何も出てこないし、ブログやSNSもやっていないようだ。そうなると、特に外国に居ると何もわからなくなる。「ネット上に存在しないものは存在しない」になってしまうのだ。

外部からの客観的検証

さてそれでは、結果的に私に「よど号グループとの関連説」を教えてくれることになったこのブログ氏、電脳藻屑さんは、どのような検証を行っただろうか。「おーJAPAN」に関わりのある私の見方はどうしても主観的になる。同氏なら、より客観的な分析をしてくれるだろう。氏は、私からの取材も含めて、次のような検証記事を書いた。

8月6日の広島における「ダイ・イン」とよど号メンバーは無関係だ

表題の通り、これは「おーJAPAN」とよど号グループとの関係が主題ではなく、今年8月6日広島で行われた「ダイ・イン」(死に真似パフォーマンス)が元はといえばよど号グループが工作活動で流行らせたものだというツイッター上の書き込みを検証する記事だ。しかし、それは、よど号グループの工作活動「おーJAPAN」などを通じて広められたという内容だったので、「おーJAPAN」とよど号メンバーとの関連も検証することになったのだ。

(ダイ・インについて)横道にそれるが、ここで問題になっているダイ・インについても一くさり。関心のない人は飛ばして結構です。

アメリカで人種差別問題や反原発運動にかかわってきた私にとって、ダイ・イン(die-in)はいかにもアメリカらしいクリエーティブな抗議行動で、なんで日本ではこういう斬新なパフォーマンスがないのか、と長らく思ってきた。常に「〇〇を許さないぞー」というデモやシュプレヒコールでは芸がない。だから日本でもダイ・インのような行動が始まって少しばかりうれしかった。die-inはsit-in(座り込み)のアナロジーから来たもので、sit-in自体は昔からある非暴力直接行動で、特に1960年代の公民権運動で、黒人が入れないレストランの席に敢えて座り込むsit-in行動が広く行われた。政府建物の前に寝転ぶdie-inもそうした中で生まれ(当初はlie-in横たわり込みと言われた)。反戦など人命が危険に冒されることへの抗議行動はこのdie-inがよく適合し、多用されてくる。die-inの歴史を説明するサイトによると1960年代末までには反戦運動や学生運動でdie-inが抗議行動の「常套手段(breadandbutter)」になっており、「1970年代半ばまでにダイ・インは北米中で、やや少ない程度ヨーロッパで、社会運動に用いられる非暴力直接行動で確立されたレパートリーになっていた」という。このようなユニークな抗議行動の形をよど号グループがつくったのなら素晴らしいが、残念ながらそれはなく、私は苦笑してしまった。確かに電脳藻屑さんが言う通り、高沢『宿命』の中では、そういう風に間違われかねない紛らわしい書き方があった。

アメリカ発の直接非暴力行動を日本に導入する上で重要な役割を果たしたのは友人の阿木幸男で、私も随分影響を受けた。1971年以来、全国で「非暴力トレーニング」という訓練ワークショップを行い、著書『非暴力トレーニング―社会を自分をひらくために』(野草社、1984年)、『非暴力トレーニングの思想―共生社会へ向けての手法』(論創社。2000年)などでその思想的背景についても紹介してきた。

sit-inから派生していろんな言葉をつくるのが可能で、lie-in、die-inの他、学習的集会をやりつづけるteach-in、集会を禁止された場所などでとにかくそこに集まってしまうbe-in、徴兵カードをまとめて徴兵局に返還するturn-in、歌って抗議するsing-in、一斉に皆で政府建物などに入るwalk-inなどがあり、最近は、fish-inというのも見た。先住アメリカ人が、奪われた漁業権を取り戻すため川で実力行使の漁業をする非暴力直接行動だ。

本題に返る。電脳藻屑さんの調査力は相当のもので、多様な文献にあたり、ミニコミ実物にもあたり、私にも取材し、「おーJAPAN」とよど号グループの関係について冷静に分析している。詳しくは原文を見てほしいが、結論は例えば下記のようなものだ。

「以上の事から『おーJAPAN』自体には田宮や岡本などのよど号メンバーが何らかの関係を持っていた可能性は高いと考えられます。ただし、それがどの規模でありどの程度の影響力を持っていたのか、その他のメンバーがどれだけそれを知っていたのかは不明であり、そしてよど号メンバーによる「工作機関紙」と言えるレベルであったのかまではわかりません。」

「『おーJAPAN』そのものはよど号メンバーのうまい「隠れ蓑」であったことは可能性はありますが、その反面、それとは知らない若者たちの反核も扱うミニコミであったことがまず第一の事実と言えるでしょう。故に少なくはあれど当時の朝日ジャーナルやそのほかの雑誌で多少なりとも扱われ、宇井純や久野収などの文化人が『おーJAPAN』に関わりを持ったのでしょう。それはそれで恐ろしい事でもありますが。しかしこれらの事から田宮らの視点では「成功した活動」とは言えそうです。」

よど号グループが「おーJAPAN」を発刊・指導したりしたとする『宿命』の中の高沢の指摘について「だれに取材し、何の資料を用いて書いているのか裏付けがいまいち不明」とし、「おーJAPAN」側への取材についても、「「K君」に連絡をとり機関誌を数部手に入れたにもかかわらず、肝心のK君に対する聞き取りをしている描写が一切なく、この部分でも高沢の調査の妙な甘さが見て取れます」としている。「国内でも反核運動の中心的な情報誌」と言っていることについては過大な評価とし、「ミニコミとしては成功した部類ではあるけれど言論や運動にそこまでの影響を与えたかというとかなり限定的」としている。

電脳藻屑さんは、私も最初そう思ったように「K君」を河内のことと理解して、よど号グループとの関係について次のように言っている。

「河内に連絡を取り、何らかの事情を話して当時のミニコミを数部手に入れたはずですので田宮-河内に何らかの繋がり自体はあるものと考えられます。ただ当時の河内が田宮高麿を「よど号メンバーの田宮」と認識していて協力していたのか、田宮がおそらく語っていた別人(偽名)と認識してミニコミを作っていたのかまでは不明です。」おうだが

冷静な分析だろう。氏は調査能力もあるし、私がこんな一文を書く間に、他の問題に関して自サイトで同様に徹底した検証記事を複数ものしている。ネット上の誤情報を検証する作業は現在増々重要になっている。注目すべきサイトだろう

