ロシアのユーラシア主義

ロシアはなぜ侵略したか

ティミショアラからブカレストの夜行列車で同室のルーマニア人とロシアのウクライナ侵攻について議論したことがあった。老夫婦とそれを支える娘の3人組のグループで、その娘が英語を話した。なるほど、英語の先生をしているということでそれなら話すだろうと納得。ルーマニア人はウクライナ難民も助けている、という話になったので聞いた。「どうしてロシアはウクライナに侵攻したんだろうか。」

「私の個人的意見では…」と断って彼女は、「ロシアが古い拡張政策の考えを持ち続けているからだと思う」と言った。

まっとうな意見だ。別に「個人的意見」と断らなくてもいい。普通にみんな考えることだろう。と思って、逆にそれで議論が終わってしまった。皆寝るところだったからということもあるが、しかし、まったくまっとうな意見を聞いて、それ以上議論する気がなくなった。

他に何の理由があるというのか。難しく考える必要はない。ロシアが、古くて恥ずかしいくらい単純な侵略をはじめてしまった。ロシア国家の古い拡張主義。別に専門家に分析してもらわなくてもいい。別の国に軍隊入れて支配。どんな理由でもそりゃだめでしょ。NATOに近づいている、ナチが居る、もともとウクライナはロシアと一心同体だ、など何を言っても、武力で侵略してはだめです。

ちょっと軍隊送れば、すぐにウクライナなどやつけられると思っていたのでしょう。2014年にクリミアを取ったときもそうだった。2008年のジョージア侵攻で南オセチアを支配したときもそうだった。1990年代以降チェチェンの反乱も圧倒的武力で抑えてきた。モルドバ東部も、ずっと前からロシア軍置いて実効支配して何もとがめられていない…。

拡張主義は悪い。

で、この記事はそれで終わりかというと、続く。単純な愚行を起こす人の頭にはある不思議な観念があって、それに捕らわれるように行動が生まれる。

ネオ・ユーラシア主義

ロシアのウクライナ侵攻から1カ月たたない2022年3月22日、米ニューヨークタイムズ紙が「プーチンを戦争に駆り立てるグランド・セオリー(大理論)」という解説記事を載せた。ジェイン・バーバンクという歴史学者が書いた。侵攻の要因として、KGB出身のプーチンの独特な考え方、NATO拡大への動きへの対応、その他いろいろ政治的理由があげられるが、根っこの部分に、ロシアで広がる「ユーラシア主義(Eurasianism)」の思想潮流がある、と指摘した。

「ユーラシア主義は、ソ連で何十年にもわたり抑圧されながら地下で生き延び、1980年代後半のペレストロイカ期に国民の前に公然と姿を現した。ソ連の牢獄と強制労働キャンプで13年をすごしたエキセントリックな地理学者レフ・グミリョフが1980年代「ユーラシア復興」の教祖的存在になった。グミリョフは、世界史を動かす要因として民族的な多様性を強調した。彼の民族起源論(ethnogenesis)によれば、民族集団はカリスマ的指導者の下でスーパーエトノス(超民族集団)に発展する。つまり巨大な地理的地域に広がり、他の有力民族集団と衝突するようになる超越的民族勢力だ。/グミリョフの理論は、混乱した1990年代に、進路を模索する多くのロシアの人々に訴えるものがあった。しかし、ユーラシア主義は、型破りの哲学者アレサンドル・ドゥーギンが展開する変種の形でもってロシア権力中枢の血管に直接注入されることになる。ドゥーギンは、いくつかソ連以後政党政治で失敗した後、最も効果がある軍部と政策立案者に的を絞る。彼は1997年に『地政学の基礎:ロシアの地政学的未来』という大げさな書名の600ページに及ぶ教科書を出版し、ユーラシア主義を戦略家たちの政治的野心の中心にもたらした。」

ドゥーギンについては、2022年8月に彼に対する暗殺未遂事件があり、代わりに彼の車を運転していた娘ダリア・ドゥギナ氏が爆殺されたことで覚えている人もいるだろう。グミリョフについては、ユーラシア主義について専門的著作のあるマルレーヌ・ラリュエルが次のように紹介している。

「ユーラシア主義の著名理論家たちは、ロシアとその近隣共和国で大きな影響力を行使しており、例えばレフ・グミリョフは一般市民に最もよく知られた学者の一人だ。1992年の死去後、彼はカルト的な存在になっており、その言葉は批判を超越したドグマのようにも受け取られている。彼の書いた本はベストセラーになり、版権を得た出版社は何十万部単位で出版し、それらが人文・社会科学系のすべての学校・大学で必読書になっている。」(Marlene Laruelle, Russian Eurasianism: an ideology of empire, Woodrow Wilson Center Press, 2008, p.10)

ユーラシア主義は、それを主張する理論家によってさまざまなバリエーションがある。現在プーチンに最も影響があると言われるドゥーギンはかなりの極右と言えるが、そうでもなく純粋に多民族で構成されるユーラシアを強調する思潮もある。しかし、一般的には、ロシアの依拠する世界として、リベラリズムの西欧やアメリカ(「太西洋主義」Atlanticisim)を拒否し、東方に広がるユーラシア世界(もしくはロシア・ユーラシア世界)に回帰しようとする性向をもつ。具体的には、ロシア帝国、ソビエト帝国が版図としていた東欧からシベリアまでのユーラシアを考える。「ヨーロッパ」とは別の「ユーラシア」という新しい世界を発見し、そこに自分たちのアイデンティティを求める衝動、ある種のロマン主義が底流に存在する。

例えば次のような説明が一般的になされているだろう。

「ネオ・ユーラシア主義として知られるようになるのは、1990年代のロシアに現れた各種保守イデオロギーのうち最も精巧なものだった。ヨーロッパを発展の最先端でなく、再現不能な特殊な発展の形態だと見る。ロシアは西側(the West)の影響を振り払い、欧州アイデンティティの帝国主義を拒否しなければならない。このユーラシア主義原理は、多くの知識人、政治家に魅力的なものとなった。ソ連崩壊に明確な説明を与え、つまずいた歴史から、ロシアの一貫性を、時間軸よりも空間軸に基礎をおいて、再興できたからである。」

