目次
(1)『フランス革命と左翼全体主義の源流』
「左翼全体主義」という言葉を聞いて何かひらめくものはないか。確かに何かそのようなものに出会ったことがある。いや、今でも世界にはその言葉で表せる体制がそこかしこに存在する、と。
J・L・タルモン『フランス革命と左翼全体主義の源流』(市川泰治郎訳、拓殖大学海外事情研究所、1964年。原著J. L. Talmon, The Origins Of Totalitarian Democracy, Secker & Warburg. 1952)は、その形の全体主義の起源を18世紀、とくに「フランス革命の業火」の中に見出す試みだ。つまり、それは決してロシア的後進性、アジア的専制、途上国的経済の遅れなどから生み出されたのでなく、「西洋的伝統」、つまり西ヨーロッパのまさに中心たるフランスでの革命で輪郭を現したと説く。
全体主義民主主義(Totalitarian Democracy)
最初に訳語について注記。この著書名内の「左翼全体主義」の原語は「全体主義民主主義」(totalitarian democracy)だ。しかし、その直訳では日本語としてあまりにゴロが悪い。「主義」が二つも続く。原語には「主義」(ism)はひとつもないのに、なぜか日本語に置き換えると「主義」が二つも付いてしまう。それを嫌ったこともあって訳者が「左翼全体主義」と訳したであろうことは理解できる。以下では、ゴロは悪いができるだけ「全体主義民主主義」を使っていくことにする。
しかし、「左翼」という言葉も安っぽいものになってしまった。ことさらに反対するだけの扱いにくい集団、というようなニュアンス。そのため「左翼全体主義」とあると、底の浅いうわっつらな批判本のように感じてしまうのは私だけか。
本書は原著、訳書ともに入手困難だが、幸いにも次のインターネットサイトで無料でダウンロードできる。知的財産を保全・活用を図る努力に敬意を表したい。
原著:https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.460216
訳書:https://dl.ndl.go.jp/pid/2998238
今日に至る問題性
冷戦真っただ中の1952年に出されたこの書は、そこに至る西欧史を次のように振り返り、全体主義民主主義の今日的重要性を指摘する。
「二〇世紀なかばのこんにちになってふりかえれば、最近一五〇年の歴史の本質的なコースは経験主義的で自由主義的な民主主義と、救世主主義的で全体主義的な民主主義とが真向から対決するまでの組織的準備であったといってよろしかろう。この正面衝突に今日の世界的危機の意味がある。」(p.1)
フランス革命以後の西欧を中心とした歴史は、典型的には冷戦構造に見られるような「自由主義的な民主主義」と、ソ連型社会主義に至る「全体主義的な民主主義」のせめぎあいとして大きく規定されるとする。冷戦は核戦争による人類絶滅の危険性さえ生じさせることになった。その後、ソ連・東欧社会主義の崩壊により、この二大対立を基幹とした歴史理解は幾分修正されるだろうが、依然としてアジアを中心に全体主義的民主主義体制は残り、それ以外の地域でも、この亡霊、そしてその変種(宗教的カルトも含む)が次々に顔を出し、その根本的な総括は依然、未完の課題だ。
全体主義民主主義の精神構造
タルモンは、全体主義民主主義の性格を、自由主義的民主主義との比較で次のように叙述する。
「自由主義の接近し方は政治には試行錯誤はつきものであるとし、政治体系を人間がその才覚と創意とをもって現実に役立つようにつくり出した仕組だと考えるものである。」「全体主義的民主主義の方は政治には唯一で、かつ排他的な真理があるという仮定に基づいている。事物にはあらかじめ定められた、調和的で完璧な図式があり、人間はいやおうなくそれへ駆り立てられ、またそれに到達するほかはない、ということがその基本前提であり、その意味において、政治的救世主主義とよんでよいであろう。」(p.2)
自由主義的な民主主義にも何か欠陥はあるだろう。しかし、本書ではタルモンはそれには踏み込まない。あくまでも本書の目的は全体主義民主主義の起源とその展開を分析したものだと意図を限定している。そして、この序論的な叙述においても、彼は、そうした全体主義民主主義のはらむ問題を、あれこれの政治理論、革命理論や戦略レベルでなく、根本的な思想枠組み、思考する際の発想のレベルにまで降りて、批判しようとしていることは明らかだ。
つまり自由主義民主主義では、個々人の自由が何よりも大切で、それらが無限の可能性を試した後に、社会的な制御過程を経て時々の最善の策に落ち着く。しかし、全体主義民主主義では、正しい理論、真理、もしくは共産主義に至る根底的な絶対善がまず存在し、それに沿って社会が編成される、編成されなければならないと考える。タルモンは前者を「経験主義的で自由主義的な民主主義」、後者を「救世主主義的で全体主義的な民主主義」とも言い換えている。前者は、何よりも自由な実践とその経験の後に、そこから得られる結果から社会を何等かに修正し(例えば三権分立や多数決や選挙や裁判や市民運動からのチェック機能などを経ることが想起される)、適切な解を求めていく。必ずしも始原的に正しい理論や究極目標を仮定しているわけではない。それは人々の自由な活動の交換の中で徐々に明らかになる。あるいは永遠に変化していく。
真理があるという確信と自由は両立しにくい
全体主義民主主義も自分を民主主義だと主張している。むしろ「真の」民主主義だと主張する。しかし何が民主主義か、民衆の利益とは何かについてはアプリオリな確信がある。それに沿ったものが真の民主主義だ。タルモンは言う。
「双方とも自由が何にもまさってたいせつだといいきっている。しかし一方が自由の本質は自己の発意にあり、他人から強いられないことにあるというのに反し、他方は絶対的、集団的目的を追求し、これを達成する以外には自由の実現はないものと信ずる。全体主義的民主主義では、最終目的というものがあると信じている。」(pp.1-2)
