蝦夷から見た日本史 ー 高橋富雄の東北史学

(序)高橋富雄の東北学について

学校で習った日本史をそのまま信じていた。さすがに神話的な建国史を受け入れたわけではないが、「ヤマトに始まり、飛鳥・奈良・京都とうけつがれて確立し、その支配・影響が四方に及ぼされて完成したとする基本の史観」(高橋富雄編『東北古代史の研究』吉川弘文館、1986年、p.6)をそのまま受け入れていた。蝦夷やアイヌの存在は脇に置かれていたし、古代国家が北に拡張していく際の蝦夷(先住日本人)の抵抗、北上川河畔胆沢付近でのアテルイ他の戦い(38年戦争、774~802年)、「蝦夷討伐」後も続いた平将門の乱(935~940年)、前9年の役(1051~1062年)、後3年の役(1083~1987年)」などの蝦夷子孫たち反乱、さらにはその系統を受け継ぐ藤原平泉政権(1090年代末~1189年)の意味、全国での武士台頭の背景、それらの意味をとらえ返し、「もう一つの日本史」を望む視点などまるでなかった。日本史をそのまま受け入れ、別の可能性は国外に求め、外国を旅し、居住し、そこから日本を見ようとした。

しかし、その間に「東北」の歴史学で大きな転換が起こっていた。不勉強だったのを認めないわけにはいかない。東北史家・高橋富雄(1921~2013年)などの著作を最近読むようになり、その感を深くした。彼らの東北史は、日本史の一部分を若干詳細にしたようなものではない。東北と、そこで「征伐」された蝦夷に立場を置くことにより、日本史を根本からひっくり返す歴史観を生み出している。

東北史観の概観

高橋理論は、ヤマト国家が東国に拡がる過程をつぶさに追い、その最終的な辺境の位置に立つことになった東北から、「日本史」の見方を根底からくつがえす。大化の改新(645年)以後、特に大宝律令(701年)で明確な令国制が敷かれる以前には、広大な辺境はばくぜんと意識され、多様な言葉で呼ばれていた。辺境を「ひなかみ」(鄙上、ひなのあたり)と呼び、東国を天の端、つまり天端(あまつま)として「あずま」と呼ぶ。ひなかみは「日高見」であり、あずまの先の日高見道(ひなかみち)が常陸(ひたち)となり、その先がさらに常陸道奥として「みちのく」、陸奥となり、その先のさらなるひなかみが日高見転じて「日の本」となり、蝦夷反乱の拠点、伊治(いじ)から「エゾ」の言葉が生まれ、後にアイヌの地を指すことになった。そして「化外」の辺境に住む異人(けひと)は毛人とも書かれ、夷(えびす)、蝦夷(えみし)、エゾとさげすまれた。ひなかみから飛騨国、信濃国が生まれ、毛人の国から「毛野国」が生まれ、あずまが関東になり、あずまの先の鄙(ひな)に信太郡(現茨城県南部)がおかれ、そのひなかみの地が常陸国となった。最終的には北上川流域に腰を据えるひなかみ、日高見は、8世紀にかけて大規模な蝦夷抵抗の舞台となり、ヤマトの東征は一応その辺で停止を余儀なくされる。陸奥国の先はえぞと呼ばれ、「化外の地」であることが長く続く。しかしその地はひなかみとして「日の本」とも呼ばれ、その名をヤマトが新国名に「奪った」という7世紀の遣唐使の報告が『唐誌』に記録されている。高橋は、このヤマトの辺境史、そして日本国家のタブーとも言える成立史を、多くの文献にあたりながら克明に記録していく。

旧北上川は石巻市付近で仙台湾に流れ込む。江戸期以降の河川改修で、この上流で新北上川が分流し、三陸海岸側にもが流れ出る形になっている。Photo: 石巻敎祖、Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
岩手県南部、北上市付近の北上川。Photo: 663highland, Wikimedia Commons, CC BY 2.5.
坂上田村麻呂が築いた胆沢城跡(岩手県南部、現奥州市水沢)。この地で英雄アテルイに率いられた蝦夷軍がヤマト軍と戦った。蝦夷はヤマトを大敗させたこともあったが、802年に降伏、アテルイらは処刑された。胆沢城はその後、10世紀半ばまで陸奥国の鎮守府(東北の蝦夷を軍事的に鎮圧・統治する役所)として蝦夷征伐の最前線に立った。

高橋の著述は、壮大な歴史観だが、それを単刀直入に展開するたぐいのものでなく、専門的な歴史家として、多くの文献に当たり、客観的な解釈を加え、可能な異論も丁寧に検討した上で結論を出す、という緻密さを貫く。だから説得性があり、衝撃的な歴史観を出しながら、決して(日高見国論でありがちな)トンデモ議論に陥らない。しかし、だから時間をかけて読まないと、主張の本筋が何なのか、よくわからなくなる面もある。まずは、彼の論理を緻密に忍耐強く追っていかないといけない。以下、主に『古代蝦夷を考える』(吉川弘文館、1991年)に沿い、彼の論理を追ってみよう。書名なし引用ページは同書のものとする。

蝦夷と日高見の歴史

奈良盆地のエミシ

蝦夷(えみし)という言葉が最初に日本の文献に現れるのは、『日本書紀』(720年頃成立)の中だ。神武の東征時に大和盆地で成敗した現地勢力が「愛瀰詩」(えみし)として出てくる。少なくとも言葉としては、東国どころか、大和盆地域の先住民も「エミシ」と呼ばれていたことがわかる。エミシはこれ以後も、ヤマトの東方拡大につれ、徐々に東進しながらその支配の枠外にある人々を指す言葉として使われていった。

飛鳥の地から奈良盆地を望む。明日香村の甘樫丘から大和三山に囲まれた藤原京の地が目前に。遠方には奈良盆地北西の生駒山系。

同じく『日本書紀』の景行二十七条にも、「東夷の中、日高見国あり。その国人、(中略)是をすべて蝦夷という」という記述が出てくる(景行天皇が実在したとすれば、4世紀後半と推定される)。こちらには「日高見国」も顔を出している。

外国に残る記録では、中国南朝・宋の順帝、昇明2年(478年)に倭王武が中国南朝の同皇帝に送った「倭王武の上表文」中に「毛人」が出てくる。これもエミシと読まれていたとされる。「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。」

「愛瀰詩」は、字を見る限り、侮蔑的ではなさそうだ。えみしは「弓人」とも書かれ、これも勇者の意で、実際、飛鳥時代に権勢をふるった蘇我蝦夷(当時は弓人)など名前にも多く用いられている。しかしこれが後に「蝦夷」(エビのように歩く夷人)と書かれるようになり、ヤマト王権に抵抗する化外の蛮夷を意味するようになった。域外の蛮人は「異人」(けひと)とも言われたが、これに「毛人」の漢字があてられ、そしてこの毛人の国が、毛国(けのくに)=毛野国(現群馬県域)になっている。

鄙(ひな)の国、飛騨、信濃

関東の前に、まず、ヤマトに近い現在の中部地域から語らねばならない。東山道を行くと飛騨国に入るが、「飛騨」は鄙(ひな)、つまり辺鄙な土地、辺境を意味する語から来ているという。11世紀頃編纂された法典集『類聚三代格』によると、承和元年(834年)の太政官府には、逃亡した飛騨工(たくみ)たちを追補させる通達に「其の飛騨の民は、言語・容貌、すでに他国人に異なる」とする記述がある。すでにその地の人々が「異俗の民」と見られていた(p.21)。大和国にも小異国とも言える異族集団の村があったが、飛騨は国単位で異族集団扱いされた。

701年の大宝律令により正式な令制国が成立するが、それまでも地方の豪族がその「国」の国造(くにのみやつこ、こくぞう)に任じられており、令制国名もそれ以前からその地方の名称として使われていたものが多い。飛騨地方も少なくとも4世紀頃には「斐陀」として名前が出てくる。(大化の改新以前の全国の国造を列挙した『国造本記』(9世紀成立)に、成務朝に瀛津世襲命の子の大八椅命が斐陀国造に任じられたという記述がある。成務天皇が実在したとして、4世紀頃と推定される。)

飛騨の東隣が信濃国だが、これもやはり辺境を意味する「鄙野」(ひなの)から来ている。「し」と「ひ」が通音、つまり音韻が似ている。そのさらに東、碓井峠(碓日峯)を越えたところが「山東」で(箱根の足柄峠を越えてくれば坂の東、つまり「坂東」となる)、いわゆる関八州、現在の関東地方だ。山東、坂東は、「あずまの国」として当初は一国として扱われたという(p.21)。

なお、古代には、ヤマトを防護する関所として、三重県の鈴鹿関(すずかのせき)、岐阜県の不破関(ふわのせき)、福井県の愛発関(あらちのせき)の「三関」があり、これより東側が「関東」だった。鎌倉時代に関東は東進し、鎌倉幕府の影響力が大きい遠江、信濃などの東を指すようになった。江戸に徳川幕府が成立すると、箱根関・小仏関・碓氷関から東の坂東8か国が「関東」とされた。

一方、坂東の語は古代からあり、あずまは「東」の意で、現関東地域を代表的な東国ととらえた用語だが、これも、鎌倉時代は鎌倉を、江戸時代には江戸をあずまと呼ぶなどやはり歴史的な変遷があった。古代でも『万葉集』(759年頃成立)の東歌(あずまうた)などは現代の静岡県域あたりのものもあり、その定義が厳密だったわけではない。

