キリマンジャロの麓の宿で目覚め、ここがどこだかわからなかった。浅い眠りの中から次第に意識がはっきりし、キリマンジャロの麓の宿で目覚めたということはわかった。
しかし、目覚めたばかりの意識はその先を求めた。「ここ」はどこなのだ。地球空間の中の経度と緯度で表される物理的な場所のことではない。全宇宙を含めたこの世界、「ここ」が一体どこなのか。通俗的に言えばそんな哲学的な疑問に打たれてしばし床に横たわっていた。私はもうすぐ「ここ」を去る。なのにここがどこであったのかも知らずに去るのか。
が、75年生きてきて、こうした問いが実は幻覚だったことがわかっている。宇宙の果てにはまた先がある。身近なここ、自分の体の中にも原子から量子へと続く無限の宇宙がある。私がどこに居るか大空間側から確認しようとする衝動こそ、実は人間の倒錯だったことを知るようになった。そう、つまり自分が、自分の周囲が大宇宙なのだ。周りに家族がおり友人がおり暮らす街があり、そこが宇宙の真実だった。
私たちは宇宙の自己意識だ。何かわからぬが存在してしまった世界、存在そのものという世界がここにある。何も語らず何も考えない世界がここにあり、しかしその世界が、私たちの自己意識を通じて認識しはじめている。科学が次々に明らかにする宇宙ではない。身体をもった私たち自身、それが感じる喜び、経験する感動、見る周囲、そこに次々現出する現実を媒介に私たちは宇宙を知る。宇宙の自己意識活動をみている。そう、これが宇宙それ自体だ。宇宙の中のちっさな存在、などと卑下する必要はない。他ならぬ私たち、その意識が宇宙の属性そのものだから。無限の宇宙とつながるその一部だから。うのぼれていい。私が、あなたが、考え感動し生活することによってこの宇宙がその真実を、認識された私たちの対象的世界として示し出す。私は、あなたは、そもそも宇宙なのだ。
わかったか? わからないだろう。 これはお経だ。だが、あの呪文よりは少しはわかりやすいだろう。 ーとある葬儀に参加して。