つまり、自由はここで危い立場に置かれる。タルモンの言う通り、絶対目標、絶対的真理という理念に自由を調和させることは困難なことだ。真の自由とはこういうものだ、そうでないのは真の自由ではない、人々はまだそれに気づいていないだけだ、という独断。人民は結局はそれに気づくはずだし、気づかせるよう善導しなければならないし、時には…という形でなにがしかの強制が生まれてくる可能性をはらむ。
「この[絶対目的と自由が相いれないという]困難を解決する唯一の道は、人間を目の前にあるものとしてでなく、人間はどんなものになるべきであるか、かつまた本来の状況が与えられるならば、こういうものになるはずであるという観点から考えること以外にはなかった。人間が絶対的理想に違うかぎりにおいては、人間を無視し、強制し、または威嚇してそれに服従させても、民主主義原理を真に犯すこととはならない。本来の状況の中では発意と義務との間の争いは消滅し、それとともに強制の必要もなくなるはずであると主張する。しかし、とうぜん実際の問題となるのはこうである。拘束がなくなるのは万人が調和的に行動することをおぼえたためであるか、それともすべての反対者が一掃されてしまったためであるか。」(pp.3-4)
社会主義に至る全体主義民主主義
以上の論述から、タルモンが単にフランス革命時のジャコバン派恐怖政治だけでなく、今日の社会主義も射程に入れ、その起源を探っていることは充分読み取れるだろう。次のようにも語っている。
「全体主義的民主主義は、最近生まれた現象でもなければ、西方的伝統の外にある現象でもない。それは十八世紀の理念という共同財産に根をもっている。フランス大革命のあいだに別の独立した傾向として分かれ、それ以来中断せずに続いてきている。そのように起源はマルクス主義のような十九世紀の様式よりもはるかに遠いところにある。マルクス主義は、最近一五〇年間に相次いで起こったいろいろな形の全体主義的民主主義の理念のうちで、たしかに最も重要ではあるが、やはりその一つにほかならないものである。」(p.283)
マルクス主義を、全体主義民主主義の19世紀における形、最も重要だがその一つの発展形態ととらえている。そしてこの救世主主義的民主主義は、その後西ヨーロッパの手を離れ、ロシアに拠点を見出し、さらにアジアに拡散する、という歴史的展開を見る。次の通りだ。
「西ヨーロッパでは一八七〇年後まもなく、征服力と人生に対する支柱力としての政治的救世主主義は衰退した。パリ・コミューン後、ジャコバン的伝統の継承者たちは暴力をすて、合法的手段によって権力を争いはじめた。かれらは議会や政府に入り、順次民主国家の生活にとりいれられていった。いまや革命の精神は東方へひろがって、ついにその自然的本拠をロシアに見出した。ロシアでは数世代にわたる圧迫がつくり出したいきどおりとスラブ民族の救世主義的素質とが、これに新たな烈しさを加えた。形は新しい環境のなかで修正されたが、しかし全然新しい様式の思論想あるいは組織が、東ヨーロッパでつくり出されたのではなかった。」(p.287)
救世主主義、千年王国主義
「救世主主義的で全体主義的な民主主義」という時、この「救世主主義」(Messianism、「メシア思想」とも訳される)は、日本人にはなじみない言葉だろう。典型的にはキリスト教、ユダヤ教などに現れる考え方で、ある日突然救世主が出現し、それまでの社会がいっぺんに変わる、苦しみが霧散し解放された時代がはじまる、という考え方、そしてそれを強く待望する情念である。広い意味では仏教の弥勒信仰など多文化・多宗教へも広がりをもつが、社会理論の中では、そうした激しい情動が多数の人々を飲み込み、時に革命的な行動の背景ともなる現象を分析する際に使われることが多い。革命の社会学的研究の白眉、E.H. ボブズボーム『反抗の原初形態』で扱われた「千年王国主義」(Millenarism)の概念とも呼応する。
迷信的な妄想とも言えるが、苦しみにあえいでいる人々がこの発作にとらえられると爆発的行動に駆られることがある。明確な革命理論などもっていないので、悲惨な結果に終わることもあるが、農民一揆など多様な抵抗、革命運動の背景エネルギーとなる。私見だが、日本幕末の「ええじゃないか」の狂騒なども、表面的には「天から御札が降りた」など荒唐無稽な言説の流布だが、当時の激動する社会情勢に呼応しつつ、それを動かした側面があるように思われる。フランス革命その他の動乱にも、この種の熱狂が、陰惨な形も含めて出現している。
群衆心理
救世主主義的・千年王国主義的行動を「群集心理」の側面から解き明かすことも可能だ。個人の行動とは別に、群集になると別の行動原理が生まれ、それに駆られていく。この「群集心理」概念は、フランスの社会心理学者、ギュスターヴ・ル・ボン(1841–1931年)の『群衆心理』(桜井成夫訳、講談社学術文庫、1992年、原著1895年)が世に知らしめた。この概念(以後、同書訳語に従い「群集」でなく「群衆」を使う)は、18世紀末のフランス革命から19世紀に至る激動の時代を生きた知性から生まれた。ル・ボンは1871年のパリ・コミューンを目近で目撃している。時代の趨勢を彼は次のようにとらえる。
「わずかに一世紀前までは、諸国家の伝統的政策や帝王間の抗争が、事件の主要な原因となっていた。群衆の意見などは、たいていの場合、問題にされなかった。だが、今日では、政治上の伝統や、君主の個人的な意向や、その抗争などは、ほとんど重きをなさないのである。群衆の声が優勢になったのである。この声が、王侯に、その採るべき行動を命ずる。国家の運命が決定されるのは、もはや帝王の意見によるのではなくて、群衆の意向によるのだ。」(p.15)「群衆は、推理の能力こそほとんど持たないが、これに反し、行為にははなはだ適しているように見える。現在の社会組織が、彼等の力を巨大にさせる。われわれの眼前に生れる教義(ドグマ)は、古い教義にも劣らぬ威力、すなわち論議をゆるさぬ最高の専制力をじきに獲得してしまうであろう。群衆の神権が、王者の神権にとってかわるのである。」(p.17)