高橋によると、この「あずま」「あづま」の語源は天端(あまつま)だった(pp.10-12)。天の端、へりという意味で、単に方向としての東でなく、辺境、「地のはてにあるひな」のことだった。ここでも高橋は『万葉集』や『詩経』を引用し、周到な論証を行なっているが、むろんここではそういうものは省略して話を進めている。

飛鳥・奈良の時代、王権の成長しつつあった大和盆地の人々にとって、東国は想像もつかない茫漠たる辺境の地だったろう。それを指す言葉があいまいだったのは致し方ない。大化の改新(635年)後につくられた三関(現三重県の鈴鹿関、現岐阜県の不破関、原福井県の愛発関)以東がすべて「関東」と呼ばれ、「東国」は広く現中部地方以東を指し、東山道沿いには、辺境の鄙(ひな)の地として、飛騨国、次いで信濃国などが現れ、さらに天の端たるあまつま、つまり「あずま」という関東の地が視野に入った、というわけだ。

毛人の住む毛野国

ヤマトの治世が及ばぬ「化外」の地には、まつろわぬ人々、荒ぶる者が住み、彼らは異人(けひと)と呼ばれた。現関東が「化外」であった頃、そこに住んでいたケヒトは毛人とも書かれ、そこから毛野の地名が起こった。令国制の中では、毛野国(後に上野国、下野国)などがつくられた。基本的には辺境の地については「あずま」、人については「毛人」が用いられた。つまり「あずまは地の辺鄙についていい、毛人国はヒトの化外の異種についていうのである」(p.35)

しかし、あずまの毛人の国は強大だった。4世紀から5世紀にかけて、毛野国に巨大な古墳が多数築造されていることからも考古学的にそれは立証される。学界でも「古代毛野国を別格の半独立王国のように考える学説が支配的で」、その「王国的独立性を認めるのは、学界の定説といってよい」(p.37)という。

毛野国がヤマト圏内に組み入れられるにつれ、「毛人」の意味も変わる。毛人はもともと差別的な辺境の民、つまり「蝦夷の古表記」だったが、大化の頃(7世紀中頃)から、あずまのさらに先の蛮夷が問題になるにつれて、それを新たに蝦夷と呼び、毛人はその討伐に同盟する勇者の意味を強めていく(p.34)。ヤマト王権の拡大につれて辺境(鄙)が次々と東に移り、野蛮な地域が内国扱いになるとともに、その先に新しい「鄙」が認識される、というプロセスが一貫して進行した。

中部の深い山を経て、東山道が碓氷峠を超えると、毛野の国の広大な平野が広がっていた。古代毛野国は半独立的な強大な王国だったという。利根川につくられた平野(写真)の向こうに赤城山が見える。
群馬県太田市の太田天神山古墳(墳長210m)は東国最大の古墳だ。

ユミシからエミシ

さて、ようやくここで蝦夷論の根幹に来る。北方の蛮族「エミシ」の語源について一般には、アイヌ語の人を意味するエンジュ、またはエンチウから来るというアイヌ語説と、武人の意味で弓人(ユミシ)と呼んだものの転訛だという二説がある。高橋は基本的には後者をとり、5世紀末から6世紀初頭に、蛮族の意の「毛人」にケヒトでなくユミシという訓をあてるようになったとする。ユミシ自体の語源は、蛮族を意味するもう一つの語「夷」を分解して「弓大=弓人」(ユミシ)が得られるからだ。毛野国はもはやヤマトの力強い同盟者になった。毛人はもはや野蛮ではなく、勇敢な武人の意味でユミシと読まれるようになったとする。つまり、

「このあずまひなびとたちの経営がすすむにつれて、さらにその奥に、これまでの異人以上により異なる人たちが知られるようになって、この人たちを、殊俗[訳注:外的な異俗]よりにではなしに風俗[内的な異俗]内のひなびととしてとらえ、位置づけるようにすすんでくる。毛人がけひとからゆみし=えみしと訓まれるようになるのは、この段階だったと思われるのである。」(p.59)「単なる毛人国の安定だけでなく、新たなる脅威がその先ないしその奥に意識されて、従来、荒敵として異人(けひと)だったところの毛人を、辺防の友軍としての異人としてとらえ直さねばならない新しい段階にさしかかってきていた事実が考え合わされなければならないだろう。それは、外からの脅威としての辺境の、外への備えとしての辺境への転換に対応するものでもなければならない。」(p.63)

高橋の議論は複雑で、この時代ではまだ毛人、弓人が「ユミシ」「エミシ」と呼ばれ、その先の蛮夷を「蝦夷」というがこれは「エビス」と読まれたとする。美称となった毛人(エミシ)と蛮人たる蝦夷(エビス)は、「毛人から蝦夷への交替期であるために両者がオーバーラップするところもなくはないが」、はっきり区別されるべきものであったと言う。「毛人をエビスと訓み、蝦夷をエミシと訓じたりするのは、その区別があいまいになったり、必要がなくなった平安中期以降のことである」とする(p.65)。(以降でも、高橋は主にエビスの語を使っていくのだが、本記事ではあまりこだわらず蝦夷(エミシ)を多用していく。)

常陸にはじまる日高見国

そしてここで日高見国の登場だ。毛人たちの国のさらなる先の異人たちの国が「日高見国」と観念された。これをまともに学問の対象にしてこなかったのが、日本の歴史学の根本的な欠陥だったとする。

「蝦夷研究が、これまで科学としての深まりを持ちえなかった理由はいくつかあるとおもうが、その中の基本になるものの一つに日高見(ひたかみ)国の研究をおろそかにしてきたことがあげられる。実証を重んじ、文献を金科玉条とする人たちも、事この問題になると、進歩的な批判史学者に同調して、これを全くの神話的伝承記事とみなして、まともな学問を成立せしめようとしなかった。」(p.66)

日高見国の語が文献の中で最初に登場するのは、『日本書紀』(720年頃成立)の景行二十七条だ(景行天皇が実在したとすれば、4世紀後半と推定)。「東夷の中、日高見国あり。その国人、(中略)是をすべて蝦夷という」とある。また、同時期に成立した『常陸国風土記』によると、大化後の孝徳天皇白雉4年(653年)に「筑波・茨城の郡の七百戸を分かちて信太郡を置く、此の地は、本、日高見国なり」との記述がある。

日高見国は、一般には、日が高く上がってくる東の方向にある国、という美称だとされてきた。しかし高橋は、これを具体的歴史的な地名としても考えなければならないと言う。日高見はひなかみ(鄙上)であり、ひなのほとり、つまり辺境の地を指す言葉だったとする。確かに、飛騨、日田、信太など全国に日高見から出たと思われる地名があり、漠然と東方を指してはいたが、まつろわぬ者たちが住む化外の地を指したという視点が必要だとする。特に、あずまのさらに東、常陸や陸奥が蝦夷の国として認識されてきた時点でこの言葉は歴史的具体性をもったと高橋は考える。

常陸の地は、大化前代にはあずまの国(足柄坂以東の坂東)に含まれておらず、「広義の道奥とともに、あずまの外ないし奥」だったとする(p.83)。『常陸国風土記』が「信太郡を置く、此の地は、本、日高見国なり」と記したが、信太郡は現茨城県南部の稲敷郡付近にあたる。信太(した)は「ひな」から来ており、まさにあずまの辺境だった。そこは鄙上(ひなかみ)であり、日高見と呼ばれていた。それより北の鄙道(ひなち)はやがて常陸(ひたち)国ともなっていく。「なぜ、常陸国の国号ができたかというそのいわれも、その範囲が日高見国であったから、その制度日高見国への再編としてひたかみち=ひたちの国の号にもなりえた」(p.84)ということだ。下記のようにもまとめている。

「信太郡が本日高見国と呼ばれたのは、ここが日高見本国である意味の汎称である。のちに信太の名で称される地点だけそうだったというのではない。日高見とはもともと辺境フロンティアの意味である。限りなく奥へ奥へとひろがる荒野の汎称として、開拓と荒野の接点としてのフロントを移動させながら、新開地としてのまとまりをつくり出しつつあるひなほとりの国だったのである。」(p.100)

常陸国の中央部を流れる那珂川。河口部にかかる海門橋から上流を見る。右手の那珂川を少し行くと水戸。左手、涸沼川を行くと、陸路を経て霞が浦方面に出る。

日高見国の北上

常陸がヤマト統治下に組み込まれば、辺境はさらにその北に押し上げられる。「ここにきて、常陸日高見は制度上の存在になったために、本来の荒俗ないし辺境としての日高見国は、常陸国と画された石城国[訳注:現福島県太平洋岸地域]以北の地に限定された呼称になっていく」(p.84)。つまり、今度は道奥(みちのく)、陸奥地域が日高見国になっていく。これは太平洋岸(浜通り)だけでなく、白河方面(中通り)、会津ルートに向かっても起こるプロセスだった。

「毛野川=鬼怒川をさかのぼり、大川―阿賀川に出て、常陸は、会津をも常陸道奥に歴史化していった。那珂川は那須国を常陸系に色分けして、白河口をも、常陸道奥の関門に編成していた。久慈川はその白河の中の東半分を、全く常陸道の奥入りルートにしてしまっていた。…わたくしはこうして、陸奥国の第一次成立は常陸道奥国としての形成だったとする。それは常陸国の本日高見国としての伝統をうけての第二日高見国としての形成を意味したのであった。」(p.88)

常陸からみにのくへのルートの一つとなる那珂川。栃木県那珂川町久那瀬付近の中流部。この辺には3世紀からの前方後方墳が多く那須国の中枢部だった。那珂川は最上流部で福島県に接する。

