弥生、古墳:声調言語のインパクト

関西弁で中国語を学ぶ

関西弁ができると中国語がマスターしやすい、という動画がYoutubeにたくさん出ている。例えば下記だと、

https://www.youtube.com/watch?v=dYQIgTPTZTA

中国語の声調(四声)の「マー」、つまり女+馬(第1声¯)、麻(第2声⤴)、馬(第3声✓)、罵(第4声⤵)だが、これは関西弁のそれぞれ血ぃ(出た)、手ぇ(貸して)、目ぇ(痛い)、歯ぁ(抜けた)の発音をすればいいのだという。「今天」(チンティエン、今日)は、関西弁の「聞いて~」と発音すればいいのだという。関東人には難しい発音(アクセント)も、関西人のいつもの発音をすれば、中国語の発音にとても近くなるという。

うらやましい。関西弁は中国語の抑揚的な発音に極めて近いので、中国語習得にあまり苦労しないのか。

弥生期に大陸声調言語との接触、衝突

上記観察だけを根拠に言うわけではないが、弥生・古墳時代に、列島土着民は大陸からの声調言語の洗礼を受けた。それによって無アクセントだった言語が、声調的なアクセント言語、つまり日本語に変わった。『縄文語の発見』(青土社、1998年)を書いた小泉保は、弥生初期の日本語の形成について次のように言う。

「京阪では「日」が「ヒー」のように母音が引き伸ばされ、(1)高、(2)下降、(3)上昇もしくは低と分類できるように思える。「木」の「キー」では末尾で声調が下がっている。すると、こうした京阪アクセントと中国語との対応から、弥生時代当初の渡来人は中国的四声を備えた言語を話していた人々ではないかという想定が生まれてくる。すなわち、渡来人は彼らの母語に不可欠な「高、低、上昇、下降」という声調を、習得している縄文語の上にかぶせて弥生語のアクセントを作り出したという見方をここに提唱したい。縄文語は本来無アクセントであったから、ここに弥生語はきわめて特異な性格を帯びるようになったと考える。」(同書、p.214)

同様に、山口幸洋も次のように言う。

「古代の京都は、中国の「四声」に近いシステム「類聚名義抄アクセント」[1/2/3/4/5]であったが、日本語にはその前から無型アクセントが存在した(「アクセントが存在しなかった」と言っても同義)。原始日本語アクセントに、有型アクセントの第一次アクセント(類聚名義抄アクセント? 日本祖語アクセント?)を想定するとしても、もう一つの無型アクセントがあり得たと考えるのである。歴史の出発点は、その接触(衝突。有型アクセントからすれば侵入、無型アクセントからすれば受容)から初期的な経緯を経て三型アクセント核の有無+位置の弁別体系(2拍名詞○○/〇〇¬/〇¬〇)生まれ、やがて固まったと思われる。」(山口幸洋『日本語東京アクセントの成立』港の人社、2003年、p.36)

言語学の専門用語やアクセント記号はわからなくとも、言わんとするところは理解できるだろう。列島の無アクセント言語に、大陸からの声調言語がぶつかり、アクセントのある日本語が形成された、と言っている。山口は歴史学者ではない。在野の言語学者として日本国中のアクセントを、それこそ地を這うように調べ歩き、その構造について思考するに、このような古代の言語衝突を想定せざるをえなくなったのだ。

これについて、言語接触理論の研究者からは次のような参考意見が出ている。

「一般的な言語接触現象から予測される結果と山口説はけっして矛盾しない。次のように考えることができる。縄文人の母語(オーストロネシア語)ではピッチアクセントによって単語の意味を弁別する機能はなかった。彼らはアルタイ語を覚えても、その母語の訛りが残ってしまい、結果的には一型アクセントのアルタイ語となった。大陸からやって来た人たちは近畿地方に集中していた(と仮に考えよう)。自分たちのアルタイ語(つまり、有型アクセントのアルタイ語)を使っていた。そして、アルタイ語母語話者と日常的にことばを交わしていた先住民の方はその影響を強く受けた。その結果、有型アクセントが近畿で根付いた。そして、その地域の地位の高さから、有型アクセントが少しずつその周辺へと広がっていった。しかし、近畿から離れれば離れるほど、ネーティブのアルタイ語話者やその影響を受けて有型アクセントになった先住民と話す機会が少なくて、母語訛り(一型アクセントのアル タイ語)が残ってしまった。/さて、世界の言語接触現象の中にこれに類似した例はたくさんある。例えば、西アフリカのフランス語は都市部の方が標準フランス語により近い。都市部を離れれば離れるほど地元の在来の言語の影響が濃くなる。それはもともとフランス語を母語とする白人が都市部に集中していたからである。アイルランド英語も同様である。ブリトン島本国の英語により近い発音はアイルランドの北東部で聞かれる。これはブリトン島から渡ってきた英語ネーティブの人はこの地域に集中していたからである。」(ダニエル・ロング「言語接触論者から見た山口幸洋の言語研究」『方言研究の前衛』桂書房、2008年、pp.95-96)