「群衆心理」は、革命的状況時、つまり本稿での文脈で言えば救世主主義的な千年王国主義運動がおこるとき、民衆を次のように変えていくとする。やや一方的ではあるが、少なくともその一面をよくとらえているだろう。
「群衆中の個人は、単に大勢のなかにいるという事実だけで、一種不可抗的な力を感ずるようになる。これがために、本能のままに任せることがある。単独のときならば、当然それを抑えたでもあろうに。その群衆に名目がなく、従って責任のないときには、常に個人を抑制する責任観念が完全に消滅してしまうだけに、いっそう容易に本能に負けてしまうのである。」「精神的感染ということもまた、群衆の特性の発揮と同時にその動向を決定するのにあずかって力ある。感染というのは、容易に認められる現象ではあるが、まだ明らかにされていない現象であって、催眠術に類する現象と関連させねばならない。…群衆においては、どんな感情もどんな行為も感染しやすい。個人が集団の利益のためには自身の利益をも実に無造作に犠牲にしてしまうほど、感染しやすいのである。」(p.33)「活動している群衆のさなかにしばらく没入している個人は ―群衆から発する放射物のためか、それとも他の未知の何らかの原因によるのか― やがて特殊な状態に、あたかも催眠術師の掌中にある被術者の幻惑状態に非常に似た状態に陥る。…もう自分の行為を意識しなくなる。催眠術をかけられた者と同様に、彼においてもある機能はうち砕かれるが、他の機能は、極度の興奮状態へ高められることがある。ある暗示を受けると、それにかられて、抑えがたい性急さである種の行為を遂行しようとする。この性急さは、群衆にあっては、催眠術をかけられた者の場合よりもいっそう抑えがたいものである。なぜならば、暗示があらゆる個人にとって同一のものであるだけに、たがいに作用し合って、ますます強烈になるからである。」(pp.34-35)
ル・ボンは、フランス革命時にもこの群衆心理のメカニズムが作動したことをいくつかの例を出して説明している。例えば次の通り。
「群衆中の個人が正常の自分と異なるのは、単に行為の上ばかりではない。自主性を全く失う前に、すでにその観念や感情が変化してしまっている。それは、吝嗇家を浪費家に、懐疑家を信心家に、正直な人間を罪人に、臆病者を英雄に一変させるほどである。あの有名な一七八九年八月四日の夜、感激の高潮したせつなに、貴族が自己のあらゆる特権を放棄することを可決したが、これは、各議員一人一人の場合ならば、確かに承認しなかったことにちがいない。」(P.33)
(2)フランス革命
ドラクロワの「民衆を率いる女神」。フランスの革命を象徴する代表的絵画となったが、テーマとなっているのはフランス革命(1789-1799年)ではなく、1830年の七月革命。Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.0
バスチーユ牢獄の襲撃(1789年)。Unknown Painter, Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.0 FR
革命の勃発
ル・ボンが例に挙げた貴族たちの特権放棄の日(1979年8月4日)から20日あまり前、バスチーユ牢獄が襲撃されフランス革命が始まっていた。専制政治の象徴ともなっていたこの牢獄をパリ市民が襲い、多数の死者を出しながら制圧。武器、弾薬を押収した。群衆による虐殺もはじまっている。捕らえられた牢獄司令官ド・ローネーらについて、殺すべきではないとの意見も出たが、パリ市庁舎に連行されたのち、民衆に虐殺された。態度があいまいだったド・フレッセル・パリ市長、ド・ソーヴィニー・パリ知事らも首を切られるなど、暴力の連鎖が始まっている。
その前の5月に中世身分議会である三部会が開かれていたが、第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)でなく、市民を中心とする「第三身分」が中心となるべきとして「国民会議」が組織された。バスチーユ襲撃を経て、8月24日に、この国民会議が、フランス革命の象徴となる人権宣言を発する。それと同等に重要な宣言が、上述ル・ボンの叙述にある8月4日の貴族たちによる自発的特権放棄だった。
バスチーユ襲撃の知らせはまたたく間にフランス全土に広がり、農民反乱が拡大していた(「大恐怖」)。第三身分を中心とした国民会議に参集した第一、第二身分の間にも高揚感が増し、自由主義貴族ノアイュやデーギヨンの提案に自発的に封建権利の放棄を誓った。興奮は午前2時までつづき、最後は「人民の父」ルイ16世をたたえる喚声のうちに議会は終わった。これにより農奴制、領主裁判権、教会十分の一税などの廃止、貢租の有償廃止などが行われ、中世封建体制は一晩にして瓦解した。
革命の急進化
革命が、1789年のこの一連の成果で終わっていれば、フランスも順当な民主革命を得て、イギリス的な立憲君主制による近代化に進んだかも知れない。しかし、解き放たれた民衆のエネルギーはそこで止めることができず、対立はさらに暴力化していく。1791年9月に一旦は立憲君主制の最初の憲法(1791年憲法)が制定されるが、前後して国王の国外逃亡未遂事件(ヴァレヌ事件)、共和派への弾圧(シャン・ド・マルスの虐殺)などが起こり、一方、革命を抑えようとするオーストラリアなど対外勢力との戦争がはじまり(フランス革命戦争)、愛国主義感情の高まりの中で1792年、第二革命(8月10日事件)が起こる。急進的な共和派が主導権を握り、同年9月には反革命派とされた人々の虐殺(「9月虐殺」)が起こる中で、男性普通選挙導入、王政廃止が行われ、「第1共和政」が発足した。新しく設立された国民公会のもとで、翌1973年1月、国王ルイ16世が処刑。同年6月にはそれまで優勢だった同じ共和派のジンロンド派が国民公会から追放され、ジャコバン派の独裁が始まる。全権を握ったロベスピエールは、マリー・アントワネットなど旧国王家族や王党派ばかりでなく、立憲君主派、ジロンド派、身内たるジャコバン派内の意見を異にする勢力も次々にギロチンにかけた。革命が最も急進化する「恐怖政治」の時代だ。
