古代フェルガナの記憶 ナマンガン郊外のアクシケント遺跡

アクシケント(Axsikent, Akhsikent, Akssikent, Akhsi, Akhsikath)は、紀元前2世紀から存在したフェルガナ盆地の代表的古代都市。シルダリア川河畔の高台につくられた城壁都市、もしくは都市国家で、広さはピーク時で200ha(現在の遺跡サイト60ha)。現ナマンガン市域内、中心部から25キロ南西にある。高台の城址から広大なフェルガナ盆地が見渡せる。写真右手の林の先にシルダリア川も見える。

遺跡全体が野外博物館となっているが、屋内展示場の整備も進む。7~8世紀までの約1000年にわたり、この都市は「フェルガナ」と呼ばれ、現在でいうところのフェルガナ盆地の中心だった。8世紀にイスラム勢力の支配下に入ってもシルクロードの交易都市として繁栄を続けた。13世紀にモンゴルの襲撃を受け、さらに1620年の大地震で廃墟と化した。残った住民は近くのナマンガンに移動した。

本物のシルクロード都市

高台の乾いた大地を歩くと身震いした。本物のシルクロード遺跡を歩いている。サマルカンドのモスク、マドラサ(神学校)を始め、ブハラ、ヒヴァその他ウズベキスタンに残る華麗なイスラム建築ももちろんシルクロードの遺産だ。しかし、このナマンガン近郊アクシケントの遺跡は、フェルガナの地がイスラムに席巻される以前の原初シルクロードの記憶を伝えている。華麗に再建された建造物ではなく、破壊され廃墟化した単なる高台だが、本物のシルクロードだ。近くを大河シルダリアが流れ、その河岸にそそり立つ城壁跡の上に、ピーク時20万の人々が暮らしていたという。太陽が容赦なく照らし、風が渡り、虫が這う何もない大地から、2000年以上前にこの地で生活を営んだフェルガナの人々の息使いが立ち登ってくる。

日本より人口密度が高い

フェルガナ盆地は、険しい天山山脈と乾燥した半砂漠地帯の中にぽっかりと開いたオアシス平原だ。英語ではフェルガナ・バレー(渓谷)だし、地図上ではまさに「盆地」、広大な山脈地帯に空いた小さな凹みなのだが、カリフォルニアのセントラル・バレーがそうであるように、このバレーも関東平野以上の大平原で、ここに立つと周囲の急峻な山々は見えない。盆地の真ん中を大河シルダリアが流れ、近代になって整備された灌漑運河網とも相まって、豊饒な農地をはぐくむ。複雑な国境線で3国9州に分断されながら、1万2000平方キロの領域に1600万人が暮らし(2014年)、人口密度は127人/平方キロと中央アジアでは突出する。特にほぼ盆地内に収まるウズベク3州(アンディジャン、フェルガナ、ナマンガン)に限れば、544人/平方キロと、日本(338人/平方キロ)より人口密度が高い(2024年4月の最新統計では、この3州で人口1057万、面積1万8000平方キロ、密度572人/平方キロ。)。

シルクロードのオアシス

最高で7000m級の険しい天山山脈を越えてきた人々、あるいは乾燥した中央アジアの砂漠地帯を越えてきた人たちは、このフェルガナ盆地で息をつき活発な交易をおこなった。かつてシルクロードの要衝で、現在でも、例えばアクシケントのあとを継ぐマナンガンはフェルガナ盆地最大の都市だ(ナマンガン64万、アンディジャン46万、オシ32万、フェルガナ32万、コーカンド26万、マルギラン25万、フジャンド14万)。

このフェルガナ盆地は、中央アジアの核として発展してきてもよい恵まれた地理的諸条件を備えている、にもかかわらず(あるいはそれだから)、多様な民族が入り込むし、支配する側も複雑な国境線で分断する手法をとった。

フェルガナ盆地は関東平野2個分くらいはある大平原だ。周囲を覆っているはずの4000m級山々など見えない。写真は盆地東部のキルギス領から見た盆地中央部。

アクシケント遺跡に行くには 初日の失敗

アクシケント遺跡は最近注目されはじめたが、どうやって行くのかの説明がほとんどない。ウェブ上には、この遺跡がいかに重要か、観光資源としてももっと活用すべきだ、といった論調をたくさん見るが、何番のバスに乗ればいいのかの情報は皆無だった。Yandexサイトにもない。外国人観光客はタクシーでもつかまえて行け、というのでは困る。だから「外国人観光客がまだ少ない」という嘆きも出るのだ。ここに出す行き方情報はウェブ上に出る唯一のバス情報ということになるだろう。(少なくとも日本語と英語のウェブ情報としては)。