八尾恵『謝罪します』によると

高沢の『宿命』が出た4年後、2002年にさらに衝撃的な証言、手記が出た。日本での工作活動中逮捕された八尾恵(よど号メンバー柴田泰弘の元妻)が徐々にマインドコントロールを解き、欧州での有本恵子さんの拉致に関わったことを明らかにした。別のよど号メンバー妻・赤木恵美子の旅券不返納罪を問う裁判でそれを証言し、次いで、生い立ちから一連の活動に至る詳細を包み隠さず記した手記『謝罪します』(文芸春秋社、2002年)を出版した。有本恵子さん(いまだに北朝鮮に居て生死不明)の両親にも泣きながら土下座謝罪した。同年9月には、平壌で行われた日朝首脳会談で、北朝鮮側が日本人拉致を初めて公式に認め、「一部の妄動主義、英雄主義者の仕業」により、日本人13名が拉致され、現在5名生存、8名死亡である旨が発表され衝撃を与えていた。

その著書の中で、八尾恵は次のように述べている。

「私が北朝鮮に渡った一九七七年頃から、「よど号」グループはウィーンで最初の本格的な政治活動を始めます。それは、反核運動のミニコミ誌を作る団体を隠れ蓑にした活動でした。」(p.175)

「「よど号」グループは、反核の市民運動を利用して自分達のシンパやメンバーを作ろうとしました。/七七年の秋、田宮高麿は、自分の部屋のすぐ前にある応接室で行われる朝の会議で、「ヨーロッパに我々の思想を宣伝し、支持者を作るためのミニコミ誌を作るんだ」と言いました。このミニコミ誌の名前は皆で会議してつけました。/そして、欧州の「欧」と「おーい」という呼びかけをかけて、オー、ジャパンと名付けました。「オージャパン」を作るため、田宮と岡本武がヨーロッパに行って、組織作りをしていました。この任務に赤木なども加わり、一部の女性も加わっていきました。それ以外の人は村で、その準備のための原稿を書いていました。

「オージャパン」を作る運動には田宮が在籍した大阪市大の後輩の、当時二十代前半の若者、N氏が「よど号」グループ代表として参加しました。もちろん、「よど号」グループが関与しているということはミニコミ誌を作る運動に参加した他の日本人達には秘密でした。/N氏には、当時は会ったことがありませんでしたが、帰国して逮捕後に何度も会うようになりました。N氏は現在東京在住、身長百八十センチ以上あり体格が良く、ラグビーをしていたといっていました。大阪市立大学卒業後、ウィーン大学に留学。関西弁ばりばりで、真面目で従順、田宮のことを「先輩、先輩」と慕っていました。」(pp.175-176)

「オージャパン」は、本当の政治的な意図を隠し「核」に反対して、日本を核を持たない作らない非核国にしていく、それをヨーロッパから呼びかけよう」ということをヨーロッパ在住の日本人に訴えて作られました。記事はヨーロッパに住む日本人達によって作られているという建前でしたが、実は平壌にいる「よど号」メンバーによっても書かれていました。そして「オージャパン」は毎号、平壌に運ばれ、私も読んでいたのです。」(p.177)

「「オージャパン」は七八年三月に一号を出し、その後、事務局のメンバーが日本に帰り東大などの学生を巻き込んで日本でも活動を続けました。私が活動で帰国していた八五、六年頃、書店で購入したことがありました。しかし途中で、反核運動なのに「反米自主」などというあやしげな主張をし、政治党派的な意図の感じられる原稿を載せようとするメンバーがいるということで事務局が分裂、八七年に九一号を出して休刊となりました。」(pp.177-178)

あらかじめ言うと、この八尾『謝罪します』はものすごい暴露・告発の書だ。「貴重な証言」という以上のすごみがある。例えば最初の方で、「地上の楽園」(北朝鮮)への帰国事業を熱心に進めていた在日の人が、実際にそこに行ってその国や帰国者の悲惨な状況を見てしまい、次のように言うのを暴露してしまっている。

「北朝鮮という国があること自体が、朝鮮民族の恥なんや。できることならあの国に核爆弾でも一発ぶち込んで跡形もなくきれいさっぱりと消滅させたい」(p.63)

こんなことまで書いて大丈夫なのか、と彼女の身の安全が心配になるくらいだ。こんな根性のある人をだまして北朝鮮に連れて行ったかの国は大きな過ちを犯したかも知れない。金日成主義に洗脳され、強制的によど号メンバーの妻にされ、工作活動のコマにも使われるが、日本での活動中に逮捕される(「夢見波事件」、1988年)。当初は不当逮捕として裁判までたたかうが、徐々にマインドコントロールが解け、すべてを告白、暴露。そして謝罪する。

だからこの書は貴重であり、信頼性も高い。特に彼女が直接かかわった有本恵子さん拉致(北朝鮮行きへの誘導)の叙述は極めて具体的だ。「市場調査の仕事」「貿易の仕事」を餌に有本さんをロンドンからコペンハーゲンに連れ出し、そこの中華料理店で、貿易会社の社長になりすましたよど号メンバーの魚本公博(旧姓:安部。八尾も本書の中でこの安部姓を使っている)が仕事の話をし、手筈通り30分後に北朝鮮の国営会社の人に成りすました北朝鮮工作員キム・ユーチェルが現れ、取引する商品を調べるためいっしょに北朝鮮に行ってくれないかという話し合いをした。そこでの具体的な言葉のやり取りも詳細に再現し、説得的だ。

上記の「おーJAPAN」に関する叙述はどうか。いくつかの新しい知見も加えられ、高沢の『宿命』よりさらに断定的によど号グループの関与が語られ、やはり衝撃的だ。これを読むと、「やはりそうだったのか」と深い衝撃に打たれる。しかし、この北朝鮮やよど号関連の探索では、何事もそのまま信じてはいけない、という習性がついてしまった。常に裏の裏を考え、異なる見方の可能性を考えなければならない。

有本恵子さん拉致の過程は八尾が直接手を下しており、その情報はかな確度が高い。しかし、「ウィーン工作」に関しては間接的にしか関わっておらず、他のメンバー妻による拉致の叙述と同じく、伝聞が主体となっている。八尾自ら言う通り、よど号メンバーの中では「他のメンバーがどこで何をしているかは秘密となって」おり(p.216)、それは夫婦間でも同じで、うっかり夫に自分の今居る住所を言ったことを田宮に強く批判されたこともある(p.204)。時にはやっていることが他との関連でいったい何の任務なのかまるでわからず活動していることもあったという(p.261)。そういう中で、知りえた情報の断片をつなぎあわせ、高沢『宿命』の分析ストーリーの中に流し込んで理解した可能性がないとは言えない。「ウィーンでこういうミニコミを出そうとする動きがある」と田宮が少し尾ひれをつけて言ったかも知れない話で「我々が組織している」と思ったかも知れず、題名の話が出ているんだが、ということで議論をしたことで自分たちが決めたと感じたとか。よど号メンバーらも「おーJAPAN」向けに原稿を書いていただろうが、それはどれくらいの量だったか。実際に会ったN君の情報は風貌も含めて確実な情報だろうが、彼がどの程度の「よど号グループ代表」としての参加だったのかは留保しなければならない。