古代東アジア史:文献史学と古代DNA学のシンクロ

次は、岡田英宏(1931~2017年)だ。岡田は、何という歴史家だったのか、と感嘆している。彼は徹底した文献史学家で、中国語、モンゴル語、満州語に精通し、その他多くのアジア諸言語の海に分け入りながらアジア史を構成した。その文献調査能力は例えば那珂通世『蒙古源流』(モンゴル年代記、漢訳された主要歴史文献)の訳注という文献解読業績を見るだけでも明らかだろう。彼の時代に古代DNA学はなかった。少なくとも今日のような革命をもたらす全ゲノム解析ハードデータによる歴史検証はなかった。しかし、古墳時代に黄河流域に起源をもつ「東アジア系」の遺伝子が大規模に日本列島、特に関西に入ってきた事実に整合する歴史観を、古代DNA学以前の岡田の歴史理論の中に見いだす。正直言って、彼の日本誕生理論はあまりにユニークで、以前はにわかには信じられなかった。しかし、驚くべきことに、それが今日の古代DNA学の研究成果と見事に照応する。

例えば岡田は、『日本史の誕生』(1994年、弓立社、ちくま文庫版、2008年)の中で、まず、『魏志倭人伝』がいかに当時の中国の恣意的な意図によって書かれたデタラメであったかを示し、これを元に「邪馬台国がどこにあったか」の論争ゲームに踊らされる日本の史学界を冷笑した後、「それでは、「魏志倭人伝」から日本の建国の事情を知ることは不可能だろうか。それは可能だ。」と論を転じる。

邪馬台国などという見栄えのする事象に惑わされることなく、『倭人伝』全体を批判的に読み砕くことで、建国前夜の日本が中国世界から見てどのようなものだったか客観的に把握することが可能になるという。「これからそれを説明するが、どうもみなさんの気にいるような話にはなりそうもない。気に食わない点は、真実はえてして苦いものだとあきらめてもらおう」と岡田は最初に警告めいた言を発する。私たちも心して彼の論に耳を傾けよう。

「一口に言えば、われわれ日本人は、紀元前二世紀の終わりに中国の支配下に入り、それから四百年以上もの間、シナ語を公用語とし、中国の皇帝の保護下に平和に暮らしていた。それが、紀元四世紀のはじめ、中国で大変動があって皇帝の権力が失われたために、やむをえず政治的に独り歩きをはじめて統一国家を作り、それから独自(?)の日本文化が生まれてきたのである。」(同書、p.38)

これが彼の日本国家起源論だ。前2世紀、前漢時代に中国配下に入り、後漢後の三国時代を経て4世紀にはじまる「五胡十六国」の混乱の時代に、列島住民はやむを得ず独立古代国家の形成を始める。中国からの支配を過大にとらえている、と確かに多くの日本人が反発しそうな歴史観だ。

ここから彼は、中国という皇帝権力がいかに商業活動の成長と相まって発展し、その東へのネットワークが韓半島を通じて倭人の列島にまで延びてきたかを詳細に論じている。例えば次のように。

「夏・殷・周などの古代王朝は、みな黄河の渡河点の洛陽・鄭州あたりを中心とした都市国家で、その都市国家は多く渡し場で開かれる定期市が原型だった。ここで発生した商人団の頭が「王」であって、ちょうどハンザ同盟…のmerchantprince(豪商)のように、しじゅう王国に加盟している都市の間を、「往」来して、同盟内の問題を解決しなければならなかったから、「王」と呼ぶのである。「往」と「王」はトーンはちがうが同音である。これが中国の皇帝の原型になった。/王都からは四方に貿易ルートが伸びていて、それを通って商品が流れる。東方の山東半島方面、東南方の揚子江(長江)口、南方の揚子江中流の武漢市方面さらに南の広州市方面へは舟で内陸の河川を航行できるので進出しやすく、古代ギリシア人のように古代中国人も、蛮地に植民しては新しいポリスを作って発展していった。」(p.39)