ナマンガン見学の一日目(9月5日)、アクシケント遺跡に行こうと、バスターミナルからバスに乗る。バスターミナルはナマンガンにいくつかあるが、この場合は鉄道中央駅に近い長距離バスターミナルが正解だ。

「アクシケントに行きたい」と聞くと、「23番のバスに乗れ」と言われた。外を走っているバスだという。おかしいな、と思いながらターミナル外の市バス停留所で23番バスに乗る。正しいならすごく簡単になる。市バスに乗るだけで25キロ離れた遺跡に行ける。

が、この23番バスは、逆方向の北に向かった。すぐ終点になって降ろされた。「アクシケントに行きたいんだ」と運転手に言うと、「ここがアクシケントなんだよ」と大ぶりの身振りで叫ぶ(身振りで言葉も理解できる)。宿に帰って調べると、なるほどナマンガン市内に同名のアクシケントという地区がある。そこに行くバスだったわけだ。

こうして初日は、あえなく撤退。しかし、古代遺跡のアクシケントなど確かに一般庶民には遠い存在で、アクシケントと言えば街中の地域名に決まっているだろう、との人々の認識状況は理解できた。

アクシケント遺跡に行くには 正解:195番のバスに乗れ

2日目。今度はアクシケント遺跡の写真や、ウェブページ解説のスクリーン・ショットを用意して、「古代の遺跡だ、考古学的サイトなんだ!」と南西方向を指差し、大仰なジェスチャーで叫ぶ。数人が集まり、運転手もじっくり写真を見て確認し、納得したかのように、「よし、わかった。あれだ、195番に乗れ」とターミナルに停まっているバスを指さす。

ナマンガン・バス・ターミナルから出る195番バス。

今度は大丈夫か。長距離のマシュルートカのようなミニバスなので、人が集まるまで出発しないだろう。まだ1,2人が乗っているだけだ。暑い車内だが、乗り込み、覚悟を決めて昼寝しはじめると、何とすぐエンジンをふかして出発した。マシュルートカでなく路線バスだった。停留所ごとに人が乗り、ミニバスはすぐかなりの満員になった。私は乗降口より前の最前列右奥に座っていたので、混雑には無縁で楽だった。前方もよく見える特等席だ。横の運転手に料金を前払いすると8000スム(90円)だった。

バスが停まっていたのはチュスト、ポップ方面行きの乗り場だったのでちょっと心配だった(遺跡のかなり北の街になる)。最初はその通り、真西に向かう幹線道路(Dustlik Avenue)を進む。そして、隣接するトゥラグルカン地区(Turakurgan District)に来ると、左にまがった。よし、これは正しい。アクシケントに向かう道だ。ナマンガンから高速道路的な道がチュスト、ポップ方向に続いているが、人が多く住むのはやや南のシルダル川沿岸ということらしい。長距離はともかく、地元に密着したバス路線はそちらになるということだろう。そしてアクシケント遺跡もそのシルダリア河岸にある。

バスは隣町トゥラグルカンで左に曲がった。これでよし。間違いないだろう。

私はむっつりだんまり、サングラスをかけて「しゃべりかけるなオーラ」を発散していたが、まわりの中学生ら乗客はこの見慣れぬ外国人に興味を示し、いろいろ話しかけてきた。「どっから来た」「どこに行く」「一人で旅行か」他。これからアクシケント遺跡が有名になり、外国人もたくさん来るようになるのだぞ。外国人に慣れとけ。

途中、ナマンガン方面から来る北フェルガナ運河や、同じくナマンガンを結ぶ鉄道線路なども渡り、シルダリア川の橋の手前、アクシケント遺跡で降ろされた。Thank you, driverと言って下りた。

