ユーラシア東西のつながり 遊牧草原地帯を通じて

コソボの埴輪?

コソボ博物館で「埴輪」を見つけて驚いた(下記写真参照)。約6000年前のテラコタ(素焼き土器)で、首都プリシュティーナ近郊で発掘されたという。女性神をかたどったもので、同市のシンボルにも指定された。

「埴輪」というより「土偶」なのかも知れない。埴輪が弥生時代のものでかなり精巧なのに対して、縄文時代のものである土偶は素朴なものだ。下記の長野県辰野町出土の「仮面土偶」を見て欲しい。コソボのテラコタと恐ろしいくらい極似している。(ただし長野県出土の仮面土偶は3000年~4000年前のもので、コソボのテラコタとは年代的に2000年以上の開きがある。)

コソボ博物館で見つけた「埴輪」。Goddess on the Throneという呼称がつけられている。
長野県辰野町出土の仮面土偶(複製)。恐ろしい。恐ろしいくらいに似ている。Photo: Ismoon, from Wikimedia Commons, (CC BY-SA 4.0)

ハンガリー人には「蒙古斑」がある?

ルーマニア革命の先端を切ったティミショアラなどルーマニア西部はハンガリー人が多く居住する。ハンガリー自体ももちろんハンガリー人の国で、1956年のハンガリー動乱など早くから民主化の動きがあった。1989年東欧革命時には、1月に政党活動の自由や集会の自由を認める法律を制定するなど一連の動きの先端を切っている。

この尊敬すべきハンガリー人たちの祖先がアジア系だったという(ウラル地方から来たマジャール人)。アジアの遊牧民たちは歴史に残っているだけでも5世紀のフン族をはじめ、有名なモンゴル帝国(13世紀)など、幾度となくヨーロッパ深部に押し寄せた。現在のハンガリー語、フィンランド語は、アルタイ語族とも関係の深いウラル語族に属し、インド・ヨーロッパ語族の海の中で孤島のように存在している。たえばよく出される例だが、ハンガリー語では、日本語と同じように名前を姓・名の順に言う。詳しくは他の専門的ページを参照して頂きたいが、ハンガリー語、フィンランド語は言語学的には日本語などと同じ「膠着語」に分類されるという(後述のトルコ語などテュルク語族も)。また、例えばハンガリーの首都ブダペストの「ブダ」(地区の名前)は、フン族の王ブレダ(アッティラの兄)の名前から来ているという。

で、このハンガリー人にはアジア系と同じく「蒙古斑」(赤ちゃんのお尻などに生じる青あざ)があるのだという。これはやや都市伝説的で、正確な統計収集が行われたわけではないようだ。しかし、駐日ハンガリー大使館員もこのこれに言及するくらいだから相当の都市伝説にはなっているのだろう。実際には蒙古斑はアジア系とアフリカ系で90%以上、ヒスパニック系で50%程度、ヨーロッパ系でも10%以下だが、生じることはあるらしい。ハンガリー人が特に多いかどうかはデータがない。しかし、いずれにしてもアジアとヨーロッパは完全には切れておらず、交流と征服の歴史があったのだから、ある程度の相互浸透があって当然だ。

西進したトルコ人はコーカソイドになった

西進アジア系のもう一つの代表は、テュルク系民族だ。アルタイ、モンゴリア地方出自で、歴史時代の長い期間にわたって拡散し、現在ではシベリアからヨーロッパ南東端まで広い範囲に分布する。実際、最も有名かつ有力なテュルク系民族は西端のトルコ人だ。テュルク民族は人種的にはもともとモンゴロイドだったが、西進したトルコ人はもはやコーカソイド(ヨーロッパ系)に分類されるまでに変化した。移動の過程で混血が進み、言語的にはテュルク語系を保持するが(同語族内のオグズ語群)、身体的には変わったということだ。トルコ人は、14~20世紀初頭にかけて中東からヨーロッパ、アフリカに至るオスマン・トルコの大帝国を築くが、その支配階級は文化的にはバルカン半島からイスタンブールなどヨーロッパ東南端に根を張り、自らをトルコ人とは呼ばなかった。(「オスマントルコ」はヨーロッパ側による呼称であり、帝国の支配階級は自らを「オスマン人」としていた。トルコ人とは地方の粗野な人々を指す言葉だったという。)

