社会主義とは何であったか

社会主義とは何であったかについて、4年前の拙著で考察した。抄録で紹介する。詳しくは『東アジア帝国システムを探る ―中華、征服王朝、周辺民族』(デザインエッグ社)7章、8章。アマゾン電子書籍版(2016年11月)も。


(世界史的に見ると)

20世紀に登場した社会主義とはいったい何だったのか。その帰結がほぼ見えてきた今、客観的に振り返り、位置づける作業が必要だろう。理論的にどこどこが間違っていた、など内部に取り込まれた議論でなく、外部から、世界史の中で見てどういう現象だったととらえられるのか。

少なくとも、極めて宗教的な運動だったことは言える。もちろん「神」は居ない。しかし、指導者への絶対信仰、カルト的なイデオロギー信奉などにおいて宗教に似ている。政教一致、さらには政教軍一致という側面も考えると7世紀に起こったマホメットによるイスラム世界拡張の現象に相似する。イスラムも厳しい戒律、神への絶対服従の原理をもって、中東、アジア、北アフリカに急速に広がった。交易圏を拡大し、砂漠ブルジョアジー、オアシス資本主義の経済運動として機能した[1]。しかし、イスラムは同時に明らかな宗教、文化であり、人々に日々生きるかてを提供した。イスラム帝国崩壊後も、今日に至るまで長く諸民族の生活の中に生きている。残念ながら社会主義はそのような生命力をもてず、20世紀に突如出現しほぼ崩壊した宗教的・イデオロギー的現象として終わりそうだ。

少なくともアジアの社会主義は、マルクス・レーニン主義の理論的外装にもかかわらず、実際は農民反乱、秘密結社、匪賊など伝統社会のメカニズム内で機能してきた。本章で論じたそうした観点が一つには有効であろう。しかし、その他にもいろんな分析視角があってよい。ここでもう一つ挙げるなら、モンゴル帝国との関連を示唆する論点が興味深い。ソ連、中国などユーラシア大陸の社会主義諸国は、奇しくも、モンゴル帝国が支配した領域に出現した。


(モンゴルの遺産と共産主義)

チンギス・ハーンが1206年に創設したモンゴル帝国は1290年代までに西は東ヨーロッパから中東の現トルコ、シリア、南のアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸をおおう空前の大帝国を作り上げた。その東部では中華帝国域他を支配したが、西部では、その後ロシア領となる地域を支配した(キプチャク汗国/ジュチ・ウルス)。ロシアの起源は9世紀にスカンジナビア方面から南下したノルマン人が建てた国で、彼らは「ルーシ」と呼ばれた。スラブ人と同化して建国したキエフ公国が1240年、モンゴル帝国のバトゥ軍に滅ぼされ、以後1480年までの240年間、モンゴルの支配下に置かれる(タタールの軛)。ロシア人の間には、モンゴルに影響されたことを否定する心情があるが、この間、モンゴルの圧政下でロシア社会の抑圧的性格が生まれたとの見方がある。


1480年にモスクワ公国のイヴァン3世がキプチャク汗国の軍を打ち破り独立するが、モンゴルの威光はずっと彼らの観念に残る。イヴァン4世(イヴァン雷帝)は1547年に初代ツァーリとなったが、1574年に一旦退位し、チンギス・ハーンの血を引くジョチ家の皇子シメオン・ベクプラトヴィチ(モンゴル名サイン・プラト)を全ルーシのツァーリ(ハーン)とし、1576年に改めて譲位を受けてツァーリとなった。岡田英弘は「イヴァン四世がわざわざ、こんな面倒な手続きを踏んだのは、「チンギス統原理」に従えば、チンギス・ハーンの血統の男子でなければハーン(ツァーリ)にはなれないので、モンゴルの皇子から禅譲を受けるという形式をとって、モスクワのツァーリの位に正統性を付与した」[2]とし、ロシアが少なくとも形式的にはモンゴルの継承国家の一つとしての体裁をとったことを明らかにした。