ドゥーギンは「プーチンの頭脳」、あるいはロマノフ王朝を陰であやつったラスプーチンになぞらえ「プーチンのラスプーチン」とも呼ばれるが、彼の場合は、明確にウクライナ侵攻を主張していた。その主著Foundations of Geopoliticsで、ウクライナを含め旧ソ連の構成国は「ユーラシアーロシア」に併合されるべきとし、「ウクライナは国家として何の地政学的意味をもたず」、ウクライナが独立国家として存在することは「ユーラシアすべてにとって途方もない危険となる」とまで言っている。したがってロシアのウクライナ侵攻の背景をさぐる上では彼のユーラシア主義を詳細に検討しなければならないが、日本語では例えばはこの書評を参照して頂くのがいいだろう。

自分の文化的基盤に回帰する心情

どこでもだれでも、他所に強大で支配的な文化があるとき、自分の基盤、背景に強く寄り添おうとする心理がはたらく。日本人なら、欧米のようでない日本的な文化、日本的な何かがあるはずだ、と「日本人論」に強く魅かれる。日本とは何か、日本人はどこから来たか、日本文化の特殊性は? ありとあらゆる日本人論が論壇をにぎわし、書籍が本屋の店頭を飾る。

人権と民主主義で常に批判される中国は、そのようなものは欧米的な価値観であり、アジアには別の価値基準があることを繰り返し主張する。我々他の「東洋」の国といっしょくたにされるのははなはだ迷惑だが、アジアでは欧米的な民主主義は成り立たたない、などと言ってくださる。中東諸国であれば、イスラム原理主義がその役を果たすだろう。イスラムの教えの基本に帰るという心象が彼らを突き動かす。

ロシアの場合、それが「ユーラシア」だった、と理解する。ロシアはヨーロッパの東端だ。無理してヨーロッパ的な近代化に努力してきたが、しょせん無理だった。ロシアに帰ろう、と。東端であるがゆえに、その東に広大なユーラシアが広がっていた。このまったく新しい世界「ロシアーユーラシア」に我々は存在している、とソ連以後のロシア人たちは目覚めた。まあ社会主義はもういい、正直ごめんだ、とは思っている。しかし彼らがロシア帝国から受け継ぎ社会主義の建前で保持した広大なユーラシアは、その一部が脱落したとは言え、遺産として残っている。その「ユーラシア」こそが我々が依拠する世界だ。ソ連崩壊の衝撃で茫然自失となっていたロシア人たちに、ユーラシア主義はそういう形で現れ、新しいアイデンティティを提供した。

ユーラシア世界を思い描いてまったく問題ないが…

しかし、あらかじめ言っておけば、ここでも問題は極めて単純だ。ロシアが、ユーラシアに存在する多様な民族と対等に連携し、共同体をつくり、新しい文明を目指していくのは何の問題もない。そこにEU的な地域統合を模索するのならそれもいいだろう。しかし、それが対等の共栄圏ではなく、あくまでロシアが中心になってまとめ、君臨する、時には武力に訴えて統率する、というのでは違う、ということだ。この違いは極めて明らかだと思う。帝国と共同体は違う。そして我々はそのような帝国的「統合」が決して成功しないし許されるものでもない、ということを近代史の中でとことん学んできたはずだ。

広大なユーラシアへのロマンがどうしてウクライナその他への侵攻の論理になっていくのかわからない。ドゥーギン『Foundations of Geopolitics』の論理は極めて複雑で難解とも言われる。それに分け入って解明する能力も胆力も私にはないが、まずは、簡単なことを簡単に理解しようではないか。かのルーマニア人女性が言う通り問題は極めて単純だ。共同の世界はいいが帝国の支配はだめだ。

なぜロシアがユーラシアを支配することになったか

ロシアはヨーロッパの東端という不利な地政学的位置にあるが、逆に言うと、ユーラシアの東に進出していくには最良の位置にあった。リトアニアやポーランド、ドイツといった中欧勢力が東に進出していくには、他の勢力を押しのけて行かねばならない。しかし、ロシアの東には、彼らに匹敵する強大な近代国家勢力は存在しなかった。やすやすと大陸の東端まで帝国を拡大していくことができた。

これはある意味、アメリカ合衆国と似ている。東部で成立した近代国家アメリカ合衆国は、西部に無限に広がる「処女地」に比較的容易に帝国を拡大していけた。先住民の抵抗にはあったが、軍事力で圧倒的に勝っていた。大陸中央部に別の近代国家、例えば「シカゴ共和国」や「ミシシッピー帝国」でもあったら、米国の西進はそう簡単でなく、むしろ「ミシシッピー帝国」が広大な米大陸を支配することになっただろう。「新大陸」であった事情が彼らに幸いした。中部や西部に、彼らに匹敵する近代国家勢力はなかった。

米国の西部開拓を可能にしたのは、最初は馬車、そして究極的には19世紀後半の鉄道が決定的だった。これに対し、17世紀末までにシベリア東端に到達したロシアが用いたのは河川交通だった。ユーラシア大陸の北半分は広大な平地であり、大河がゆっくりと流れる。船による航行に適している。そして河川と河川の間は陸上を船をかついだりして移動させる「連水陸路」活用の技術がルーシの民にはあった。

ユーラシア北部の河川は主に北極海方向に流れる。しかし、その支流をうまくつなぎ合わせれば東西方向にもある程度河川交通が連結する。ゆったり流れ湖沼・湿地も多いユーラシア河川はそれが容易だった。急峻な山岳地帯に阻まれることもない。ウラル山脈でさえ、最も勾配のゆるい所を行けば高低差150メートルくらいだという。冬は凍結する川も多いが、凍れば凍ったで氷上をそりなどで進めばかえって移動が容易だった。

モスクワからシベリアに至る主要河川交通ルート。Map: Kmusser – Own work using Digital Chart of the World data. Routes based on descriptions from Forsyth, James, “A History of the Peoples of Siberia”,1992. Wikimiedia Commons, CC BY-SA 3.0
連水陸路で船を運ぶ人。16世紀・コラ半島付近の地図の挿絵。Art: Unknown Author, Wikipedia Commons, public domain.