むろん、裏の裏の裏だ。当時、望郷と民族主義的な傾向を強めていた彼らが「おーJAPAN」という題名を思いつくことは大いにあり得る。1980年代に彼らが発行していた季刊誌『日本を考える』とも題名のコンセプトが似ている。私たちが愛着をもって呼んでいた題名「おーJAPAN」が、実はよど号グループが望郷の念を込めた語った言葉だったのか、と思うと、少しぞっとした。

(題名の由来について「おーJAPAN」創刊号は、「欧の墺[引用者注:オーストリアのこと]から「おー」と呼びかける声がJAPANの国民大衆の耳に達し、数千万倍の反響のウズを巻き起こす。その震源地として絶えることなく「おー」「おー」「おー」と叫び続ける」としている。八尾によると前述の通りよど号メンバーは「欧州の「欧」と「おーい」という呼びかけをかけて、おー、ジャパンとなづけた」としている。)

私も当時ヨーロッパを旅していた

私たち世代の若かりし頃、学生運動、環境運動、女性運動、反戦運動、(米国なら)公民権運動など様ざまな異議申し立て活動が高まった。その中に明らかに逸脱したケース(よど号事件をはじめ、あさま山荘事件、日本赤軍のテロ、党派間殺人など)があった。自分には遠い世界と思っていたが、少なくともその軌跡の一つは私の近くにも延びてきていたことになる。「色仕掛け」などで北朝鮮に誘導するという八尾の証言を読んで、ふと、自分の旅で思い当たる経験はなかったか振り返ったものだ。まさに彼らのヨーロッパでの日本人獲得作戦が行われていたこの時期、私はヨーロッパを放浪していたのだ。(幸い、その多くを現カミさんと旅していたこともあり、「危険」に会った形跡はないとの結論に達した。)

「おーJAPAN」良心の声

八尾恵の衝撃的な証言と著書が出た翌年、2003年4月15日に朝日テレビ・スーパーJチャネルで、ヨーロッパ日本人拉致と「おーJAPAN」の関連を問うドキュメンタリーが放映された。この中で「パリ、ウィーンでの取材にも同行、〝実名〃〝素顔〞で〝出演〞した元「おーJAPANの編集員」」を自負するたちばな・はじめ氏が月刊誌『創』の投書欄に1ページ半の投稿をしている(2003年7月号、pp.142-143)。

(この番組をぜひとも見たいのだが、Youtubeにも、テレ朝動画テレビ朝日映像アーカイブ放送ライブラリーにもその録画がなかった。持ってる方がいたら貸して下さい。)

氏は、高沢皓司『宿命』出版時にも、「もし「おーJAPAN」が〝成功〞だったとすれば、それは「よど号」グループらのスターリニスト的教条主義とは、全く相容れない、正反対の立場による多くの人々のおかげでしかない」と投稿している(『創』1999年5月、p.159)。彼自身「81年からウィーンで、83年から日本(東京)で、実質的に編集長兼雑務係として、取材、記事、文章のリライト、イラスト、レイアウト、写真と一人で必死になっていた」のでよど号グループとの関連の指摘は衝撃だったとする。

そして、「おーJAPAN」の紙名さえピョンヤンでつくられたという2002年の八尾恵の著書はさらに衝撃的だったが、「私は金王朝の中で貴族待遇された「よど号」グループと彼らにコントロールされた「おーJAPAN」内の「確信」メンバーではなく、本当の意味で〝自主〞的にモノを考え〝主体〞的に自らの意思よってのみ行動することの出来る多くの協力者の活動によってのみ実現されたモノでしかない、と再び本誌で訴えた」とする。そしその投稿が、今回のテレビ取材協力のきっかけになったという。

私はこのたちばな氏と、ウィーンで入れ違いになったらしく面識がない。しかし、得難くかつ、素晴らしい文章なので下記に長文引用する。たちばな氏も許してくれると信じる。

「81年から「おーJAPAN」の内部で活動していた私は、゛創刊"号以来の「確信」メンバー全てを知っている。しかし、彼らがどういう形で「よど号」グループにオルグされたかについては、今回の取材でも不明のままである。そして、彼らはいっさいの取材を拒否したままである。

番組の中で、「よど号」グループの確実なメンバーであったことが明らかになったK・H(ペンネーム)[引用者注:原文ではフルネーム]が83年、不用意に書いた文章が、「よど号」グループの「日本を考える」の全く引き写しだったことから、私はうすうす彼らとの関係に気付いてはいた。しかし、まさか「おーJAPAN」が、金日成主義、「よど号」グループの全くの指揮下にあるとは考えもしなかったし、まして〝拉致〞問題など知る由もなかったのである。

もちろん「おーJAPAN」がヨーロッパでの〝日本人拉致〞に直接的、具体的に関係していたという証拠は全く何もない。K・H以外の「確信」メンバーも〝拉致〞に関しては全く知らなかった可能性も大きい。だからあまりセンセーショナルにオドロオドロしくは取りあげられたくない。最後まで〝真相〞をつきとめたいと思うが、個人的には、長く一緒に行動を共にした人間として、少なくとも〝拉致〞には、全く関係がないことを祈りたいというのが私の〝本音〞でもある。

「おーJAPAN」の記事内容については、初期の頃の、「よど号」グループが書いた文章と、82年の「新しい民主の波・ヨーロッパ委員会」というウサンクサイ政治団体結成のときの〝悪文〞のハンラン以外、「よど号」グループの露骨な文章がそうあふれかえっていたワケではない(そうであったら、あっという間に読者にソッポを向かれていただろう)。

記事の内容に関してもヨーロッパ、アフリカ、中南米等の独裁国家とそれを食いモノにする西側資本の悪らつさの告発、ヨーロッパ内での環境破壊、原発、武器輸出、外国人労勘考への差別の実態と云った社会問題にだけこだわることなく、ヒッピーの旅日記やウィーンやパリの街とちょっとした話題、そしてケーキや料理のレシピまで、多様な記事がゴチャマゼで載っていたのである。

もちろん、それが「よど号」グループの最初からの狙いであったかも知れない。一党一派にこだわらない、しかもヨーロッパ在住の若者たちが出しているミニコミということで、いわゆる文化人、知識人との交流も多くなり、私自身も小田実氏にメシを作り、大江健三郎氏もインタビューに応じてくれ、サインもいただいた。

そして顧問をして下さった久野収先生は、自身の「土曜日」を重ねあわせたのか、あらゆる機会で「おーJAPAN」の応援を最後まで必死でやって下さった。これも「よど号」グループとしては単なる「政治的道具」でしかなかったのだろうか――。

