
751年タラス河畔の戦い
大唐帝国とイスラム帝国(アッバース朝)の激突、世界史上の関ヶ原の戦い、751年「タラス河畔の戦い」はいったいどこで行われたのか。タラス川に沿ってキリギス側にはタラス(Talas)州のタラスがあり、カザフスタン側にはタラズ(Taraz)がある。2008年8月に私は、このカザフスタンのタラズを訪れて、その戦いの場所を探した。名所となっておかしくないそんな場所はなかった。それどころか当時は市街地図も入手できず、グーグルマップもなく(使えるほど普及しておらず)、タラス川本流さえ見つけられなかった。何やら低地を目指していくと小川があり、これもタラス川の分流ではあるだろう、と自分を納得させて引き返した。

今回、キルギス側タラスに長逗留し、タラス川もたっぷり見た。しかし、それらしい戦い跡の名所はなかった。やや下流のポクロフカに「タラス河畔の戦いモニュメント」があった。しかし、そこが戦いの跡だった証拠はなく、それがその場所だと主張する史跡でもなかった。そして国境を越え、再びカザフスタン側のタラズにやってきた。今度こそ、その場所を見つけてやるぞ!
タラス川、タラス山脈、タラス州、タラス市、そしてタラズ市
タラス川流域には、キルギス南方方向にタラス山脈(東タラス、西タラス山脈)がある。キルギス国内にタラス州(人口27万)があり、その州都タラス(人口4万)がある。しかし、そのタラスは1877年に東スラブ人移住者たちによってつくられた新しい町だ。そして下流のカザフスタン側にタラズ(Taraz、人口43万)がある。タラス川のTalasと似ているがスペルが違う。日本人が間違うLとRの違いもあって面白い。こちらは古くからのシルクロードの交易都市でTarazはカザフ語の「はかり(tarazy)」から来ているという説もある。ただし、この街の東部にはタラス駅というタラズ駅とは別の駅もあり、タラスという地名は他の小地域にもいくつかあるようだ。
少なくとも2000年の歴史があるというTarazの街は568年に最初に歴史書に現れる際Talasと表記されていた(ビザンツ帝国のギリシャ人歴史家メナンドロスの『歴史』)。その中世タラスは13世紀にモンゴルに破壊されたが、以後、この街は、Dalas、Taraz、Yany-Talasなどと記され、1864年以降はAuliye-Ata、Mirzoyan、Dzhambul、Jambylとなり、カザフ独立後の1997年になって、ようやくTarazが復活した。
いろいろなタラスがあり惑わされるが、とにかくタラスの戦いは、これらを含む広範な地域のどこかで戦われたはずだ。
カザフスタンへ国境超え
7月31日朝、荷物をまとめてタラスのバス・ターミナルへ。カザフ国境へのミニバス(マシュルートカ)はすぐ見つかった。バスはすぐ発車。他に乗客は居ない。まずい、一人分タクシーで高い料金を取られるのか。と思ったが、途中で次々客を拾い、そのうち満員になった。
昨日行ったポクロフカ行きとまったく同じルートを通る。結局、まずは同じところに行くのか、と思っていると、「国境だ、降りろ」とドライバーが言う。もう着いてしまった。金網が張り巡らされた検問所がある。ポクロフカに入る少し手前を直進したらしい。昨日行った街はほとんど国境地帯だったのだ。

両国の検問所を通って今回2度目のカザフスタン入国を果たす。付近にタクシー運転手らが居て高い値段を吹っ掛ける。躊躇しているとそのうちタラズ行きの市バスが来た。料金は20円程度(中央アジアどこでもおなじくらいだ)。そちらに乗る。タクシー運転手たちも、まあ仕方ない、と苦笑いしている。約30分乗ってタラズ市内。
タラズの街





丘の公園「テクトゥルマス建築群」

タラズは古代からシルクロードの主要交差路だった。太古のスキタイ遺跡から、カラハン朝(840~1212年、中央アジア初のトルコ系イスラム王朝)時代のカラハン廟、アイシャ・ビビ廟など、その他多くの遺跡が考古学的調査からも発見されている。
「テクトゥルマス建築群」は要するに「テクトゥルマス丘の公園」と言った方がわかりやすい。市内が一望できる眺めのよい丘で、公園整備が進められている。古代から墓地だったところで、有名どころでは、カラハン朝初期(10~11世紀)の半ば聖人化された軍司令官Sultan Mahmud Khanの霊廟がある。テクトゥルマス廟とも呼ばれている。


「偉大な祖父」モニュメント




丘すぐ下をタラス川が流れる
それで、主題のタラス川だが、実はこのテクトゥルマスの丘のすぐ下を流れている。下記の通り、丘の上からタラス川もタラズの街もよく見える。
丘のすぐ下ということは、ある程度高いところを流れているということだ。洪水の少ない中央アジアの川は、意外と高いところを流れている。その方が取水利用しやすい。なるほど、それで17年前、タラズでタラス川本流が見つけられなかったか、と了解した。川は平野の低い方にある、と思い込んで、低地、低地、と目指した。分流の小さい川はあったが、本流のタラス川はこんな、街より高いところにあったのだ。