蛮夷は住むが、土地は美しい

高橋理論の後追いから離れて、ここで私が不思議に思うのは、まつろわぬ化外の人々が「蝦夷」など侮蔑的に呼ばれるのに、なぜ彼ら土地名には「日高見国」など美称ともとれる漢字があてられるのか、ということだ。そこの先住民たちが、自ら漢字を使ってそのように書いたとは思えない。そもそも、「日高見」の語源が「鄙上」(辺境のあたり)であるなら、そこの人々が自らの土地をそう呼ぶはずもなく、「日高見」はやはり征服者の側からの命名であることは明らかだ。その地がある程度征服され、「化内」化してきた段階での命名とも解釈できるが、本質的には、土地は美称で呼ばれる、ということだろう。そこに住む先住民は東アジア列島でも新大陸でも蛮族として扱われ、そう蔑称をあてられるが、その土地自体は美しい。なぜならこれから征服し、自分たちが住むことになるからだ。北米でも、先住民が蛮族扱いされたのに対して、その大陸「アメリカ」はヨーロッパ人にとっては理想化されたフロンティアだった。例えば、ドボルザーク弦楽四重奏曲「アメリカ」を聴けばそれがよくわかる。

阿武隈川->仙台平野->北上川流域

高橋は、日高見道奥が海道や阿武隈川に沿って北上していくプロセスを、同地に残る名称などを追いながらたどる。阿武隈川の河口近く、阿武隈山地の北限近くに熱日高神社がある。熱は当て字であちこちなどのあち、遠の意味。常陸から伸びた日高見がここに跡を残している。阿武隈川も北上川同様、もともと日高見川と呼ばれていたのではないかと高橋は推測する。アフクマは逢隅で、隈は奥まったところ。阿武隈川沿いルートと海道沿いルートという二つの「奥」が逢うところで、もともと「阿武隈川」はこの付近のみのローカルな俗称だったとする(p.118)。

日高見は、仙台平野を経てついに北上川流域に至る。北上(きたかみ)が日高見を語源とすることはほぼ間違いなく、この地が日高見国の最終的な落ち着き先として歴史に名を留めることになる。「歴史の日高見国は、ここ北上河谷の地を日高見本国として、永住の構えをとる。北上の名もそこからくる。きたかみはひたかみだったのである。日高見エビスの抵抗が、最大・最強の形でここに記録されるのもそのゆえなのである。/北上下流域にきて、多賀・賀美・志太のように日高見にかかわりのある地名が見られるだけでなく、鳩生郡(宮城県)には日高見神社という名の式内社が登場する。」と示す(p.126)。

蝦夷との38年戦争

ヤマトと蝦夷の戦いがクライマックスに達するのは8世紀のこの北上川流域だった。774年に、ヤマト側の城柵、桃生城(陸奥国桃生郡、現宮城県石巻市)が襲撃される事件が起き、ヤマト軍は蝦夷の拠点となる遠山村(現宮城県登米市付近)を制圧した。以後、北上川中下流で38年に渡る戦乱が続く。特に胆沢(現岩手県奥州市水沢)では阿弖流為(アテルイ)に率いられた蝦夷がヤマトの大軍に壊滅的打撃を与えるなどしたが、最終的には征夷大将軍、坂上田村麻呂に率いられたヤマト軍に降伏した。

こうした史実はこれまであまり認知されなかったが、東北の人々のねばり強いアテルイ復権活動により、教科書でも取り上げられるようなった。例えば、教育出版『中学社会歴史 未来をひらく』(令和7年度)には、下記のように、かなり詳しい叙述が見られる。これを引用して38年戦争の説明の代用としよう。

「朝廷は、東北地方を従えるため、ときには武力を用いて攻めていきました。東北地方の蝦夷は、朝廷軍に対して、さまざまな形で激しく抵抗しました。780年には、もと蝦夷の指導者で、朝廷に従っていた伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こしました。朝廷に降伏していた蝦夷で編成された軍を指揮して伊治城(宮城県)を囲み、朝廷の役人紀広純(きのひろずみ)を殺害し、さらに、朝廷が東北地方を支配するための最大の拠点にしていた多賀城(たがじょう、宮城県)を襲いました。伊治呰麻呂の反乱ののちも、蝦夷は、朝廷に対して抵抗を続けました。その最大のものの一つが、阿弖流為の戦いです。789年、桓武天皇は、蝦夷が本拠地としていた北上川中流の胆沢地方を一気に攻め落そうと、10万人の大軍を送りました。しかし、蝦夷の族長であった阿弖流為の率いる軍に包囲され、敗退しました。その後も阿弖流為は、13年にわたって朝廷軍と戦いましたが、802年、征夷大将軍の坂上田村麻呂が率いる軍に降伏しました。坂上田村麻呂は、蝦夷を従えるためには阿弖流為らの協力が必要であるとして、朝廷に阿弖流為の助命を願い出ました。しかし、その願いは聞きいれられず、阿弖流為は河内(大阪府)で処刑されました。その後も、蝦夷の抵抗は断続的に続きましたが、胆沢城や志波城(しわじょう、岩手県)を築いて支配を強める朝廷のもとに、しだいに従えられていきました。一方、朝廷にとっては、東北地方の蝦夷を従えるための約40年にわたる戦いは、国家財政や民衆に大きな負担を与えるものでした。阿弖流為の処刑から10年ほどのちに嵯峨(さが)天皇は勅(みことのり、天皇の命令)を発し、降伏した蝦夷をさげすんでよぶことを禁止し正式な官位や姓名でよぶように命じました。」(教育出版『中学社会歴史 未来をひらく』令和7年度、「アテルイを顕彰する会」が若干の補注を添え紹介している。「資料:アテルイ情報 情報302」2025年5月14日)

さらにこの教科書は、その戦いの中の具体例として、蝦夷軍が大勝した巣伏の戦い(789年)をあげ、『続日本紀』に記録された戦いの様子を次のように紹介している。

「阿弖流為の本拠地に着くと、蝦夷軍は退却したので、彼らと戦いながら、彼らの住居を焼き、巣伏村に進んだ。ここで、さきに北上川を渡った軍と合流する予定だったが、はばまれてまだ到着していない。そこへ、蝦夷の軍勢800人ばかりが次々とやってきて、政府軍をさえぎって戦った。…さらに400人ばかりの蝦夷軍が東山から現れて政府軍の後ろに回った。前後から攻撃されて、戦死25人、矢に当たった者245人、おぼれ死んだ者1036人、裸になって泳いで逃げた者1257人、という損害で、残りは多賀城に逃げ帰った。」

アテルイ像。胆沢城跡に隣接した奥州市埋蔵文化財調査センターの展示場にあった。根拠のある肖像ではないが、蝦夷リーダーというと怖い顔が広められていたので、このような端正な顔を出すのもいいのではないか。
胆沢城跡からは西に奥羽山脈が望める。雪をかぶるのは焼石岳(1548m)。ここから流れ出る胆沢川が日本最大級の扇状地(面積約2万ヘクタール)を形成している。背後に北上川、さらに北上山地があり、南北に続く渓谷平野を形成している。

日本はいかに「日本」になったか

『唐書』に隠された秘密

蝦夷に関しては、その抑圧と、ここで見たような抵抗の歴史が十分知らされていないことだけが問題なのではない。後述の通り、日本という国が成立する上で根幹的な役割を果たした面が見過ごされていることがさらに大きな問題だったとする。例えば日本がなぜ日本と呼ばれるようになったのか、その経緯にも蝦夷、日高見が大きくかかわっている。

かつて「倭」と呼ばれていたこの列島国家が、いつから「日本」と言われるようになったのか。確かに、607年の聖徳太子による隋皇帝への手紙「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す」にその先駆けはあった。だが、この時はまだ国名は倭だった。これが正式に日本に変更された事情は、唐の正史『唐書』に出ている。945年成立の『旧唐書』と、1060年成立の『新唐書』の二つのバージョンがあり、朝貢に来た日本使節の報告を次のように記している。

・『旧唐書』倭国・日本伝
[注:倭と日本が別の国であるかのごとく並列させている。]

「日本の国は、倭国の別の種なり。その国は日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰く、倭国は自ら其の名が雅でない事を悪(にく)み、改めて日本と為す。或いは云ふ、日本は旧小国。倭国の地を併せる。」[注:日本は倭とは別種の国だ、と言っていることが注目される。]

・『新唐書』日本伝
[注:こちらは日本のみに一本化している]

「咸亨元年[注:670年]、使を遣わして[唐が]高麗を平らぐるを賀せり。後に稍(やや)夏音[漢音]を習ひ、倭名を悪み、号を日本と更(あらた)めたり。使者自ら言ふ、国は日の出づる所に近く、以って名と為す。或るひとは言う、日本は乃ち小国、倭の併する所と為り、故に其の号を冒す」

「倭」という国号が良い字ではないので、日の出の地にあるという意味で日本という名前を採用したと報告されている。ただし、旧唐書は、別の小国である日本が倭を併合したと言い、新唐書では、倭が国名を変えただけだと使者が説明したが、別の人は、倭が小国・日本を併合して名前を奪ったと説明したとしている。新旧どちらも、この記述の後に、どうも説明が信じられないという唐側の疑念を記している。

日本人の通常の日本史理解なら、倭が日本に名前を変えたんだ、ということになるだろうが、日本が倭を併合したとか、倭が日本を併合して名前を奪ったとかいう説明もあり、確かにこれでは唐側も訳が分からん、ということになるだろう。