日本は渡来人によってつくられたか

遅れていた古代中国人のDNA研究の一つの成果が2024年12月に出た(Peng, et al., “Population expansion from central plain to northern coastal China in ferred from ancien thumangenomes,” iScience, December 20, 2024; その優れた日本語解説・紹介はここ)。中国山東省の古代都市、臨淄(Linzi)で発見された戦国時代~後漢の頃(紀元前5世紀から紀元後3世紀に相当)の14個体のゲノムデータの分析で、この時代までに山東省土着勢力は、「後期青銅器時代から鉄器時代の黄河中流域農耕民」によってほぼ置き換えられたことが明らかになった。つまり、現代に至る漢族の人々が約2000年前に山東半島に大挙して流入してきたことが明らかになったわけで、上記岡田の分析と整合性がある。その移動の波は当然韓半島、日本列島にも及んだことが推測され、古墳時代に列島の特に関西や四国に黄河中流域の遺伝子を大規模にもたらしたというDNA研究結果とも照応する。

岡田によると、「典型的な事業家皇帝」であった漢の武帝は、積極的に国境外に軍を送り商圏を広げ、郡県制を導入した。郡とは軍管区のことであり、県は帝都から送られた軍隊がつくった商品の集散地、定期市の場所で、それを城壁で囲んだ街が県城だった。そしてそこに交易の言葉として現れたのが中国語のピジンだったと岡田は言う。

「県城の周辺に住んでいたのは、すでに「民」になった原住民で、かれらは市場に入って、遠方からきた商人たちと取引きするのに、自分たちの土語は通じないから、しぜん帝都の言語を簡単化して、土語の単語とまぜ、一種のピジン中国語…を作りだした。これが、今のシナ語の方言の起源である。米軍占領下の日本で発生したジャパングリッシュ(和製英語)を思いだしてみるがよい。まず、あんなものである。こうしてシナ語は、市場での取引き用の簡便なことばとしてアジア中に広まり、これを話さない民族はなかった。もちろん日本人の祖先たちもシナ語を公用語として、隣りの部落と交渉したので、ちょうど今の日本人と韓国人が英語で話しあうようなものであった。「倭人伝」ではないが、「魏志東夷伝」の他の部分に、韓半島の原住民の言語としてあげてあることばが全部漢語なのは、こうした状態を示している。」

やがて、漢が滅び、晋、魏を経て331年に匈奴が洛陽を陥落させると、五胡十六国の「北族」抗争の時代が始まる。韓半島にあった楽浪郡、帯方郡もなくなり、皇帝権力の下で商いを営んできた東アジア諸民族も独立せざるを得なくなる。日本にも王権が生まれるが、その内実を岡田は次のように喝破する。

「韓半島の歴史で言えば、最初の実在の王は、百済では近仇首王、新羅では奈勿王、日本でいえば仁徳天皇がこれに当たるが、この三人とも揃って、三一一年の政変の直後、四世紀の後半に在位した。これははじめて、皇帝を後楯としない王権が成立したことを示す。/しかし、これら新興諸国の政府で働いている官吏は中国人であった。いわゆる帰化人がそれで、はっきり言えば華僑である。ちょうどアフリカの独立国のように、もっとも重要なポストは旧支配国の出身者に握られていた。これは政治面だけでなく、文化面でもそうであった。…(中略)…結論を一言で言えば、日本の建国者は華僑であり、日本人は文化的には華僑の子孫である。これはアジアのどの国でもそうで、別に驚ろくには当たらない。そして「魏志倭人伝」は、まさにその前夜の情勢を伝えてくれる、えがたい史料なのである。」(pp.55-56.)

日本は渡来中国人によってつくられたと言わんばかりの日本建国理論は日本人に「気にいるような話」になっているかどうか。「気に食わない」と思う人が多いだろう。しかし、古代DNA学の研究から、古墳時代に関西などに顕著な「黄河流域を起源とする東アジア人の大規模流入」があったという不思議な事象(図1参照)の背景を、歴史学の立場からこれほど明晰に示した論考を私は知らない。徹底した文献史学は徹底したDNA学とも通ずるのか。DNA学の冷徹なデータの背景にどのような人間社会の動きがあったのか、数十年も前に岡田が明晰に語ってくれていたように思う。

図1 縄文人度合い地図

各都府県別の縄文人度合い。出典:東京大学大学院理学系研究科「プレスリリース:縄文人と渡来人の混血史から日本列島人の地域的多様性の起源を探る」2023年2月21日

黄河流域の東アジア系の人々が直接か、あるいは朝鮮半島での一定の居住を経てか、古墳時代に大量に日本に押し寄せた。彼らは現在の中国語に見られるような「四声」の声調に類似したアクセントを持っていた可能性が高い。一部は漢字も列島にもたらしただろう。圧倒的に優勢な異言語の流入で、日本語には大きな混乱が生まれた。このあたりはヨーロッパ言語が植民地主義により第三世界に進出し、その地にピジンやクレオールの混合言語を生み出した状況と似ている。声調や漢字文化にどう対応するか、当時の日本語は大いに混乱し、苦闘したはずだ。