しかし、「おーJAPAN」が訴え続けてきた軍事独裁国家のあらゆる人権じゅうりんへの批判は、今やその全てが北朝鮮=「よど号」グループ自身の悪業にこそ強く突きつけられていると云わざるをえない。」(『創』1999年5月、投書欄、pp.159-160)

今回、図書館の奥で古い雑誌のバックナンバーを漁る中でこの文章を読み、熱いものがこみ上げてきた。「おーJAPAN」に関するグレーの報告ばかりがあふれる中、こうして「自主的にモノを考える」良心的な「おーJAPAN」参加者が確実に存在し、衝撃を受けながらも、きちんと声を上げていたのだ。

「支配下にあった」とまでは思わない

たちばな氏は、「まさか「おーJAPAN」が、金日成主義、「よど号」グループの全くの指揮下にあるとは」と衝撃を受けたわけだが、私はそこまでは信じたくない。一定の人脈的なつながりはあったかも知れないが、参加者の大多数は自発的な人たちだった。よど号メンバーとつながっていた人たちも、80年当時はまだ拉致の存在が明らかになっておらず(2002年に北朝鮮が拉致公表)、その時点では考えが甘かったのかも知れない。一定の影響はあっただろうが、「おーJAPAN」は、国外に出た日本人の自由な発表媒体としての性格を最後まで守り切ったと思う。

イニシャルでいろんな人の名前が出てきた。10年近い「おーJAPAN」の歴史のうち、私はわずか4カ月かかわっただけだ。全体を語れない。つながっていた人が誰だったのだろうと考えることは難しいし、考えたくない。私自身、この文を書くために独自に取材したわけでないし、「おーJAPAN」メンバーにコンタクトしたわけでもない(できない)。あくまで出版・公開された情報をできる限り収集して真相を知ろうと思っただけだ。遅れて衝撃情報を得た分、真相を知りたいと必死になった。

「おーJAPAN」に関わったのが確実なよど号メンバー

よど号グループ関連者で、「おーJAPAN」にかかわったのが明らかになっている者が二人いる。一人は、八尾『謝罪します』で八尾とともに有本恵子さん拉致に関わったと記された魚本公博。もう一人は、ハイジャック実行犯ではないが、その後よど号メンバーの妹と結婚して長らくピョンヤンで彼らと暮らした赤木邦弥だ。

よど号グループは、ハイジャックについては誤りだったと認め、刑にも服すつもりでいるが、ヨーロッパでの日本人拉致に関しては事実無根とし、2013年4月、魚本公博、若林佐喜子、森順子への逮捕状の違法性を訴え国家賠償請求訴訟を起こした。訴訟自体は門前払いで、最終的に2015年2年に最高裁で上告が却下されたが、訴訟のために用意した各種情報を『えん罪・欧州拉致ーよど号グループの拉致報道と国賠訴訟』(社会評論社、2017年)として出版した。

よど号グループは2013年にも拉致疑惑を反論する『「拉致疑惑」と帰国』(河出書房新社、2013年)を出版していた。そこでは、鳥越俊太郎が第三者的立場から「検証」の役割を担っているが、よど号グループが「すべをアメリカの陰謀史観のようにとらえることへの疑問」「違和感」があったと述べたように、まだ紋切り型の反論が濃厚だった。しかし、裁判資料を新しくまとめた新著『えん罪・欧州拉致』は、詳細に事実と事実を突き合わせる手法をとっており、それなりに耳を傾けるべき諸点が示されている。拉致に関して(最後の段階で北朝鮮と特務機関が出てきているとしても)そのコマとしてよど号メンバーたちが動いたことは明らかと思われるものの、疑惑の細部について事実誤認がないとは言えず、そこは誤りがあれば修正する必要がある。例えば、確かに有本さん拉致でも八尾証言がほとんど唯一の根拠になっているという弱さがあるし、西側情報機関がコペンハーゲンで撮った写真にも、北朝鮮工作員と有本さんの写真はあるが、魚本は写っていない。

魚本ら原告は、八尾がいうような有本さん拉致関与のため1983年7月にコペンハーゲンに行った事実はなく、その頃はウィーンで「おーJAPAN」の活動に参加していたと主張した。魚本らは、裁判でその「アリバイ」を証明するため、「おーJAPAN」の「K・Nさん」に陳述書をつくってくれるよう長文の依頼手紙を出した。その中で「おーJAPAN」との関わりを詳しく説明している。結局この「魚本氏の2013年4月にだした長文の手紙への返信はなかった」(p.151)が、その手紙の内容が魚本陳述書に反映された。

魚本は、グループの2013年旧著でも同趣旨の説明をし、「77年には、ヨーロッパ在住の日本人留学生のグループとの付き合いを始め、ヨーロッパには交代で出かけていた」(p.225)と書いていた。2017年著書ではさらに詳しく、次のように言う。

「1977年ころ、朝鮮において日本向け機関誌発行準備を計画していた私たちは、日本の現状に直接関与できない中で、まず欧州に運動の経験を学ぼうとして、77年末からウィーンにいた日本人留学生のグループと交流を始めました。留学生のグループと知り合ったきっかけは、ピョンヤンで会った訪朝団の中に第三世界連帯運動などをやっている欧州の活動家がいて、その方から日本人留学生グループの存在を伝え聞いたことでした。そして、その方に仲介の労をとってもらって、交流が実現したものです。

私は、1982年の10月頃、ウィーンに行き、83年の3月に一度朝鮮に帰り、5月に再びウィーンに入り、そこで生活していました。住居は、民宿や知り合った運動体の人の所に居候したりしていました。また、K・Nさんが居住していたアパートに、Kさんから部屋を借りた形にして住んでいたこともあります。」(p.152)