もう一つのクニ、日の本

これをどうとらえるか。九州の倭が大和の日本を併合して名前が変わったなどと解釈する学説もあるようだが、高橋は、これをヤマトと東北(日高見国)の関係の中で考える。日高見は日の本とも言われ、ヤマトの倭がこの日高見(日の本)を併合してその名前(日本、日の本)だけ取った、と解釈した。つまり、

「ひなかみは鄙上であり、それはひなほとりの義であった。中国の『旧唐書』は、日本の語義について日辺の義という日本人からの伝聞を紹介しているが、これはこのひなほとりをひのほとりにずらして、日辺=日本と好字に表記したものである。」(p.143)。

日本という語には、日本の国名以外に奥州のみを指す用法もあることが金田一京助の指摘以来よく知られている(金田一京助「日の本夷の考」『アイヌ文化誌』三省堂、1976年)。「日出所の意味では、国号日の本と奥州日の本とは全く同じである。ただ、前者は、対外関係の上における比較的位置を云為して、総称的なものであるのに対して、後者は、同じ内国についての比較的位置をさす部分的なもので、両者は全く別々のものである」とされた。

高橋はその他にも多くの文献を示して論証を深める。例えば室町時代末期成立の『人国記』には、陸奥国の叙述で次のような箇所がある。「この国は、日の本のゆえに、色白うして、眼青みあり。人の形相、最も賤しうして、言詞卑劣なれども、勇気は日本に比ぶ所もあるまじ」。鄙の人々への侮蔑感があらわにされているが、国としての「日本」と奥州の「日の本」を明確に区別して比較していることはわかる(p.140)。

陸奥国が制定され、胆沢付近までヤマトの治世が及ぶにつれて、その先の辺境は北奥羽、渡島(現道南地方)方面に移動していった。やがて現北海道全体をエゾと呼ぶ言い方も生まれ、これに蝦夷の字を当てるようにもなる。「日の本」もこちらを指すようになり、だからこの地を治める蝦夷管領の別号が「日の本将軍」になったりもする。例えば室町末期若狭国の『羽賀寺縁起』に、奥州十三湊(とさみなと)に拠点をかまえた「日之本将軍安倍康季(やすすえ)」なる者が出てくる(p.139)。

まとめるとこうだ。

「毛人(えみし)は東国(あずま)に対応していた。蝦夷(えびす)は日高見異人(けひと)であった。同じ異人(けひと)、同じ鄙国(ひなぐに)のことでありながら、そこの相対的な区別をあらわそうとして、文字表現、ことばの訓み分けをして、時代・場所によるそれらの性格の違いを示すことになったのである。/これまでの南型日高見と異なる日高見(鄙国)が、安比 米代ラインの北側[注:つまり北奥羽]では意識された。というより、そこはヤマト側の全く手の届かない異人(けひと)世界として、一般日高見・エビス一般からは区別した認識と対応を迫られたのである。日の本・エゾの称は、こうして北の日高見、奥のエビス称として成立する。」(pp.142-143)

日本国家誕生のタブー

「日の本」「日本」という国号は、確かに中国に対するときには有効な名称だったろう。倭人の漢字リタラシーもある程度伸びてきて、かつては「卑弥呼」などという侮蔑的な言葉をありがたく頂いていたのが、「倭人」というのが小さくて従順な者というニュアンスであることもわかってきた。それで、国号に他所から新しい美称語「日本」を頂いてきた。

しかし、中国の王朝伝統からして、国号の変更とは大変なことだ。ちょっと格好いいくらいで別の国名にするなどありえない。それで、併合してどうの、というある程度の事実をないまぜて説明したということだろう。説明する側もしどろもどろだったに違いない。それで「何言ってんだこいつら」と大いに怪しまれたが、ま、一応、国号変更には成功した、といったところであったろう。[ここはもちろん高橋でなく、私・岡部の推定です。]

が、むろんここはもっと深刻に考えなければならない問題がある。決して政府をもった中央集権国ではなかったが、この列島には、もうひとつの独立したクニ、蝦夷の国、日高見国が存在した。それを征伐し消し去って、その国名を奪った。しかし、この国はもともと一つで国名もずっと日本であったかのように言いくる必要もあった。対外的にも、この国の子孫に対しても。そしてそれは一応成功した。子孫である私たちは、この国の出生の秘密を忘れ、古来からこの国が日本であったことを疑わない。

日本という国の成立の、ここに「タブー」(p.167)があったと高橋は言う。

「推古外交では、日出ずる処というにとどまって、すすんで日本というところまでいっていないのも注意に値する。この呼称は、いってみれば、外交上の踏みである。さぐりを入れてみて、もし手ごたえ十分ということになれば、これを正式に国号改定というところまですすめるハラだったのである。/手ごたえは十分であった。次はいよいよこれを正式なものにする番である。そのためには、同じ倭国内に、日本国の称を有する独立国の存在を許すことはできない。またそのシーニア日本国の情報をあまり詳しく伝えることも好ましくない。倭国はいかにもはじめから日本国であったかのように、体裁をとりつくろう必要がある。/新旧どちらの『唐書』においても、そのシーニア日本国事情が正確を欠き、倭国・日本国合体によるヤマト日本国成立事情も、確たることがなに一つ知られていない。これは革命日本使節が、わざと真実を隠蔽しているからだという中国側の観察を信用すべきである。」(pp.165-166)

倭と日高見、統合の国家目標

ヤマトは神話その他で国家成立の真相をあいまいにしたが、それが暴露されてしまっている箇所もある。高橋は祝詞(のりと)を例に出す。祝詞は、仏教のお経のように、神道儀式の中で語られる定型化された祈りの言葉。平安中期にまとめられた法典『延喜式』などで基本的な形式・文体が定められている。その中の、六月晦大祓詞(みなづきつごもりおおはらえのことば、半年間に身についた罪や穢れを祓い清める夏越の祓で奏上される祝詞)、十二月晦大祓詞(しわすつごもりおおはらえ、1年間の罪・穢れを祓い清める儀礼での祝詞)、遷却崇神詞(たたるかみをうつしやることば、災禍の原因となる神々を祭り遠方に遷す儀礼の祝詞)などに「大倭日高見の国を安国と定め奉りて」という表現が出てくる。

大倭と日高見、つまりヤマトと蝦夷の国をともに平定して安国とするのが天皇統治の使命だ、というような意味で語られる言葉だ。『日本書紀』景行二十七条「東夷の中、日高見国あり。その国人…是をすべて蝦夷という」という規定からみると当然そういう解釈になる。ところが江戸期の本居宣長以来、近現代の並みいる祝詞学者を含めて、これを「大倭」を一般的な美称「日高見」で形容したものと解釈し、ここに現れた古代国家の真相を解き明かす貴重なカギを捨てて奪ってしまったと高橋は言う。

「大倭(おおやまと)と日高見(ひたかみ)国と、すなわちヤマトの国とエビスの国とを、一つの国として統治し、安国を実現して、ヤマト国家は真の統一国家になる。それが肇国(ちようこく)以来の国家統治の理想である――そういうことを、歴史学は、一度も考えたことがない。問題にしたこともない。エビス問題はあくまで国家形成史上の付録であって、本論でないというのが、自明の学問の前提であった。祝詞の大倭日高見之国の意味するものを、いまここに要約したように綱領化するためには、この歴史学上の前提を乗り越えねばならぬ。しかしそれは史実に即して可能なことであろうか。わたくしはそれは十分可能なことだとおもっている。これまでの歴史学が、そういうことはありえないことだと決めこんで、史料をそういうふうに読み取ることをしなかっただけなのである。」(p.160)

辺境の歴史学

日本史の中の西と東

高橋はここで日本史の構造的変革を提起している。単に、蝦夷の抑圧とその抵抗にも触れなければならない、と言っているのではない。日本史をそうした中央の東国支配という基本構造の中で理解しなければならないと言っている。高橋自身の言葉でいうと、例えば次のような史観になる。

「日本古代国家形成の問題を、邪馬台国とヤマト国家だけの西日本モノローグ(独白)にとどめておいてはならぬ。それは二つの日本、西と東のダイヤローグ(対話)としての国家形成史になるような古代史学に進まねばならぬ。それが東北古代史からの要請なのである。」(高橋富雄『東北古代史の研究』吉川弘文館、1986年、p.10)

私流のやや的外れなたとえだが、例えば「歴史を階級闘争の歴史で見る」というようなレベルでの歴史の見方を提起している。蝦夷の支配についてもある程度語る、というレベルでなく、ヤマトが東国を支配していくその対立と交流を根幹に日本史をみる、という視点だ。

アメリカのフロンティア理論

より適切なたとえで言うと、高橋自身もしばしば例に出す「フロンティア」開拓でつくられるアメリカ国家の例だ。民主主義国家アメリカを論じて、あ、そうそう、それは西部に拡大していった面もありますね、とおまけ的に辺境理論を加えるのでなく、アメリカという国家自体が、辺境を開拓していく一貫した歴史の中で、独立自尊の精神、民主主義的な政治意志とその国家構造が形成されたと考える。例えば1893年に、論文「アメリカ史におけるフロンティアの意味」を発表したフレデリック・J・ターナーのフロンティア理論を援用して高橋は次のように言う。

「これは辺境を重視するという程度の理論ではない。辺境がつまり国家をつくり、国民をあらしめたという考えかたである。したがって辺境というものの性格・構造理解その意義づけなしには、国家も国民も、したがって歴史も文化も考えられないという立場なのである。日本にとっては、あまりに巨大にすぎる辺境史学であるかもしれぬ。しかしわたくしは、海のかなたのこの新しい国民の歴史学を、どの歴史学よりもたよりになる辺境史学だと思っている。アメリカという国家は、たしかにターナーが指摘するように、辺境とともにあゆんで偉大になった国家という一面をもっている。」(高橋『辺境 -もう一つの日本史』教育社、1979年、pp.16-17)