ウクライナ:ヴァリャーグからギリシャへの道

シベリアへの進出ばかりでなく、そもそもルーシの国が成立する過程でも河川交通の技術は重要な役割を果たした。

スカンジナビア出自のヴァリャーグ(バイキング)がノブゴルドからキエフなどに進出する上で基礎となったのは彼らの河川交通技術だった。ヨーロッパ側のロシアは、後に進出するウラル以東同様、広大な平原が広がる大地で、大河がゆっくりと流れていた。

水上交通技術にたけていたヴァリャーグたちは10世紀までには、バルト海からネヴァ川、ラドガ湖、ヴォルホフ川を経てノブゴルドに入り、さらにその後ドニエプル川などをつたって黒海に抜ける交通ルート「ヴァリャーグからギリシャへの道」を切り開いた。次のとおりである。

「ヴァリャーグ人はハザール可汗国、イスラム帝国、ビザンツ帝国などとの交易の利益を求め、川に沿って南下していった。最初はヴォルガ川を下ってカスピ海に達するルートが使われた。後には北方の町ノヴゴルドからドニエプル川上流に行き、ドニエプル川を下って黒海に出、海路ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに至るルートが確立された。それが「ヴァリャーグからギリシャへの道」といわれる「ドル箱」ルートとなった。」(黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』 中公新書、2002年、pp.32-33)

この「ドル箱」路線上の北にノブゴルドの街があり、南の、現在のウクライナ付近にキエフの街がつくられた。いわゆる「キエフ・ルーシ」のはじまりである。彼らは、黒海の南にあるビザンツ帝国を攻撃したりして領土を広げ、「バルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈に広がる当時ヨーロッパ最大の版図をもつ国をつくりあげた」。(同書、pp.38-39)

青線が「ヴァリャーグからギリシャへの道」。バイキングの拠点、現スェーデン地域からバルト海を渡りフィンランド湾に入り、現セントベテルブルクあたりから河川、湖沼を通じてノブゴルドに至り、さらに「連水陸路」を経て大河ドニエプル川などを下りキエフを通って黒海に至り、東ローマの首都コンスタンチノープルでボスポラス海峡を抜けギリシャに至る。Map: Briangotts, Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0

北欧やシベリア内陸の船を検討した赤羽正春は、北欧で発達したバイキング船はキエフを経て黒海などに進出していたことを示し、シベリアでもカルマー船、カルバッツ船などロシア人がもたらした船が使われていることを確認している。シベリアにも独自に発達してきた船技術があるが、その基層にあるより単純な「一人乗り、全長5m、両頭式、シングル・ダブルブレードパドル対応型」が逆に北欧型も含めて「北方船」技術の基盤になっているという知見も出してなかなか興味深い。こうした北方船は日本を含めた東アジアにも伝わり、そこで「南方船」と融合し、小型で足回りのよい船になっていったという。

なぜウクライナでなくロシアだったのか

しかし、ユーラシア支配に向かったのは、ウクライナでなく、ロシアだった。「キエフ・ルーシ」は途中で失速し、それにかわって、その東北辺境にあった(つまりヨーロッパのさらなる東端だった)モスクワ大公国から発展したロシアが、ユーラシア帝国主義を行なっていく。

なぜ「キエフ・ルーシ」は衰退したのか。11世紀末からの十字軍によってヨーロッパ人にとっての東地中海航路が回復され、地中海を経たビザンツ帝国、中東との直接交易が可能になったからだ。そもそも「キエフ・ルーシ」を勃興させた河川交通路「ヴァリャーグからギリシャへの道」がなぜ生まれたかというと、8世紀から9世紀にかけてマホメットのイスラム帝国が勃興し、ヨーロッパ人にとっての地中海東部航路が遮断されたからだ。イスラム勢力に妨害されない内陸ルートが必要となり、バルト海から黒海に至る河川交通路が開かれた。その交通ルート上にキエフ・ルーシ、つまりウクライナも繁栄した。

しかし、キリスト教世界は「聖地回復」の名目で11世紀末から約200年、7次にわたる十字軍を東方に派遣し、地中海東部航路を奪い返した。「ヴァリャーグからギリシャへの道」の必要性は相対的に低下し、さびれた。地中海貿易でベネチア、ジェノアなどイタリア商人が力をつけ、彼らは黒海北岸にも来て交易を牛耳った。ルーシを経て北方(バルト海)に向かう交易が低下する一方、そこから東方に向かうシルクロードの交易は繁栄した。ウクライナはユーラシアを横断する広大なステップ(草原)の西端にあたり、黒海から東方へのシルクロード「草原の道」がはじまっていた。

徐々に衰退していたキエフ・ルーシは1240年にはモンゴル帝国の侵攻でとどめをさされる。キエフ・ルーシによるユーラシアへの帝国拡大のシナリオは消滅した。それに代わって台頭してきたのが、キエフ・ルーシの一部、モスクワ大公国だった。

モスクワの台頭

キエフ・ルーシの北東部辺境だったロストフ・スーズダリ地方(後のウラジーミル公国領域)は、文化も言語もルーシとは異なっていた。キエフが滅びた13世紀はもちろん、14-15世紀になってもフィン語圏であり、スラブ語が話されるようになるのは16世紀になってからだ(黒川、前掲書、p.26)。しかし、ウラジーミル公国領域(そこからモスクワ大公国も生まれる)は、ウクライナよりさらに東端にあった。しかも、大河ヴォルガの水系とつながっており、ユーラシア河川交通網に入りやすい位置にあった(前出シベリア河川交通地図参照)。

このためウラジーミル公国地域は早くから河川交通によって東部への進出を始めていた。衰退していたキエフ・ルーシは13世紀にモンゴルに滅ぼされ、ウラジーミルもモンゴルに蹂躙されるが、その後、ウラジミール公国の一角にあるモスクワが徐々に成長する。1327年に、同公国内の権力争いでモスクワが勝利しウラジーミル大公をモスクワ公が世襲するようになる。さらに、モスクワ公自体がモスクワ大公と呼ばれるようになり、キプチャク汗国(ジョチ・ウルス)の庇護の下でルーシ全体を支配するようになる。