(ヨーロッパからの遺産:戦争と革命)

モンゴルの遺産が、マルクスの言うように恐怖支配と奴隷根性、「大仕掛けな虐殺」(マルクス『一八世紀の秘密外交史』三一書房、112ページ)だったのかはともかく、ロシア帝国に何らかの影響があり、そこで生まれた人類最初の社会主義もそれに影響され、さらにそれが世界の共産主義体制に広がった、という仮説は興味深い。しかし、やはり慎重な検討が必要で、以下留意点を2点出しておく。

まず、第一に、共産主義のテロルは、ロシア帝国をはるかに凌駕していたということである。端的な例示で、デカブリストの蜂起があった1825年から1917年までの帝政ロシアで3932人の政治囚が処刑されたが、ロシア革命が起こった1917年11月から翌年3月までの4カ月だけでそれ以上の人々が処刑されている[3]。スターリンでなく、レーニンが指導していた時代だ。1918年1月4日、ボルシェビキは、ロシア史上初めて普通選挙で選ばれた立憲議会を解散させ、抗議した議会メンバーに発砲した。それが赤色テロルの最初の局面だったとされる[4]。革命は本当に圧政を打倒し、よりよい社会をつくったのか。以後の何十万、何百万という規模の粛清、殺害を考える時、ソ連と帝政ロシアを同レベルで扱うのはむしろ失礼とも言える。帝政ロシアにモンゴルの影響があったとしても、共産主義はそれ以外の何か根本的に新しい要因が加わっていたように思われる。

スターリンの強い猜疑心という個人的要因はすでに十分出されている。しかし、それを言うなら、マルクスの論敵を徹底して切るあの激しさはどうか。敵に対する切れすぎる論難は結局内部にも向かうという事例を、各国の共産主義運動は十分に経験してきた。また、ロシア革命の過程を見ると、民衆の暴力が統制を失い無限に拡大する恐ろしい事態が見いだされる。ボルシェビキはそれを積極的に煽り利用した形跡がある。当時、第一次大戦というかつてなかった総力戦の暴力が大々的に行われていた。こうした歴史的事件が生み出した暴力の連鎖からも革命期の残虐性を把握することができる。

あるいは遠くフランス革命(1789年)からの遺産という見方もできる。「自由、平等、博愛」の近代をつくったフランス革命は近代史の中で輝かしい位置を与えられているが、そこでも残忍な暴力が行われた。パリで1000人が暗殺された「9月の殺戮」(1792年)、革命裁判所と監視(密告)委員会がギロチンを使用して行ったフランス全土1万6600人の処刑、フランス西部ヴァンデ地方の反乱で数万に及ぶ武装解除農民が虐殺された「地獄の縦隊」テロルなど。ジャコパン派のロベスピエールがフランス革命の暗部を代表する恐怖政治家だった。クルトワは前掲書最終章「なぜだったのか?」で、これらフランス革命の暴力がボリシェヴィキの虐殺を先取りしていたとし、「ロベスピエールは、のちにレーニンをテロルへと導いた路線に最初の礎石を置いた」と結論づけている[5]。マルクスも、フランス革命以後の19世紀、フランス2月革命(1848年)、パリ・コミューン(1871年)などの革命情勢を呼吸し、理論構築を行った。ロシア革命の残虐さは、モンゴルの遺産どころか、こうした西欧起源の革命的暴力の遺産なのかも知れない。


(モンゴル:非暴力で民主化達成)

「ロシア社会主義はモンゴルの遺産」論で第2に留意しなければならないのは、他ならぬモンゴルが東アジア社会主義の先陣を切って民主化を行ったことである。ソ連、東欧の社会主義が崩壊した後も、中国、ベトナム、北朝鮮などの東アジア社会主義は堅固に存在し続けている。しかし、その中でモンゴルが例外的に民主化を達成した事実はもっと注目されてよい。

