前記事では、タラス(キルギス)の街の悪口を言い過ぎた。見直すところがいろいろあった。性急な決めつけを反省する。「タラス河畔の戦い」(751年)でなく、「タラス河畔の潤い」について一筆しよう。
バザールと商店街
確かに、他の多くの中央アジア諸都市と同じく、小都市タラスもだだっ広く、非個性的な、人が密に関われない都市構造を持っているのは確かだ。その基本は厳然としてある。しかし、そこに中央アジアの人々がうまく人間の居住空間を作り出している点にも気づかなければならない。例えば、中心部バザール周辺の賑わいがある。用意された施設構造物がないところに、人々が勝手に小さな店を繰り出したようなバザールだ。アルマトイで見たような巨大な、こけおどし的とも言える「ソビエト的建築」のバザール建物は用意されていない。そこに店と人が自然に集まり、さらにその周りに、武骨な構造物周囲にやはり小さな店が生まれ、愛すべき商店街tとなった。(アルマトイのバザールも巨大建築の中に人々の空間がうまく作りだされているに違いない。)
乗り合いタクシーの人づきあい
だだっ広い都市構造であるがゆえに、人口4万の街でありながら、屋根やフロントガラスに表示をつけた乗り合いタクシーや、乗り合いミニバス(マシュルートカ)が至るところを走っている。だいたい大通りに出ればすぐタクシーやマシュルートカを拾える。表示のない車(一般車)も人を拾っている。停留所もあるが、どこでも道端に立ち手を横にかざして車を止める。
だだっ広い都市構造で、結局、排気ガスを増やしているだけじゃないか、と最初は怒ったわけだが、乗ってみると、そこが住民の付き合いの場になっているのがわかる。人口4万の街のタクシーだ。お互い知り合いだ。「やあ、ひさしぶり」「元気か」てなことで運転手も新客も同乗者も手をばちんとやり(この辺の握手方式らしい)、乗車中も世間話に花が咲く。冷たい都市構造が規定する自動車社会に、密な人間のコミュニティーが形成される。(タクシー、マシュルートカは、市内どこに行くのも20ソム(35円))。
歩ける夜の街
夜10時過ぎに街中心部を歩いてびっくりした。こんな遅い時間に、しかもだだっ広い広場・街路に、意外に人が歩いている。デートするカップルや子供連れまで。今は夏で日の暮れるのが遅いということもあるが、午後10時は充分に憩いの時間のようだ。いや、昼間の熱暑を考えると、この時間の方が外出に適した時間なのかも知れない。
照明も充分ではなく薄暗い。こんなところを歩くのはアメリカでは怖い。日本だって夜の閑散としたところは歩かない。そこに人が出ている。犯罪の危険があまりないということがわかる。人が信頼しあっている社会関係が感知できる。
冷たい箱型の団地が並ぶ住居空間の空き地に、公園がしつらえてある。そしてそこに夜10時過ぎに、幼い者も含めてたくさんの子どもが遊んでいる。遠い所から訪れた旅人は、暑い暑いと文句たらたらだが、長い酷寒の冬があるこの地方では、今はつかの間の美しい季節なのだろう。
そしてタラス川は
そして主要テーマのタラス川だ。川へのアクセスがつくられてはいない。川近くは民家だったり、壁に遮られていたり、深い藪で入れなかったりする。地図を見る限り、この川を眺められるのは、中心部から数キロ離れた道路橋からだけだ。自然のままに放置された川はこの辺では無数の支流に別れ、緑の藪の中を流れている。それがある程度まとまった「本流」になってこの橋のあたりで見事な姿を見せてくれる。
そう、確かに都市空間は川と完全に切れている。水辺の空間を利用した都市構造がない。しかし、いろいろ探っていくと、住民が勝手につくった道や橋や「飛び石」式の「橋」がたくさんあり、ワイルドな水辺の空間に入って行ける。こんな民家の庭先に入っていくのは悪いだろう、と思っていると、その先に「自由放牧」の牛が草をはんでいて、なら人間様も入っていいだろう、となる。すると、その先にけもの道のようなアクセス路が続いている。川辺がコンクリートの壁に閉ざされていても、くまなく見ていくと、そのどこかに穴があけられ、川べりまで歩いていける。こんな藪じゃ入っていけない、と思っても、よく探すと隙間がつくられ、人々が歩いてつくった道がその先縦横に開けている。下記写真で紹介する通りだ。
人工的につくられた「水辺の空間」ではない。野生のままの水辺、川が多数の細流となって乱舞交差する緑地帯、というより藪、を人々が歩いてつくった道が続いている。これは地元のガキ大将たちには最高の冒険の遊び場を提供するだろう。日本なら熊でも出そうだが、ここなら出ないことはわかっている。周囲は乾いた岩石の山と平原で、大型獣は棲めない。あまり人に会わないが、特に川べりには家族連れなどもおり、雪解けの冷たい水でも、子どもたちが水浴びをしている。キャンプファイアーをやった跡なども見られる。
都市をどう見るか
都市はどう見なければならないか。構造でその都市が一義的に決まるものではない。ハードウェア構造上の良否は確かにある。しかし、そこに人々のコミュニティーがどう居住の空間をつくるかは別問題だ。タラスにはそのハードウェアを越える人間社会の優越がある。











































タラスに雨が降った
8月27日午後、散歩に出たらぽつりぽつりと雨が降り出した。非常に珍しい。中央アジアに来て約1ヶ月。初めて見る雨だ。酷暑の中に降る雨は恵みだ。むしろ少しは濡れて涼みたい、と傘を持たず歩き出した。


すぐ止むだろうとタカをくくっていたのだが、だんだん雨が強くなり、日本の本格的な夕立程度になってくる。おいまじかよ。この地でもこんなに雨が降るのか。「少し涼む」どころか、かなり空気が冷たくなってきた。短パンとTシャツでは寒い。震え始めた。
タラスは標高1200m。平地だが、言ってみれば「山」だ。山の天気は変わりやすい。あなどってはいけない。こうやって登山者は低体温症で死ぬのだろう。屋根の下を歩き回り、体をこすり、何とかしのいでいる内に雨が止んだ。山の天気は変わりやすい。
その後は涼しくなった。いや、雨が降らなくても、標高1200mのタラスは涼しい。日本やカザフの平原が灼熱の太陽に焼かれているのに、冷涼な気候を漫喫させて頂いている。
