ドゥブロブニク、スプリト再訪

「魔女の宅急便の街」

バルカン半島を北に向かう途上、ドゥブロブニクスプリトを訪れた。4年前に来たところだ。同じところの旅行記は書かない方針だが、しかし、やはり美しい。写真だけでも載せたい。季節も前と違うし。

城壁に囲まれたドゥブロブニクの街。14世紀から1808年まで自治都市(ラグーサ共和国)として繁栄した。この南側の港(旧港)がアドリア海交易の要となり、街を発展させた。地中海貿易を牛耳るベネチアのライバルだったという。日本人の間ではジブリ・アニメ「魔女の宅急便」のモデルとなった街という都市伝説があり、バルカンではあまり見ない日本人観光客がたくさん居た。
城壁の中に街がある。メイン通りのプラツァ通り(ストラドゥン通り)。さすが5月だけあって、前回の12月とは人出が違う。
ケーブルカーでスルジ山(412メートル)に登る。旧市街がよく見える。
夕日に染まる地中海(アドリア海)。
ケーブルカーの山頂駅近くに戦争博物館Museum of Croatian War of Independenceがある。ドゥブロブニクにも悲しい歴史があったことを忘れてはならない。独立しようとしたクロアチアにセルビア人を中心としたユーゴ軍が介入し1991年~95年のクロアチア紛争(クロアチア独立戦争)が起こった。海のないセルビアは海港のあるドゥブロブニクに固執したという。世界遺産の街に砲弾が撃ち込まれ、多くの犠牲者が出た。博物館は、ケーブルカー駅から近いのでお見逃しなく。上記地中海の絶景写真もこの博物館の屋上から撮れる。
戦争当時のドゥブロブニク。4つ上の写真、メイン通りのプラツァ通りだ。今日の明るい観光地とは異なる光景が広がっていた。Photo: Bracodbk, Wikimedia Commons,CC BY-SA 3.0
街を守る戦いで死んだ若者たちを記念する館「ドゥブロブニク防衛者の記念館」。当時の街の写真、亡くなった若者たちの写真が展示されている。こちらは山頂に登らなくても、街の中、旧港近くにある(Sponza Palace内)。

ドゥブロブニクからスプリトへ

ドゥブロブニクからバスで北方のスプリトに向かう。ドゥブロブニクの北側には二つの入り江(右奥と左手)が入り込んでおり、そこに新港がある。左のドゥブロバチカ入り江の入口にフラニョ・トゥジマン橋が2002年に完成。スプリトへはこの橋を渡って北上する。フラニョ・トゥジマンは新生クロアチア共和国の初代大統領(任期:1990年 – 1999年)。
2022年にできたばかりのペリェシャツ橋も通る。2018年にスプリト・ドゥブロブニク間を走破したときにはこの橋はなかった。これがないと、ドゥブロブニク地域はクロアチアの飛び地なので、一旦ボスニア・フェルツェゴビナに入りまたクロアチアに入るという面倒なことをしなければならない。同じ国なのに国境を2回通過。ボスニア・フェルツェゴビナの入国審査を含めて計3回の国境審査だ。この不便を解消するため、ドゥブロブニク地域から長く張り出してきている半島(ペリェシャツ半島)にクロアチア本土側から2車線、2,404メートルの橋をかけた。迂回したボスニア・フェルツェゴビナの海岸都市ネウムあたりに将来海港ができても船がアドリア海に出られるよう橋下高も55メートルある。入札で最安値を出し、建設もたった1年で仕上げた中国路橋建設が工事を請け負った。
典型的なアドリア海沿岸の風景が続く。明るい地中海式気候、崖が迫った複雑な海岸線、海岸に沿った赤い屋根と淡い色の壁の家々。
そんな中に非地中海岸的な景観が一カ所。バルカン西部最大の河川ネレトバ川の河口に広がるデルタ平野だ。ラムサール条約にもリストアップされた湿地帯があり、農地も広がる。
ネレトバ川はボスニア・ヘルツェゴビナの方から流れてくる。その河岸地域には美しい景観が広がる。この中流地域には、スプリトに行くときは通らないが、今回サラエボからドゥブロブニクに来る際に通った。
ネレトバ川中流・上流にはダム湖も多い。