国際情勢の後押しがあったことは確かだ。ソ連のゴルバチョフ共産党書記長がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を推進していた。1989年11月10日にベルリンの壁が崩壊したばかりだった。しかし、同年6月4日には、モンゴル国境からあまり離れていない北京の天安門広場で、民主化に立ち上がった学生たちが戦車に踏みにじられている。


重要なことは、このモンゴルの民主革命がまったく非暴力で行われたことだ。民主化運動指導者のオユンゲレル国会議員は「この極寒の中で行われた民主主義のための日曜街頭行動の間、流血はなく、窓も割られず、殴り合いさえなかった」と書いている[6]。鉄壁の強圧体制と見えた社会主義国が暴力を伴わず民主化されたのは奇跡的で、多くの識者がこの点を指摘、強調している。しかし、私はオユンゲレル議員が「殴り合いさえなかった」との一言を付け加えているのにいたく反応した。実は、モンゴル滞在中、長距離バスの中で、朝青龍のような(例に出してゴメン)大男2人が取っ組み合い、殴り合いを始めるのに度肝を抜かれ、遊牧文化を背景にしたモンゴルの人々に「肉食系のモンゴロイド」というイメージをもってしまった。そのモンゴル人たちが殴り合い(fist fight)さえなく民主化の大事業を達成してしまったというのだ。私の偏見を恥じなければならない。

そして、多くの理論家にとっても、この点において「残虐なモンゴルの負の遺産」という見方に留保を付ける必要が出たことを確認しておこう。いや、これだけでかつてのモンゴル帝国の評価が左右されるわけではない。しかし、たとえ20世紀社会主義に何らかのモンゴル帝国の遠い影響があったにしても、それを変革する新しい民主化のモデルは、少なくとも東アジアおいてはモンゴルから始まったという点を確認したい。


(中国の農民革命と匪賊)

中国では古代から大規模な農民反乱が頻発し、時には王朝を滅ぼすほどの力を行使してきた。

主だったものだけを挙げても、まずは、初代統一王朝、秦を滅ぼした陳勝・呉広の乱(紀元前209~208年)。辺境守護だった陳勝と呉光が農民を率いた反乱だった。赤眉の乱(18~27年)は太平道の張角を指導者とし眉毛を赤く染めた農民反乱。前漢を滅ぼした後、後漢を開く洪武帝に平定された。太平道、五斗米道信徒らによる黄巾の乱(184~215年)は、後漢が滅びるきっかけになった。塩の密売人・黄巣が率いた黄巣の乱(875~884年)は唐を滅亡に導く。北宋末期、マニ教の方臘に率いられた方臘の乱(1120~1121年)は一時期江南の広い地域を占領。元王朝に対抗して白蓮教徒が起こした紅巾の乱(1351~1366年)では、指導者であった朱元璋が、最終的に明の初代皇帝となった。明代中期、福建省で起こった鄧茂七の乱(1448~1449年)は小作人(佃戸)が地主に対して起こした大規模な抗租運動の走り。李自成の農民反乱(1631年)は、北京に入り明朝を滅ぼすが、清軍に鎮圧された。清代には再び白蓮教徒の農民反乱(1796~1805年)が勃発。洪秀全がキリスト教信者を率いた太平天国の乱(1851~1864年)は清朝を疲弊させた。地上の天国をつくることを目指した反乱で、一時期南京を落として太平天国の王朝を建てている。清朝末期の義和団の乱(1900~1901年)は反キリスト教、反植民地をかかげる仏教系秘密結社を主体とした農民反乱だった。

辛亥革命から中華人民共和国成立に至る民衆運動を研究する福本勝清は、近代の革命運動もこうした農民反乱の歴史を受け継いでいるとし、次のように言う。

「民衆自身が反乱や抵抗のための組織をつくろうとすれば、特別な訓練なしに誰もが組織し得たということのなかに、秘密結社(秘密宗教結社を含めて)の大きな影響をみることができる。秘密結社、地下組織とはいえ、数百年にわたるその活動の継続は、民衆のなかに、その闘いのスタイル、地下組織の維持、蜂起の方法などについて、得難い遺産を残すことになった。一九二〇年代後半、インテリ中心のひ弱な革命団体であった中国共産党が、突如直面した国民党の厳しい弾圧のなかで、何度も挫折を味わい、多くの犠牲者を出しながら、何とか態勢を建て直し、ともかくも地下活動を維持できたのも、この遺産の継承抜きには考えられない。」[7]