「私は、ユーゴスラビア経由でウィーンに入り、『おーJAPAN』の事務所に電話しました。事務所は主宰者のK・Yさんの住居兼用になっており、確か、ウィーン北駅の近くにあるということで、市電で近くまで行って喫茶店(食堂)に入り、そこから電話をしたと思います。電話口に出てきたK・Yさんに、田宮高麿(亡命者のリーダーだった)さんの仮名を伝え、自分の仮名である〇〇というものですが、と話すと、さえぎるように「聞いています」という返事が返ってきたことを覚えています。/私は、電話だけで意思が通じるのかどうか不安でしたが、K・Yさんは、すぐに事情を悟ったのか淡々とした事務的な話し方でK・Nさんを紹介してくれ、会うべき喫茶店(食堂)を教えてくれました。/翌日だったか、指定された場所でK・Nさんに会ったと思います[引用者注:2013年著書では「Cさん」になっている]。K・Nさんは同年代の方で、地方の国立大学を出て有名会社に入社したが、そこを辞めて、ヨーロッパ放浪の旅の果てにウィーンに居つき、『おーJAPAN』の活動に参加するようになった人だったと記憶しています。/私のことについてはK・Yさんが「全共闘運動など運動の経験者で反核運動のことを知りたがっているので教えてやって」と紹介してくれていたので、その線に沿って、全共闘運動のことや、その後の運動での苦労話などをしながら、ヨーロッパで反核運動を知ろうと最近ヨーロッパに出かけてきたことなどを話しました。さすがに最初から打ち解けたという感じにはなりませんでしたが、K・Yさんからの紹介ということで、それなりに信用していただけたと感じました。/こうして私は、『お-Japan』と連携をもち、そこを通じて、欧州反核運動を研究することができるようになりました。私も運動経験者として結構頼りにされ、色々運動のことでも相談されたり愚痴をこぼされたり、ときには助言を求められることもありました。また、前述したように、K・Nさんは、当時、『お-JAPAN』のヨーロッパでの編集責任者でしたので、K・Nさんから穴埋め記事を書いてくれと頼まれ、英字新聞を見て、「街から村から」欄などの雑記事を書いたりもしました。とくにK・Nさんの住んでいるアパートはオーストリア人の夫人の両親の所有でしたので、手続きなしにそこの一部屋を借りて住まわせてもらったりもしましたし、使っていない地下室を改造して集会場にしようとしていたのを手伝ったことなども記憶に残っています。」(pp.152-153)

このような経験を踏まえて、魚本は、

「ところで、『お-Japan』というミニコミ誌について、八尾の「証言」や著書『謝罪します』では、私たちよど号グループが作った日本人を拉致するための隠れ蓑であるかのように書かれています。しかし、そうでないことは明らかです。」

と言い、様々な文化人からも評価されていたことを、久野収の発言なども引用しながら示す。そして次のように語る。

「このように、『おーJAPAN』は自立したミニコミ誌として独自の評価を受けながら、1987年に廃刊されるまで91号を数えたことはKさんが良くご承知なことだと思います。このような評価を受けた『おーJAPAN』に対して、それを私たちが人を獲得するための、あるいは拉致するための隠れ蓑として作ったものだというのは、K・YさんやK・Nさんたちをはじめとした欧州の日本人留学生、それを支持した多くの人々に対して失礼ではないでしょうか。」(p.154)

「当時、私たちは、日本に帰国することを最大の目的とし、そのためには、過去の思想を総括し、真に日本のために尽くそうとしていることを広く日本国民に知ってもらう必要があると考えて『日本を考える』を発行し、その充実に全力を傾けていました。そのために、その頃、欧州で盛んになっていた反核運動が反米もしくは離米をはらむ自主の運動になることに注目した私たちにとって、それを現地で詳しく知ることは切実な問題でした。私のウィーンにおける活動は、『日本を考える』の充実に全力を傾けることでした。ですから、ウィーンを拠点として活動していた『おーJAPAN』の人たちと交流することが何よりも大事な仕事であり、ウィーンを離れて他のことをするなどということはなく、ましてや日本人拉致に関与するはずがありません。/それに、私たちはあくまで学ぶという立場であり、亡命者であったことから、『おーJAPAN』の活動や行事に出席しても何か意見を言うということはまったくありませんでしたし、『おーJAPAN』は、私たちが「隠れ蓑」とできるような余地のまったくない、徹頭徹尾、K・Nさんをはじめとする日本人留学生たちによって作られ、担われた運動でした。」(pp.154-155)

それなりの臨場感がある

全体をそのまま受け入れるわけにはいかないが、率直に言って臨場感がある。私の体験と似ている。電話してコンタクトする。とりあえずメンバーのアパートに寄宿させてもらう。私の場合、河内さんの自宅兼事務所だったが。中欧のアパートは大きくて、いろんな部屋や余分なスペースがあったりする。そしてすぐ穴埋め記事などを頼まれて書くことになる。私の場合、前述の通り、編集にも深くかかわらせて頂き、1面コラム、編集後記も書いた。編集方針についていろいろ文句をつけたし、腹を割った議論も大いにした。よど号グループの方より強い影響力を行使してしまったかも知れない。

意外なのは、よど号グループは、八尾が証言したようなコペンハーゲン中華料理店で有本さん勧誘(1983年7月15日)、翌日の空港での見送りなどを捏造、事実無根と全否定していることだ。あそこで書かれたような詳細なやり取りが作り話だとしたら、八尾はかなりの芸術家(小説家)ということになってしまう。別人を魚本と見間違えることもないと思うが。

また、「K・Nさん」にお願いしたアリバイ証言というのはかなりの無理筋と思われる。2013年時点ですでに20年がたっている。その時期ウィーンで「おーJAPAN」活動に携わっていたくらいは言えても、1983年7月15日、16日の両日、どこで何をしていたかなど、自分のことでも思い出せない。まして隣人が何をしていたか、確かに在室していたかなどわかるはずがない。ウィーンからコペンハーゲンまでなら、鉄道でも1晩ちょっとで行ける距離だ。

距離感がある

額面通り受け入れられないとしても、少なくとも、「おーJAPAN」との距離感は確認することができる。魚本はおーJJAPANに慎重にコンタクトしている。そもそも、よど号グループがつくった「プロパガンダ組織」「その機関紙」なら、アリバイ証言をしてもらうのに、元編集責任者に長文の依頼の手紙を書いたりしないだろう。しかもそれに返事がなく無視されている。

「おーJAPAN」メンバーからすれば

これを逆の立場から見ると、こんなことで事あるごとに呼び出されるのはたまらない、となるだろう。手紙に返事もないというのは理解できる。もう、ほっといてくれ、ということだろう。本書(『えん罪・欧州拉致』)の中でも支援者たちは事実検証のためにいろんな人にコンタクトするが、行方がわからない人や、もう関わりたくないと証言を断られるケースも多かったようだ。その他「おーJAPAN」主要メンバーも八尾証言後いろいろメディアからコンタクトされたろうし、捜査当局の事情聴取も受けたかも知れない。もういいから、そっとしておいて欲しい、という声が聞こえてきそうだ。一般の「おーJAPAN」参加者も、面倒なことに巻き込まれたくないと遠のいていっただろう。

