「喜連川湖」決壊と那珂川の東遷 -20万年前、関東北部で

ノアの箱舟と黒海洪水説

紀元前5600年頃、淡水湖だった黒海に地中海側から大量の水が流れ込み、海の一部としての黒海が形成された。氷河期が終了して海水面が上がり、現ダーダネルス海峡付近の地溝が決壊し、大規模な「黒海洪水」が起こった。ナイアガラの滝の200倍の水が毎日300日間連続で流れ込み、淡水湖だった旧黒海の沿岸平野を広範に水没させた[1]。「ノアの洪水」神話はこの記憶を原型にしているとの説がある。この大洪水から古黒海沿岸部に住んでいたインド・ヨーロッパ語族の拡散がはじまったと主張する人々も居る。

依然、学界で議論のある仮説ではあるが、海や湖が決壊して大規模な地形変化が起こる事象は珍しくない。日本では、火山噴火で川がせき止められ、その堰止湖が決壊して新しい河川流路ができるなどの事例がよく知られる。首都圏近くでは、約20万年前に起こった那珂川(栃木県東部)の「喜連川湖」決壊がドラマチックだったろう。

関東地方の地形図。那珂川は栃木県の那須・高原山系から同県東部を通り、八溝山地を貫流して茨城県に入り、水戸などを経て太平洋に注ぐ。 “Topographic map of Kanto Region,”  Wikipedia Commons, CC0 1.0

かつて那珂川は関東平野を南に流れていた

現在の那珂川は、那須・塩原山系から関東平野部北東端を流れ、八溝(やみぞ)山地を貫通して茨城県の水戸市などを経て太平洋に注ぐ。しかし、約20万年前まで、この川は八溝山系を超えず、南流したまま、古鬼怒川などとともに(もしくはそれに合流し)霞が浦を経て太平洋に注いでいた。(ちなみにごく最近の江戸時代まで鬼怒川は利根川とはつながっておらず、むしろ、現利根川下流が鬼怒川の下流河道だった。古利根川は東京湾に注いでおり、鬼怒川水系と利根川水系は関東平野を東西に分ける別々の二大水系だった。江戸時代の人為的な流路変更で利根川は鬼怒川につながれ、古鬼怒川下流が利根川本流となった。鬼怒川は利根川の支流となった。いわゆる「利根川の東遷」だ。)

この関東東部の大河、古鬼怒川・那珂川水系の上流で35-40万年前、高原山の大規模噴火が起こる。那須・高原・日光連山は50万年前ほどから活発な火山活動をはじめていたが、その中でも高原山は直径6キロの広大なカルデラ(「塩原カルデラ」)をつくる大規模噴火を繰り返した[4]。噴出物は火砕流(「大田原火砕流」など)や火山灰土として那須野が原や塩那丘陵(喜連川丘陵)を形成した。

私の実家のある栃木県那珂川町からさくら市喜連川(きつれがわ)・同氏家(うじいえ)方面にサイクリングをすると、幾度となく緩い丘陵地帯を昇り降りする。ちょうど高原山からの噴出物の帯が扇状に広がる形で、そこに何本もの浸食河川平地がやはり扇状に走る。そこを横に突っ切っていくから、自転車には無慈悲な上り下がりの繰り返しとなる。登って下るだけなので標高はあまり変わらない。しかもなだらかな丘陵なのでゴルフ場に適し、塩那丘陵だけで30カ所近いゴルフ場が立地する。

栃木県東部を流れる那珂川。那須郡那珂川町付近。地質時代の長い時間をかけて栃木・茨城県境の八溝山地の山麓(写真右手)を削り込んできた。
那珂川は那須岳(右)、高原山(左)連山からの水を集めて流れる。
さくら市喜連川付近の荒川(東京湾に注ぐ荒川とは別)。那須烏山市付近まで流れ那珂川に合流する。この地域には、高原山からの火山性堆積物で形成された塩那丘陵(喜連川丘陵)が広がり、何本もの川がそれを削り谷部平野を形成している。丘陵の帯と河川平野の帯が交互に南東方向に走っているような地形だ。