中国の近代革命運動の中で、確かに、伝統的農民反乱を率いた宗教結社、そして匪賊が重要な役割を果たしていた。匪賊にも「土匪」や「緑林」をはじめ様々な類型があった。土匪が農村を基盤とした単なる盗賊であるのに対して、緑林は弱者救済の意識を持った義賊だ。持てる者から奪い、持たざる者は襲撃しない。異民族の支配に歯向かう緑林もおり、満州事変以降、日本軍に抵抗した「抗日緑林」は、抗日義勇軍30万のうち15~20%を占めた[8]。その他、白蓮教を始めとした宗教的結社、非宗教的な秘密結社である「会党」、特に都市部で裏経済を支配するマフィア「幇会」などの類型を福本は挙げる。太平天国の乱(1851~1864年)を率いた洪秀全らは、「反清復明」をかかげた宗教的秘密結社の天地会、三合会などと連携していたし、辛亥革命を率いた孫文らも、天地会などの会党組織に動員をあてにしていた[9]

匪賊は盗賊であり、略奪者だ。各種史料からその強奪は凄惨を極め、被害が大きかったことがわかる。1920年代からの民国時代、外からは列強の侵略が迫り、内部では軍閥が跋扈して戦乱が続き、災害が頻発し、数十万単位で死者の出る飢餓が繰り返された。農民は流浪の民と化し、飢えて食人さえ行われた。このような混乱の中で、農民は簡単に「土匪」となり、村を襲った。一説によると、土匪の数は五百万と言われた。一九二〇年代の労働者階級は、多くて二百万程度。当時の中国は「四億の民に五百万の匪賊」という異常な事態の中にあった[10]


(匪賊と中国共産党)

毛沢東らが居た井岡山根拠地は関係がさらに濃密である。1927年9月、湖南・江西省境地域で秋収蜂起に失敗した毛軍は広西省西部の井岡山方面に逃げのび、そこを根拠地にしていた緑林の首領、袁文才と王佐に願い出て、井岡山に入り込む。匪賊が根城とした要害の地は革命拠点とするにも格好の地だった。以後、庇を借りて母屋を取る形になっていく。翌1928年4月に朱徳、陳毅の部隊もここに入り、紅軍第4軍を成立。1929年に瑞金に中国労農ソビエト政府を設立するまで、重要な革命根拠地となり、中国革命史の中での聖地となる。元緑林首領の袁文才は紅軍第四軍第32連隊の連隊長、王佐は福連隊長となり、指導的役割を果たすが、後述の通り、土匪排除の方針の下、1930年に殺害される。

農民の支持を獲得するためには、地主の土地を奪って農民に分配する「土地革命」を農民の目前で示す必要があった。そのためには継続して統治を行える「革命根拠地」もしくは「ソビエト政府」(地方政府)もつ必要があった。そのためにはとにかく強い軍隊が必須で、素性が悪くとも武装した無頼の徒を引き入れる必要があった。ここで、農民への土地の分配が重要課題として出てくることに注目したいが、それについては10章で詳述する。共産勢力は匪賊を大量に内部に取り込み、時に紅軍自体も、匪賊とあまり変わらなくなる場合もあった。1928年2月、朱徳らの軍が湖南省南部の湘南(郴州)地区を転戦していた頃、指導部の一部に「盲動主義」が生まれ、攻略した県城(県の中心都市)を焼き尽くす焦土作戦の方針をとった。敵軍が来ても食糧、住居がなければ戦わずして敗退するという理屈だ。


(自由な市場経済)