フランス国王ルイ16世の処刑(1793年1月)。Painting: Desfontaines/Swebach, Wikimidia Commons, CC BY-SA 4.0
テルミドールの反動、ナポレオン帝政、ウィーン体制
情勢はめまぐるしく変わり、翌1794年7月には、今度はそのロビエスピエールが「テルミドールのクーデター」でギロチンにかけられる。王党派の反乱や、「共産主義の先駆」とされるバブーフの蜂起計画など情勢不安が続く中、対外戦争で目覚ましい戦果を上げていた軍人ナポレオンが1999年11月にクーデターを起こし(ブリュメール18日のクーデター)、後に皇帝になる。「自由と平等」の理念に燃えたフランス革命が、最左派の独裁と恐怖政治、次いでナポレオンの帝政をもたらすというのはかなりの皮肉だ。ナポレオン没落後はさらに、1814~1815年のウィーン会議により、反動的な「ウィーン体制」が全ヨーロッパをおおうことにもなる。
単純には美化できないフランス革命だが、その爆発的なエネルギーの中で、封建体制を打破し、「自由と平等」への確固たる理念が近代社会にもたらされたのは事実だ。皇帝ナポレオンの対外戦争も周辺諸国への侵略だが、他面では反革命に対抗してフランス革命の熱情をヨーロッパ中に広める役割を果たし、高まる愛国心の中で諸民族の間に近代国民国家の形成をうながした。
晩年のボナパルト・ナポレオン。1820年、南大西洋のセント・ヘレナ島で。「英雄ナポレオン」でない姿も見ておくのもいいだろう。Drawing: Captain Dodgin, Wikimedia Commons, CC BY-NC-SA 4.0
群衆は英雄的にもなる
再びル・ボンの「群衆心理」だが、彼は、フランス革命を念頭に次のようにも言っている。
「犯罪的といえば、確かに群衆はしばしば犯罪的である。しかし、またしばしば英雄的でもあるのだ。群衆は、容易にある信仰、ある思想の勝利のためには身を殺すにいたるし、名誉光栄のためには熱狂するし、十字軍時代のように異教徒の手から神の墓を解放するためには、あるいは一七九三年におけるように国土を防衛するためには、ほとんど食糧や武器がなくても誘いの手にのるのである。これは、もちろん、やや無意識的な英雄的行為ではある。しかし、歴史がつくられるのは、このような英雄的行為によるのである。」(p.37)
ここで「一七九三年」と言っているのは1792年の間違いではないかと思う。1792年に革命を押さえようとするオーストリアとの戦争ががはじまったが、国王軍しかなかったフランスは負け続けた。7月にはプロイセンも加わり、フランス国王に危害を与えれば、パリを破壊すると脅迫された。ジロンド派の立法議会は「祖国は危機にあり」の非常事態宣言を出した。高揚感の中で各地から義勇兵が集まり、その中でマルセイユ義勇兵が行進しながら歌った革命歌「ラ・マルセイエーズ」は後にフランス国歌になっている。8月10日の「第二革命」を経た9月20日、新たに選出された国民公会の第1回会議開催日に、ヴァルミーの戦いでフランス軍はオーストリア・プロイセン・亡命フランス貴族連合軍に勝利した。フランス革命の進行と対外戦争の帰趨を決定づける画期だ。
上記引用にある翌「1793年」だと、フランスでは徴兵制が施行され、これが農民の悪評をかって後述ヴァンデの反乱をはじめ各地で農民反乱が勃発している。
(3)ジャコバン派の恐怖政治
国王処刑からジャコバン派独裁
その1793年は国王ルイ16世の処刑からはじまっている(1月21日)。対抗してイギリスを始めヨーロッパ諸国は対仏軍事同盟を結成し、革命の進行を押さえようとする。すでに前年からオーストリアに宣戦し「フランス革命戦争」を開始していた革命政府は2月の徴兵制導入後、3月には革命裁判所を設立した。簡易審査で判決を出し上訴権もない危い裁判所だ。5~6月にはサンキュロット(パリ底辺層)が蜂起して、穏健派のジロンド派を国民公会から追放した。マクシミリアン・ロベスピエール、サン・ジュストなどによるジャコバン派独裁、「恐怖政治」がはじまる。マノン・ロラン(「ロラン夫人」)らジロンド派実力者が断頭台に送られる。7月には国民公会内の公安委員会が改組・強化されロベスピエールもこれに加わり、恐怖政治を推進する中心となる。10月16日に前述の通り王妃マリー・アントワネットが処刑され(池田理代子『ベルサイユのばら』の主人公)、その他の王党派、ジロンド派のみならず、翌1794年3月には最左派のエベール派も抹殺された。同4月には、前年の第二革命で名声を高め、ロベスピエールの盟友として恐怖政治も主導していたはずのダントンも断頭台に消えた。6月には革命裁判所の手続きがさらに簡素化され、処刑が激増。6月10日から7月27日の間に1366人が処刑された。
フランス革命時のギロチン処刑の様子。Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
マクシミリアン・ロベスピエール。1791年の肖像。そのように描かせたのであろうが、この愛くるしいルックスが翌年には史上まれに見る大量処刑を始める。この当時彼は議会で死刑制度廃止を訴えていたともいう。純粋無垢に見えるのに、というより純粋無垢だったから? Painting: Pierre Roch Vigneron, Wikimdedia Commons, public domain
ジャコバン派独裁で1862人がギロチン処刑
フランス革命を客観的な立場から総決算したルネ・セディヨ『フランス革命の代償』(山﨑耕一訳、草思社、1991年、原著1987年)によると、革命裁判所が設置された1792年3月から、ロベスピエール自身が「テルミドールの反動」(1793年7月2日)で処刑されるまでに1862人が断頭台の露と消えた。革命広場などでギロチンが絶え間なく働き続け、多いときは連日50~60人が処刑されたという(同書、p.26)。
