吉良上野介をしのぶ

ニューヨークからさほど近いというわけではないが、忠臣蔵の吉良上野介ゆかりの地、吉良(愛知県西尾市)に行ってきた。帰国の折、週末の旅先選びで、カミさんが「吉良温泉」という選択枝によく反応したからだ。伊勢、瀬戸、関ヶ原、馬籠など名古屋近隣の一流どころはほぼ行っている。目立たない「吉良」が、しかし、なかなかネームバリューはあり、出かけてみることにした。

日本を安く旅する法

行き当たりばったりだったので、週末の吉良温泉宿はすべて満員だった(高級ホテルは当たらなかったが)。こりゃ、外国旅行より日本国内旅行の方が難しいぞ。その辺をぶらついて帰ろうとしたが、名鉄吉良吉田駅近くの小さなビジネス旅館が空いていた。しかも一部屋2人で6000円。がらがらで他にほとんど客が居ないのが不思議だった。宿のおかみさんによると、ビジネス旅館は週日は込み合うが、週末は空く。逆に温泉地の旅館は週末満員になるのだという。なるほど、これは発見。日本もこの方式なら安く週末旅行ができる。地方にはリーズナブルなビジネス旅館が結構あるようだ。ネットカフェ泊もよいが、これも今後選択枝に含めよう。

悪人として歴史に葬られた吉良上野介

吉良上野介(義央)は、明智光秀と並び日本史上では2大極悪人といっていい存在。忠臣蔵が、日本人の魂の根幹に触れる物語になればなるほど、吉良上野介は憎んでも憎み切れない極悪人にされた。そう仕立て上げられなければならなかった。不憫だ。

吉良の人々も、吉良上野介を前面に立てた観光振興はできないようだ。吉良吉田駅近くの「吉良歴史民俗資料館」は「塩田体験館」と一体化され、展示も製塩産業関連が中心だった。吉良町自体も今は西尾市に併合され、町名としては残っていない。上野介は高家旗本として江戸住まいの不在領主だったせいもあるが、この地域の主要城郭である西尾城を訪れても、「松平6万石の城下町」の歴史の陰で吉良氏はあまり目立たない。

西尾城の天守閣。
愛知県西尾市のシンボル、西尾城。(このページの写真、不鮮明。ご容赦。)  

華蔵寺、一見の価値あり

そうした中で、吉良家の菩提寺「華蔵寺」は一見の価値がある。名鉄上横須賀駅から北に3キロ。バスもなく行きにくいが、駅前で無料のレンタサイクル「赤馬Go! 」が借りられる(週末にやっていないのが残念)。丘陵沿いにひっそりたたずむ寺は、吉良氏に興味がなくとも味わい深い。特に本堂裏にある日本庭園は手入れが行き届き、見事だ。

この寺に上野介(義央)ら一族の墓がある。不当な烙印を押されたまま歴史の闇に葬られた人に深く哀悼を表した。完全武装したテロリストに夜半襲撃され、なぜに絶命させられねばならなかったのか。松の廊下でも切り付けられた。赤穂藩主・浅野内匠頭(たくみのかみ)が切腹させられたといっても、それは幕府が命じたことだ。領地で上野介の評判は良かったようだ。堤防を整備し、新田開発を進めた。赤馬に乗って堤防視察をしたことから「赤馬」という地元玩具がつくられるようになったという。(レンタサイクルもその名前をとっている)。

華蔵寺の本堂。
吉良家の菩提寺・華蔵寺の本堂。
華蔵寺裏手の日本庭園。
本堂の裏にある日本庭園。手入れが行き届き見事なたたずまい。これを見に来るだけでも価値がある。
吉良上野介(義央)の墓。
吉良上野介(義央)の墓。

ただひたすらに忍べよ

武装した襲撃者側に死者はなかったが、吉良家に居た人たちは15~20人が亡くなったようだ。上野介の養子(実の孫)で当時18歳の吉良義周も負傷し、事件後、改易の上、信濃国諏訪藩(高島藩とも言われる)の高島城に幽閉。病いに伏し、21才で死去した。その義周が残したという言葉が、華蔵寺の石碑に記されていた。

「公よ忍べ、ただひたすらに忍べよかし、公の隠忍は知る人のみ知る真の強さなればなり」

反論することもできず、死んでからも世の非難にひたすら耐え続ける、というのはあまりにも悲しい。

西尾城見学の際、居合わせた郷土史家から話を聞くことができたが、「赤穂で討ち入りの日に、エイエイオーと勇ましく義士祭をやるとき、私たちは、しょんぼりと、つらかったでしょうねと先人を弔らうんです」と話していた。テレビドラマなどで忠臣蔵の新しいとらえかえしが行われたりすると、一般国民もだまっておらず、テレビ局に抗議が次々舞い込むともいう。

上野介の養子(実の孫)の吉良義周が残したとされる歌が刻まれる石碑。
上野介の養子(実の孫)の吉良義周が残したとされる歌が刻まれる石碑。

消された者に寄り添う

さすれば私も一言断っておかねばならないだろう。決して四十七士をけなそうというのではありません。悪人として不当に歴史に葬り去られた人は昔も近現代にも無数に居たのです。そういう人の苦しみに少しでも寄り添うよすがとして上野介さんに思いをはせただけです。