「日本についても、同じようなことが考えられる。わたしたちが「日本古代国家」と呼んでいるものの原型を考えてみると、それは畿内国家たることを「原古代国家」とし、西日本国家に拡大して統一古代国家の基本を定めたといえる。(中略)この西部国家としての古代国家は、東部日本をフロンティア(未開地)として、これを征服し併合し開拓して、統合日本国家に成長していった、ということになる。その地域は、今日の地域区分でいえば、中部・関東・東北・北海道の全域を占め、日本列島全体のおよそ六五パーセントの面積を占める。アメリカの場合とは逆に、まさに大東部といわねばならぬ。そして、その東部への膨張(征服・植民)が統一日本、すなわち日本国家と日本国民をもたらした、ということが、同じようにいえるだろうと思う。」(同上書、p,18)

ターナーは充分展開しなかったが、アメリカのフロンティア西進は、先住民の虐殺と支配も伴っていた。形成されるアメリカ国家の構造にこれもしっかり組み込まれてきた。高橋の場合、その諸著作を見る限り、この視点も充分に考慮した論理展開を行なっていると思われる。

アジア史における北と南

もう一つの有力な参考事例として中国史に一貫して見られる北の遊牧民と南の農耕民との間の対立・抗争の歴史を挙げてもいいだろう。このダイナミズムの中国史が大きく規定され展開してきたことを、「よその国」のことだけに私たちは充分以上に理解できるかも知れない。高橋も、白鳥庫吉「東洋史における南北の対立」(1926年)を紹介しながらこれを論じている(高橋富雄『日本史の東と西』創元社、1972年、pp.6-10)。並行してもう一つ、桑原隲蔵「歴史上より観たる南北支那」(1925年)は、中国国内の南と北の対立を軸とした歴史観を打ち出したとして参照している。もともと少数民族の土地であった華南地域が、中原の漢民族世界に併合され、しかし、そこが北の王朝の拠点になることもあった等、複雑な対立・交流の中で中国史が動くことを論じたとしている。

ローマ帝国と北の「蛮族」との間にも歴史的なダイナミズムが見られる。広く世界を見て、歴史がこのような文明間のダイナミズムで動くことが看守できる。そういう中で日本史を見ると、古代からの大和朝廷からのっぺりと発展をとげていく形でしかとらえられておらず、やや物寂しい。高橋の著作には「もう一つの日本史」など副題に「もう一つ」が付く著作がいくつかある。この列島で展開したダイナミズム、多様な人々がその中でそれぞれに役割を果たす国民全体の日本史、高橋の言葉で言えば「日本列島を、隅から隅まで一つの理論でとらえることのできる列島史学」(高橋『辺境』p.13)をつくりだそうとする彼の姿勢から学ぶところは大きい。

蝦夷の「それから」

平定後も続く蝦夷の抵抗

802年に胆沢の蝦夷が降伏し、アテルイは処刑された。それで東北は名実ともにヤマト王権下に入り、蝦夷の問題は終了した。一般にはそう考えられている。しかし、そうではなかった。アルテイ達の戦いは朝廷の財政を圧迫し蝦夷平定事業をそこで停止させた。806年に桓武天皇は藤原緒嗣の意見を入れ、平安京の造営工事とともにそれ以上の蝦夷平定事業を停止したのだ。胆沢以北の陸奥国北境はあいまいとなり、津軽、渡島(わたりしま、道南を中心とした北海道地域)はエゾ地として残った。渡島は夷狄ヶ島(えぞがしま)、エゾが千島とも呼ばれ、やがて蝦夷から区別されたアイヌの地になっていく。

そして何より、ヤマトの服属下に入った蝦夷が、それ以後も断続的に抵抗を繰り返した。ヤマトに服属した蝦夷は俘囚と呼ばれる。その地にとどめられることもあれば、関東などヤマトの他地域全域に移住させられる場合もあった。彼らは文明をもたらすヤマトの支配秩序に好んで組した面もあるが、俘囚長のもとに呼号して公然と反乱することもあった。例えば元慶(がんぎょう)年間の878年、出羽・秋田城下に起こった元慶の乱は最も大規模で、秋田城や郡衙を始め城下全体が焼き払われた。かつての化外の蝦夷の抵抗とは異なり、「文化的にはかなりのところまで政府軍側と同質の開明化に入ってきていた」俘囚たちの反乱はより深刻で、政府側としても、妥協する以外、収拾の余地がなくなった。高橋は、「これがまた、この後裔たちが、ヤマト文化と体制政治とを立派に着こなし使いこなす文化種族・政治部族として、古代末期の辺境独立に挑戦してくる理由でもある」(p.301)と指摘し、その先のさらなる俘囚の反乱、武士の台頭、そこから起こった藤原4代平泉の世紀(1090年代末-1189年)、さらに1192年の東国武家政権(鎌倉幕府)誕生に至る歴史を読み解いていく。

関東一円を巻き込んだ平将門の乱(935年-940年)では、将門が一時期、京都の朝廷朱雀天皇に対する「新皇」を称したりもした。前九年の役(1051-62年)では俘囚系の安倍氏が朝廷に反旗を翻し、これの鎮圧に加わった同じく俘囚系の清原氏の内紛から後三年の役(1083-87年)も起こる。ここで勝ち上がった清原清衡は、実父の姓である藤原姓に戻し、奥州藤原4代の祖となっていく。

「蝦夷それから」の歴史学

高橋は言う。

「坂上田村麻呂ですべては終わった。そういう英雄物語から離れることである。田村麻呂はむしろ古代の限界を物語る歴史と考えねばならぬ。かれでもここまでしかできなかった。かれ以後、古代国家はこの問題を放棄した。そこから、第二のエビス問題がはじまる。十世紀以降、この問題が歴史から消えるのは、問題が終結し解決したからではない。それからはこれを扱いえなくなって蓋をしてしまっただけである。/「エビスそれから」。作家夏目漱石が、文学「それから」に扱ったところのものを、古代エビス歴史にうけとめ直して、古代中期・後期に向けて、かれらエビスがどういう歴史を、その蓋された暗室の中ですすめていたか。そういう探求がこねばならぬ。/俘囚というもの。その指導者としての俘囚長という人のこと。これが「エビスそれから」における歴史のにない手であり、そのヒーローになる立役者である。俘囚。内郡・内国に移されたエピスたちのこと。俘囚長はその指導者。ただし俘囚出身者。この人たちこそは、古代史の内側からエビスの問題を新しく提起し直してくる人たちだった。安倍氏・清原氏・藤原氏。古代国家の解体を辺境から決定的にしていく前九年の役、後三年の役、そして辺境政権の自立。そういう大人たちは、すべてこの俘囚長とその系譜につらなる人たちだった。かれらが歴史をゆるがす前に、俘囚の乱というのが各地でひんぱんに問題になっていることにも注意を向け直さなければならぬ。」(高橋富雄『もう一つの日本史 ベールをぬいだ縄文の国』徳間書店、1991年、pp.102-103)

平泉の世紀から鎌倉幕府へ

高橋は、俘囚の乱の先に形成される藤原4代「平泉の世紀」も、付随的な東北史として見るのでなく、日本史の転換の中で位置づけなければならないとする。(下記原文はシンポジウムの報告。デス・マスをダ・デアルにするなど口語調を文語調に改めて引用する。)

「日本の古代史は、藤原道長や頼通という摂関時代までは、朝廷のこと、お公家さんのこと、都のことを考えていれば、まずだいたい理解できるような歴史になっていた。しかし、そのあと、この院政時代が始まるころからは、京都や朝廷・公家のことだけを問題にしても日本史にはならない時代になってきている。(中略)すなわち、各地に、京都の支配には収まらない日本史が、複数的に起こり、それが新しい武士の時代とか中世とか封建時代とかを興す萌芽になっていく。/ところが、そういう複数日本史という状況の中で、長期にわたって、一貫して単一の地方勢力が平安時代にはほとんどなかった。(中略)[そうした中で]ひとつの地方豪族が、ひとつの場所において、この問題を一貫して提起し続ける歴史を、日本の歴史において初めて具体化し、現実のテーマにしたもの、それが平泉だ。/平泉は、一世紀にわたって、東北地方全体において新しい歴史の可能性を実験する歴史を始めていた。こう考えると、確かに平泉の歴史は、直接的には東北の歴史だが、京都にだけ、中央にだけ、朝廷にだけ限られていた日本史の重点を、地方に移していく、そして安定した形で地方の問題点を提起し続けるという歴史を明確にした点においては、これ以上の歴史はなかった。この歴史は五十年たって、清盛の平氏政権になっていく。百年たって鎌倉幕府になる。そう考えると、平泉の歴史は、のちに平氏政権の形で全面展開する問題、鎌倉幕府という形で全面展開する問題を、五十年ないし百年も前に提起していた。/そういうところから、日本古代史におけるひとつの大きな構造転換を先駆し、これを具体的な形に仕上げていく問題の歴史の出発点になるという意味において、私は「院政の世紀」という考え方でとらえられる時代区分に対して、そういう中央の時代区分でだけとらえることのできない歴史の、もうひとつの出発点を重く見る立場から、「平泉の世紀」というようなことが、十分に日本史全体の問題になりうると考える」(高橋富雄「日本史上の平泉問題」『シンポジウム『平泉』奥州藤原氏四代の栄華』小学館、1985年、pp.13-14)