モスクワは緑深い森林地帯の中にあった(今でも緑多い街だ)。モンゴルが侵攻したのは主にステップ草原地帯であり、馬で走破できない森林地帯は苦手でありあまり興味を示さなかった。ユーラシア大陸では中央部東西にステップ地帯が広がるが、その北は厚い森林地帯(タイガ)で覆われている。広大なユーラシアは一方では馬を駆使した遊牧民に支配され、その北の森林地帯では河川網に依拠した勢力拡大が行われた。

1237年頃の地図。中央右・紫の領域がルーシ東北部ロストフ・スーズダリ地方。1125年にスーズダリが首都となり、ロストフ・スーズダリ公国と呼ばれる。1195年にはウラジーミルに首都を置いた大公国が他公から認められ、ウラジーミル大公国またはウラジーミル・スーズダリ大公国に。当時モスクワは小村であったが、1318年にモスクワ公ユーリー3世がウラジーミル大公位を獲得した。

世界史:馬から船に

モンゴルが馬による帝国支配を築いた最後の勢力だった。馬は、人間の移動能力を大きく超える力をもち、鉄道、自動車など機械力による移動が登場する以前、最強の輸送・軍事力として存在していた。馬は陸上をかけめるぐ力の象徴であり、だから過去の多くの偉人たちは銅像を「騎馬像」としてつくった。

そして馬は、ユーラシア大陸に広大にひろがるステップ草原地帯に適し、その力を基盤に多くの遊牧民帝国が盛衰してきた。その中でも最大の版図をもち真にユーラシア帝国と言えるものを築いたのはチンギス・カーンのモンゴル帝国(13世紀)だった。これによりキエフも陥落した(1240年)が、しかし、北の森林地帯は遊牧民が不得意とするところで、そこに起こったモスクワは、ユーラシア大陸にもう一つ広大にひろがる河川網を基盤に次のユーラシア帝国を築いていく。

新大陸の「発見」など「地理上の発見」時代以来、世界史は大きく海の時代に突入していく。海を行く船は、馬よりもさらに大量の物資を運び、馬よりもさらに多様な地域に自由に到達する。これによって大洋航路に面した西ヨーロッパが台頭し、世界的な植民地支配と産業革命・近代化の中心になっていく。極東の海の帝国・日本も台頭する。大西洋対岸側の海の帝国、アメリカが現在では最強の世界帝国となった。遊牧民の馬の時代は、モンゴル帝国を最後に永遠に終った。

水上帝国としてのロシア

さて、この海の帝国の時代に、ロシア・ソ連は陸の帝国だと一般には思われがちだ。しかし、詳細に見て行けば、ユーラシア内陸でも、草原から水上へ、馬から船への革命は起きていた。ステップの北に広がる広大な森林地帯に遊牧民は入っていけず、そこから、無数に入り込む大河とその支流を航行する船により次のユーラシア帝国が勢力を伸ばした。

もともとルーシの民は、スカンジナビアから河川ルートを伝ってウクライナ方面まで入ってきた水上の民であり、その一部がシベリア方面にまで支配を伸ばした。純粋に内陸出自で陸の帝国をつくったモンゴルと違い、ロシアは、海と水上から内陸に攻め入った帝国だった。

1547年、モスクワ大公国でイヴァン4世(イヴァン雷帝)が、(大公でなく)ロシア史上初めて「ツァーリ」として戴冠する。ツァーリの語源は「カエサル」(シーザー)で、東ローマ帝国皇帝がそう呼ばれていた。モンゴルの君主ハーンもこの地ではツァーリと呼ばれていた。

モスクワは、東ではジョチ・ウルスの末裔カザン汗国、アストラハン汗国を滅ぼし、シベリア方面への道を開く。西ではノブゴルドを征服し、バルト海勢力であるリトアニア大公国、次いでポーランド・リトアニア共和国とたたかった。

シベリアの毛皮貿易

モスクワの成長を支えたのは国内化した植民地シベリアの収奪、特に17世紀に最盛期を迎えた毛皮貿易だった。広大なシベリアから無尽蔵の毛皮が産出され、それを先住民などから安く買い取って、ヨーロッパで高く売る。毛皮は「柔らかい金」と言われ、金に匹敵する利益率の高い商品だった。

「モスクワのシベリア征服へのわずかな投資には十分すぎる見返りがあった。新しい土地からモスクワに流入したクロテンその他大量の毛皮は、資金不足にあえいでいた国家に貴重な流動資産をもたらした。国内に金銀鉱山がなく、輸出できる農産物・工業製品も乏しい近代初期のロシア王政はこの毛皮売却に頼り、国庫向け貨幣・非貨幣貴金属を得た。」(Richards, John F.. “Chapter 2. The Hunt for Furs in Siberia“. The World Hunt: An Environmental History of the Commodification of Animals, University of California Press, 2014, p.68)

「モスクワは、オットーマン帝国領と西ヨーロッパへの毛皮の主要サプライヤーになった。イタチ、テン、クロテンなどの贅沢毛皮製品が人気を博した。ヨーロッパ、ロシアの商人が莫大な交易活動を行い、ロシアに毛皮代金の金銀を流入させた。」「英国商人はタール、木材、麻縄といった樹木産物、蝋、皮革などを、布地他の英国製品と交換で買い求めたが、それでも支払いきれず、残りは、多くの場合新大陸から持ち込まれた金銀で払わざるを得なかった。」(同書、p.56)

多くのヨーロッパ列強が海外植民地からの富で近代化・産業化を準備する中、ロシアは、米国と同じように、国内化した植民地からの富で、この過程を歩んだ。

ロシアのバルト海進出

1613年にロマノフ朝が成立。1682年に即位したピョートル1世(ピョートル大帝)は積極的な西欧化政策によりロシアの大国化を進めた。バルト海に面した都市ペテルスブルクを築き、1712年に首都を内陸のモスクワからここに移した。1721年に、20年続いた北方戦争でスエーデンを破り「バルトの覇者」となった。

