シルクロードの交差路ブハラ

首都を経由する長距離列車

フェルガナ盆地からサマルカンド、ブハラ、ウルゲンチなどへ直通列車があった。ウズベキスタン東端のアンディジャンから同国西端近くのクングラードまで、(フェルガナ盆地)南側経由の128番列車と北側経由の127番列車が運行している。驚くべきことだ。当然首都タシケントで乗り換えになると思っていたが、その必要がない。1500キロを22時間。日本で言えば、稚内から鹿児島まで東京経由の直通列車があるようなものだ。

9月9日、フェルガナ盆地ナマンガンからブハラまでの寝台列車に乗った。首都タシケントとサマルカンドはすでに見学したので通過。ナマンガンを夜7時半に出てブハラに翌朝8時半着。3等寝台26万スム(約3300円)。

ナマンガンの駅で夜行寝台列車を待つ。
3等寝台列車の中。
夜の間に列車は首都タシケントやサマルカンドを過ぎ、明るくなるころはザラフシャン川がつくる平原地帯を走っていた。
9月10日8時半ごろ、予定通りブハラの駅に着いた。

鉄道の駅は、日本同様、街の中にある場合と、何でこんな遠くに、と思うような郊外の辺鄙なところにある場合とがある。中央アジアは主に後者だが、ブハラは極端だ。街から東に15キロも離れている。実際、別の街カガンに「ブハラ駅」があるのだ。着いてすぐ街中に泊まりたい旅行者には絶望的な街構造だ。

しかし、今回私はブハラ2回目で、深く見ようとは思っていない。軽く流して写真をとるだけ、と割り切っている。駅のそばに宿を取り、1日だけ街に出て帰ってくればよい。翌朝には電車で出ていく。

安宿が街のどこにあるか。これも、駅近くの場合とそうでない場合の二通りある。幸いブハラは前者だった。駅を降りてすぐ前にHotelのサインがあり、安そうに見えた。窓のない暗い部屋だが、専用トイレ・シャワー付きで申し分ない。荷物を降ろしてさっそく街に繰り出す。街まで68番などの市バスが出ている。行程約30分、料金3000スム(約40円)。

ブハラは、かつての城壁の中に旧市街がある。その外は新市街で、つまりはソ連型のだだっ広い街だ。バスはそうした広い通りの停留所で停まり(写真)、そこから旧市街に歩いて行く。

シルクロードの重要都市ブハラ

ブハラは、紀元前からシルクロードの重要な交易都市として発展し、サマルカンドと並び、ソグド人が活躍する「ソグディアナ」の主要都市だった。東にサマルカンド、タシケント、フェルガナ盆地、西にヒヴァからアラル海方面、そして南西にメルブからイラン方面、南東にテルメスからパミール高原方面へと、重要ルートが別れている。7世紀にイスラム勢力の侵攻を受けるが、土着勢力による最初のイスラム王朝「サーマーン朝」(873年 – 999年)の時代にその首都となり、大いに繁栄した。1220年にモンゴルに蹂躙されるが、チムール朝の時代に復興し、以後ブハラ・ハン国の首都として交易とイスラム文化の中心としての役割を果たしてきた。

ラビハウズとナディール・ディヴァンベギ・メドレセ

旧市街の中心にはラビハウズと呼ばれる池がある。オアシス都市にとっては水が常に重要だった。上水道が普及する以前、ブハラには多数の池(ハウズ)があった。現在はほとんど残っていないが、この池はかつての時代を象徴する景観。ラビハウズ近くに立つのが神学校ナディール・ディヴァンベギ・メドレセだ(写真後方)。
池の近くにある神学校ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ。正面壁画に2羽の鳳凰や人の顔が描かれている。偶像崇拝を禁じるイスラム教では極めてまれな建築模様だ。
ブハラ旧市街の風景。
同上。
同上。

カラーン・ミナレットとカラーン・モスク

ブハラの象徴ともなっているのがカラーン・ミナレット。「カラーン」とはタジク語で大きいという意味。高さ46mで、ミナレットとして信者に祈りを呼びかける他、見張りの塔であり、砂漠から来るキャラバンの道しるべでもあった。カラ・ハン朝の時代、1127年に建てられ、1220年のモンゴルの攻撃にも耐えた。

一方それにつながっているカラーン・モスクはサマルカンドのビビハニム・モスクにも匹敵する巨大モスクで、1514年、シャイバニ朝時代の築造。1万人の信者が礼拝できるという。

カラーン・ミナレットとカラーン・モスク(右)。
同上。モスクの向こう側に神学校ミル・アラブ・メドレッセの青いドームも見える。
その近くに1418年創建のウルグベグ・メドレセ。チムール朝第4代君主にして文人・科学者のウルグベグは、サマルカンドに多くのメドレセを建てたが、ブラハにはこのメドレセが残るのみ。

交差点のバザール建築、タキ

ブハラには、交差点につくられたユニークな市場建築タキがある。人々の往来が多い交差点に屋根付きのバザール建物がつくられ、そこで貴重品などが売られる。宝石商のタキ・ザルガロン、帽子市場のタキ・テルパクフルシャン、両替商のタキ・サラフォンの3つが残る。
外から見ると、丸いドームが重なり、タコ焼き器をひっくり返したような形をしている。
同上。

アルク城

ブハラの歴代の王の居城。遅くとも5世紀頃には、この場所に要塞があった。王が住み、守りの砦となり、あるいは一定数の住民が住む城壁都市だった。侵略によって破壊され、破壊されては再建され要塞として継続。7世紀のアラブ侵攻時には女王フッタ・ハウトンがここを拠点にたたかったとされる。1220年のモンゴル来襲の際にも、町民がここにたてこもったが、虐殺され城も破壊されたという。16世紀からは、ブハラ・ハン国の王がここに居城した(チンギス統原理の影響下で王がハンを名乗った)。1920年にソ連軍に攻略されて王の居城としての歴史を閉じた。現在は博物館。

アルク城。左側の入り口から入る。
アルク城の上から。城壁の高さは16~20m。現在の城は、16世紀に建てられたもの。
アルク城の城壁。
アルク城の上から見たブハラの街。中央にカラーン・ミレットが見える。

イスマイール・サーマーニ廟

一連のイスラム建造物からはやや離れたところにあるイスマイール・サーマーニ廟。モンゴル以前の古い時代、最初のイスラム王朝「サーマーン朝」(873年 – 999年)期に建てられた建築として貴重だ。9世紀にブハラを占領し都としたイスマイール・サーマーニが父のために建てた霊廟だが、後に彼自身もここに入り、サーマーン朝王族の霊廟となった。モンゴル侵攻時には砂の中に埋もれており破壊を免れた。
イスマイール・サーマーニ廟の内部。構造は素朴だが、壁の模様などすべてレンガの組み合わせで作られ、古いソグド文化の影響もあると言われる。
同上。