東アジアの「ヨーロッパ系」

ユーラシア北方には広大なステップ地帯が広がり、太古より東と西の連絡は盛んだった。上記のように東から西に進んだ民族も居れば、西から東に進んだ民族も居た。

例えば、1999年、北京市郊外で発掘された前漢時代王妃の人骨は、新疆ウイグル自治区のタジク族(インド・ヨーロッパ語族に属する)に似ていることがわかった 。2000年に日中共同研究グループが、山東省(渤海、黄海沿岸の省)の遺跡から出土した人骨のミトコンドリアDNAの分析したところ、2500年前の春秋戦国時代中期の人骨はヨーロッパ系、2000年前の前漢末の人骨は中央アジアのウイグルやキルギスの集団に近いことがわかった(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』(『中国の歴史』第3巻)講談社、20ページ)。ユーラシア大陸の東と西は、広大な遊牧草原地帯を介して意外とつながっていたのだ。

私が中国を旅した経験でも、北方の中国人は南方の中国人に比べて長身、面長、色白で鼻筋が通り、ステップ地帯コーカソイドの影響があるのではないかと、あくまで感だが思ってしまった(「色白」は日照時間も関係しているだろう)。黒竜江下流域、沿海州、カムチャツカ半島南部を含めオホーツク経済圏を形成していたアイヌ民族に、こうした北方コーカソイドからの影響があったとしてもおかしくない。また、これも都市伝説的だが、「秋田美人」の要因として日本海をまたいで渤海などツングース系諸民族との交流があったのではないか、という説が出ているのもおもしろい。

実はもうみんな混交している

人々は太古の昔から大いに移動し、混交してきた。その過程で民族も人種も変わってきた。特に民族は、ヨーロッパを始め近代が生まれる過程で作為的につくられた人間の集団であり、近代社会をつくる情熱の基盤として積極的に求められもした。身体的な特徴である人種も、多かれ少なかれ、内部に無限の多様性を含んでおり、これまでも変化してきたし、今後も変化していく過渡的な状態でしかない。

コソボの街を歩きながら、そんなことを考えながら、人々の顔をしげしげと見る。一応大多数が「アルバニア人」なのだが、顔だちには多様性がある。金髪のまさに「白人」といった顔立ちの人も居れば、黒髪で後ろからだとアジア系かと見間違える人、あるいは中東系の面影を残す人々も多い。そうだろう、この辺は400年にわたってオスマントルコの支配下にあり、中東方面からの人々の流入も相当あったはずだ。宗教もイスラム教になっている。(シュンゲン条約圏に入っていないコソボでは、中東から来ている現代の出稼ぎ労働者はほとんどいないはず)。わずかにモンゴロイド系の顔立ちを感じる人が居るのは、西進したモンゴロイドの歴史を勉強し過ぎた私の思い過ごしか。(今、ゼロコロナの中国を始め防衛過剰の東アジアからの観光客はほとんど居ないはず。私などは目立つので、しばしばじっと見られる視線を感じる)。路頭でよく見るロマの人たちにも太古の移動の痕跡、南アジア系の顔立ちを見る。

ヨーロッパとひとくくりする中にもいろいろな人々がおり、いろいろな歴史の痕跡が隠されている。そんな人たちが今いっしょにこうやって暮らしている。民族が激しく対立してきたヨーロッパだが、実は、すでに多様な民族が溶け込んでつくられている。それに気づかず幻想に基づいて互いに対立している。