ローマ皇帝宮殿の街スプリト

スプリト旧市街は古代ローマ帝国ディオクレティアヌス帝(在位:284年 – 305年)の隠居後の宮殿だった。健康を害した帝は、自分の出身地であるこの地に隠棲し余生を過ごした。その後、一般人が住みつき城壁都市に変化。住居が無秩序に付け加えられ、店舗が掘り込まれ、不思議な都市空間となった。

宮殿都市の中央、スプリト大聖堂の鐘楼から見たスプリトの街。木立の手前に城壁が見える。そこまでが旧宮殿域。
大聖堂前の広場。やはり前回の12月とは人出が違う。
スプリト港。スプリト(人口16万)はクロアチア第2の都市だ。
宮殿時代の昔は、城壁のすぐそばまで海がせまっていた。
現在の波止場。
かつての宮殿の中に人々の家が所狭しと組み込まれることになった。

夫婦旅行のメリット

バルカンで珍しく日本人旅行者の方に会った。しかもベオグラードまでのバスの中とサラエボ市内の2カ所で会い、いろいろお話させて頂いた。その方(お互い名前を聞かずでしたね)も、私と同じように教員生活を終えて、退職後、自由な旅に出たところだった。私が妻と旅行していると知って「いい考えですねえ」と痛く感心して下さった。8カ月にも及ぶ長旅、しかも相当厳しい貧乏旅行を、いくら旅好きのカミさんでもずっと一緒にしてくれるわけにはいかない。そこでその中の一部期間をたまに一緒の旅にする、というパターンで私たちは夫婦旅行をしている。それがとてもいい考えだと感心し、取り入れて下さる雰囲気だった。

で、そうか、これは他の人にも参考になるかもと思い、ここで書くに至った。今回も私のこれまで8カ月の旅のうち、2回ほど現地でカミさんと落ち合い、1カ月程度ずつ、夫婦旅行をした。単独旅行も楽しいが、夫婦旅行もいろいろ現地の別の側面が見えて楽しい。この2回目の合流はイスタンブールからベオグラード、サラエボ、ドゥブログニク、スプリト、ザグレブ、ブダペストまでだった。

単独旅行の場合は、人が行かないようなマイナーな場所にも行くが、カミさんがいっしょではそればかりという訳にもいかない。イスタンブール、ドゥブロブニク、スプリトといったメジャーな観光地にも行く必要がある。それで「再訪」となった。カミさんもそれで満足するし、私も、すでに「勝手知ったる」の場所なので、有能なツアーガイドの役割が果たせる。互いにウィンウィンなのではないか。いやいや、こんなことでもしなければ、家族的責任をほっぽり出して外国をフラフラしていることの申し開きがたたない。

また、こういうパターンを続けるうちにだんだんカミさんも厳しい貧乏長期旅行に慣れてくるのではないか、ということも私としては狙っているし、旅が嫌いではないカミさんとしても、かなり珍しいところに(しかも安く)行けるのでまんざら不満でもなさそうに見える。そんな話を聞いて、なるほどそれはいい考えだとくだんのX氏が言ってくれたのだ。

X氏様、残念ながらサラエボ以降お会いしなかったですが、次は奥様といっしょに旅しているところに出くわすのを楽しみにしています。

首都ザグレブへ

ついでにクロアチアの首都ザグレブへのルートも紹介しておこう。

スプリトからバスでザグレブに向かう。東側の高台からスプリトを振り返る。
やがてバスは、海岸部の山脈を抜け、その向こう側の国道1号線を山脈に沿って北上していく。
しだいに平野部に入る。
道路は片側2車線の立派な高速道路で、安定した高速走行ができる。ザグレブまで結構遠いのだが、意外に早く5時間で着いてしまった。
クロアチアの首都ザグレブ(人口80万)。中央駅(写真背後)の前に立つトミスラフ王像。ここから北へ約1キロ、美術館などがある広場が続いている。トミスラフは、クロアチア王国の初代国王(在位925年頃 – 928年頃)。
ザグレブはトラム(路面電車)網が発達している。歴史的街並みの中を走るトラム。
ザグレブのシンボルとなる大聖堂(聖マリア被昇天大聖堂)。高さ107メートルでクロアチアで最も高い建造物。1095年から数世紀かけて建設された。現在の建物は1880年の大震災後に再建したもの。4年前に来たときも修復中だったが、今もまだ工事中。