内陸の弱小勢力だったロシアが、シベリア収奪で力を付け、バルト海に進出することで、明確に西欧列強となり、海の勢力の仲間入りを果たした。当時、西ヨーロッパは、地理上の発見以来「海の時代」が明瞭となり、高度な産業・技術をもった世界的勢力地域への道を歩んでいた。その一角に食い込むことで、ロシア大国化への方向は確実になった。広大なユーラシア内陸の収奪と、ヨーロッパの技術・産業・軍事を結合させ、帝国が拡大する。それまで南のステップ地帯遊牧民に軍事的に対抗できずにいたが、19世紀には中央アジアなどにも進出する。

キエフ・ルーシの継承国

さて、キエフ・ルーシに戻る。12世紀に東地中海交易路がイスラム勢力から奪還され、内陸河川ルート「ヴァリャーグからギリシャへの道」、したがってまたキエフ・ルーシが衰退する中で、その伝統は西部のハーリチ・ヴォルイニ公国に継承された(黒川、前掲書、pp.53-55)。この公国は、1240年にキエフがモンゴルに滅ぼされてからも約100年間続く。しかし、1340年代に北半分のヴォルイニはリトアニアに、ハーリチはポーランドに併合された。

次いでリトアニア公国が継承

バルト三国最南のリトアニアは、今でこそ小国だが、中世の一時期、現在のウクライナ、ベラルーシに相当する地域を含むヨーロッパ最大級の国だった。1362年にモンゴルのキプチャク汗国(ジョチ・ウルス)をヨーロッパ勢で初めて破ったりもしている(青水の戦い)。このリトアニア大公国はリトアニア人は少数派(約1割)で、その主体はウクライナ人、ベラルーシ人など東スラブ人だった。支配層であったリトアニア貴族のスラブ化が進み、宗教はキリスト教(正教)に、言葉もルーシの言葉に変わっていった。つまり、

「リトアニア人は『古いものは壊さず、新しいものは持ち込まず』との方針で臨んだ。またリトアニア人は少数だったため土地のルーシ系貴族を登用して彼らから歓迎された。こうして1~2世代のうちにリトアニア人は見かけも言葉もルーシ人のようになってしまった。このようなことから、後世のウクライナの歴史家フルシェフスキーは、キエフ・ルーシ公国の伝統はモスクワではなくリトアニア公国によって継承されたとしている。」(黒川、前掲書、p.63)

そしてこのルーシ化したリトアニア大公国は、東北部で台頭してきたモスクワ大公国と衝突する。1368年から1372年にかけてのモスクワ・リトアニア戦争が起こる。リトアニアは3次にわたりモスクワに遠征するが、明確な勝利を得られず、逆に勢力を衰退させ、同盟関係にあったトヴェリ大公国を失うなど、実質的に敗北した。

これでキエフ・ルーシを継承するウクライナ勢力の東方進出は挫折した。前述の通り、ヨーロッパのユーラシア東方への帝国拡大は、東端勢力が最もやりやすかったが、最終的にモスクワ(後のロシア)がリトアニア(実質的にウクライナ、ベラルーシ)を撃退することにより、その役割をモスクワが担うことになった。

13世紀~15世紀のリトアニア大公国の拡大。現在のリトアニアの首都ヴィリニュスやカウナスの街があるあたり(ウグイス色地域)が13世紀頃の原リトアニアの領域。14世紀末には黒海にまで達している。現在のウクライナ領域、ベラルーシ領域の相当部分を包摂した。Map: M.K., Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5

モスクワはルーシではなかった?

ポーランドの歴史学者カタジナ・ブワホフスカが、ロシアなどスラブ民族の歴史になかなか刺激的な視点を提供している。ポーランドもスラブ系(西スラブ系)で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシは東スラブ系だ。これらそれぞれの民族、国の歩みにより、歴史認識がかなり異なってくることを「歴史をめぐる論争/同時代をめぐる論争─19世紀のロシアとポーランドの歴史家の解釈にみる旧リトアニア大公国領」で明晰に示した。その中で特に注目されるのが、19世紀ポーランドの歴史学者ヨアヒム・レレヴェルにはじまるルーシ史の新しいとらえ方だ。彼は、1839年刊行『1569年のルブリンでのポーランドとの合同に至るまでのリトアニアとルーシの歴史』で、モスクワ大公国にはじまるロシアは、ルーシの伝統からはずれたもので、むしろモンゴル的世界に存在する、という論を提示した。

一般的なロシア史は、まずキエフ・ルーシからはじまって、その東北部、ロストフ・スーズダリ地方に生まれたウラジミール大公国、特にその中のモスクワ大公国によって受け継がれてロシア帝国、ソ連に至る、という流れで語られる。キエフ・ルーシ本体の方は、ロシア人歴史家の見解ではモスクワ、ロシアに受け継がれたことになっている。ウクライナ人歴史家の見解では前述の通りハーリチ・ヴォルイニ公国に受け継がれ、リトアニア大公国、さらにはポーランド・リトアニア共和国(1569年 – 1795年)に包摂されたとする。これを、特にロシア側から見て悪く言うと、カトリックのポーランド文化にルーシの伝統が侵されていったことになる。「タタールのくびき」に対して「ポーランドのくびき」という言葉あり、このポーランドからの束縛は、「タタールのくびき」が文化内部にさほど介入しなかったのに比べ、より悪質だったとする。だから、18世紀末の3次にわたるポーランド分割で、元のルーシ地域がロシアに割譲されるのは西ルーシの解放であり、ルーシの一体性の再興なのだ、とまで主張された。

しかし、レレヴェルによれば、キエフ・ルーシの東に生まれたウラジーミル大公国、モスクワ大公国はルーシではなく、「そこにさまざまな系統の人びと、ウゴル人、スラヴ人、ブルガール人、ヴォルガ流域の人びとを招いて交わらせ、彼らとともに東方へと退いて、西方との結びつきを打ち捨てた」のであり、「ルーシとは異なる何ものかを創りはじめた」存在だった。ポーランドにしても、キエフ・ルーシにしても、貴族共和政体をとっていたノブゴルドにしても、スラブ的ルーシの伝統は平等的、共和主義的で、すべてが集会で決まり、公・大公も集会に従い、集会によって退けられることもあった。しかし、ウラジーミル、モスクワはジョチ・ウルスのモンゴル専制権力に従い、それを巧妙に利用しながら政敵を倒してのしあがり、モンゴル権力が弱まると自立し自身が専制化してツァーリの支配体制を築いた。ブワホフスカはレレヴェルの歴史観について次のように続ける。