アクシケント遺跡の正面

アクシケント遺跡の正面。道路に面したところに入り口がある。周囲には多くの作業員がはたらいていて、遺跡の保全・整備の工事に余念がないようだった。
ゲートもなければ入場料もとられない。作業に汗を流す労働者以外、来訪者を管理するスタッフも居ない。勝手に中に入っていくだけ。訪れる観光客も私以外だれもいなかった。さびしい。今後、有名になっていくと思うが、その時に、整備途中に訪れた見聞だということで本ブログ記事は貴重になるかも知れない。
いきなり、これはアクシケント城址の城壁(紀元前3~1世紀)、との表示。確かに城壁都市なら、入るあたりは城壁だ。
階段アクセス路の中ほどに写真のような表示があった。「アクシケント(Ahsikent)の都市は紀元前3世紀に設立され、中世の古文書によると、9世紀半ばまでフェルガナと呼ばれていた。9世紀後半からはAkhsikatと呼ばれ、アクシケントと呼ばれるようになったのは、中世末期からにすぎない。」とある。確かにこれは重要な指摘だ。ごく最近の学術論文でこの事実が指摘されるようになった(後段で詳述)。現在フェルガナと称されるこの地方全体の起源はこの古代都市アクシケント/フェルガナだったのだ。
ここに街の中央市場があったという。
ここには何かモスクでも立てるつもりなのだろうか。
重機も入って整備に急ピッチなのがわかる。オリジナルな遺跡が壊されないことを望む。
ほぼ完成している屋内展示施設に入ると、、、
発掘現場が保存されている。
同上。
これは城壁の屋内展示場か。
その内部。
さらに別の展示施設も建設中だ。こうやって何でもかんでも自由に見てよいものか。作業員たちはこの突然の来訪者に気を留める様子はない。整備事業の監督者、もしくは調査に来た考古学者であるかのように、胸を張って君らの間を歩いかせてもらおうか。
背後には、広大なアクシケント遺跡が広がる(60ha)。こういうのを見ると、全部歩き回りたくなるのが私のわるい癖。ほぼ一周してしまった。各所にダンプカーの通る道があり、そういうところは粉のような砂地になっている。足がはまり込み、靴が粉まみれになる。
遺跡の破片かも知れない小さな石片が散乱する場所も。
シルダリア川に面した南面の崖。険しい崖なので高所恐怖症の人には心臓によくない。
同上。
長い間の雨水による浸食作用で、深い谷が刻まれているところもあった。
遺跡サイトのほぼ反対側に来た。遺跡正面付近の屋内展示施設などが遠くに見える。
遺跡には裏口ゲートがあった。ここからダンプカーなど重機が出入りしている。出るとすぐ民家になる。
裏口ゲートを出るとすぐ、このようなナマンガンに通じる別の街道があった。ここで166番のバスが走るのを見た。このバスでもアクシケント遺跡に来れるだろう。この一般集落地帯を通ってシルダリア川に出てみたいと思ったのだが、下に降りて行く脇道は途中で行き止まりになった。そこの民家のおじさんに「川には出られないよ」と言われた。引き返す他ない。

橋からの写真はだめ

やむを得ず、遺跡正面に戻り、道路橋を渡りながらシルダリア川の写真を撮らせて頂いた。すると、戻ってきた橋のたもとに検問所があり、そこから出てきた兵士に「写真はだめだ」と言われ、橋の上から撮った写真をすべて消されてしまった。残念。川の方から見て城址がいかに堅固な守りになっているかを知るのは、遺跡理解の上で大切なのだが。 橋から写真を撮って何かセキュリティに問題が生じるのか。今の時代、橋の写真などネット上でいくらでも探せる。ウズベキスタンでは以前、タシケントの地下鉄を撮るのさえ禁止していた(今はOK。2018年に禁止解除)。管理が厳しすぎるのでは、とも思ったが、ここは民族衝突やイスラム過激派のテロが絶えないフェルガナ盆地だ。理解しなければならないかも知れない。古代フェルガナの記憶に触れて気分が高揚していたが、少し現実に戻された。 

救いは、その若い兵士が最後に「さよなら」と言ったことだ。中央アジアではだいたい中国人か韓国人に間違われる。なのに迷いなく「さよなら」と言った。こんな有名観光地でもない渋い場所に来るのは日本人くらいなのだろう。真摯な探求心を持ち続ける同胞の方々に敬意を表した。

古代アクシケントがフェルガナだった

前述の通り、今年出た論文で、古代においてフェルガナとは実はアクシケントのことだった、との指摘がなされた(他にも例えばこれ)。論文著者のTalabjonov Bunyodbek Saidaxmad o‘g‘liは、次のように述べている。

「紀元前3~1世紀までたどれるアクシケント(ナマンガン地方)は、フェルガナ国家の首都であり、広大なシルクロードに沿った主要都市のひとつであった。バーブル・ナーマ(ムガル帝国初代皇帝バーブルの回想録)を始め各種歴史的文書は、その重要性を強調している。この都市は地下の水利施設をもち、防衛上戦略的な優位性を保っていた。2024年の発掘では、イタリアスタイルの貝殻装飾、地下暖房施設、ファインセラミックス製配管、完全な形の手洗器具などが出土した。/アラブの歴史家Taboriは、8世紀初めにフェルガナ市について言及している。9世紀前半までに学者Ibn Khordadbehは、アクシケントが古代フェルガナの場所であったことを明らかにしている。各種史料は9世紀後半になってようやくこの街をアクシケントと言い始めている。貨幣研究の面からは、この街は11世紀まではフェルガナ、アクシケント両方の名前で呼ばれていたことが示されている。」(“General Description of Historical and Cultural Heritage Sites in The Fergana Valley: Examples of Archaeological Monuments,” International Journal Of History And Political Sciences, Vol.05 Issue04 2025, p.48.