「俘囚」と被差別部落

高橋はこのようにして、蝦夷平定後も東北史が日本史の根幹を担う側面を様々に掘り起こす。例えば坂上田村麻呂から源頼朝、徳川家康まで、なぜ東国討伐の征夷大将軍が、日本を実質的に統治する中央権力の役割まで果たしていくのかについても単著まで書いて分析している(高橋富雄『征夷大将軍 -もう一つの国家主権』中央公論社)。最澄との歴史的な宗教論争(三一権実諍論)を展開した会津の徳一のインド・中国に連なる仏教理論を掘り起こすとともに、その東北に根付いた土着的宗教の面を明らかにする。秋田出身の安藤昌益を「縄文東北の風土の中で、二千年間、地下でじっくり 熟成を待っていた大地のこころが、今こうして自然活真の真営道に練り上げられ」た革命思想だと評価する。ペリー来航や中国の太平天国の乱とまさに同年の1853年に起こったほとんと知られていない南部藩三閉通百姓一揆に注目し、「封建体制下で許容される限度を超えた」要求を南部藩が受け入れざるをえなかった事態の進展を重視する(高橋富雄『もう一つの日本史 ベールをぬいだ縄文の国』徳間書店、1991年など参照)。

その他あらゆる面で東北の歴史を発掘し、しかもそれを地方史内部に留めず、日本全体の成り立ちを分析する有効な視覚としてとらえ返す。その全体を追う力は私にはないが、もうひとつ気になる指摘について触れれば、日本における被差別部落の起源について、征服され西のヤマト国家全域に移住させられた蝦夷、つまり俘囚との関連を示唆していることがある。

「俘囚(ふしゅう)らが、どのように「内民」としての「同等」を成し遂げたか、もしくは成し遂げないで「内なる独立」を保持し続けることになるのか。そのような「それからのエゾ問題」にも、しっかりした見通しをたてておく必要がある。彼らについて「俘囚郷」というムラの存在が知られ、彼らの「調庸(ちょうよう)の民」化が進まなかったことからすれば、この人たちのうずもれた歴史が差別の問題にも連なっていることは明らかである。この問題は日本史の暗部に連なる。」(高橋富雄「エゾ問題の行方」『日本大百科全書(ニッポニカ):蝦夷(えぞ)』)

後述の蝦夷のアイヌとの関連でもそうだが、被差別部落問題について高橋が深く追求しているわけではない。蝦夷討伐(俘囚の強制移住)と部落問題の関連をほのめかし、問題提起しているだけだ。専門でないこの巨大な分野に安易に踏み込むべきでもないとする彼の学的良心から来たのかも知れないが、こうした問題には当事者自身こそが論を展開していくべきする信念も背景にあると思われる。問題提起のみを行い、その後の研究に期待を寄せたと理解する。

西日本に移住させられた俘囚たちの「別所」

朝日新聞論説委員の後、郷里・山形に帰って蝦夷の歴史を追う長岡昇は、「西日本の各地に「俘囚」として移住させられた蝦夷たちは、その後どうなったのか。史書は何も語らない」と嘆きながらも、例外的に、彼らの一部が被差別部落の歴史とつながっていく問題に挑んだ在野の研究者、菊池山哉(さんさい)(1890-1966年)を紹介している。

菊池は、戦前から戦後にかけて700を超える全国の被差別部落を訪ね、徹底した現地調査をもとに、1966年、集大成として『別所と特殊部落の研究』(東京史談会)を出版した。菊池は、西日本の被差別部落は「余部(あまべ)」「河原者」「守戸」「別所」に四分類できるとし、その中で「別所」は東北から送り込まれた俘囚たちの住む場所であることを明らかにした。多くの「別所」を訪ね、そこに住む人々から聴取した情報を克明に記録している。しかし、学界は差別の起源は江戸時代との見解をとり、菊池の説は無視された。改めて光が当てられるのは1990年代で、復刻版が『特殊部落の研究』(批評社、1993年)、『別所と俘囚』(同、2009年)として出版された。

同じく菊池山哉を紹介した別の記事で長岡は、江戸期など近世が起源とする説の弱点は、「なぜ東北に部落がほとんどないのか」の問いに答えられないことだと指摘している。1921年の都道府県別部落数の統計を紹介し、福島6、山形4、青森1と極端に少ないことを示す。しかもこれらのほとんどは、前述菊池の調査が「江戸時代に国替えになった大名が前任地から引き連れてきたもの」であることを明らかにしており、結局、東北では「古代からその土地にあったと考えられる被差別部落は、福島県南部の部落一つだけだった」という。

エミシからエゾ、そしてアイヌ

蝦夷(えみし)はアイヌか

蝦夷はアイヌか、それとも日本人か。難しい問題に差し掛かってきた。結論的に言うならば、現在急速に発展している古代DNA学の研究が、この問題に明確な答えを出してくれるのを待てばいいのかも知れない。しかし、現在のところでの一般的理解を言うならば、古代に東国で蝦夷(エミシ)と言われていた人たちは基本的に日本人で、中世になってそれがエゾと読まれる頃には、アイヌを指すようになった、というところだろう。古代蝦夷たちは稲作も取り入れていたし、馬の飼育に長けてそれがヤマトとの有力な交易品目にもなっていた。いずれもアイヌの人々にはない特性である。しかし、東北地方にアイヌ語の地名が多いのも事実だ。和人的な蝦夷の中にアイヌの人々もかなり交っていた可能性も否定できない。

民族ははっきりとした境界で分断されるものではない。多様にまだら状に分布し、形質的にも文化的にも段階的に変わっていく分布があったと思われる。ヤマトをつくった「渡来人」にしても、何人が渡来したのか、朝鮮か中国か北東アジアか、現在の国境線を基準に特定しようとしても無理だ。案外に半島南部と西日本の沿海部全体を股にかけて生きていたのが渡来系日本人だったかも知れない。あるいは渡来系がDNAの8~9割を占めるという現日本人は、日本に入ってから混血したとは限らず、朝鮮半島で形成されたのかもしれない。縄文人だって朝鮮半島に居た可能性があり、そこでの混血があったかも知れない。

北海道礼文島船迫遺跡から出た縄文人女性の全ゲノムデータを使って解析すると、現代アイヌ集団は、縄文人由来の遺伝的要素を70%もつという(篠田謙一『人類の起源』中公新書、2023年、p.212)。本土日本人の縄文人要素は10%だ。本土日本人が9割方渡来系になってしまったのに、アイヌの人々は7割も縄文系を受け継いでいるというなら、彼らこそ縄文人の子孫というにふさわしい。一方で、本土日本人の中でも、縄文人要素は近畿で低く、東北(や九州南部)に行くにしたがって強く残っている(同書、p.198)。また、北海道アイヌの場合、5世紀から10世紀にかけて道東、道北で活動したニブヒ系のオホーツク文化人の遺伝的影響も大きい(同書、pp.225-228)。西日本の日本人が渡来系の影響をより強く受けているように、どこの土地でも周辺との交流があり、ある程度の混交を経ているのは当然だ。

札幌駅に降り立つとアイヌのエカシ(長老)像が迎えてくれる。アイヌ彫刻家、藤戸竹喜氏制作の「ウレシパモシリ 北海道 イランカラプテ」像(「育て合う大地・北海道、こんにちは」の意)。「ク・リムセ」(弓の舞)を踊るエカシの姿をかたどった木像。2014年に設置された。
北海道胆振地方の白老町にある国立アイヌ民族博物館の公園に展示されているアイヌ家屋。
日本最大のアイヌコタン、阿寒湖アイヌコタン。

今後のさらなるDNA分析の結果を待てばいいだのだが、一般的に考えれば、蝦夷、つまりヤマト王権に組み込まれていない段階の本土日本人は、北に行くにつれて縄文系統を強く受け継いでいたが、アイヌほどではなかった、といったところだろう。古墳期以前の渡来系、つまり弥生人の系統を保持した人々だったろう。それがヤマトに征服されて、古墳期のさらに強力な渡来系インパクトを受けて現代日本人になった。単に東北だけでなく、歴史を昔まで辿れば、関東、中部、いやもしかしたら関西地域まで蝦夷だったかもしれず、多かれ少なかれ私たちの祖先は蝦夷だった。

私たち蝦夷は、基本的に狩猟採集民だったアイヌとは異なり、稲作や馬の飼育も導入していた。言葉も、ヤマト勢力に通じたか否かは別として現日本語に近い倭語を話していただろう。ヤマトの「文明」地からは蛮夷に見えたが、同盟関係に入ることは不可能ではなく、現に、征服後はかなり同化されて現在、中部人、関東人、東北人などとなっている。

高橋のエゾ論

このような民俗模様を想定した上で、高橋のエミシ、エゾ、アイヌ論を再度見てみる。彼の時代には、DNA分析の成果はほとんど利用できなかったことは理解しておこう。

まず、「エゾ」の一般的な理解として、高橋は、田名網宏「古代蝦夷とアイヌ」(古代史談話会編『蝦夷』所収、朝倉書店刊、昭和三十一年)をあげ、これに概ね賛同する。

「エゾの語が起ったのは、平安中期ごろと推定されるが、それは奥羽北端の接触地点の辺で起ったもののように思われる。平安中期は、奥羽の開拓がいちおう終った時期で、なお未開拓と思われる地域は、内地では馬淵川以北の北端ぐらいのものであって、しだいに北海道の様子も知られ、これと直接の交渉も見られるようになったと考えられるから、そこにエミシ、エビスとよぶことのできない異族アイヌの存在が、一般に明らかにされたと思う。これをエゾと呼んだのでないかと考える。」