「喜連川湖」の決壊

さて、この高原山からの火山噴出物にせき止められた那珂川は「喜連川湖」をつくっていた。噴火が繰り返される中でそのせき止め部分は徐々に高くなり、やがて那珂川は湖から南に下っていけなくなる。八溝山地の地溝部分にあふれ、現茨城県側に流路を求める。この時、八溝山地の東側(現茨城県側)には久慈川が流れ、その支流が東側から八溝山地を浸食し続けていていた。現茨城県側の瓜連(うりづら)丘陵から現栃木県側の逆(さかさ)川周辺にかけてが、そうした相対的に低い地溝だった。20万年前、そこで決壊が起こる。喜連川湖から大量の水が現茨城県側に流れ、那珂川の流路が根本的に変わってしまった。

江戸時代の土木工事による利根川の東遷(利根川の古鬼怒川下流河道への誘導と鬼怒川の支流化)も、かなり画期的な流路変更だったが、この那珂川の八溝山地貫通も(こちらは自然現象だったが)相当ドラマチックな流路変更だった。以後那珂川は鬼怒川水系や利根川水系がつくる関東平野主要部から分離され、単独の水系として、関東平野北東端で太平洋に注ぐことになる。

那珂川は、中流の栃木県那須烏山市付近で上流よりむしろ谷が深くなり、河川平野も狭くなる。そして、この茂木町付近(写真)から八溝山地「横断」の流路がはじまっていく。Pohoto by Σ64, Wikipedia Commons, (CC BY 3.0).

この狭谷地帯は今でも水害の起こりやすい地域で、2019年10月12日の台風19号でも大きな被害が出た(下記映像参照)。那須烏山市内で、床上、床下浸水205棟。

瓜連丘陵に証拠が残る

この喜連川湖決壊と那珂川流路変更を示す証拠が、茨城県瓜連(うりづら)丘陵の地質調査から見出されている[2]。水戸市北方20-30キロにあるこの小丘陵地は、久慈川と那珂川の流路が近接する地域だ。その地中には非火山性の久慈川の土砂が堆積した引田(ひきた)層、所貫(ところぬき)礫層などがあり、久慈川の河谷だったことが推定される。だが、このすぐ上に堆積した栗河(くりかわ)軽石層はまったく異なる安山岩など火山性の岩石の堆積層だった。これは八溝山系の東(久慈川流域)にはない岩石成分で、同山系の西、那須・高原火山からの流出物の堆積物であることがわかった。つまりこの地層が形成されはじめた時点で西の河川が八溝山系を貫通したことが示された。

瓜連丘陵を調査した坂本、宇野らは次のように言っている(以下、文献2より)。

「粟川軽石層とその直下の所貫礫層とでは、その中に含まれる礫の種類にいちじるしい差があることはすでに述べた。すなわち、前者に大量に含まれる那須あるいは高原火山に由来するとみられる新鮮な安山岩の礫は、後者にはまったく含まれていない。このことからみると、那珂川の流域の変化は、所貫礫層の堆積期と粟河軽石層の堆積期との間で生じたものであろう。栗河軽石層そのものが、那珂川の八溝山地貫通と流域の西方拡大に直接に関連した堆積物と思われる。」

ここで那珂川の東方拡大ではなく「西方拡大」としているが、間違いではない。この著者たちは、かつて八溝山地を東側から少しずつ浸食していた久慈川支流を古那珂川としており、そうすれば西側の川との連結は「西方拡大」になる。逆に、那須・高原山系から出た西側の水系を古那珂川とすれば(こちらの方が自然と思われるが)、「東方拡大」になるだろう。ただし、この場合は、筑波山系を大きく迂回していたと思われる流路が、中途近道で太平洋に出るようになったのだから、河川長も流域面積も「拡大」にはならず、むしろ縮小しただろう。

「大崩壊」の可能性

坂本、宇野らは、那珂川の八溝山地貫通が、浸食で徐々に進んだものでなく、突発的なものだったことも示唆している。

「粟河軽石層の堆積の状況については、かなりの想像をまじえていえば、『那珂川(八溝山地東側を刻んだ久慈川支流のこと…引用者注)の谷頭が鬼怒川地溝(八溝山地の西側…引用者注)に達し、両者の間の障壁が破られたとき、そこに大崩壊が生じ、その崩壊による泥流が約20 kmの峡谷を流れ下り、下流のやや開けたところに堆積したもの』ということができよう。この時期に、鬼怒川地溝内には”喜連川湖”が存在したとされているが、あたかもダムの決壊のような事件をこの間に想定するわけである。そして、この”崩壊堆積物”がほとんど軽石や新期安山岩礫のみからなることからみると、障壁の崩壊がたんに那珂川の谷頭浸食の連続的な進行の結果として生じたというよりは、”喜連川湖”への大量の火山噴出物の流入が衝撃となって、障壁の崩壊を決定的にしたのかも知れない。」