それだけではない。以上はパリでの虐殺だが、地方は「もっと進んでいた」。正式な統計などないが、歴史家の検証によると、恐怖政治体制下で死刑宣告を受けた者はフランス全土で1万7000人、牢獄死と私刑死が3万5000人にのぼるという(同書、pp.27-28)。1793年6月から1794年7月までにフランス全土で正式には16,594人が死刑判決を受け、そのうちパリは2,639人だったとの数字もある。
ヴァンデで40万人のジェノサイド
こうした恐怖政治による処刑は衝撃的だが、全体的には氷山の一角だった。この時期、ヴァンデ(フランス南西部大西洋岸)など各地で農民反乱が起こり、革命政府はこれを「反革命」として徹底的に弾圧した。ヴァンデでは女、子どもを含めて10万~60万が殺されたとの推計があり、セディヨは「中間をとって」40万という死者数を採用している。その他地域での反乱鎮圧を含めると60万人だ(同書、pp.32-33)。ヴァンデ地方に近い港街ナントでは、住民を船倉に密封して川に沈める大量殺人方式がとられたという。これらはもはや「ジェノサイド」と言うべき規模であり、フランス革命とは何だったのか再考を迫る数字だ。「自由・平等・博愛」の革命政府側で掃討にあたった将軍ウェステルマンは次のように証言している。
「ヴァンデーはもはや存在しない。女子供もろとも、われわれの自由の剣のもとに死んだのだ。私は彼らをサヴネの沼に葬った。子供たちを馬で踏みつぶし、女たちを虐殺したから、野盗が生まれることもない。囚人を一人でも残したと咎められるようなことはしていない。すべて処分した。••••••道という道は死体で埋まっている。死体が多すぎるので、何カ所かではピラミッドのように積み上げねばならなかった。」(同書、p.28)
全ヨーロッパを巻き込んだ革命戦争
革命が始まって以来、対外戦争は全ヨーロッパに拡大した。当然、本格的な戦闘であればさらに多くの犠牲者が出る。これも正確な統計はないが、フランス人の死者について歴史家の平均的な推計は、革命期(1789年7月のバスチーユ襲撃から1799年11月のブリュメール18日のクーデターでナポレオンが権力を握るまで)で死者40万人だとする。帝政期(それ以降、1815年6月に最終的にナポレオンが失脚するまで)では70万~170万と推計の幅が大きい。ナポレオンに皇帝退位を迫る立憲君主派ラ・ファイエットの演説では「エジプトの砂漠からロシアの草原に斃れた300万人の戦没フランス人」という言葉が出てくる。セディヨは妥当な数字としてジャン・テュラールの100万人(死者47万、行方不明53万)を採用している。つまり、フランス革命戦争(対外戦争)全期間を通じての死者・行方不明者は140万人ということになる。
なお、ここに出てくるラ・ファイエットは興味深い人物だ。改革派貴族のフランス人でありながら、アメリカ独立革命(1776年)に参加して戦功をあげ、帰国してからフランス革命に参加し、1789年のフランス人権宣言の起草に関わっている。革命軍を指揮し、バスチーユ牢獄襲撃の翌日、のちにフランス国旗となる三色旗を兵士の徽章に採用している。共和派のジャコバン・クラブとは距離を置く一方、対外戦争を戦い、オーストラリアに捕らえられ5年の獄中生活を送る。その後1799年のブリュメール18日のクーデターでナポレオンが権力を握ると、帰国。当初は協力するが、皇帝就任には反対する。上述のようにナポレオンに退位を迫る役割も果たしている。復活したブルボン王朝には協力せず、1830年の七月革命では再び革命派に加わるなど、その一貫した穏健革命派の立場をつらぬいた。
フランス人200万、全欧で490万人が死亡
上述の通り、フランス革命戦争全期間を通じての死者・行方不明者140万人だ。ジャコバン派恐怖政治によるパリでの処刑1862人、全土での死刑1万7000人、牢獄死と私刑死3万5000人などは霞んでしまう。フランス革命戦争(対外戦争)とヴァンデの大量虐殺だけで死者・不明者200万人となる。第一次大戦でのフランス人死者170万人を凌駕する(軍人140万人、一般市人30万人)。第二次大戦のフランス人死者はそれより少ない軍人20万人、一般人35万人だ。(参考までに、第二次大戦での日本人死者は、軍人212万人、一般人推定50万人~100万人。)
第一次大戦開始時のフランス人口は4000万人。それに対し革命開始時人口は2700万人と少ない。「フランス革命の代償」がいかに大きかったかこの数字からも推測できる。
フランス革命戦争は全ヨーロッパを巻き込んだ。その全体の死者数も歴史家の推定による他ないが、全体で489万9000人という数字がある(World Military and Social Expenditures 1991)。1792年~1815年のフランス革命と対外戦争全体を合わせた全欧での死亡者数で、うち41%は一般人だった。
大革命から200年以上がたち、感情をはさまず考察できるようになったと『フランス革命の代償』のセディヨは言っている。子どもの世代にとっては革命はあまりに近すぎ「熱意か、さもなければ軽蔑」で対応する以外なかった。孫の世代は神話を受け継ぎ、それを疑わなかった。革命はフランス史の最も偉大な時期として語り継がれた。しかし、本当にそうだったのか、という冷静な振り返りが今日はじまっている、という。
日本でもフランス革命は偉大な地位を占めてきた。日本はおかげまえりの狂乱があっただけだが、フランスでは民衆が戦いの前面に立ち、自ら「自由・平等・博愛」を勝ち取った。その違いがあるから現在の日本国民の権利意識や民主主義レベルが云々、といつも語られ、私もそう思ってきた。だが、これほどの暴力と残虐行為があったのに対して、「ええじゃないか」で踊りまくるうち、いつのまにか近代社会に移行したというかの国の知恵には素晴らしいものがあったのではないか、と思えてくる。(ただし、明治維新も、確かに江戸開城は無血だったが、前後して幕府による長州征伐、京都における新撰組や見廻り組による殺し合い、戊辰戦争、西南戦争など多くの流血事件があったことも射程に入れなければならない、との意見もある。)
(4)革命から何が生まれたのか
「自由と平等」、革命暴力、近代国民国家