「自由な市場経済」が、近代の苦難に満ちた試行錯誤の中で、やはり私たち社会の調整メカニズムとして選択されてきた。むろんこれには数多くの欠点、弊害がある。それは「自由な市場経済」の本質というより、その未発達、未成熟によるものと私は考えるが、19世紀に思想として生まれ20世紀に実験として試みられた社会主義はこれを真正面から否定し、別の原理を掲げた。私的所有を否定し、国有・公有・集団所有の下で中央集権的な計画経済を目指した。これが歴史の試練の中で失敗したことは明らかで、ソ連、東欧、モンゴルの社会主義が崩壊し、中国、ベトナムなど残ったアジア社会主義も市場経済を積極的に導入した。


「自由な市場経済」(「資本主義」を敢えて使わない)で人々が自由に財を用い処分し、生産者も消費者も自由に生産・消費し、需要と供給の原理でコントロールし、人々の利得に向けた行動を肯定する。こうした基本原理が結局のところ機能した。しかし、市場原理は完全には機能せず、一方で市場を阻害する独占や寡占を生み、他方で極端な貧困や人権無視、長時間労働・児童労働を含む賃金奴隷制など多くの弊害を生んでしまった。当然そこから反発が起こる。自由主義と「自己責任」原理で経済を放置していたところ、怒れる若者が反抗し始め、さらにその「不良少年」がやくざに走るように、共産主義革命などというとんでもない非行に走る者が出てきた。教育でも何ごとでも主義・原理で貫き通すのは正しくない。適切なところで中庸を取り、バランス感覚で対応する必要がある。

社会主義も失敗から学んだが、資本主義も多くを学んだ。社会保障制度をつくり、児童労働禁止や8時間労働などを定めた労働基準法をつくり、労働者に自己責任の自由主義を越えた権利(団結権、ストライキ権など)を認め、独占・寡占を禁じ、公害防止、差別禁止、消費者保護など私企業活動制限の各種法制を整えた。「自由な市場経済」を廃止するためでなく、これを維持・強化するために。


(ソ連:人類への罪)

ソ連の崩壊に伴って過去の資料が公開され、恐るべき体制の裏側が徐々に明らかにされている。ステファヌ・クルトワ編『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧』(*The Black Book of Communism: Crimes, Terror, Repression*, 1999、原仏語版は1997年)[11]などの本格的研究、現在28巻に及ぶ『共産主義の記録』(Annals of Communism)シリーズのような詳細な公開極秘資料集(解説付き。英露語版がある。)[12]も私たちは得た。

秘密解除された強制労働収容所(グラーグ)管理局や内務人民委員部(NKVD。KGBの前身)などの文書によると、ソ連では、例えば1937~1938年だけで、157万5000人が逮捕、134万5000人(85%)が有罪、68万1692人(有罪の51%)が処刑された[13]。しかもこれには粛清された共産党幹部の数はほとんど入っておらず、当時強制移住されて死亡した者(37年に極東の朝鮮人17万2000人がカザフスタン、ウズベキスタンに移住させられている)、獄中で拷問を受けて死亡した者、強制収容所で死んだ者(37年に2万5000人、38年に9万人以上)、収容所への移送途中に死んだ者は含まれていない。アーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道』は、「1930年代の拘禁中の死亡数」を200万人と推定している[14]。ソ連極秘資料集『共産主義の記録』シリーズの創始者でディレクター、ジョナサン・ブレントは、「1928年から1953年に至る25年のスターリン治世下での犠牲者数については推計にかなりのばらつきがあるが、現在では少なくとも2000万人だったと考えられている。彼は欧州史最悪の大量虐殺者とされる」と結論付けた[15]

クルトワらの前掲書は、20世紀共産主義のバランスシート(総決算)として、ソ連で2000万人、中国で6500万人、北朝鮮200万人、カンボジア200万人など、全世界で1億人近い人が殺害されたとの数字を出した(ナチズムの犠牲者は2500万人)[16]。巨大な「人類への罪」がそこで犯されたが、ナチズムほどは否定・批判されていないのを問題視している。「真の社会主義ではなかった」「ロシア的歪みがあった」などと共産主義を救出しようとする人は、まずこうした事実に十分触れてからにすべきだろう。