「レレヴェルは、ハーンの保護を享受したツァーリ的体制は完全にヨーロッパとの接触から切り離されており、モンゴル帝国に統合された一部分となったことを強調している。14世紀初頭以降、ツァーリ的体制の主たる中心となったのが、モスクワであった。そして、まさしくそこにおいて「タタールの力によって支えられた絶対主義が[…]怪物的な顔をもたげ、そのまなざしがスラヴ・ルーシ的な自由の感覚を麻痺させ、その命を奪っていったのである。」「このモスクワ的類型の性格を最終的に規定したのは、モンゴルの軛であった。その結果として、共同性、従順性、拡張主義を特徴とするロシア民族(大ルーシ民族)が成立した。それは、根本的に非スラヴ的な民族であった。」(ブワホフスカ、前掲論文、p.13)

確かに、ウラジーミル公国を建国したアンドレイ・ボゴリュブスキーは徹底的にキエフを破壊したし、それはそこの大公になるためでなく、敵としてのキエフをただ破壊するためだった。そして、モスクワ大公国は、モンゴル(キプチャク汗国)に臣従し、他の公国に対する徴税を請け負う役割まで果たした。モンゴルに擦り寄りながら自己の地位を高めた。自立してツァーリをかたり始めてからの恐怖政治と専制主義は確かに非スラブ的なものであったかも知れず、ロシア帝国、ソ連、プーチンのロシアに至る流れの中に、「ルーシとは異なる何ものか」を嗅ぎ取ることは可能かも知れない。

ロシアはモンゴルの継承国

また、日本の中国史家・岡田英弘も、ロシアがモンゴル帝国の影響下でつくられたことを次のように説明している。

「モンゴルの支配下に、ルーシの文化は飛躍的に成長した。モンゴル人が人頭税の徴収のために戸籍を作り、徴税官と駐屯部隊を置いてから、ルーシの町々は初めて徴税制度と戸籍制度を知り、自分たちの行政機関を持つようになった。ルーシの貴族たちは、黄金のオルドへの参勤交代の機会に、ハーンの宮廷の高度な生活を味わい、モンゴル文化にあこがれるようになった。彼らは他のルーシとの競争に勝つために、モンゴル人と婚姻関係を結んで親戚となるのに熱心であった。またモンゴル人のほうでも、仲間との競争に敗れたモンゴル貴族には、ルーシの町に避難して、客分となって滞在する者もあった。政治だけでなく、軍事の面でも、ルーシの騎兵の編制も装備も戦術も、まったくモンゴル式になった。ただ一つ、宗教の面では、ルーシはモンゴル人のイスラム教は取り入れず、ロシア正教を守ったが、そのロシア正教でさえ、あらゆる宗教に寛容なモンゴル人が、教会や修道院を免税にして保護したおかげで、それまでになく普及したのである。そういうわけで、500年のモンゴルの支配下で、ルーシはほとんど完全にモンゴル化し、これがロシア文明の基礎になったのである。」(岡田英弘『世界史の誕生』(ちくま文庫)筑摩書房、1999年、p.232)

モスクワ大公国がキプチャク汗国を倒し自立してからも、モンゴルの威光は観念の中にずっと残る。イヴァン4世(イヴァン雷帝)は1547年に初代ツァーリとなったが、1574年に一旦退位し、チンギス・ハーンの血を引くジョチ家の皇子シメオン・ベクプラトヴィチ(モンゴル名サイン・プラト)を全ルーシのツァーリ(ハーン)とし、1576年に改めて譲位を得てツァーリとなった。岡田は「イヴァン四世がわざわざ、こんな面倒な手続きを踏んだのは、『チンギス統原理』に従えば、チンギス・ハーンの血統の男子でなければハーン(ツァーリ)にはなれないので、モンゴルの皇子から禅譲を受けるという形式をとって、モスクワのツァーリの位に正統性を付与した」(同書、235ページ)とし、ロシアが少なくとも形式的にはモンゴルの継承国家の一つだったことを示した。

(ロシア=モンゴル説については、拙著『東アジア帝国システムを探る』第8章で詳しく論じた。ロシアがモンゴルを何ほどか受け継いでいる可能性があるにしても、現代のモンゴルは、東アジア社会主義専制の中で唯一無血の民主化を達成した国であることは強調しておかねばならない。)

モンゴル帝国は世界史上最大のユーラシア帝国だった。写真は、その首都カラコルムがあったハラホリン市の眺望(ウランバートルから西へ約230キロ)。当時の遺跡はすべて土の中。手前のオフホン川は、バイカル湖、レナ川を通じて北極海にそそぐ。周囲は広大な草原地帯だ(10月だったので、すでに枯野になっている)。

ロシアをモスクワ国に名称変更する提案

今年3月10日、ウクライナはロシアの正式名称を「モスコビア(モスクワ)」に変更するべきか検討をはじめた。2万5000人分の署名を得た請願書を受けてゼレンスキー大統領がシュミハリ首相に検討を命じたという。英語でいうと、RussiaをMuscovyに、Russian FederationをMuscovite Federationに変えるという提案だ(背景を含めてここに詳細あり)。ロシア側はもちろんこれを拒絶。反ロシア思潮をあおっていると批判した。

むろん、国名はその国自身が決めるもので、ウクライナが呼び方を変えてもロシアの正式名称が変わるわけではない。しかし、上述の歴史的な検討を踏まえれば、ウクライナのこの主張は充分理解できるだろう。ロシアは、栄光あるルーシ(キエフ・ルーシ)の一部、もしくは外部が粗暴に全体を乗っ取った政体に過ぎない。共和主義的なルーシの伝統を徹底的に侮辱した「ルーシとは異なる何ものか」だ。ロシアは、ウクライナがロシアの一部だと主張しているが、ウクライナにすれば我々こそルーシであって、君ら(ロシア)は別物だ、ということになる。

