独房の展示
かつての秘密警察本部の地下に、暗く冷たい穴蔵があった。まったく窓のない房もあれば、立つことのできない低い天井の房もあり、横たわることができない狭い房もあった。
第二次大戦中にファシスト政権の秘密警察、そして戦後はハンガリー社会主義政権下の「国家保衛庁」(AVH)の本部となっていた建物が、現在、「恐怖の館」博物館として公開されている。20世紀にハンガリーが経験せざるを得なかった二つの恐怖政治の実態を展示するとともに、そこで拷問され処刑された者たちの鎮魂の場所ともなっている。
多くの展示も優れているが、地下にそのまま捨て置かれた監獄が何よりも人々に非道を訴えかける。小さな窓のある比較的ましな独房でさえも、その冷たい暗い空間に立つと当時の人々の味わった苦しみが伝わってくる。そのイメージを「見る」だけではだめだ。その「空間に立つ」こと。そこで人々は初めて何かを感じる。例えば東日本大震災の映像を見るだけではわからない。まわりの環境すべてが破壊されたその場所に立つことで人は初めて体に戦慄が走るのを感じる。
この暗い牢獄の岩壁を見ながらついえていった命がどれだけあったか。この獄壁を見て消えながら人は何を考えたか。20世紀社会主義の犠牲者の数は全世界で2000万人との推計もある。ここだけでなく、どれだけの人々の感情が同じように消えたのか。何も語らない何も説明のない獄の静寂から、想像が走る。
ファシズムと共産主義と
第二次大戦中、ルーマニア、フィンランドなどともに枢軸側に居たハンガリーは、ドイツ敗戦が濃厚になるにつれ連合国側との講和に動いた。そこに1944年10月、ドイツの支援を受けたハンガリーのファシスト党「矢十字党」のクーデターが起こる。翌45年2月にブダペストがソ連軍に陥落するまでの短期間、ファシスト政権が存在した。
ソ連占領後、共産主義政党ハンガリー勤労者党が権力基盤をかため、1949年にハンガリー人民共和国が成立。同党のラーコシ書記長は忠実なスターリン主義者で、反対勢力を徹底的に弾圧・粛清した。その先鋒を担ったのが国家保衛庁(AVH)だった。「当初は、ソビエト連邦の秘密警察の付属物だと考えられていたが、1948年から1953年までに行った一連の粛清の残虐さにより、独自の悪評を得ることになった」という。(AVHの設立は1950年。その前身は45年のPRO、46年のAVO。56年のハンガリー動乱時にAVHは廃止され、その機能は内務省に移行した。動乱鎮圧後も63年に動乱政治犯に大赦が下りるなど、穏健派が徐々に勢力を伸ばし、ハンガリーは東欧社会主義の中で唯一正式の秘密警察が存在しない国なったとされる。)
Communist Crimesサイトによると、ハンガリーでは1945年から46年だけで、35,000人が政治犯となり、うち1,000人が死刑になるか拷問で殺され、他に55,000人が強制収容所送りとなった。1956年のハンガリー動乱では、ソ連による反乱鎮圧で2,500人のハンガリー人が死亡し、20万人が国外に脱出した。26,000人が逮捕され、350人が処刑された。
ハンガリー動乱
日本では「ハンガリー動乱」という言葉が定着しているが、この「恐怖の館」博物館は「ハンガリー革命」(Hungarian Revolution)という言葉を使っていた。そしてこれを「20世紀最大の反共産主義の革命」と呼ぶ。議論もあるところだろうが、確かに振り返れば、鉄の社会主義体制が支配する時代に起こった反体制抵抗運動としては、最も激しくかつ犠牲の大きかった革命といえるだろう。
反乱はソ連の戦車によって残忍に弾圧されたが、その後ある程度の穏健派が政権を握り、1989年の東欧革命の先陣を切るなどで一定の影響をその後に残している。
東欧民主化革命を先導