フランス革命は、近代のはじまりに起きた超新星爆発、あるいは巨大なブラックホールの暗黒出現と言うべきか。「自由・平等・博愛」の革命精神を高らかに打ち上げたのは確かだ。しかし、同時にその高揚が果てしない暴力と、大量のギロチン処刑と、暴動・虐殺の連鎖を招いたのも確かだ。そこから独裁と専制、皇帝と帝政も生んだ。反革命と戦うという大義をかかげてヨーロッパ中に打って出て、革命的愛国心を発散した。それに対抗して、周辺諸国も一方で革命の影響を受けながら、自国防衛で愛国心を高め、ヨーロッパ規模での国民国家形成を促した。
革命と反動が繰り返し、コミューンと専制が交互し、バブーフ共産主義の陰謀も生み、ヨーロッパ中に動乱を起こし、その跡に490万人の屍が残った。ウィーン反動体制が成立し、王政が復古した。…しかし、その後も、七月革命、二月革命、パリコミューンと激動は繰り返され、諸国でも多様な革命と近代国家建設が進んでいくのだが。
一体ここから何が生まれたのか。一つには、今問題にしている「全体主義民主主義」が生まれた。共産主義の萌芽も生まれた。19世紀に続くこの革命的高揚を呼吸していたのがマルクスだ。この歴史の動転の中からマルクス主義の革命理論が紡ぎ出された。それはさらにロシア革命に引き継がれていくが、もう一つ忘れてならないのは、革命的情熱が愛国心と結びつき、強力な国民国家形成、国家主義の潮流も生んだことだ。恐怖政治や帝政など国家に託された全体主義は強烈な国家間戦争と、さらにはナチズムにつながる右派の全体主義を形成していく。
第3の変種:アメリカ的自由放任資本主義
その右派全体主義はここでは扱わない、とタルモン『フランス革命と左翼全体主義の潮流』は明記しているのは前述の通りだ。左翼全体主義の系譜に絞り徹底して分析した。それはいい。ないものねだりはしない。しかし、今日、自由主義的民主主義の権化であるはずの超大国で、その頭目が、グリーランド侵攻やパナマ侵攻まで示唆している。まるで19世紀の帝国主義だ。そしてこういう頭目をそこの国の民主主義が選出している。トクヴィルも泣く他ない。今問題にしなければならないのは、こうした各国で力を増す右派全体主義、ポピュリズムではないのか、という思いもある。
異なる体制を外から見れば、その欠陥はよく見える。アジアの専制超大国や、共産主義から離れても負の遺産を振り払えない別のユーラシア大国、そしてその国の戦争に自国民を送り命を代償に体制を富ます別の専制国家。それらはよく見える。しかし、自分もその中にはまっているかも知れない体制の欠陥はよく見えないものだ。カルトにはまったのを外の人が見ればよくわかるが、内側からは気付きにくい。
タルモンもこの書で直接の対象にはしなかったが、右派の流れも枠組みにとらえていることは確かだ。一カ所だけ「アメリカに存在する自由放任的資本主義信条 ― それもまた一八世紀の諸主義から出たものである」と言及したところがある(p.289)。訳者・市川泰次郎の「訳者ノート」によると、タルモンは彼への私信で次のような指摘をしてきたという。福祉国家の出現で、資本主義対社会主義よりも、本書のような思想・発想的なレベルでの比較をすることが重要になっていることを言っているが、そこでアメリカ的自由放任主義についても触れている。
「過去においては、通常、万人にとって自由な資本主義と、社会保障を成就する社会主義とを分けて、対立させてきた。しかし、福祉国家の出現をみたこんにち、こうした旧い区別はもう意味をなさなくなっている。いまや正しくは、絶対主義的政治思想と経験主義的政治思想とを対立させるべきである。しかし、そうするときわたくしはアメリカの資本家的自由放任主義の信条というものを、ヨーロッパ的意味での福祉国家でもなく、またけっして社会主義的イデオロギーではないが、なおかつ、ある種の救世主主義的倍音(オーバートーン)に欠けていないものとして、第三の変種とせざるをえない。」(pp.302-303)
アメリカには、自由な資本主義と市場経済は素晴らしいというもろ手を上げての自由放任主義賛美があることを知っている。確かにそれも「第3の変種」の救世主主義信念なのだろう。それがどこから出て、どのような全体主義あるいは他の錯誤に進むのか、タルモンから聞きたいものだが、残念ながら彼はそれを書くことなく、1980年に没した。
ソ連型社会主義へ
タルモンの基本テーマは、フランス革命で輪郭を現した「全体主義民主主義」が、20世紀のソ連型社会主義につながっているという認識だ。全体で3巻の書物を計画しており、1951年出版の本書はその第1巻目に当たる。その序文は次のようにプランを示していた。
「全体主義的民主主義の起源についてのこの研究のつづきはもう二巻書くこととなる。第二巻を十九世紀西ヨーロッパにおける全体主義的民主主義傾向の消長にあて、第三巻では一八六〇年から現代にいたる東ヨーロッパ、ロシア、および「人民民主主義国」におけるその歴史をあつかい、かつ同時代の極東における発展にふれる予定である。」(p.vi)
1961年に第2巻に当たるPolitical Messianism – The Romantic Phaseを出版したが、それ以上の追求はやめたようだ。この第2巻自体も二月革命(1848年)までの空想的社会主義潮流の分析で終わっている。確かに彼の手法で、フランス革命からロシア革命までをつなぐのは難しいだろう。確かにフランス革命・革命戦争の影響を受けて1825年にロシアでデカブリストの乱が起こっているし、無政府主義者バクーニンは1948年の仏二月革命に呼応した独三月革命に参加しているし、1860~1870年代にはそうした流れを汲むナロードニキの運動も高まっている。しかし、タルモンの視点はどちらかといえば思想史だ。社会学的な分析は当時まだ一般的ではなかったのかも知れない。あれこれの実践家の必ずしも体系的でない言葉をつないでもロシア革命への道筋を明らかにするのは難しい。いや、彼の場合は思想史ですらない。その思想が起こってくる論理枠組み、発想レベルでの分析だ。それをフランス革命を対象に十分に解き明かした。それの以後の歴史への波及については、次の言葉を残している。