ロシアが単なるモスクワ国になるなら、ウクライナは何になるのか。我こそは正統派ルーシ、つまりロシアであって、呼称を変えるとすれば「キエフ・ルーシ共和国」になる、ということなのかも知れない。

ユーラシア主義のロマン

繰り返すが、ロシアが自らの原点を求めてユーラシアに回帰しようとするのは別にいい。米国や西ヨーロッパ、つまり「大西洋世界」は我々とは異なる、我々は大西洋世界とも環太平洋世界とも異なり、広大なユーラシアに基礎を置く国家だ、そこを基盤に、堕落した大西洋世界リベラリズムとは全く異なる規範を打ち立てる第三、もしくは第四の世界なのだ、と主張する。そういう「ユーラシア」を発見できたことは素晴らしいとも思う。

「ユーラシア」は現実の世界でもあるが、想像上の空間でもある。人々を動かす民族感情にはロマンがなければならない。広大なユーラシアに広がる諸民族の空間にはロマンがある。大河たゆたう広大な平野、東西にのびる乾燥したステップ、シベリアの緑のタイガ森林地帯、北極海に至る雪原、これらをすべて含むユーラシア世界は、極東の島国から見ても充分ロマンにあふれ、そこをおおう統合体のイメージは確かにロマン主義的な感情を高揚させるだろう。

かつてのソ連には、少なくともその革命直後には「共産主義」というロマンがあった。すぐにスターリンの恐怖政治が始まって、建前はともかく本音でのロマンは跡形なく消えたが、少なくとも建国当時のソ連のアイデンティティは社会主義建設という「ロマン」だった。

ソ連は解体、消滅した。ロシアの人々には何が残されたか。かつての帝国は分解し、冷戦の一方を構成した超大国の栄光はなくなった。だからといってかつてのソビエト体制に回帰しようという気には、さすがのロシア国民でも起こらないが、帝国への郷愁はある。再びあのロシア帝国、ソビエト帝国の栄光を取り戻したい。そうした民族意識の中に入り込んだのがユーラシア主義だ。

ロマンはよい。しかし、周辺が言うことを聞かなければ軍隊を出して従わせるのは問題だ。私たちはこういう失敗をすでに多すぎるほど繰り返してきて、そんなやり方は通用しないことを身に染みて悟ってきた。大東亜共栄圏で、東アジアの民、諸国家が平等に連携して共栄していくのなら何の問題もないが、それを日本が統率する、軍事力で抑える、それが問題だった。つまり帝国でなく、EU的な平等の連携、入るも出るも自由な対等の連携をつくらねばならない。どこの大国にもこうした帝国的観念は巣くっているものだが、ロシアにも、この古い観念が無批判のまま残されているように感じる。

帝国主義が社会主義の衣で隠されていた

ロシアは、旧ソ連圏の内外で行動様式が異なり、勢力圏内諸国に対しては非常に簡単に国家主権を蹂躙するとの分析がある。圏外では、アメリカなどのグローバルな介入政策をけん制するためにも、国家主権の重要性を強調し、たとえ人道的な理由によるものでも介入を強く批判するが、旧ソ連圏内の諸国に対しては、今回のウクライナ侵攻でも明らかなように、まったく簡単に主権を犯し、軍事介入を行う。

例えば、これは国内(ロシア連邦内)共和国であったが、1990年代以降独立を求めたチェチェンに対して徹底した弾圧を加えた。これと同様に、2008年、ロシア外の主権国家グルジア(ジョージア)に軍事介入し、南オセチア、アブハジア地方を実質的に分離独立させた(南オセチア紛争)。そして2014年のウクライナ・クリミア半島への軍事侵攻とロシアへの併合、2022年2月に始まるの今回の全面軍事侵攻、と続く。

あまりにあからさまな主権侵害だが、このような「帝国主義」がこの時代になっても起こることの背景に、ソ連時代を通じてその帝国主義行動が社会主義の衣の陰で十分認識・批判されず、政治エリートはもちろん国民意識の中にも粗野な形で残存した、と思われる節がある。革命当時には、民族自決の動きも含まれていたかも知れない内乱を「反革命の掃討」という名目で抑え込み、ロシア帝国が獲得した広大な領土をほぼ確保した。第二次大戦では開戦時にあった東欧侵略の意図は、「ナチズムに対する大祖国戦争」の美名で総括される中で忘れ去られた。

ロシア革命は、国内諸民族に「分離と独立国家の結成をふくむ自決権」を認めたが…

ロシア革命は一般には、民族自決権を明確に掲げた革命として理解されているし、事実その後の社会主義イデオロギーは、アジア・アフリカの民族解放闘争の強力な後ろ盾ともなってきた。少なくともアメリカや「西側」帝国主義に抵抗する第三世界の戦いに対してはそうだった。

1917年の10月革命と同時に発せられたボルシェビキの「平和に関する布告」は、帝政ロシアを含む交戦諸国の支配下にある地域と民族の解放を無条件で認めた。他の列強も民族自決は言うが「敵国の植民地民族に自決権を与える一方で、自国の植民地民族にこれを与えないのは帝国主義を擁護するに等しい」と1917 年12 月のボルシェビキ声明が批判している。「ロシア革命の世界史的意義」を強調する杉田聡は次のように指摘している。

「『平和に関する布告』とともに『ロシア諸民族の権利宣言』も、民族問題にとって、きわめて重要である(新暦1917 年11 月11 日)。これまで本稿では、『民族自決』を漠然と、列強により植民化され支配された諸民族を念頭に置きつつ記してきたが、自決が権利として認められるべき民族は、ロシア国内にも少なからずいた。レーニンにとって国外の民族問題とともにロシア国内の民族問題も、帝国主義廃棄のために不可欠である。同宣言では、『ロシアの諸民族の平等と主権』、『分離と独立国家の結成をふくむロシアの諸民族の自由な自決権』が承認されている。」(杉田聡「ロシア革命の世界史的意義」『唯物論』60/61巻、2018年3月、p.139