仲間内からの証言ならこうなる

この本は、魚本のアリバイについて、証言が得られなかった「K・Nさん」のかわりに「日本人ジャーナリストO氏」からの証言を出している。次の通りだ。

「このように安部氏[引用者注:魚本の旧姓]は1983年7月から8月にかけてウィーンにおいて極めて多忙な日々を送っており、コペンハーゲンに行っておらず、行く必要もなかったのである。このことは、『おーJAPAN』の製作を手伝っていた日本人ジャーナリストO氏が、安部氏が、82年末から83年3月までと同年5月から8月初めまで『お-JAPAN』の製作のためにウィーンにおり、コペンには今まで1度も行ったことがないと話していることからも明らかである。また、O氏は、『お-JAPAN』のK・N氏の奥さん、L氏の家は大きくて部屋がいくつもあるので安部氏が間借りしていたことも知っていた。」

「前述した日本人ジャーナリストO氏は、当時の朝鮮は、本人が行く意思があり、朝鮮側に受け入れる意思があれば入れたと述べており、事実、O氏は自ら望んでヨーロッパから朝鮮に入国し、後日、日本に帰国している。」(p.61)

この「日本人ジャーナリストO氏」は「小川淳」のペンネームを使っていた後述の赤木(旧姓・米村)邦弥と思われる。よど号メンバー赤木志郎の妹と結婚し約20年間、ピョンヤンでよど号グループと生活をともにしていた。2007年帰国して逮捕されたときには、欧州拉致疑惑のカギを握る人物として注目を浴びた。ピョンヤンに居た時は、自身、「ピョンヤンに在住するたぶん唯一の日本人ジャーナリスト」と称していたという(TBS、2007年6月5日)。

つまり仲間だ。仲間内あるならば、その証言は、このように、より直接的な形で得られることになるだろう。

魚本は、「おーJAPAN」の評価について、2013年著書で面白いことを言っている。

「ヨーロッパに出かけるときに、田宮さんに強調されたことは、「学んで来い」ということだった。しかし、それは簡単ではなかった。/その頃の私は、何を見ても批判が先立っていた。反核運動を見ても、「何やインテリの運動やないか」「もっと反米自主をはっきり打ち出せんのかいな」などと思ってしまう。「おーJAPAN」についても、他愛のない記事、マスコミ記事と大差ない一般的な紹介記事も多く、反核運動への切り込み方も鋭くないので、独自的な論陣を張るというのは難しいと思えた。/だから三月に朝鮮に帰ったときの「報告」は、そういうものになった。「反核運動は大きな運動になっている、しかし…」、「『おーJAPAN』は支持を得ている、しかし…」といった按配。/それを見た田宮さんが苦笑しながら、「あのなあ、学ぶというのは文字通り学ぶということだぜ、これじゃ批判ばっかじゃないか」と言ったものだ。」(『「拉致疑惑」と帰国』河出書房新社、2013年、pp.231-232)

申し訳ない。魚本さんにとって『おーJAPAN』は「よど号グループのプロパガンダ誌」になるには少し役不足だったようだ。しかし、さすがリーダーの田宮さんはよく理解さしていたようで、魚本(旧姓・安部)さんは、次のようにさとされたという。

「たとえば安部は、以前『おーJAPAN』が取り上げていた、イランのホメイニ革命についても、あんな宗教革命など、できるはずがないと言ってただろ? でも、イラン革命は成功し、反米自主の道を進んでいる。ということはお前より『おーJAPAN』の方がよく見ていたということじゃないか?」(同上、p.202)

よど号グループの裏に何かが

2004年9月28日の『朝日新聞』が「よど号犯「関与せず」北朝鮮説明」という記事を載せた。北京での日朝実務者協議に出席した外務省の斎木昭隆アジア太平洋局審議官が9月27日、内閣府で「拉致被害者家族連絡会」のメンバーらに協議の報告をしたが、その報告を聞いた「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」の佐藤勝己会長によると、協議の中で北朝鮮は「よど号」事件グループは日本人拉致にはかかわっていないとし、「特殊機関の人たちは日本語が堪能で、よど号犯が関与する必要がない」と話した、と説明されたという。

これは重要な情報だ。北朝鮮側が口をすべらせたか。拉致は我々の特殊機関がやった、よど号グループは関わっていない、というのだ。通常ならトカゲのしっぽ切りで、悪いのは部外者か下っ端の者にして本体の方を守る。ところが、本体の方に責任があり、すでに北朝鮮にとってお荷物でしかないとも言われていた「よど号」グループは関係ないと言っている。

また聞きでは不確実だ。よど号メンバーの国賠訴訟を支援する弁護団は、公式的な記録を入手しようと、実務者会議の議事録などを情報公開するよう外務省に求めた(『冤罪・欧州拉致』社会評論社、2017年、pp.160-169)。しかし、非公開を前提とした国家間の協議であり、国の安全が害され、信頼関係が損なわれ、交渉上の不利益が生じる恐れがあるとして不開示となった。

捜査の密行性

よど号メンバーたちが起こした国家賠償請求も、「捜査の密行性に支障が出る」という理由で棄却された(門前払い)。つまり、逮捕状の時点での国家賠償請求を認めると、捜査の内容や捜査資料の開示を余儀なくされ、証拠隠滅など捜査の遂行に重大な支障が生ずる、とした。原告らは、この問題での証拠などはすでに報道や著作などで公になっているからもはや捜査上の秘密は存在しないと主張したが、これについても「一般に広く報道され、多くの出版物も出されているとはいえ、それ以外の捜査資料(証拠)が存在する可能性は否定できず」(東京地裁判決書)、やはり捜査の密行性を確保する考慮が必要だとした(同上、pp.160-169)。

法律理論はよくわからないが、捜査機関が、報道や出版物に出る以上の情報をつかんでいるということはあり得る。いや、そうでなければ困る。巨大な組織と法的権限をもって、家宅捜索や事情聴取その他を行なっている。背後には北朝鮮という国家ぐるみの凶悪犯罪があるのだ。それに相応する体制で、鋭く真相に迫る必要がある。それをきちんとやっているのか、むしろ問いたい。多数の事件、個人が関係し、国際的な広がりももつ。かなりの力量が必要だ。本当にメディアのレベル以上に行っているか。高沢『宿命』のレベル以上に行っているのか。

秘密の工作活動に秘密の監視

八尾『謝罪します』を読むと、よど号メンバーは日本人への接近のため効果的なコマとして使われているようであり、最終的には工作機関が手を下し、全体的にはその作戦枠内で拉致が行われているように見える。よど号メンバーたちの証言も聞かなければならないが、この辺は彼らとしてもあまり詳しくは語れない部分だろう。常に彼らの証言の「裏の裏」を考えていく必要がある。