ソ連共産党第20回党大会(1956年)のフルシチョフの秘密報告によると、第17回党大会(1934年)で選出された中央委員139人のうち98人、代議員1966人のうち1108人が粛清(処刑)された[17]。幹部でも、というより幹部の方があぶなかった。当時のソ連でスターリンの粛清を批判するのはまず不可能で、ソ連内の共産主義者に責を負わせるのは難しい面がある。しかし、秘密警察から直接狙われていたわけでもない西側の人々が「共産主義体制とその首領を讃える歌をうたい続けた」のはどうなのか、とフランス人であるクルトワは問い、西側の人々に対し次のように言う。

「「私は知らなかった」と答える者も、たくさんいるだろう。共産主義体制はその特別な防衛の仕方を秘密にしてきたから、たしかに知ることは必ずしも容易ではなかった。だが、しばしばこの無知は戦闘的な信条からくる盲目の結果にすぎなかったのだ。しかし四〇~五〇年代以降、多くの事実が知られ、疑問の余地のないものとなってきた。今では多くの追従者が昔の偶像を放棄したが、彼らはそっと目立たぬやり方で見捨てたのだった。」[18]


(出典)

[1]岡部一明「イスラムが世界史に果たした役割」1981年

[2] 岡田英弘『世界史の誕生』(ちくま文庫)筑摩書房、1999年、235ページ。

[3] ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧(ソ連編)』恵雅堂出版、2001年、22ページ。

[4] 同書(コミンテルン・アジア編)、343ページ。

[5] 同書、334ページ。

[6] Oyungerel Tsedevdamba “The Secret Driving Force Behind Mongolia’s Successful Democracy,” *PRISM,* Vol.6, No.1, March 2016, p.141.

[7] 福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』(中公新書)中央公論社、1998年、40~41ページ。

[8] 福本勝清、前掲書、29ページ。

[9] 同書、40ページ。

[10] 同書、20ページ。

[11] *The Black Book of Communism: Crimes, Terror, Repression*, 1999.英語版が912ページなど大部の書で、日本語翻訳はソ連、とコミンテルン・アジアのセクションのみが翻訳されている。ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧(ソ連編)』恵雅堂出版、2001年。 クルトワ・ステファヌ、マルゴラン・ジャン=ルイ、パネ・ジャン=ルイ『共産主義黒書 ―犯罪、テロル、抑圧(コミンテルン・アジア編)』恵雅堂出版、2006年。

[12] Annals of Communism series, Yale University Press.日本語ではそのうちJ. Arch Getty and Oleg V. Naumov (Translations by Benjamin Sher), *The Road to Terror Stalin and the Self-Destruction of the Bolsheviks, 1932-1939*, Yale University Press, 1999がアーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編『ソ連極秘資料集 大粛清への道 ―スターリンとボリシェヴィキの自壊1932~1939年』(川上洸、萩原直訳)大月書店、2001年、Lars T. Lih, Oleg V. Naumov, and Oleg V. Khlevniuk, ed. *Stalin’s Letters to Molotov: 1925-1936*,  Yale University Press, 1995がラーズ・リー、オレグ・ナウモフ、オレグ・フレヴニュク編『スターリン極秘書簡 ―モロトフあて・1925~1936年』(岡田良之助、萩原直訳)大月書店、1996年として出ている。

[13] ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト、前掲書(ソ連編)、202~203ページ。

[14] アーチ・ゲッティ、オレグ・Ⅴ・ナウーモフ編、前掲書、624ページ。

[15] Jonathan Brent, *Inside the Stalin Archives: Discovering the New Russia*. Atlas & Co., 2008, p.3.

[16] ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト、前掲書(ソ連編)、12ページ。

[17] 同書、204ページ。

[18] 同書、19ページ。