中央アジアを徘徊中

現在、中央アジアを徘徊中だ。

高齢者は、近くの公園や川の堤防や、せいぜい夜の住宅まわりの徘徊に留めておくべきなのに(実際、私もふだんはそうしているだけだが)、中央アジアまで来て徘徊している。勝手知れぬ異国で、しかもこの40度前後の熱暑の中で、頭もぼーとしてまさに徘徊だ。

ひたすら涼しい方向に移動

私の旅は、時々一カ所に長逗留して、勉強したり見聞したことを考えたり書いたりする旅なのだが、そうする余裕がない。ただひたすら、少しでも涼しいところを目指して移動している。移動しているので旅のように見えるが、徘徊になってしまっている。

タシケント、シムケントは猛暑だった。北へ、ということで干上がったアラル海の元港町アラルに行ったり、アジア最北の首都アスタナに行ったが、やっぱり暑い。アラルは樺太南部、アスタナは樺太北部と同緯度で、確かにタシケントの44度などに比べれば心持ち穏やかだが、それでも直射日光の中を歩くと頭がくらくらする。乾いた白い地面(砂)からの照り返しが意外とばかにならない。アスタナでおそらく昼間30度程度までに下がったと思うが、比較的涼しいところでは今度は部屋に冷房がなかったりする。私の入った800円のホステルはそういう宿だった。空気が乾いてしのぎやすい、30度くらい日陰でがまんせい、ということなのだ。

列車での移動もばかにならない

列車での移動というのも油断できない。エアコンの効いた新型車両もあるが、私が乗るような地方列車はないことも。窓から入ってくる風頼りだが、寝台列車が主体の中央アジアでは、席に風も充分来ない。

水は必須だ。しかし水ばかりがぶ飲みしていると胃腸がやられる。おなかがゆるくなって出るものが出てくる。カザフの草原に垂れ流しだ、爽快な旅だ!と豪語する。そう、古い車両では、排泄物を線路に垂れ流す方式だ。旅に出ると便秘になるのが常だが、今回は調子がいい。それにしても列車乗務員は大変だ。駅に停車するたびに(長い場合がある)、トイレのカギを締めてまわる。2,3等列車でも各車両ごとに乗務員が居て、そんなにやることがあるのかと思っていたが、この鍵の開け閉めだけでも大変な作業だろう。

水より、白湯(さゆ)を飲んだ方がいいと分かった。幸い列車には、古い車両でも、熱湯を出す装置が必ずついている。この熱湯を冷まして飲む。カップが必須旅用品、とわかった。最初はペットボトルしか持っておらず、これに熱湯を注ぐとグニャリと変形した。どうしたものか。客室乗務員がカップを貸してくれるぞ、と相部屋乗客が教えてくれた。乗務員室で、手まねでカップを要求すると、最初外国人を珍しがっていたが、すぐ理解して棚からコップを取り出した。うーむ、やはり列車乗務員というのはいろいろ役にたっている。(清潔なシーツをくばったりもしている。)

北がだめなら高いところに

北に行ってもだめなら、今度は高いところへ、とアルマトイから山国キルギスに上がってきた。首都ビシュケクではだめだ。標高800mはまだ暑い。30度台後半。さらに山を上ってタラス(1300m)まで来た。かつての世界史天下分け目の戦い、アラブと唐の「タラス河畔の戦い」(751年)があった地。最高で30度台前半。風もある。やっと息がつけるようになってきたか。しかし最初に入った安宿はエアコンがなく、しかも寒冷地であるゆえの「家のつくりは冬を旨とすべし」。日当たりのよい2階の部屋は全方向から暖められ、しかも熱持ちがよく夜になっても涼しくならない。熱せられない建築の宿、できればエアコンのある宿、を必死に探し、今ようやく2週間ぶりに机に向かうことができている。

何しろ徘徊してきた。何を感じ、何を考えてきたか、それを覚えているか定かでない。いろんな街を徘徊はしてはきたので、ある程度印象は残っているが、例えばあの街の風景はタシケントだったかアルマトイだったか、記憶がもうろうとしている。汽車賃がいくらで各都市でバス賃はどう払ったか、乗り合いミニバス(マシュルートカ)にはどう乗ればいいのか、そしてどこからどこまでいくらだったか、覚えているか。同じく安旅を目指す人々への情報提供という責務が果たせるか。

が、落ち着いて机に向かるのはうれしい。7月25日。これからこのかんの旅の報告を書く。ブログというのは日付を後で指定できる。私は、旅行記の場合、後から書いたものを、そこに居たときの日付にして出すのが普通だ。この記事以前2週間程度の記録が載っているとすれば、このタラスでのブログ書きがある程度できた、という証拠だ。

冷却効果の高いある化学物質を使っている

私は熱暑の中を旅するため、気化熱の非常に大きいとある化学物質を使っている。二水化酸素H2Oだ。この化学物質は、店などでもペットボトル入りで売っているが、宿の蛇口からも出るし、公園の噴水や小川などにも大量にある。これをTシャツに塗りたくる。必ずしも飲むわけではないので、トイレの蛇口で得たのをあてがってももよい。普段から猛暑の中でスポーツするとき、この化学物質活用方式をとる。あるときはこの物質にTシャツを沈めて徹底的に濡らす。あるときは、手の平で汲み肩・胸にかける。時間がなければ、手を洗った後、着ているTシャツで手拭きするだけでも効果がある。

要するに衣類を水で濡らして動き回るということだ。水冷式。どうせ汗だくになるのだ。最初から水で濡らしておけばば同じ効果、いや水分をいちいち体内に入れて汗にするり、最初から体表にあてがっておけば体への負担が少ないだろう。