「フランス革命からこんにちまで、最後の審判の日のため熱心に準備を整えている人びとと集団がヨーロッパにはつねに存在している。その行動は、歴史には宿命的な大団円があり、かような神によって定められた終着点に向かって、歴史は不可避的に進んでいるという信念にもとづいている。その日がいつ来ても自分たちは現実を造り変える力をもつプロメシュースとしてなり歴史の助産婦としてなり、いつでも応じられるようにと用意している。かれらの運動は同一性と連続性とをもつ統一体となっている。これをわたくしは革命の原因、すなわち救世主主義の運動とよぶ。その運動の頂点に達したのがボルシェビキ革命である。事実に即していうと、この種のイデオロギーの衰退が、すなわち現在世界的にイデオロギー上の緊張緩和が起こったようにみえるが、一世紀半の昔に始まった救世主主義運動が後退に向かっているとはいえないだろう。われわれはさらに新しい発展を予期すべきであるように思われる。最も著じるしいことは、この政治的救世主主義が西ヨーロッパにおいて、生まれ育ったにもかかわらず、そこでは勝利せず、東方に拡がり、ロシアで発展し、そこから極東に進出し、ついには他の諸大陸にも達する運命にあったということである。まったく新しい文明に移殖されたこの政治的救世主主義は今後どうなるであろうか。」(pp.308-309)
ソ連時代のポスター。1963年。Flickr, CC BY 2.0
カルトからの脱出
タルモンのいう「全体主義民主主義」を一言で言い表せば「カルト」だろう。絶対的真実を会得した。だからその方向に社会も変える。そのためには自分の命を賭してもいいと考える。が、同時にその逆に、正義に立ちはだかる者たちを消滅させてもいい、しなけれならないとも考える。タルモンの主要論点は、包摂的ですべてを解決する真理があるという思想と自由とは相容れないということだ。カルトは、たとえその時の社会的主張が大まかに「正しい」場合でも、本質的に自由とは相いれないものをもっている。これを全編で視点を様々に変えながら主張した。
タルモンはカルトの言葉を使ってないが、「スターリン個人崇拝」は英語ではStalin’s cult of personalityで、カルトだった。1956年のソ連のスターリン批判でも「カルト」が使われた。つまり、ソ連共産党第20回大会でのフルシチョフ秘密報告「個人崇拝とその結果について」の中のこの「崇拝」も、ロシア語でカルト(культе)だった。
タルモンは、こうした全体主義民主主義に陥った人々を外部から救済する手法を、あたかもカルトに陥った人々の更生過程であるかのように次のように叙述している。
「歴史家あるいは政治哲学者の力は、現実を左右するには、もちろんきわめて限られているけれども、それらの展開に当たってとるべき心の構えには、影響を与えることができる。精神分析学者が人間の意識下にあるものを知覚させる方法で患者を治療するのと同じように、社会分析学者は、全体主義的民主主義を生んだ人間的衝動すなわち、いっさいの矛盾と争いとを最終的に解決して全体的調和の状態をもたらしたいという切望を処理することができるだろう。人間社会と人間生活とは、決して静止状態へ到達することはできないという真理をのみこませるのは、苛酷ではあるが、しかし、必要な仕事である。かれらの想像している静止は、牢獄の提供する保障の別名であり、それにあこがれるのは、ある意味では卑怯と怠惰とのあらわれであり、人生とは永遠であり、けっして解決をみない危機であるという事実に直面することができない証拠である。努力とまちがいとをくり返しながら進んでゆく、試行錯誤の方法以外この世に道はない。」(pp.289-290)
神に代わるもの
マルクスの理論は、多様な人が自由に主張、実践を行った後にそこからどう社会的合意をつくっていくかを示す理論ではない。それは、この世界には法則が貫いている、と強烈に人々を揺さぶる。社会の根底には階級闘争、そして経済の原理が貫かれており、それで社会が変わっていく。原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義などが生起し、やがてそこから社会主義が生まれる。これが真理だ。そのように我々の世界が動いているのだ、と主張する。
今となっては破綻した予測だが、そこにユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教の苛烈な宗教的伝統があることは看取できる。日本人はあまり神を信じていない。八百万(やおろず)の神は居るが、この世界を一元的に始原からつくりだす絶対神は居ない。存在を全一的に説明しようとする理論に乏しいし、あまり求められもしない。共同体での細やかな付き合いの中で生きるかてを見出している。しかし、一神教の世界は、神の包括理論が世界を説明し、その前で、個人はどう生きるのかを激しく問うてくる。
近代思想は、こうした宗教的幻惑を徐々に解いてきた。はっきり宗教を否定する思想も出た。しかし、宗教を拒否するからこそ、それに代わる何かを示さなければならなくなった。すべてを説明しつくす神が居なくなった後に、人は何を信じるのか。神は否定しても「何を信じたらよいのか」の思考構造自体は残った。
18世紀の思想家たちは、自分たちも新しい宗教を説いているかのように振舞ったとタルモンは言う。教会を批判し、カトリックの教義を否定するからにはそれに代わるものを提供しなければならないという観念が当時の時代背景にあったとし、次のように言う。
「かれらは強い挑戦に対面していた。人間と社会に対して絶対的なよりどころを提供すると教会は主張し、さらに自分らが人間的社会的生活のいろいろな面にわたって究極的であり、また全包括的な人類の統一を具象しているとも主張した。教会は現世的哲学を、私道徳と公共道徳にとって最も本質的なこれらの二つの条件を破壊し、それによって倫理の基礎そのものばかりでなく、じつに社会自体をもくつがえすものであるとして非難した。…哲学者たちは、ディドロがいっているように、この挑戦を強く感じて、自分たちのいう道徳が宗教的倫理に劣らないばかりでなく、むしろはるかにすぐれているものであることを示すのは、神聖な義務であると考えた。」(pp.24-25)
