ポクロフカ 「タラス河畔の戦い」跡を探す

実際の場所は不明

イスラム帝国(アッバース朝)と東アジアの大唐帝国が激突し、世界史上の天下分け目の戦いとなった「タラス河畔の戦い」(751年)は、実際どこで起こったかは明確になっていない。タラス川は天山山脈北西部の水系を集め、キルギス北西部の渓谷を流れ、カザフスタンの砂漠に消える全長660キロの河川だ。信

濃川や利根川の2倍程度はある。キルギス領にタラスの街(Talas、現人口4万)があり、カザフスタンに入ってタラズの街(Taraz、同43万)がある。様々な説を総合すると、現キルギス領を中心としたキルギス・カザフ国境周辺、というのが穏当なところだ。最大でイスラム軍20万と唐軍10万の兵力(ともに相手方からの推定)が5カ月近く対峙した戦闘だった。とすれば、タラス川渓谷からカザフ平原に至る広範な地域が戦場域になっていただろう。

「タラス河畔の戦いモニュメント」

私はまずキルギス領タラスに滞在したが、そこには「タラス河畔の戦い」を示す史跡はなかった。しかし、その西40キロ、カザフ国境に近いポクロフカの村にモニュメント(*文末注)があるというので(その画像)、そこを訪ねた(7月30日、ほぼ路線化されている乗り合いタクシーで)。残念ながらこの時、私のスマホが絶不調になってしまい、モニュメントの場所を特定できなくなった。しかし、ポクロフカの村を隅々まで歩けたし、近くを流れるタラス川もじっくりと見れた。(後で調べるとモニュメントは村に入る数キロ手前の道路脇にあったようだ。)

タラスからタラス渓谷(盆地)を下って行くと、増々、古代に大戦があったと思わせるような大地が広がる。
タラス川を堰き止めてつくられたキロフ貯水池が見えてくるとポクロフカは近い。
キロフ貯水池のダム。この狭谷を下りていくと再び平原となりポクロフカへ。
ポクロフカ村への分かれ道。まっすぐ行くと、約10キロでカザフ国境だ。右に行くとポクロフカ。入口に戦士の像がある。ポクロフカは正式にはセメテイと称しているので、伝説の英雄マナスの息子セメテイか。タラス河畔の戦いのモニュメントは、ここに至る手前左にあったが知らずに通過。
ポクロフカ村の中心部。
ポクロフカの西側を流れるタラス川。
タラス川の下流方向。この辺でもタラス川は細流に別れたり中州をつくったりしている。流れはまだ速かった。
村の北端で、北西部の平原を眺める。その先はカザフ平原で、タラズの街などがある。ここもいかにも古戦場の跡という雰囲気で、しばし瞑想にふけった。

*「タラス河畔の戦いモニュメント」は、決して、戦いの地がここだったと主張する「史跡」ではない。この地方の歴史に想いを馳せ、戦いで散った勇士たちに敬意を表するモニュメントだ。戦いの実相は歴史の深みで霞んでいるが、確かに実際にあったとしてもこの地域全体、河川と河原、湿地と平原、付近の砂漠や岩山など、至る所で繰り広げられたはずだ。 /ある意味でモニュメントをつくった方が勝ちだ。古代の戦いの跡を求めて来ても痕跡が何もない。それを考えるよすがとなるモニュメントのようなものがあれば旅人も満足するし、地域にも観光収入が入る。タラスの街はこの「観光資源」を明確には認識していないようだが、ポクロフカの方はよくやった、ということだ。(後ほで報告するが、カザフ側のタラズはもっとよくやっているかも知れない。)