荒ぶれる那珂川

那珂川は、約20万年前[3]という(地質時代的には)近年に八溝山系を貫通し太平洋への近道を見出した。筑波山系の西を迂回していた頃より流れは急になり浸食も進む。那珂川は、上流に比して中流の河川勾配が大きいなど、未だ河川地形が平衡状態に達してないという[3]。比較的に急な流れは周辺平野・丘陵を浸食し、河川争奪の末、鬼怒川諸支流をここ10万年の間に次々と「奪い」、成長してきた。つまり浸食が激しければ、隣接する緩い流れの川近くまで河道浸食がすすみ、結局その川の水も自らの流れに取り込んでしまう、ということだ。

私はよく、那珂川中流の那珂川町からいくつか丘陵を越え、さくら市(喜連川、氏家)・宇都宮方面にサイクリングをする。那珂川は八溝山系のふもとを流れている。感覚としては「山の中から関東平野の大平原に出る」というイメージなのだが、調べたところ、この栃木県中央部の関東平野標高は160メートル前後、那珂川河畔の標高は約100メートルだった(やや下流の那須烏山市内河畔は60メートル)。「山の中」の方が標高が低いのか、と不思議だった。それだけ那珂川は、周囲の関東平野面より深く浸食を進めているということだ。

したがって、人為的につくられた堤防などがなければ、長い期間のうち、那珂川はさらに付近の関東平野と丘陵を浸食し、隣接河川を自分の方に流し込んでいく可能性がある。例えば那珂川の支流に、その名も「荒川」という荒ぶれる川がある。埼玉、東京を流れ東京湾に注ぐ荒川とは別で、高原山系から栃木県塩那丘陵の南部を流れる比較的流れの速い那珂川支流だ。この流路を見ていくと、矢板市域内、東北新幹線、東北自動車道が通る付近で、鬼怒川が1.5キロ離れる距離で並流している。両者を隔てる山があるわけでなく、比較的平らな水田地帯があるだけ。自然にまかされれば洪水などで容易に鬼怒川上流が那珂川水系に「奪われる」可能性がある。

鬼怒川の上流部には日光連山から流れ出る大谷川が流れ込んでいる。これも、地形を見ると、もともと宇都宮方面に向かう赤堀川、田川などの流路を流れていたものが、河川争奪により、より流れの急な鬼怒川方向に東進させられた形跡がある。それをまた、さらに流れの急な那珂川水系(荒川)が奪おうとしている、ということで、なかなか複雑な地形状況だ。

もともと、八溝山系から加波・筑波山系に至る山塊は、関東平野に「不自然に」はみだした山地帯だ。これから何十万年、何百万年もかけて関東平野の河川群に浸食されていく運命にあるのかも知れない。その急先鋒を担い始めたのが那珂川だった、ということかも知れない。

栃木県矢板市域を流れる那珂川水系の荒川。この約1.5キロ南西(左手)に鬼怒川が流れる。
矢板市付近で、荒川の1.5キロ隣を流れる鬼怒川。鬼怒川は日光連山(写真中央)と高原山系西側の水を集めて流れて来る。中禅寺湖や華厳の滝を形成する大谷川もこの上流で合流している。

20万年前に日本列島にまだホモ・サピエンスは居なかったが、それ以前のヒト属が居て那珂川の「ノアの箱舟」小型版を体験したかも知れない。私たちは、動かぬ大地の上で営々と郷土の文化や産業がはぐくまれてきた、と思うわけだが、長い地質時代の間には地形も変わる。その中でも特に河川は変動の激しいものだろう。変わりゆく大地との交流の中に人の営みがあり、歴史がはぐくまれる、という視点ももちたい。

(参考文献)

1.John Noble Wilford, “Geologists Link Black Sea Deluge to Farming’s Rise,” The New York Times, December 17, 1996; W.B. Ryan and W.C. Pitman, Noah’s Flood, The new scientific discoveries about the event that changed history, 1998(邦訳『ノアの洪水』川上紳一 監修)

2.坂本寧・宇野沢昭「茨城県瓜連丘陵の第四系と久慈川・那珂川の河谷発達史」『地質調査所 27』1976年。

3.大嶋和雄「久慈川の環境資源」『リバーサイドレポート』第10号(1997年3月)

4.吉川敏之「大田原火砕流」『栃木県の地球科学』