縄文系7割のアイヌの人々を「異族」呼ばわりするのは申し訳ない。どかどかとこの列島に踏み込んできた我々の祖先(渡来系)、そして土着縄文系と混血した弥生系の蝦夷、ヤマト服属後に渡来色をさらに強めた現代日本人の方こそ、異族というにふさわしい。(が、列島も大陸も日本海沿海地域ももともとだれのものでもなかった。同じ地に生きることになった我々異族も何とか受け入れて下さればありがたいと思う。)

それはともかく、蝦夷を基本的には和人ととらえ、しかし、現日本人よりはDNA的・文化的に縄文系の痕跡をより強く残す人々、という見方を、高橋富雄も共有していると思われる。次のように言う。

「わたくしはこうして、エビスとエゾの分かれが、蝦夷問題の最終決着になるとおもう。それはギリギリのところ、ヤマトの土俵にあがっての敵役か、それともあくまでその土俵入りを拒んでの他者に徹するかの違いとなる。異人といい、毛人といい、さらに蝦夷といっても、それは所詮、ヤマトから見、そう名づけた外人にすぎない。エミシ・エビス、またしかるのである。/われわれは、エゾという呼称も、ヤマトことばの中であろうことを推定した。その限り、エゾもヤマトの土俵のうちという性格をまぬがれない。にもかかわらず、通常エビスに対する異種エビスという認識である点で、エゾは実質として外のエビスである。特にそれがアイヌと自称するヒトたちについて専称されるようになれば、エビスから全く離れるといってよい。」(p.305)

蝦夷はヤマトの土俵に上がる外人、敵役だった。しかし、同じ土俵にあがれるかどうかわからないさらに外の(「通常」に対する「異種」の)蝦夷が視界に入ってきた。ヤマト側からの認識である以上、やはり同じ土俵にあがっているかもしれないが、しかし、彼らが自らアイヌと覚醒し、自己主張するに至って別の民族として自立した。そう言っていると思われるが、なかなか微妙だ。いや、それはそうだ。もともと民族などあいまいで微妙なものだ。人間の主観や自己認識に主導され、歴史的に形成されたものだからだ。現在例えば、ウクライナのロシアに対する抵抗の中でウクライナ民族というものが新たに、より明確に形成されつつあるように。

和人がアイヌに対して用いたエゾという言葉(平安後期から蝦夷がエゾと読まれるようになる)についても、高橋はその微妙な中間的性格について次のように言う。

「わたくしは、エミシ・エビスということばとエゾということばとの距離よりも、エゾということばとアイヌということばとの距離の方が、はるかに遠いと思っている。」「もしエゾが、エミシでもエゾでもない、純然たるアイヌ語による名称だとすれば、エゾを捨ててさらに別なことばのアイヌにする必要はないはずなのである。/わたくしは、エミシ・エビスはもとより、エゾといえども、アイヌにとって、その自称とするには十分でなかったので、あえてエゾ称も捨てたのだと考えて、エミシ・エビスとエゾ、ことばとしては 五十歩百歩というふうに理解すべきものとおもう。/現に和人側では、エゾの自称がアイヌであることがはっきりしても、最後までその公称がエゾだったのは、このことばも、広義では、体制側呼称に出たからだったとすべきである。/アイヌは、毛人でも蝦夷でもない。エミシでもエビスでもない。エゾですらない。アイヌはただアイヌにおいてアイヌである。アイヌじしんが、自分を、みずからのことばで、アイヌと称したとき、アイヌはアイヌになったのである。そして、和人もこれをアイヌとして認め、このことばで呼ぶようになったとき、アイヌはその市民権を獲得したのである。」(pp.314-315)

しかし、高橋はアイヌについてこれ以上深く分析しない。それは、アイデンティティを獲得したアイヌが自ら行う課題であって、自分が出ていくべきところのものではない、という高橋の認識があるのではないかと推測する。「わたくしは、アイヌまでの歴史を扱う。アイヌになってからどうなるかという歴史には立ち入らない」と言明している(p.314)。

そもそも高橋は、蝦夷が日本人かアイヌかという「人種論」について、あまり重要でないと考えていた。蝦夷研究は100年以上の歴史があるのに、結局、分野は2つだけに限られていたと言う。その第1が、「蝦夷とはアイヌか日本人かという人種論」だ(高橋富雄『古代蝦夷 -その社会構造』学生社、1974年、p.12)。(もう一つは「蝦夷征伐ないし蝦夷経営」の分野だ)。

高橋はこの人種論に懐疑的で、「蝦夷というのは、政治的・文化的な夷民観をあらわす観念だから、これについて、一義的な人種論を成立させることは不可能であり、事実、時代と場所とによって、同じ「蝦夷」文字でもそのさす内容に違いがある」と言う。「もしそれが日本人である、というのであれば、それがなぜかくも執拗に日本人ばなれ、内民ばなれしたものとして理解されるに至ったか」が歴史的問題として問われねばならず、「ただ、アイヌである、いや日本人であるということを論じただけでは、古代史があれだけの枚数を割いて、これを問題にした理由を解き明かすことにはならないのである」(同上書、p.13)と言っている。

だから高橋はそれよりも、蝦夷のさらなる異種として「エゾ」がヤマト、和人の認識内部に出てくる過程、構造をこそ問題にし、追求しなければならないとしている。高橋は文献歴史学者だ。あくまでその分析手法を使って下記のようにこの問題に迫る。

「エゾ」の語源

まず、エゾという言葉の語源だが、「エゾ」はアイヌ語のエンジュ(人)から来たものだとする金田一京助らの見解が定説となっている。高橋はこれを真っ向から否定し、和語の夷種=異種(イシュ)から来ていると言う。イシュはイジュとなり漢語で伊治(いじ)と書かれるが、これは大規模な蝦夷反乱「伊治公呰麻呂(あざまろ)の乱」(780年)が起こった土地の名前だ(伊治村、伊治郡、伊治城など。北上川下流の現宮城県栗原市付近)。伊治(イジ)は現地語の発音で容易にエンズ、エズのようになり、そこからエゾとなった。「伊治のイジは、夷中の夷の意味での夷種すなわち異種の音イシュがイジュとなり、イジとして漢字伊治となるとともに、地元語や慣用語としてはエズゥのように発音されて、エゾともなり、異種エビスの特別用語として、のちのエゾの原語になった」とする(p.225)。

伊治は、アテルイらの英雄的戦いがあった胆沢(原岩手県南部)よりも、陸奥国府のあった多賀城に近く、そこの蝦夷たちはヤマト治世下におかれていた。反乱を率いた伊治公呰麻呂も、その名前からわかるように、蝦夷の族長として郡大領であり外従五位下の位階も賜っていた。しかし、蝦夷出身として差別される屈辱から乱を起こしたとされる。勅撰史書『続日本紀』宝亀十一年三月二十二日紀はこの乱を詳しく叙述しているが、呰麻呂を「是れ異俘の種なり」とわざわざ断り、「今でこそ伊治郡大領、外従五位下。時めく現地官僚の身分であるが、もとをただせばいやしいエビスの出、成り上がってここまできたものではないか」という意味の言葉を浴びせ、内に深いうらみを内攻させながら、へつらい奉仕していた、と説明している(p.232)。

反乱に出た呰麻呂らは、伊治で陸奥按察使(あぜち、国司を監察する地方行政の最高官)らを殺害し、俘囚軍を率いて、伊治城ばかりでなく国府・多賀城にも出て街もろとも焼き払った。774年からの蝦夷38年戦争の中でも、胆沢でのアテルイらの戦いと並ぶ苛烈な戦闘となった。

「エゾ」の遠い語源が、この伊治(夷種、異種)にあったとするとすると、陸奥国のかなり南(現宮城県北部)で、しかも8世紀段階で、蝦夷でもかなりの異種が認識されていたことになる。「すでに仁徳紀の段階で、北上川下流地域においては、特別夷種としての異種エビスを、イジ=エズというふうに区別して呼ぶならわしがもう生じており、その地もと慣用語としてエゾに固定していく原語がもう生じていたことになる。」(p.225)。

これが9世紀後半の元慶の乱(878年)の頃になると、対峙の舞台も北奥・北羽に移し、コミュニケーションに訳語(おさ、通訳のこと)を必要とするまでの異人(けひと)が前面に現れる。ここに至り、俗称的だったエゾの言葉が公式化していくことになる。

「すでに日高見川下流域、伊治国あたりでは異種エビスとしての原エゾのようなものが、エビス世界でも特別エビスとして問題になってきていたことを指摘しておいた。しかしこのあたりではまだ、その人たちがヤマトことばに合わせて会話する努力をしていたために、かれらが異種であることはわかっていても、この人たちを、しいてエビスの在来呼称と区別することなく、広くエビスのことばに含めて呼称していたであろう。エビスが全くヤマトことばを話せないというより、これまでほとんど文化的にも交流・交渉のなかった世界まですすんで、民族対民族のはじめての全面接触になって、訳語(おさ)なしにはいかなるコミュニケーションも不可能になって、この全くの異種エビスたちは、その異種たることそのことによる特別呼称を必要とするようになって、これまで俗称としては行なわれていたエゾ称が、そのままエビスたちに適用されることになる。潜在イシュが顕在エゾになったのである。」(pp.258-259)