東欧民主化のきっかけとなったのは1985年からのソ連ゴルバチョフ政権による「ペレストロイカ」政策など上からの改革だったが、その動向を慎重に見極めながら穏健的な改革を進めたポーランドやハンガリーの動きも重要な役割を果たした。ポーランドでワレサらの労働運動「連帯」の動きが活発化する一方、ハンガリーでは、89年1月~2月に社会主義国の先陣を切って集会・結社の自由化、政党結成の容認、党の指導性の放棄、党と政府の分離などを行った。5月にはハンガリー・オーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。6月には、ハンガリー動乱で処刑されたナジ・イムレ元首相の名誉回復を行うとともに、複数政党制の導入を決定して一党独裁を正式に放棄した。ニエルシュ党議長が「スターリン主義とプロレタリア独裁から決別する」と表明している。さらに8月の「汎ヨーロッパ・ピクニック」事件、9月のオーストリア国境の開放を経て、東ドイツからの大量の難民がオーストリア経由で西ドイツに入る流れを作り出し、11月のベルリンの壁崩壊を呼び寄せた。
体制を武力で倒すだけが革命ではない。逃げる民。多くの人々が難民として逃げ出すことでも革命は起こる。東欧革命の画期は、あのなだれのような東ドイツ難民流出で決定的になったように思う。(要するに、国民として暮らし働くことを止めるストライキだ。)
強権的東欧社会主義の最後の牙城ルーマニアでも、チャウシェスク政権を打倒する革命(89年12月)は、ハンガリーからの影響が強い(ハンガリーに近くハンガリー系住民が多い)西部ティミショアラやルゴジの街から発生している。
ハンガリー人はアジア起源
ハンガリー人の祖先はウラル地方から来たマジャール人だ。アジアの遊牧民たちは歴史に残っているだけでも5世紀のフン族をはじめ、有名なモンゴル帝国(13世紀)など、幾度となくヨーロッパ深部に押し寄せた。現在のハンガリー語、フィンランド語は、アルタイ語族とも関係の深いウラル語族に属し、インド・ヨーロッパ語族の海の中で孤島のように存在している。たえばよく出される例だが、ハンガリー語では、日本語と同じように名前を姓・名の順に言う。詳しくは他の専門的ページを参照して頂きたいが、ハンガリー語、フィンランド語は言語学的には日本語などと同じ「膠着語」に分類されるという。また、ブダペストの「ブダ」は、フン族の王ブレダ(アッティラの兄)の名前から来ているという。マジャール人を含め多くの移動民は現地の人々と混血し、現在、人種的には他のヨーロッパ人と区別がつかなくなっている。
ハンガリーを旅した少ない体験でも、どうもハンガリー語の表示はわかりにくい。ヨーロッパの言葉は似ているから、英語を知っていれば、ある程度想像のつく場合が多い。しかし、ハンガリー語は全然違う感じだ。あくまで「感じ」にすぎず、ラテン語的語源の言葉もないではないが。例えば、university(大学)、immigration(出入国管理)、hotel(ホテル)、computer(コンピュータ)を比べてみると、ドイツ語はUniversität、Einwanderung、Hotel、Computer、ポーランド語はUniwersytet、imigracja、hotel、komputer、ルーマニア語はuniversitate、imigrare、hotel、calculatorなど。しかし、ハンガリー語はegyetemi、bevándorlás、szálloda、számítógépでまったく推測が効かない。
日本とも遠いつながり?
ハンガリー語(マジャール語)は、サーミ語、フィンランド語、エストニア語などとともにフィン・ウゴル語派に属し、この フィン・ウゴル語派はユーラシア北部(シベリア中北部、北ヨーロッパ、東ヨーロッパなど)に広く分布するウラル語族に属する。かつてはアルタイ語族とあわせて、ウラル・アルタイ語族とも呼ばれ、ここに日本語も入っていたものである。
最近の遺伝子人類学研究によると、ウラル語族話者にはY染色体ハプログループNが濃厚だが、これは東アジア発祥とされている(Wikipedia「ウラル語族」参照)。中国北東部の遼河文明時代(6500年前~3600年前)の人骨から高頻度で検出されるなどしている。mtDNAハプログループZも東アジアからシベリア北ヨーロッパにかけて同様の分布を示し、ウラル系民族の拡散が推測されている。日本の東北地方に残る中舌母音(いわゆるズーズー弁)もウラル語族の音声特徴に由来するとの説もある。
数千年単位のスケールでみると、ユーラシアは、その大陸北半分の広大な平原で、意外と広くつながっていた可能性がある。