既存宗教を否定した急進派ジャコパン派も同じだった。その最左派エベールは、1793年10月、ノートルダム寺院で「理性の祭典」を挙行する。キリスト教に代わる「理性」への崇拝を唱道する祭典だ。ロベスピエールは、これを批判しエベールを翌94年3月に処刑する。ところがロベスピエール自身も同6月、革命を神聖化する「最高存在の祭典」という宗教的なイベントを強行している。
一般意思から人民主権、プロレタリアートへ
フランス革命の時代に、新しく神の座に祭り上げられたのは、ルソーに発する「一般意思」というあいまいな概念だった。革命による人民主権で人々の「一般意思」が体現され、それを革命派(ジャコバン派)が担っている。だからそれと異なる分派は起こらず、、起こってはならず、少しでも異なれば排除した。が、革命のなごりが残る19世紀、マルクスというすさまじい理論家が出てこれを精緻化した。原始の共産主義から将来の社会主義、共産主義に至るまで、資本主義の搾取構造から「プロレタリア独裁」を経る革命理論の詳細まで、巨大な体系をつくり上げ人々に示した。東方正教会を信仰する「聖なるロシア」の宗教的土壌にこれが迎えられ、さらに教条化されていった。
一神教の伝統がなかった日本では、全一的世界観はマルクス主義を通じてもたらされた側面が強い。多くの人にとりマルクス主義は、最初に遭遇した一神教的・包括的な理論体系だった。だから簡単に落ち、その軍門に下った。研究者にとっても、こうした包括的体系が背後にあることはありがたい。大理論はそれにまかせ、特定の狭い専門分野に安心して入っていける。大理論を前提に、それを精緻化するような研究に精出せる。むろんそれは知的堕落で、本当のことを言えば、狭い分野に向かうのでも、背景の大理論をくつがえす可能性があるという緊張を常にもち、未踏の地を行く知的挑戦を行うべきなのだが。
(結論)
全体主義民主主義の議論も最終コーナーに来た。何らかの結論を出さなければならない。
必要なことは、これまでの議論からも明らかなように、全体主義民主主義、あるいはその発展形態である社会主義に対して、何か別のイデオロギーを提示することではない。その根底に横たわる発想法、カルト性を問題にする。タルモンの言葉で言えば「経験主義的で自由主義的な民主主義」をとるということになるのだろうが、それは特定の社会理論、革命理論をとることを必ずしも意味しない。私たちの社会を分析する視角は様々にあるし、社会を少しでもよいものにしていこうという思想、理論も多様にある。これを活発に自由に追求していこう。しかし、決してそれを絶対視せず、他者の自由も認め、そこからの批判にも学びながら、常によりよいものにしていく、ということだ。
当たり前のことに聞こえるが、「これが真実だ」と迫る大理論にかく乱され、18世紀フランス革命から20世紀社会主義(やその他多くのカルト)の残虐性を経験してきた私たちが立ち返るべきは、なおそういう所に過ぎない。
社会に向かう局面で、私たちがもう少し具体的な分析や理論をもつのはあり得るし、もたなければ何もできない。そのレベルの基本的考え方を挙げろと言われれば、自由と平等、人権と多様性、言論の自由と結社の自由、多数決と選挙と議会、三権分立など権力の分立、自由な市場と福祉セーフティネット、起業家経済と個人・小企業の唱道、NPOによる代替的公共の実験的提供と集権的公共のチェック、などなどリストを並べられる。これを何主義というのか知らないし、何主義だとだれかに言われたくもない。大切なことは、あくまでこうした理念を現状もっているということであって、今後の様々な実践、異なる考えから学び、社会の変化も分析して発展させていくということだ。絶対善ではなくて、常に異なる考え方があり得るという精神的空隙を残す。異なる他者の自由を認めるということでもある。
逆説的だが、何か信条をもって進む人も認める。多くの殉教した人たちを知っている。自分を絶対化しない以上、カルトを含め異なる生き方を認める。カルトに居る人を懸命に説得するが、強制的に変えることはできない。再掲だが、タルモンの次の厳しい言葉を投げかけてもいいだろう。カルトを信じる人たちの理想の社会を「静止状態」と表現している。
「人間社会と人間生活とは、決して静止状態へ到達することはできないという真理をのみこませるのは、苛酷ではあるが、しかし、必要な仕事である。かれらの想像している静止は、牢獄の提供する保障の別名であり、それにあこがれるのは、ある意味では卑怯と怠惰とのあらわれであり、人生とは永遠であり、けっして解決をみない危機であるという事実に直面することができない証拠である。努力とまちがいとをくり返しながら進んでゆく、試行錯誤の方法以外この世に道はない。」(pp.289-290)
絶対真理などない。多様な人々が多様に追求して、徐々に少しずつ明らかにしていく相対的な真理しかない。永遠に続く追求だけが真理であって、あると信じたい真理は常に、おそらく永遠に変化し他の次元に転移する。自然科学でさえそうだ。私たちを含むこの宇宙とは何か。この宇宙は、物理法則さえ異なる無限とも言える多元宇宙の一つかも知れない。広大な存在の中で、単にシミュレーションされたデジタル虚像の地位に落とされるかもしれない。先はわからないが、それを追求して努力する人間活動だけは偉大だ。その「自由」だけは認められ、讃えられなければならない。
神が出てくるかどうかは別にして、私たちは常に、何か広大な真理の中で生きている、と考える観念にとらえられてきた。その中で何らかに真実と思える生き方を会得し力強く生きるのはいいし、認めよう。だが、それは常に別の、新しい何かに置き換えられ、発展する可能性のあるものであることを、枠組みとして理解した上での信念でなければならない。だから異なる他者が必要だし、他者の自由とその思想、実践が必要だと受け入れる。そうした生き方と関係性を可能にし保証する体制を確保する。それが、18世紀以降、今日に至るまでのカルトの暴発を経てきた私たちの課題だ。