文献に初めてエゾの語が出てくるのは、久安6年(1150年)の『御百首』という歌集の中だが(p.310)、その頃までには

「エゾというのが、ほとんど千島すなわち北海道方面に限定されて、「エゾが千島」といういいかたになってきていて、津軽などの本州はその南辺のような感じになってくる。これははじめ地縁的に、糠部や津軽をそのエゾの本拠のようにみなしていたものが、北海道方面の情報が確実になって、 ヤマト日本の外に自立するエゾ世界の本拠は、海のかなたの大島であることが知られて、渡嶋は夷狄島(えぞがしま)と呼ばれ、この本島中心の大小無数の島々が、エゾが千島と呼ばれるようになったものである。」(p.313)

「アイヌ」の初出

この「エゾが島」のエゾが、やがて「アイヌ」と自称していると知られるようになり、アイヌとも呼ばれるようになっていく。文献上は、14世紀南北朝のころの『諏訪大明神』の中に「萬當宇満伊犬」が出てくることでわかる。松前(マトゥマエ)アイヌの字音化だという。津軽藩などで「犬」をアイヌの略称のように用いた(p.313)。

高橋は、前述のようにアイヌがアイヌになってからの歴史は語らない。しかし、和人の歴史を分析していきながら、特に、列島の西と東の二元的歴史、ヤマトの蝦夷侵略の過程を分析しながら、アイヌが和人にとってどのようなところに位置するのか、日本史内部から成功裏に解き明かした。列島を東進・北進してきた日高見と蝦夷(エミシ、エビス)の世界からエゾが分かれアイヌが出現することで、「蝦夷問題の最終決着」となったと言うのだ。

「アイヌと日本人は異なる」で思考停止していないか

蝦夷はどちらかと言えば日本人で、アイヌではない。アイヌは日本人と異なる独立した民族である。その通りなのだが、そう割り切って、そこで思考停止していないか。少数民族の自決という立場からもアイヌの自立した民族性を支持したい。だが、別民族だ、で終わりにできるか。同様に辺境に追い詰められてきた蝦夷との関連を考えてはいけないか。アイヌの遺伝的要素の7割は縄文系だという。縄文系1~2割になってしまった現代日本人が、その原郷をアイヌの人々に訪ねてはいけないか。蝦夷として東、北に追いやられた原日本人が、独自性を守り通し北の大地に自立した真正蝦夷の人々に何らかの思いを抱いてはいけないのか。

歴史学でなく民俗学の立場からだが、赤坂憲雄は、アイヌと和人(日本人)を比較考察することさえ忌避するようになった現在的知性を批判する。

「ひとつの仮説が存在する。津軽海峡をはさんで対峙するふたつの民族、つまり日本人/アイヌをめぐる仮説である。その仮説によれば、日本人/アイヌのあいだには、民族的かつ文化的な太い切断線が横たわっており、越えがたい非連続の関係が認められる。このふたつの隣接する民族文化を連続の相のもとに眺めること、いわば両者を比較考察することは、そこでは、あらかじめ禁じられた学問の作法と見なされている。」(赤坂憲雄『方法としての東北』柏書房、2007年、p.109)

昭和初年、金田一京助の影響下で柳田国男が日本人とアイヌの間を完全に分断して以来、民俗学界ではアイヌという異族の文化は関心外に置かれ、両者を比較さえ忌避するほど「去勢」されてしまった、という。

「日本人/アイヌがはたして、民族的ないし文化的に連続するのか否か、たしかに実証的な方法をもって断定しうる段階にはないし、性急な断定を下す必要もない。 わたしが知的な去勢状態と呼ぶものはじつは、その問いのはるか以前…問いそれ自体を多くは無意識に忌避 しながら、結果として、あの仮説を「通説」として流通させる側に加担する、去勢を去勢として認識することすらない知的な態度である。」(同書、p.110)

日本人とは何か、その民俗と文化を考えるとしても、どういう日本人について考えるのかで大きく異なる。西から列島を支配したヤマトの日本人か、東に追いやられた蝦夷の日本人か、あるいは、農耕文化をもった弥生人か、原初の狩猟採集文化をもった縄文人か。「稲と常民とイエ」「瑞穂の国」を中心にして日本文化を追求した柳田民俗学は明らかに、稲作文化をもった弥生人以降を「我々の」文化として据えている。それ以前の縄文的世界は捨象された。稲作文化の原郷として沖縄、南方への窓口は開くが、そのとき「見えにくい形で放棄されたのが、北のアイヌ文化との連続/非連続を腑分けする作業であった」と赤坂は指摘する(同書、p.118)

それ以降の民俗学は、アイヌ的世界にタッチしなくなったが、宮本常一にわずかな関心の萌芽が見られるとして、「70年代はじめには十分に大胆であったはずの仮説」彼の言及を紹介する(同書、pp.115-116)。

「狩猟採取時代に日本列島弧の上に住んでいた人たちは、今のアイヌと先祖を一にするものであったが、農耕を持つ民族の移住とその移動によって農耕社会を拡大し、一方狩猟民は山間・山麓・台地などを生活領域とし、農耕民との通婚によって農耕文化を取り入れていったが、中には狩猟文化を後々まで保持したものもあり、北海道に住んだアイヌは農耕文化の影響をうけること少なく、また明治初年までは、異民族との通婚も少なく、長い狩猟採取生活を続けて来て、一見異民族と思われるほどの差異を生じたけれども、もともとは縄文文化時代の日本とは同系のものであったと思える。縄文期文化とアイヌ文化の 比較から研究をしなおす必要があるのではないかと思う。」(宮本常一「海から来た人びと」、宮本常一・川添登編著『日本の海洋民』未来社、1974年。原文にはかなりの部分に強調点がふってあるが省略。)

現在からみればごく常識的といえる見解だろう。宮本はまた、アイヌ文化だけでなく、それとの関係で歴史時代の本州に残った山岳信仰、山人などにも注目している。が、こうした方向の追求はあくまで「芽生え」段階で、彼自身を含め充分進めたわけではなかった。そういう中で、80年代半ば、梅原猛の『日本の深層』が出て、怠惰な眠りはいきなり破られたと赤坂は言う(pp.120-125)。この「無謀にして果敢なる挑戦の書」を赤坂は次のように評価する。

「日本文化の基層には縄文文化が横たわり、その基層文化がより多く残るのが東北の文化であり、アイヌ文化である―、と梅原は考える。縄文文化と蝦夷(→アイヌ)文化の伝統から東北を眺める、『日本の深層』の斬新な発想は、そこに生まれた。金田一京助によって、また、その影響下にあった柳田によって、日本文化/アイヌ文化のあいだに切断線が引かれて以来、縄文の末裔である蝦夷はアイヌではないとする見解が支配的であった。それゆえ、東北にどれほど北の匂いのする習俗や文化が見いだされようと、それはアイヌ文化とは無縁な、日本人に固有の文化の地域的な変種(ヴァリアント)にすぎないと、ただちに判断が下される。そうした知の枠組みが強固にできあがり、半世紀以上のあいだ人々の思考を麻痺させ、抑圧してきた。梅原はそこに楔(くさび)を打ちこんだ。」(同書、p.124)

高橋、赤坂らの東北学は、東北という地点からものを見ることにより、日本史の様々な事象についてばかりでなく、アイヌについても新たな視点を提示してくれていると思う。


(推薦)

須原誠「古代日本の二重構造:渡来人創設国家「大和」による縄文的東方文化圏「日高見国」の征服過程

最近出た素晴らしい論考があったので紹介する。上記論文は、題名からもわかる通り、ヤマトは渡来人がつくった国であることを示した上で、それが縄文的東方、つまり日高見国を征服していった過程を分析している。このブログ記事で紹介した高橋富雄が、征服されていく蝦夷、特に東北の側からこの過程を見たのに対し、この須原論考は、ヤマトが渡来人によってつくられた国であることを論証することに力を注いでいる。高橋はそちらの論証はあまり行わず、いわば前提にした上で論を展開している。(言うべきところでは、「弥生は縄文とグループして原始というより、儒教や仏教とグループして渡来文化ととらえ、渡来としての原始と考えるのを大局の論とする。日本原始は縄文だけである。」(高橋、前掲『もう一つの日本史』p.32)などと言っている。)

そういう力点の相違はあるが、高橋の諸思索はこちらの須原論考の中にすっぽり収まると思われる。高橋の詳細な分析の外枠を、須原論文が適切に構築してくれていると感じる。須原は、古代DNA学の諸研究も充分利用し、内外の最新研究にもきちんと立脚している。しかも、物言いが極めてストレートで、あいまいにするところがない。深い理解がないとこのような明快さは得られないものだ。高橋の諸論考は、詳細かつ微細にわたるため、わかりやすいとは言えない。その代わり、読めば読むほどいろいろ教えられる深みのある文章なのだが、より明快な理解のためにはこの須原論文を読むことを薦める。それを言っちゃおしまいよ、なのだが、高橋の諸著作はともかく私のこの論考を読むよりはずっといい。

須原氏のブログサイトを見る限り、専門は古代史ではなく、歴史学でさえないようで、これにも驚かされる。AIなど先端技術を分析し、これまでも起業家経済などIT企業の経営コンサルの仕事を国際的にされてきたようだ。この論考についても、「21世紀の日本における人的資本管理論研究において現代の外国人高度人材を「新渡来人」と仮称して考察する研究の過程で生じた、学際的・国際横断的な歴史的・理論的考察である」「21世紀の日本列島において、新渡来人とともに新たな未来を築くことへの願いが、本研究の根底にある」としている。現代的課題から古代史を振り返る視座をきちんともっている。