八尾『謝罪します』で、彼女の日本での工作活動が、北朝鮮の情報機関によって監視されていたのではないか、と疑う箇所がある(pp.201-205)。夫の柴田から、八尾が「日本での活動中、防衛大学生を対象とした了解活動のためアパートに男出入りが多い」のを心配していると聞いたときに「不可解なものを感じた」。仲間同士で互いの任務の詳細を語ることはない。夫は、よど号グループを監視する朝鮮労働党関係者からそのような(冗談半分の?)話を耳にしたのでは、と疑ったのだろう。また、岡本武の妻、福留貴美子は、日本での工作活動中、友人宅に立ち寄ったことが知られ、規律違反として厳しく批判された。よど号関係者は日本で捜索願などが出ているため、家族や友人に会うと警察に動向が知られるので禁じられている。なぜ友人宅宿泊が漏れたか、八尾は長らくわからなかったが、自分の体験と絡ませて、彼女らの秘密工作が実はまた秘密に監視されているのかも知れないという「仮説」にたどりつく。

『宿命』の高沢は、漁船で北朝鮮脱出を図って特務機関に消されたらしい岡本武夫妻のケースを分析する中で、この問題に切り込んでいる。岡本は国外活動の際に神経質なまでに誰かに監視されていると訴え、同志たちから批判されていた。高沢はこれを下記のように推論する。(高沢は、この本の中で、1960年代のアメリカで生まれたニュージャーナリズムの手法をふんだんに使い、ここでもそれを駆使している。事実を外から述べるのでなく、対象となる人間に乗り移って物語風に叙述する。高沢の分析をフィクションと批判する向きもあるが、この手法への誤解から来ている面があるだろう。)

「彼は自分を監視していた目の持ち主がこれまで《敵》だとばかり思い込んでいた。南朝鮮の諜報機関である可能性が高い、と考えていたのである。しかし、どうやらそれは思いすごしだったのかも知れないとここにきて思った。彼は心の中で、記憶にあるさまざまな情景を反芻してみた。東ベルリン(!)で彼の姿をじっと窺っていた東洋人の男、シェーンブルンですれ違った男のこと、ふとあのとき、どこかで見たような気がしたのはそのためだったのか、と。北朝鮮では任務を遂行中の工作員を、そのもうひとつ外側で監視している秘密の組織がある、とどこかで聞いたことがある。まさか、とそのとき岡本は考えた。そんな無駄をしている余裕はないはずだ、チュチェの革命偉業達成のまえには全員が一丸となって挺身するのでなければ、それこそ後退主義に陥ってしまうではないか、と。-」

「しかし、この想像はあながち外れたものではなかったはずである。その後の「よど号」の活動の軌跡と「妻」たちの日本潜入活動の足跡を緻密に検証しなおしてみると、どうしても第三の目の存在を抜きにしてはつじつまの合わない不可思議な事実が随所に散見される。」(p.342)

「赤木容疑者」とは何者なのか

もう一人、「おーJAPAN」に居たことが明らかになっているよど号グループ関係者は、前出の赤木(旧姓・米村)邦弥だ。赤木はハイジャック実行犯ではない。1994年から前述の通り小川淳のペンネームでピョンヤンから論文を発表していた。長らく身元不明だったが、2004年11月、平壌での日朝実務協議で北朝鮮側が本名と生年月日を明らかにした。旅券も返納され、その記録から1981年10月に大阪からパリに向け出国、その後ウィーンに行き1985年まで滞在したことがわかった(『産経新聞』2007年6月5日によると87年まで)。この時までによど号実行犯の一人、赤木志郎の妹、美智子と知り合ったらしく、一旦日本に帰国した後、87年に二人で北朝鮮に渡った。そこで結婚し、妻の姓を選び、赤木邦弥となり、よど号グループと生活をともにしていた。二人の娘をもうけた。

この赤木邦弥は2007年6月、「(すでに帰国していた)妻子と暮らしたい」ということで突如帰国。旅券法違反で帰国時に逮捕された。大々的な「赤木容疑者」報道が行われ、「警察当局は、欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べている」(読売新聞、2007年6月11日)とされた。

赤木は、1985年頃までのウィーン滞在時に「おーJAPAN」の活動に何らかの形で参加していたことが明らかになっている。1982年に土井たか子(衆議院議員。後の社会党委員長、衆議院議長)がウィーンで「おーJAPAN」メンバーと交流した際の写真に赤木も写っている。これをもって「おーJAPAN」ばかりでなく、土井や社会党もよど号グループを支援していたと書く一部ブログもあるが、極論だろう。赤木がどの時点から「よど号グループ関係者」になったのかは不明だ。この時点ではまだつながっていなかったかも知れない。

産経新聞』2007年6月5日によると、赤木がよど号メンバー赤木志郎の妹と知り合ったのは1985年だとしている。そして1987年4月に一緒に北朝鮮に行った。どこでどのように赤木志郎の妹と知り合ったのか気になる。「おーJAPAN」周辺だったのか。それともまったく別の場所だったのか。それは偶然だったのか、それとも何らかの意図的な引き合わせがあったのか。

日本の海辺からの拉致は、暴力的にたたきのめし、布袋に押し込めて工作船で北朝鮮に連行、というのが多かったようだ。しかし、ヨーロッパからではそのようなことはできず、より「ソフトな」方法がとられた。色仕掛けで、あるいは「貿易の仕事」などを餌に、ある意味「自発的に」北朝鮮に誘導された。しかし北朝鮮に入ってしまうと、もう出られない。金日成主義の洗脳教育が行われ、そこで生きていく他ない状況に置かれる。欧州での有本恵子さん拉致を公表した八尾恵は著書『謝罪します』で、そういう自ら行った手口を赤裸々に告白した。

そして、何を隠そう、よど号犯の妻たちの多くも、このような巧妙な手口で北朝鮮に誘導され、強制的に結婚させられたということを八尾の著書は暴露している。「数カ月の留学」を期待して日本から渡った八尾自身がそうだった。同書の「“妻”たちの謎」(pp.114-117)の項で、元の恋人を追って自ら北朝鮮に来た一人をのぞき、他のよど号妻たちはそのような形で結婚させられたことが示唆されている。日本に恋人が居た女性も複数おり、このためピョンヤンでの結婚式の前日まで抵抗していた女性もいたという(p.113)。北朝鮮拉致には二重・三重の悲劇が隠されていることに思い至らされる。

赤木邦弥の北朝鮮入りに関しては、石高健治の著書の中での次の指摘が注目される。『宿命』の著者・高沢皓司から聴取した際のやり取りだ。

「高沢皓司は何度もよど号グループのリーダー田宮高麿と個人的に話している。九五年の初めには平壌ではなく第三国の首都で会っている。/あるとき、有本恵子らヨーロッパ各地から消えた日本人留学生の件で問いただすと、田宮はしぼり出すような声で答えた。/「平壌には招待所のようなところにたくさん日本人がいるんだが、どこに誰がいるのか、連絡がつかないんだ。今、どうしているかはわからん」/有本恵子がその一人であることを田宮は彼女の名前まで口にして語った。/高沢は怒りがこみ上げ、「おまえらが連れて来ておいて連絡がつかないとはどういうことだ。無責任じゃないか」と詰め寄った。/「我々が一緒に活動しようと言っても、あなたたちのような恐い人たちとは一緒にやっていけないと離れていった者もいる」」