ウクライナの独立を「反革命」として弾圧した

国内の諸民族にも「分離と独立国家の結成をふくむ自決権」を認めたにもかかわらず、革命の過程は必ずしもそうは進まなかった。1917年の2月革命でロシア帝政が倒れると、ウクライナでは、自治を求める諸勢力がウクライナ中央ラーダ(評議会)を結成。10月革命でボルシェビキが権力を取るとこれを認めず、「ウクライナ国民共和国」の設立を宣言した。ボルシュビキはこれに赤軍を派遣して抑え込みにかかった。以後、反革命派、国外干渉勢力を交えた複雑な内戦状況が続くが、1921年末までには赤軍が勝利し、ウクライナはソ連邦に組み入れられる。

ウクライナの短い独立の試みは夢と消え去ったが、1991年ソ連解体後の独立の貴重な歴史的前提となった。現在の独立ウクライナの国旗は中央ラーダが定めた青と黄の二色旗、国歌はヴェルビッキー作曲の「ウクライナはいまだ死なず」、国章はヴォロディーミル聖公の「三叉の鉾」であり、「現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正統な後継者であると認識している」(黒川、前掲書、p.200)。

ボルシェビキもレーニンも、自国内の諸民族に「分離と独立国家の結成をふくむ自決権」を認めていたのに、ウクライナの独立は徹底的に抑え込んだ。これに対してはロシア革命の「世界史的意義」を強調してやまない前出杉田も次のように指摘している。

「ただし、例えばウクライナ独立に対して革命政府が介入した事実は、いかにその背後にドイツや「白軍」がいたとはいえ、単純にこの宣言[『ロシア諸民族の権利宣言』]を評価するのを躊躇させるものがある。特にレーニンがウクライナの独立の権利をはっきりと擁護していた(『レーニン全集』大月書店、20-441)だけに、なおさらである。」(p.148)

東欧をナチス・ドイツと山分けしようとした

第二次世界大戦でナチス・ドイツとたたかった大祖国戦争は、ソ連/ロシアにとって輝かしい成功体験であり、実際ソ連は、1941年6月のドイツのソ連侵攻以来、2000万人という想像を絶する犠牲を払いながらドイツの侵略を食い止め、1945年4月に、東進してきた連合軍と「エルベの邂逅」を果たすまで、英雄的な戦いを敢行した。米英などは1944年6月のノルマンジー作戦で西方からの対独攻勢を開始するが、これは遅すぎたとの批判もある。それまでにソ連は幾度となく西部戦線での対独戦開始を訴えていたが、ソ連への武器援助はするものの戦端は開かず、ソ連単独でドイツに抗戦する状況が続いていた。戦争での犠牲が政治的コストとして高くつく民主主義国では、戦いを第三国に肩代わりさせる誘因がはたらく。これでソ連の「大祖国戦争」は益々後光を帯び、ナチズム打倒の中心勢力としてソ連は、戦後秩序の形成にも大きな力をもつことになった。

結果的にはそうなった。しかし、ソ連は初期において独ソ不可侵条約を結び(1939年8月)、むしろナチス・ドイツとともにヨーロッパの分割を企てていた。独ソ不可侵条約には密約があり、ドイツがポーランドに侵攻する代わりに、ソ連はポーランドの東半分を取り、さらにバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)とルーマニア領ベッサラビアも得るという合意があった。つまりソ連はナチスと組んで東欧を山分けしようとした。実際、1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻した16日後、ソ連がポーランド東部に侵攻した。11月30日には、密約にもなかったフィンランドにも侵攻しこれを制圧している(ソ連・フィンランド戦争)。ソ連は独ソ不可侵条約に密約があったことを長く否定してきたが、ゴルバチョフ政権時代の1989年末、秘密協定の存在を明らかにし、バルト三国併合も違法だったと認めた。

ドイツ共産党を壊滅させていたナチスが不可侵条約でソ連と組むとは考えにくく、この盟約は各方面に大きな衝撃を与えた。ソ連が中心となって世界的に進めていたはずの反ファシズム人民戦線もこれで崩壊した。

ドイツの侵略によるポーランド人の死者はユダヤ人も含めて600万人近くに上ったが、ソ連の侵略でも15万人のポーランド市民が殺害され、32万人がシベリアの強制労働に送られた。1940年4月頃の「カチンの森事件」では2万2000~2万5000人のポーランド軍将校、国境警備隊隊員、警官、一般官吏、聖職者が虐殺された。

皮肉にも、1941年6月、ヒトラーが独ソ不可侵条約を破って対ソ戦を開始するに至って、ソ連は恥辱の歴史的判定を回避することができた。スターリンは、ドイツがソ連に侵攻しそうだとの内外からの警告を無視し、初期に大敗北を喫した。ソ連国民にとって筆舌に尽くしがたい不幸となったが、一方でこれ以降、ソ連が大きな犠牲を払いながら対ナチ戦の中心となることにより、歴史的に「正義」の側に付くことができた。

広い地平線に落ちる夕日

今回、ロシアのユーラシア主義を調べているうち、古い記憶がよみがえった。

私が中学生の頃、つまり60年も前の1960年代、部活を終えて皆で立ち寄る駄菓子屋の店主は、満蒙開拓引揚者だった。いつもはその優しい奥さんを囲んでそこで飲み食いしたものだが、時折、そのおじさんの話を聞くこともあった。いかつい体つきで、ぎょろりとした目のタフなおじさんだった。

「満州はいいぞお。広い平野がどこまでも続いていて、そこに真っ赤な太陽が沈んでいくんだ。」

大方の会話は忘れたが、「満州」の開拓に行った若い頃の話を聞いて思い描いた情景が心に残る。「五族共和」の理念の下、開拓の精神に駆られて海を渡ったおじさんに罪はない。ロマンあふれる青雲の志だったろう。だが、民族の共栄と言いながら、そこは大日本帝国が武力で支配する帝国の一部だった。正当な体制の下、正当な手続きで、例えばブラジルやアメリカに開拓移民として出ていくなら何の問題もなかったろう(先住民の抑圧という問題はあるが)。だがロマンあふれる「共栄圏」の夢はもろくも崩れ、おじさんも大変な苦労をして日本に帰ってくることになった。

今ではもう亡くなっているだろう。日本に帰り田舎の小さな雑貨屋の店主としてその後の人生を送って、彼は幸せだったのか。あの野性味あふれるおじさんのその後の人生を私は確認していない。