古戦場跡ではない
タラス川と広大な平野、そしてタラズの街。古代の「タラス河畔の戦い」に想いをめぐらすには絶好の場所だ。この雄大な城壁型公園も、かの偉大な戦いを顕彰しているかのようだ。
が、別にこのテクトゥルマス廟公園は、タラスの戦いの史跡ではない。ここが古戦場跡だったと主張するものではなく、そんな説明はどこにもない。訪れた者たちが勝手に想像をめぐらすだけだ。
シルクロードとは何か
例えば「極東」の日本列島などは、諸文明の中心から遠く離れ、エクゾチックな文化・習俗が維持されてきた辺境世界と思われている。しかし、そこに住んでいる人間としては、それが日常の生活する場であり、珍しくも何ともない普通の生活圏だ。シルクロードも同じだ。大陸両端の諸国(つまり中心から見れば辺境)からは、ロマンあふれる民族・文化交流が展開された遠い世界と夢想されるが、住んでいる人にとっては、普通の日常生活の場だ。
夢物語のようなものを求めてやってくるこの観光客たちは一体何なんだ。いや、待てよ、そうやって来るなら、それに応える観光施設をつくり、観光マネーをたっぷりと落として頂こうじゃないか。
そうやって今、中央アジアでは、自分ではあまり自覚のない「シルクロード」の夢世界をそこら中につくり、辺境からの人々を積極的に呼び込むようになった。「タラス河畔の戦い」についても、呼び寄せの有力な道具になるらしい、と少しずつ気づき始めているようだ。地元民はそんな戦いはまったく知らなかったし、研究者の間でもいろんな意見があるようだが、とにかくそれにまつわる大規模施設をつくって呼び込めば、観光マネーは入りそうだ。
いや、地元民を責めてはいけない。何より99%の観光客はそれで喜ぶ。真相定かでない難しい歴史検証議論などに巻き込まれたくない。味もそっけもない川の沼地を見せられるだけでは面白みも何もない。それっぽい雄大なタラス平原とタラス川の光景を用意されてこそ、おお、ここでこそまさしく古代の大東帝国とイスラム帝国が……と勝手に想像して感動できれば、それで大いに満足だ。
「タラス河畔の戦い」は本当にあったのか
私も、17年前の訪問を含めて、「タラス河畔の戦い」跡探しで結構がんばってきた。で、結局、その古戦場跡はどこだったのか。
わからない。史跡探訪の旅は、益々先が見えなくなり、本当にタラス河畔の戦いなどあったのか、とまで疑うようになってしまった。少ない推定でも3万と4万、多い推定では20万と10万の軍勢がたたかった。そんな軍勢が1300年前の昔にこの乾燥の大地に集まれたのか。3万の兵が野営しただけで、その場所は数日で汚物まみれになる。食糧はどうしたのか。何千キロも離れた長安から持ってくるはずがない。付近の民家を襲って調達したか。しかし、今でも人口希薄なこの地(今のカザフ、キルギス)は、8世紀の人口は現在の20分の1程度だったという。略奪する民家も十分なかっただろう。そもそも長安、あるいはアラブ世界から何千キロも何万もの兵を送れるのか。10人程度だったであろうNHKシルクロード取材班だって、この大地を駆け巡るのに相当苦労した。飛行機と自動車とそれなりの道路網があっても厳しかった(『NHKスペシャル 新シルクロード 』シリーズ全5巻参照)。満足な道もない当時の砂漠、草原地帯をどうやって来たのか。来るまでに馬や牛を何万頭つぶしたのか。研究者はロジスティック面から「タラスの戦い」を分析しているのか。8割の日本兵が餓死したニューギニアの密林どころではない。数千キロかなたの乾燥の大地に何万、数十万の兵? 無理だ。
平原のあちこちで小部隊の小競り合いはあったかも知れないが、それを大げさに語った可能性はないか。10万の唐の軍勢が5000人が残るだけになった? 原爆規模の被害だ。恐らく軍勢は言われる10分の1、もしかしたら100分の1だったかも知れない。しかも兵のほとんどは現地調達だったろう。だから負け戦になればすぐ逃げた。死んだのではなくて逃げた。
史料がたくさん残る比較的身近な関ヶ原の戦いでも、最近、定説が次々にくつがえされているという。関が原は「天下分け目」でなく、それ以前にすでに家康は天下人だったとか、西軍大将は三成ではなかったとか、その裏切りが西方敗北の決定的要因とされた小早川勢は戦い以前からすでに東方についていたとか。優柔不断の小早川勢を東方に付かせた家康の妙手「問い鉄砲」はなかったとか。多くが後世の軍記物などによるフェイクだった。それを研究者たちが無批判に踏襲していた。軍勢も両軍合わせて15万などでなく3万程度だったとの説も出ている。関が原に関しては、「ほぼすべての通説が否定されるという異常ともいえる状況を呈している」という。
戦記物はできるだけ壮大に語った方が読む方としても面白い。生き証人たちも、勝った方はできるだけ華々しい戦闘で勝利したと自慢したいし、負けた方は相手が物凄い軍勢だったと言いたいインセンティブがはたらく。
多くの疑問が残った。帰国したら、詳しく調べたいとと思う。