「「離れた」とは口当たりのいい言葉だが、連れ去られ、労働党工作組織の監視下に置かれているのだから、まざれもなく拉致犯罪である。/よど号グループは誘拐した者に思想教育して洗脳できると安易に考えたが、そうはいかなかったのだ。

「「彼らを日本へ帰してやるべきだ」/高沢が言うと、/「難しい問題だが、努力する」/と田宮は答えた。/高沢はまた、他のメンバーらと話した内容も総合すると、ヨーロッパから誘拐拉致された日本人は十人余りにのぼるという。そのうち、高沢の知るかぎり、一人だけがよど号の仲間として活動している。残りは有本恵子らと同じ悲惨な状況にある可能性が高い。」(石高健治『これでもシラを切るのか北朝鮮―日本人拉致続々届く「生存の証」』カッパ・ブックス、1997年、pp.228-229)

「そのうち…一人だけがよど号の仲間として活動している」というのが赤木邦弥だった。つまり赤木は、欧州拉致への関与疑惑が問題にされたのだが、彼自身、何らかの形で巧妙に北朝鮮に誘導されていた可能性もある。拉致被害者であったかも知れないのだ。

しかし、彼のそうした経過についての詳報はまったくない。2007年6月に逮捕された後、同年9月に東京簡裁が旅券法違反で、罰金10万円、執行猶予2年(求刑・罰金10万円)の判決を言い渡した。その後続報がない。日本のどこかで妻子と静かに暮らしているのだろうか。

自由、が重要だ

たとえ自発的に北朝鮮に来たとしても、帰れなくなる状況はつらいものがあるだろう。ましてそこで無理やり結婚せざるをえなくなる状況になるとは。そういう中で、やはり人はある意味「自発的に」人生を変えていくのだ。みずから金日成主義に自分を染め、これも運命的な出会いだったと自分を納得させ結婚する。ある意味、私たちは皆そうだ。時代の限界の中で生き、自由にならない状況の枠内で「自発的な」自分の人生を選んでいく。アメリカに永住していった日系1世たちの多くもそうだった。一時的な出稼ぎで一旗あげるために行ったのだが、経済的事情で帰れなくなり、結婚もし子どももできるうち、さらに帰れなくなり、結局永住している。

だが、どれだけ形式だけと言ってもそこに「自由」がなければならない。「資本に雇われて生きる以外ないという経済的強制」と言っても、そこに形式的であれブルジョア的であれ自由があるという一点が重要なのだ。これをあいまいにしてはいけない。それがあるからこそ自由にかける人々がいる。岡本武は、それにかけて漁船を駆って北朝鮮を脱出しようとした。そして今も本当の消息がわからない。その辺を追求した高沢は、結論的な部分で次のように言っている。

「ここで言葉を短絡的につなげて、わたしの「よど号」をめぐる巡礼の最後に見えてきた感想を差し挟んでおけば、「よど号」の神話とあの時代の伝説は、九人のメンバーのうち吉田金太郎の死(一九八五年に病死と伝えられた)と岡本武の事件によって、完膚なきまでに終焉を告げていたということである。ハイジャックという行為を敢えてしてまで「革命」を呼号したあの時代のヒーローは、すでに別の、異形のものに変質し尽くしていた。ハイジャック九人のメンバーのなかで岡本武と吉田金太郎だけが、あの時代の意識を最後まで生き、闘い抜いたのだと思わずにはいられないのである。」(高沢『宿命』、p.397)

最後に:4カ月か関わっただけの者が、偉そうに

もちろんこのブログ記事は、よど号グループとの関連疑惑という衝撃的な知らせをきっかけに書き始めた。でなければ「おーJAPAN」についてこんなに長い記事は書かなかったろう。しかし、今後ずっと、「おーJAPAN」というとよど号グループとの関連疑惑でばかり出てくるというのでははなはだ忍びない。このミニコミ活動に真摯な気持ちで参加した多くの人たちに正当な敬意を示したい。あの1970年代、80年代においてあなた方の努力は、正当に報われるべきものだった。

それでこういう書き方になった。最初の方は「おーJAPAN」の功績、航跡を静かにたどる。後半でよど号グループとの関連についての衝撃的疑惑の検証に入る。こんな長いブログ記事を読む気もしない多くの方々は前半を読むだけで終わるだろう。それでいい。そういう風に「おーJAPAN」について知ってほしい。そして「おーJAPAN」という言葉に反応し、ここまで読んできたあなたは「プロ」です。じっくりと厳しく私の分析を検証してください。

ここで私は、独自取材をしたわけではない。すでに発表・出版されたものを調べながら、現時点の情報でどのように考えられるかまとめた。それでもわからないところはある。それでも、例えば、かの関係のあったとされる「K君」とはだれだったのだろう、とか仲間内を詮索することはしない。20年前にこういう疑惑が出て、主要メンバーたちはいろいろ取材を受けたろうし、事情聴取まで受けたと思う。それで何事もなかった。少なくとも拉致などとの関連はなかった。それで十分だ。わきの甘い所はあったかもしれない。しかし、ハイジャックや拉致は論外だが、多様な思想をもつ人々をあれこれかまわず受け入れた「おーJAPAN」のオープン性は美徳でもあったと思う。

4カ月しか居なかった私がたいしたことを言っている。しかし、こんなことがあって、多くの人が面倒なことには関わりたくないと遠ざかってしまっただろう。奇しくも私にとっては、サンフランシスコで開かれた日系人運動の50周年記念行事(同窓会)に参加する時期にこんな情報を受け取った。残念ながら「おーJAPAN」の同窓会はないだろう。

が、それでいい。一期一会。私たちは若き日々、懸命に生きて、互いに影響を与え社会に関わり、そしてそれぞれ別の道に歩んできた。それで十分だ。冥土に行く前にまた同じ顔を見なければならない、などということはない。私たちの生きた印は、その人たちの中に、周囲の人たち、そして社会に何らかに刻印され、残されている。それを大切にしながらまた次の人生、次の時代を生きていけばいいのだ。

もう会うことはないかも知れないが、この記事は、力を尽くした友たちに送る私からの連帯のメッセージだ。そう思って受け取ってほしい。4カ月関わっただけの者が偉そうに。

ウィーン旧市街の中心、シュテファン大聖堂。ハプスブルク家歴代君主の墓所となってきた。