乾燥したこの地では、びしょ濡れTシャツでも、1時間も外を歩くと乾く。それだけ私の体から熱を奪ってくれるということだろう。洗濯も簡単だ。部屋の中に干しても数時間で乾く。半乾きなら、待ってました、そのまま着て街を歩けば30分でからからに。

冷房のないマシュルートカ(乗り合いミニバス)に乗る際、むろん水を持参するが、飲むためというより衣類にかけるためだったりする。トイレ休憩の少ないバス旅は、水を飲みすぎると危い。Tシャツにふりかけながら車内で辛抱する。もちろん、宿の中でも冷房がないところでは濡らしたTシャツで仕事をする。

決して勧めません。慣れない人がやったら体をこわすかも知れません。

喜多郎とNHK取材班にやられてしまった

なぜ中央アジアに来たかって? 旅の原点だったからです。1980年代に放映されたNHK特集「シルクロード」。東洋と西洋を結ぶユーラシア大陸の道、様々な民族と文化が触れあう大地。興亡が繰り返された悠久の歴史。それにすっかりはまってしまったことが、私の旅人生の原点にあったように思う。その原点を考え直しに来たのか。

中国の西域は、かつて西安から敦煌、ハミ、トフファン、ウルムチを越えて、タクラマカン砂漠の彼方、カシュガルまで行った。中央アジアもウズベキスタンやカザフスタンを部分的にまわった。西からは、バルカン半島、トルコ、コーカサス地方をジョージアまで来た。そのままずっと東進しようとしたら、コロナ禍の中、アゼルバイジャンは陸路での外国人入国を認めておらず、引き返す他なかった(現在でも航空機での入国しか認めていない)。

だからその続きを、ということで今回アゼルバイジャンに向けて旅立ったのだが、前述事情でウズベキスタンのタシケントに降り立ってしまった。中央アジアはシルクロードのまんなかで、いろんなルートに分かれている。単線でなく、ぐるぐるめぐるのもいいだろうと徘徊中。

「シルクロードは日本人のDNAに刻み込まれている!」
とかつて友人の言った言葉を思い出している。確かに、その通りだ。アフリカを出て極東の離れ島にやってくるまで、全日本人の体内にシルクロードの記憶が残っているはずだ。私たちがシルクロードに求めるのは多様な民族の織り成した悠久の歴史、何かここの小さな日常ではない永遠の時空への希求、そんなものの代名詞だった。おそらくそれは喜多郎のあの永遠を感じさせる音楽とNHK取材班の見事な編集芸術性が作りだしたものだろう。やられた。が、そこに見た永遠は永遠だ。シルクロードの実際とは別に、とうといもののを私たちは見ていた。

百均ロード、ソ連型都市

現実のシルクロードは例えば中国百均ロードだ。かつてシルクが、しかし今は中国製の安い日用雑貨が、この道を伝ってユーラシア中に拡散する。中央アジアのバザーに置かれたおもちゃから化粧品から台所用品からの各種プラスチックを見よ。

そしてシルクロードの街々で立ちはだかるのは何よりもまずだだっぴろいソ連型都市開発だ。道路がだだっぴろいし、建物も無駄に大きい。巨大な銅像はレーニンやスターリンから民族の英雄たちに変わったが、これも大きい。すべてが遠く、歩くのが大変だ。そうでなくても大変なのにこの猛暑の中だ。アメリカの都市は日本の2倍だだっぴろいが、ソ連型都市はそのまた1.5倍だだっぴろい(あくまで個人の印象です)。空間に余裕があり、緑の公園が多いのはいいのだが、程度問題だ。少なくともWalkable City(歩ける街)ではない。歩いて人々が密に交われる世界ではない。歩くのが好きな私でも歩きたくなくなる。商店街や人々の暮らしが目に入る活気ある街ではなく、巨大な建築物や広い道路が無機質にずっと先まで続く。結果、人々は自家用車やバスや相乗りタクシーを多用するようになってしまった。どこに行くにも車を停めて乗る。広い道路を排気ガスをまき散らして行く。そうした「乗り合い」空間に新たなコミュニティができているような感じもあるにはあるが…。

大都市はもちろんだが、タラスのような小都市でも同じだ。人口3万の、村といっていいこの町の市街地が幅5~6キロに広がっている。中心部の市場(バザー)付近に愛すべき人間の街ができたのはやはり民衆の勝利だが、そこまで人は皆車で行くのではないか。買い出しの帰りだったらなおさら物を持って歩けない。人口3万の村に、こんな巨大な銅像や威風堂々たる政府建物や広場は必要か。巨大すぎるインフラは維持管理コストが住民の負担レベルを超え、荒れるにまかされる。広い道路も真ん中2車線しか舗装されず、広大な歩道はでこぼこ砂利道で歩けない。

タラス川が遠い

古戦場タラス川が近くを流れている。そこまで行こうと歩き始めたら、やはり4~5キロ回らねばならない。タラスを流れるタラス川に往復10キロも歩いて行くのか。このソ連型都市計画は水辺の空間活用は想定外で、川は近いのにそこへのアクセス路がほとんどない。川べりは深い茂み覆われて入れず、そこと完全に切れた無機質な市街が広がる。乾燥地域の住民は、緑の生い茂る川べりには恐れをもつのか。いややはりソ連型都市計画だろう。

以上、徘徊中の老人のたわごとだ。まとまらないことを書いてしまった。しかし、何か書いておかないと、本当に、徘徊しているのかと心配する向きもあるので、書いておきます。