徹底した研究で明らかになったというより、古文書を読むとフェルガナと呼ばれていたのがわかった、という簡単な事実認識のお話のようだ。

現在のフェルガナ市(盆地南部)は19世紀にロシアがつくった

フェルガナ盆地南部にフェルガナ市があるが、これは、19世紀にロシアによってつくられた街だ。1875年に中央アジアがロシアの支配下に入ると、翌年に各地に州が設置され、現フェルガナ盆地付近にはフェルガナ州が設置された。州都はコーカンドだった。同州南部のマルギランの北、現在のフェルガナ市の位置に新しく要塞がつくられ、「新マルギラン」(ノーヴィマルギラン)と名付けられた。その後、このロシアの街は総督名にちなんで,「 スコベレフ」に改称され、軍事都市として発展した。1924年に赤軍がこの街を奪還すると、フェルガナに改名された。フェルガナ市と聞くとフェルガナ盆地の代表のように誤解してしまうが、あまり関係がない。現フェルガナ市は、ロシア風の建物が多いロシア・ソ連風の街で、シルクロードの面影はない。

中央アジア発展の核となってもよかった盆地

豊かで人口も多く、山岳地帯からの水で潤うフェルガナは、本当なら中央アジアの中心となってもいい地域だ。それが複雑な国境線によって分断され、抗争が起こり、むしろ周辺地域よりも貧困化を深めている。近代の民族国家は、その地域の多数民族を中心に国をまとめ上げ、互いにライバル意識を持ちながら競走・抗争して社会を発展させるシステムだった。これがある程度うまくいったところもあるが、この体制でぼろぼろにされてしまった地域もある。フェルガナ盆地などはその典型だ。

簡単に言うと、フェルガナ盆地は、盆地を囲む山岳地帯がキルギス領で、中央部やや東寄りがウズベキスタン、西部の盆地出口がタジキスタンと実に不自然に分かれている。しかも、各国領の中に他国の「飛び地」がこれまた不自然に入り込む。最も盆地の主要部を押さえているかに見えるウズベキスタンも、これまでタジキスタンを通じてしか、自国領盆地にアクセスできず、新たに山岳地帯に道路や鉄道を通す過大な負担を強いられた。複雑な国境線をまたいで民族間の対立も増している。

フェルガナ盆地はある意味スイスのようだ。内部にドイツ語、フランス語、イタリア語を話す集団がおり、その各々が国外域に強力な民族国家を形成している。スイスはそれである程度順調な多民族複合社会を形成している。フェルガナ盆地の場合は、この「スイス」に相当するアイデンティティが存在しない。いや、「フェルガナ盆地」という栄光のカテゴリーはあるが、国として独立していない。域外の強力な民族国家からそれぞれに直接統制され、互いに対立している。本来ならフェルガナ連邦として独立し、その中で各民族が平和的に共存する多民族社会の方向性があってよかった。しかし、一旦決まった国境線を変えるのは、今日の国際社会の中で容易ではないし、適切な方策とも言えないだろう。

「古代フェルガナ都市」のアイデンティティ

こういう状況の中で現れてきたのが、アクシケントの「古代フェルガナ都市」だ。アクシケントは古代にはフェルガナと呼ばれていた。この地の最大都市にして盆地の代表的都市としてこのフェルガナが存在していた。ここに回帰することでフェルガナの共通したアイデンティティが得られないか。

そんなことをしたら現フェルガナ市が怒るだろうか。フェルガナのアイデンティティをナマンガンが横取りするのか、と。しかし、面白いことにこの「古代フェルガナ都市説」を学術論文で出してきたのは、フェルガナ州立大学の研究者だ。現フェルガナ市の人たちも狭い対立意識にこだわっていないかも知れない。より大きな「フェルガナ」の伝統に立ち返りたいという意識が根底にあるのではないか。フェルガナという古代都市の存在とそれへの関心が、この地の連帯して進む方向性を少しでも強めることを望む。