濊倭祖語:日本語は韓半島から来た

以上の文献歴史学からの古代国家形成理論を、言語学の立場から具体的に肉付けする意欲的研究が最近出ている。伊藤英人の「大陸倭語」論だ。紀元前11世紀までに韓半島の北部から東部に到達した濊(わい)語話者集団(濊人)が実は日本語の祖語となる「濊倭語」を話し、長い歴史的過程を通じて韓半島の濊語は韓語に吸収され消滅したが、列島に渡った濊倭語集団、つまり倭人たちが今日の日本語に至る言語形成にかかわったとする。その韓半島にあった祖語、濊倭語を伊藤は「大陸倭語」と呼称した。

濊(わい)人は3世紀末成立の『三国志』(正史)にも出てくる古代民族で、韓半島周辺で活動する海民的な「東夷」だった。成立年代のさらに古い『逸周書』にも、紀元前1023年に殷周革命(殷から周へ政権が交代した易姓革命)を祝して、濊人がオットセイかアザラシの皮をもって周の都に来たという記録があるという。伊藤によると、彼らは中国沿海部出身で、漢字の導入も早く、日本列島で「卑弥呼」など差別的な漢字をありがたく頂戴していた頃、差別的な「濊貊」呼称を「東濊」に改めさせるなど、文化的先進性も認められるという。詳しくは、例えば次のように言う。

「BC11世紀から統一新羅時代にかけて、朝鮮半島において、韓語話者集団とともに、濊語話者集団の活動が確認される。濊人は中国沿海から東渡した海民・内陸水系民として漁撈、狩猟の加工品の中国市場への流通に関わる一方、水田農民として、鴨緑江以北から朝鮮半島最南端に至る全域で活動していた。BC1世紀には、楽浪郡の現地語話者である韓語、濊語話者の中には、漢字と中国語を非母語として習得する者が現れ、3世紀から4世紀初頭の魏晋代には、江原道の濊人は、「濊貊」を「東濊」と改めるほどに漢字文化と華夷意識を内面化していた。3世紀の同時代資料である『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝」「韓条」には、京畿道利川、全羅北道高敞に濊語地名が確認され、414年の「広開土王碑文」にも、ソウル以南の西海岸に韓濊混住地域の存在した記載がある。羅道南部の馬韓残余勢力圏及び伽耶地域の濊人はその海民的性格により、朝鮮半島諸国と倭国内の諸勢力を結びつける海上交通に深く関与した。朝鮮半島の鉄資源確保が倭国内での王権維持に死活的に重要であったため、倭国勢力と朝鮮半島の濊人は7世紀後半に至るまで、通訳を介さず相互に頻繁に往来した。」(伊藤英人「朝鮮半島における言語接触と大陸倭語」『日本言語学会第163回大会論文集』2021年、p.355)

「6~8世紀濊語と古代日本語が何らかの系統的関係にある可能性が考えられることから、筆者は「濊倭祖語-大陸濊倭語(濊語派)-8世紀濊語ー10世紀頃消滅」「濊倭祖語-列島濊倭語(倭語派)-日本語・琉球語・八丈語(?)」の系統的分岐を措定する。出土資料及び『日本書紀』地名の「牟羅」、『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝韓条」地名の「牟盧」、及び出土資料の「斯麻」の分布から見て、濊語は慶尚道、全羅道を含む朝鮮半島全域で3世紀以来韓語と共に話されていたと考えられる。*sima>>*sjɛmaの変化から見て、濊語派は6世紀までにbreakingof*iを経験し、倭語派はそれを知らない時期に分岐したと考えられる。濊倭語族は朝鮮半島において韓語の影響により韓語化を経験したと考えられ、一方、現代に残る慶尚道方言、江原道三陟・江陵・寧越方言の「声調」等は日本海側に優勢であった濊語の影響による「地域特徴」であると考えられる。濊語は遅くとも殷代までに朝鮮半島に東渡し、韓語話者集団と接触する中で、濊倭語の韓語化が生じ、その後、BC900~~700年頃に水田農耕を携えて日本列島に渡った倭語派集団が列島に拡散したものと考えられる。濊倭語集団の朝鮮半島から日本列島への渡来は累次に及び、3世紀までには九州、四国、本州西部は列島濊倭語すなわち倭語がコイネーとなる広大な地域になっていたと考えられる。歴史時代以降も、特に伽耶、馬韓残余勢力圏の濊語話者と列島の倭語話者は7世紀世紀後半まで頻繁に行き来し、これにより両言語間のmutualintelligibilityも一定程度保たれたものと考えられる。倭王権が常に海民(濊人)による朝鮮半島資源確保を最優先してきたことと関連すると思われる。」(pp.358-359)

濊人と大陸倭語

古代の朝鮮半島は、半島世界の常として大陸から寄せ集まった多民族・多文化地域で、多様な言語集団が居た。濊人はその一つだった。しかし、それより優勢な韓語話者も居て、濊人は彼らと混住もしていたが、主に水田不適で生産性の低い半島東部に追いやられていた。他に百済王族語、高句麗王族語なども濊語に近いものだった可能性があるという。

そしてこうした言語接触の中で、濊語は早くから韓語の影響を強く受け、そうした言語を伴って濊人たちが日本列島に渡り、日本語の基礎をつくったとする。次が結論だ。

「紀元前900年ごろ、それまで数百年にわたる韓国語との言語接触を通して、文法的に韓国語化した濊語の話者たちが、朝鮮半島南部での水田適地の不足から、文法的に韓国語化したその言語及び水田農耕と共に、九州に渡り、その後の日本列島に、人口増加や言語同化と共に拡散して成立したのが、日本語であった、と考えられます。」「文法だけ優勢言語に影響されて、語順や助詞の使用が変化し、単語は本来のものを残すなどということがあるのかと思われるかも知れませんが、そうしたことは世界中で見られます。スリランカに連れてこられたマレー人は、300年ほどの間に、単語は元のマレー語のまま、前置詞を名詞の後に置く助詞に変え、順まで完全にタミル語化してしまいました。中国青海省に住む五屯人の言語は、単語は中国語のまま、語順は完全にチベット語化して声調も失ってしまいました。」(p.78)

なかなかチャレンジングな論だ。日本語は文法的には韓国語と同じようなテニオハのあるアルタイ語系だが、そうした性格を韓半島の濊人の段階で韓人との混交で獲得したと言っている。濊語はもともとは中国語的な声調をもった孤立語系だったが、それを言語接触の中でアルタイ系の膠着語に変えた。変えてから列島に渡ってきた、としている。おそらく、南方からのオーストロネシア系の人々も韓半島に来ていて、濊人は彼らとも交わっていただろう。日本人はアルタイ系(大陸系)とオーストロネシア系(南方系、縄文人?)との混血だ、などとも言われるが、その混血は韓半島で起こっていた。おそらく半島にも居ただろう縄文人と弥生人の混血も韓半島で起こった。もちろん、濊人(弥生人)が列島に来てからも起こっただろう。

半島も列島も同じようなものだ。ともに南海域に開かれた東アジアの島しょ・沿海地域だ。2000年後のこの地域住民が、韓国人だ、日本人だともめているが、そんなことどうでもいい。古代のアジアの海域は極めてダイナミックだった。そこをまたにかけて活動した古代人たちの息吹の中に私たちの原郷をたどろう。

中国語ピジン

例えば、日本人が「準備完了。発射。」のように言ったとしよう。そこにはもはやテニオハもなければ、五段活用、サ行変格活用など動詞活用形もない。むろんボキャブラリーも漢語だ。すでに日本語でなく、中国語になったと言ってよい。確かに発音は違う。しかし、それは単に「訛り」だ。「準備」は現中国語(北京語)で何というのか知らないが、漢字を音読みしている限り、何等かに原音と近い。つまり音読みとは中国語側から見れば中国語の単なる訛りだ。こうして福建語、広東語、その他中国語の方言が生まれた。強大な文化的支配力をもつ漢語と漢字は、周辺諸民族を圧倒し、その言葉との間にピジン語をつくり、やがてクレオール的な中国語方言に変えていった。中国大陸のほとんどの異民族の言語がこうして漢語方言になった。海を隔てた日本ではこの過程は中途までしか進まず、辛うじて日本語と言う別言語の体裁が保たれた。

日本語があらゆる場面で「準備完了。発射。」のように言うようになれば、日本語の中国語方言化は完了する。「本日晴天。気温二十度。」「富士登山、東京旅行計画中。」などなど。「じゅんびかんりょう。はっしゃ。」と言えば、「夷狄が訛った中国語で話しているな」と中国語側では理解してくれる。